神の羊は神の御声を聞く

「わたしの羊はわたしの声を聞く」黙示録も予言されました。「耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。」

ゴスペル音楽「全ての者よ、人類の運命に注意を払え」 フランス語 MV 日本語字幕ゴスペル音楽「全ての者よ、人類の運命に注意を払え」 フランス語 MV 日本語字幕

2020-07-31 20:44:24 | ゴスペル音楽

ゴスペル音楽「全ての者よ、人類の運命に注意を払え」 フランス語 MV  日本語字幕


神は全ての民族
全ての国々や産業界にさえ呼びかける
神の声を聞き、神の業を見なさい
人類の運命に注意を払いなさい
神を敬い聖なる方とし
崇高で唯一礼拝されるべき存在とせよ
そして全ての人々が
神の祝福のもと生きられるようにせよ
アブラハムの子孫が
ヤーウェの約束のもとで生きたように
エデンの園で神の創造物である
アダムとエバが生きていたように

神の業は激しく押し寄せる波のごとく
誰も彼を立ち止まらせたり
引き止められない
ただ彼の言葉を聞き
彼を追い求める事で
彼の足跡は辿られ
約束を受け取れるのだ
他のすべての人々は
完全なる絶滅に直面し
当然の罰を受けるであろう
神は全ての民族
全ての国々や産業界にさえ呼びかける
神の声を聞き、神の業を見なさい
人類の運命に注意を払いなさい
すべての人類の運命に注意を払いなさい
『小羊に従って新しい歌を歌おう』より

 

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人類に対する創造主の真の思い

2020-07-30 19:49:32 | 天の国の福音

人類に対する創造主の真の思い

この聖句のヤーウェ神とヨナの対話は、創造主の真の思い入れを表出するものであることに異論は無い。この対話は一方では、神の支配下にある創造物全体に対する創造主の認識を人々に伝えるものであり、それはヤーウェが、「ましてわたしは十二万あまりの、右左をわきまえない人々と、あまたの家畜とのいるこの大きな町ニネベ…」とある通りである。つまり、ニネベに関する神の認識は、決して粗略なものではなかった。神はニネベの町の生物(人間のほか家畜など)の数を知っていただけでなく、右も左もわきまえることが出来ない者の人数、すなわち、子供や若者の人数も知っていた。これは、人間に関する神の卓越した知識を具体的に証明するものである。その一方で、この対話は、人間に対する創造主の姿勢、すなわち創造主の心における人類の重要さを人々に伝えるものである。それは聖句にあるヤーウェの言葉の通りである。すなわち、「あなたは労せず、育てず、一夜に生じて、一夜に滅びたこのとうごまをさえ、惜しんでいる。ましてわたしは…この大きな町ニネベを、惜しまないでいられようか」これは、ヤーウェがヨナを非難して述べた言葉であるが、すべて真実である。

ヨナはニネベの人々に伝えるヤーウェ神の言葉を託されたが、ヨナはヤーウェ神の意図も、ヤーウェ神のニネベの人々に対する懸念も理解していなかった。神は、この叱責により、人類が神自身の手により造られたものであること、また人間のひとりひとりについて、神が甚大な努力をしたこと、神の望みを負っていること、神のいのちの恵みを享受していること、神が大きな代償を払っていることを、ヨナに対して述べていた。また、ヨナがこのとうごまを愛慕するのと同様に、神自身の手により造られた人間を神が愛慕していることが、この叱責によりヨナに伝えられた。神は、最後の最後まで、ニネベの人々を安易に見捨てるつもりは一切無かった。さらに、ニネベには子供や何も知らない家畜も多数居た。神の創造物のうち、右も左も分からない子供や無知な動物を取り扱うとき、神が早まって子供や動物の生命を絶ち、その運命を決めることが出来なかったのは、なおさらである。神は、子供達の成長した姿を見ることを望んでいた。神は、子供達が将来大人達のような道へ進まないこと、ヤーウェ神の警告を二度と耳にする必要が無いこと、ニネベの歴史の証をすることを望んでいた。それにも増して、神は悔い改めた後のニネベとその将来の姿を見ること、そして何よりも、ニネベの人々が再び神の慈悲の許で生活するのを見ることを、望んでいた。したがって、神の見地からすると、神が造った物のうち、そうした右も左も分からない子供達が、ニネベの将来であった。こうした子供達は、ヤーウェ神の導きの許でニネベの過去と未来の証しとなる重要な任務を背負うことになるのと同時に、ニネベの卑劣な過去も背負うことになるのであった。この神の真の思い入れが述べられている部分において、ヤーウェ神は、創造主の人類全体に対する慈悲を提示した。この部分では、「創造主の慈悲」は虚言でも、空虚な誓いでもなく、具体的な原則であり、方法であり、目的であった。創造主は真実であり、実在し、嘘や偽りを行わない。そしてこのように、神の慈悲は、あらゆる時代において、人間に対して無限に与えられる。しかし、現在に至るまで、この創造主とヨナとの対話は、神が人類に対して慈悲をもって接する理由、神が人類に対して慈悲を示す方法、神が人類に対してどの程度寛容であるか、そして神の人間に対する真の思いに関する、神による、唯一の言葉である。ヤーウェ神の簡潔な対話では、自身の人間に対する完全な心が表出されている。この対話は人間に対する神の心の姿勢に関する真の表出であり、また人間に対するによる慈悲の豊かな付与に関する、具体的な証明でもある。神の慈悲は、従前において世代から世代へと続いて来たのと同様に、人間のうち比較的高い年齢層のみに与えられるものではなく、人間のうち比較的若い層にも与えられる。多くの場合、神の怒りは特定の地域、特定の時代に人類に対してくだされるのに対し、神の慈悲は決して止まることが無い。神は、自身の慈悲により導き、施し、与え、そしてそれを神の創造物の世代から世代へと連綿と続けられる。なぜなら、神の人間に対する真の思い入れは、変わることが無いからである。「惜しまないでいられようか」という言葉が示す通り、神は常にご自身の創造物を愛慕してきた。これが創造主の義の性質による慈悲であり、この慈悲もまた、創造主の純然たる特質である。

『言葉は肉において現れる(続編)』より

 

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人類に対する創造主の真摯な思い入れ

2020-07-29 22:44:58 | 天の国の福音

人類に対する創造主の真摯な思い入れ

 

人々は、神を知ることは簡単ではない、と言うことが多々ある。しかし、わたしは、神を知ることが困難なことは全く無い、と述べている。なぜなら、神は人間が業を目にすることを頻繁に許しているからである。現在に至るまで、神が人間との対話を辞めたことは無い。神が人間から隠れ去ったことも無く、自らが隠れたことも無い。神の心、神の言葉、神の業は、全て人間に対して明示されている。したがって、人間が神を知ることを望む限り、様々な方法で人間は神を知ることが出来る。神は人間をことさらに避けている、神は故意に人間から隠れている、神には人間が神を理解することを許可するつもりが全く無い、などと人間が盲目に考える理由は、人間が神の存在を知らず、神を知ることを望まず、そして何よりも人間が創造主の心、言葉、業などに無関心だからである。事実を述べると、もし誰かが、余暇に創造主の言葉や業について考え、理解し、創造主の心と、その心による言葉に注意を払ったとすれば、神の心、言葉、業は見ることが出来るものであり、明瞭なものであることに気付くのは困難ではない。同様に、創造主は常に人間の中にあり、人間や創造物すべてとの対話を行い、新たな業を毎日行っていることに気付くのに、努力はそれほど必要とされない。神の本質と性質は、神と人間との対話の中で表出され、神の心と考えは、神の業においてすべて明示されており、神は常に人間と共にあり、人間を見守っている。神は人間や創造物のすべてに対して、落ち着いた声で静かに語りかけ、「わたしは天の上にあり、わたしは万物の中にある、わたしは見守り、待っている。わたしはあなたの傍らにある」と述べている。神の手は温かく力強い。神の足取りは軽やかである。神の声は温和で優しい。神の身体はすれ違いざまに振り向いて人類すべてを抱擁する。神の表情は優美である。神は、立ち去ることも、消え去ることも無かった。神は、夜明けから日没まで、常に人間と共にある。人間に対する神の心からの労りと並々ならぬ思い入れ、真の思いやりと愛は、神がニネベの町を救った時にも少しずつ示されていた。特に、ヤーウェとヨナの会話では、創造主が創造した人類に対する、創造主自身の同情が露見される。これらの言葉からは、人間に対する神の真摯な思い入れを知ることができる。

次に挙げるのはヨナ書4:10~11に記された言葉である。「主は言われた、『あなたは労せず、育てず、一夜に生じて、一夜に滅びたこのとうごまをさえ、惜しんでいる。ましてわたしは十二万あまりの、右左をわきまえない人々と、あまたの家畜とのいるこの大きな町ニネベを、惜しまないでいられようか。』」これは、ヤーウェとヨナとの会話における、ヤーウェ自身の言葉である。この会話は短いものの、創造主の人間に対する思いやりと、ニネベの人々を見捨てることに対する抵抗感に溢れている。この言葉では、神の心の中にある神の創造物に対する神の姿勢と思い入れが表現されており、こうした言葉を人間が聞くことは滅多に無いが、その明瞭な言葉により、神の人間に対する意向が述べられている。この対話は、神のニネベの人々に対する姿勢が示されているが、その姿勢とはどのようなものであろうか。その姿勢とは、ニネベの人々が悔い改める前と後の、ニネベの人々に対する神の姿勢である。神は、それと同じ姿勢で人類を扱う。この言葉から神の心と神の性質を見出すことができる。

この言葉には、神のどのような心が示されているであろうか。十分に注意して読めば、すぐに神が「惜しむ」という語を用いていることが分かる。この語を用いたことにより、人類に対する神の真の姿勢が示されている。

語義的には、「惜しむ」という語は様々な解釈が可能である。第一に、愛して守ること、何かを貴く感じることの意味がある。第二に、深く愛慕することの意味がある。そして第三に、傷つけることができない、傷つけることに耐えられないという意味がある。つまり、この語は、愛慕の念と、人や物への愛着の含意がある。この語は、神の人間に対する憐れみと寛容さを意味する。神は人間が一般的に会話する語を用いたが、この語が用いられていることにより、神の心からの言葉と、神の人間に対する姿勢が明らかにされている。

ニネベの町は、ソドムの人々と同様に腐敗し、邪悪で凶暴な人々で満ちていたのに対し、ニネベの人々の悔い改めにより、神の心が変わり、ニネベの人々を滅ぼさないことに決めた。神の言葉と命令に対するニネベの人々の反応は、ソドムの民の姿勢と比べると極めて対照的な姿勢であり、ニネベの人々の誠心誠意による神への服従と、罪の悔い改め、そしてあらゆる面における心からの行動のため、神は再び、心からの哀れみを示し、その哀れみをニネベの人々に与えた。神の人間に対する報いと哀れみは、誰も真似をすることが出来ない。神の憐れみと寛容さや、神の人間に対する真摯な思い入れを持つことが出来る者は、存在しない。あなたが偉大な人物あるいは超人であるとみなす男性や女性のうち、そうした偉大な人物あるいは超人としての高い立場、崇高な立場から、人類や創造物に対してこのような発言をする人が存在するであろうか。人間のうち、誰が人間の生活状況を自分の手のひらのように熟知できようか。誰が人類の存在に伴う負担と責任を負うことが出来ようか。誰がひとつの町の破壊を宣言できようか。そして、誰がひとつの町を赦すことが出来ようか。誰が、自分の創造物に愛着があるなどと言えようか。それが出来るのは、創造主だけである。人類に対する慈愛を感じるのは、創造主だけである。人類に対する優しさと愛慕を示すことができるのは、創造主だけである。人類に対する変えることのできない真の愛情があるのは、創造主だけである。同様に、人類に憐れみを与え、神の創造物の全てを愛慕することが出来るのは、創造主のみである。創造主の心は、人間の行動ひとつひとつに対し、ときめいたり、傷んだりする。創造主は、人間の邪悪と腐敗に対して怒り、苦しみ、悲しむ。また創造主は、人間の悔い改めと信仰に満足し、寛大であり、喜ぶ。創造主の心は、いずれも人間のために存在し、人間がその中心にある。創造主の存在とその中にある物事は、すべて人間のために表出される。創造主の心は、人間の存在と密接に結びついている。創造主が旅をし、忙しく動き回り、そのいのちのすべてを与え、一分一秒を捧げるのは、人間のためである。創造主は、自らの命を哀れむことを知らないにもかかわらず、自身が造った人間を常に哀れみ、慈しむ。創造主は、自らの全てを人類に捧げる。創造主は、無条件に、かつ見返りを期待することなく、憐れみと寛容さを与える。彼がこうした業を行う唯一の目的は、人間が引き続き彼の前で生きることができるようにし、いのちを受けることができるようにすることである。何時の日か、人間が彼に服従し、彼こそが人間が存在するための必要を施し、全てのもののいのちを与える存在であると認識出来るようにすることである。

『言葉は肉において現れる』より

 

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日々の神の御言葉「あなたは人類全体が現在までどのように発展してきたかを知るべきである」抜粋149

2020-07-28 22:42:34 | 朗読

日々の神の御言葉「あなたは人類全体が現在までどのように発展してきたかを知るべきである」抜粋149

神が受肉するとき、神の霊は人に降る。言い換えれば、神の霊は肉をまとう。神は、この世で自身の働きを行うが、その働きは神が複数の制限された段階を経るのではなく、むしろ全く無制限のものとなる。聖霊が肉で行う働きは、依然として神の働きの効果によって決められる。そして神は、自身が肉で行う働きの期間を、それらの効果によって判断する。聖霊は、神の働きのそれぞれの段階を直接示す。神は働きをする中で自身の働きを検証する。それは人間の想像力の限界を超えるほど超自然的なものではない。それは天と地および万物の創造時におけるヤーウェの働きのようなものである。神はその計画と働きを同時に行った。神は闇から光を隔て、そして昼と夜が生まれ、それには1日を要した。第2日目に神は空を造ったが、それにも1日を要し、それから神は、陸、海、およびそこに生きるさまざまなものを造り、それにも1日を要した。神は、6日間を通して創造の働きを続け、6日目に人を創造し、人にこの世のすべてのものを管理させ、7日目までに万物の創造を完了し、7日目に休んだ。神は7日目を祝福し、その日を聖なる日とした。神はこの聖なる日を、万物を創造する前ではなく、創造した後に定めたのである。また、その働きは自然発生的に実行された。神は、万物を創造する前、6日間で世界を創造して7日目に休息することを決めてはいなかった。事実は決してそうではない。神はそれを口にすることも計画することもなかった。神は万物の創造が6日間で完了し、7日目に休息するとは全く言っていない。神はむしろ自身が良いと思う通りに創造した。神が万物の創造を完了したとき、すでに6日の時が経っていた。神が万物の創造を完了したのが5日目であったなら、神は6日目を休日としていただろう。けれども神は6日目に万物の創造を完了したので、7日目が休日となり、今日のように広まったのである。そのため、神の現在の働きは同じ方法で実行される。神は、状況に応じてあなた方が必要とすることを語り、必要を満たす。つまり、それぞれの状況に応じて霊は語り、働く。霊はすべてを見守り、いつでもどこでも働きを行う。わたしが行うこと、語ること、あなた方にもたらすもの、そしてあなた方に与えるものは、例外なく、あなた方が必要とするものである。わたしの働きは現実から離れたものではないというのは、そのような理由である。そのすべては現実であり、あなた方は皆、「神の霊はすべてを見守る」ことを知るのである。それがすべて前もって決められていたら、あまりに陳腐ではないか。あなたは、神が六千年間働きを行い、そして人間を反抗的、不従順、陰険、狡猾で、肉を持ち、堕落した悪の性質、目の欲望、および無節制といった性質を持つものとして運命づけたと考えている。それは運命づけられていたのではなく、むしろサタンによる堕落のためである。「サタンも神の手の中にあったのではないのか。神がサタンによるこのような人の堕落を運命づけ、その後人の間でその働きをされたのだ。」と言う者もいるだろう。神は人間を堕落させるようにサタンを実際に運命づけたのだろうか。神はあまりに熱心であるため、人間が普通の人間生活を生きることを認めていないだけである。神は人間の生活を苦しいものにするだろうか。もしそうであれば、サタンを倒して人間を救うことは無駄な努力ではないか。人間の不従順が運命づけられていたはずがない。それは実際にはサタンの悪行によるもので、神により運命づけられていたはずはない。あなた方が理解している神の手の中にあるサタンと、わたしが語っている神の手の中にあるサタンとは全く別のものである。「神は全能で、サタンは神の手の中にある」というあなた方の言葉に従えば、サタンは神を裏切ることはなかっただろう。あなたは神は全能だと言ったではないのか。あなた方の認識はあまりに抽象的で現実味がない。それは筋が通らず、意味をなさない。神は全能であり、そのことに少しも偽りはない。大天使は神を裏切った。なぜなら神は最初にその大天使に一部の権威を与えたからである。もちろん、蛇の誘惑に負けたエバのように、それは予期しない出来事だった。しかしどれほどサタンが裏切ろうとも、神と異なり、サタンは全能ではない。あなた方が述べたように、サタンは強大だが、サタンが何を行っても、神の権威はいつでもそれを打ち負かす。それが「神は全能で、サタンは神の手の中にある。」と言う言葉の裏にある真意である。そのため、神とサタンとの戦いは、一段階ずつ実行されなければならない。さらに神は、サタンの策略に対応して自身の働きを計画する。つまり神は時代に従って、人々を救い、英知と全能性を示す。同じように、終末の日における神の働きは、恵みの時代以前には運命づけられてはおらず、以下のように秩序立った方法での運命付けはなかった:第一に、人の外的性質を変える。第二に、人に神の裁きと刑罰を受けさせる。第三に、人に死を経験させる。第四に、人に神を愛する時代を経験させるとともに、被造物としての決意を表明させる。第五に、人が神の心を知るようにし、完全に神を知らしめ、そして人を完全にする。神は恵みの時代にそれらの事柄を計画してはいなかった。むしろ神はこの時代にそれらを計画し始めた。サタンは神と同じように働きを行っている。サタンはその堕落した性質を表現する一方、神は直接語り、本質的なものを明示する。それが今日行われている働きであり、同様の働きの原理は、世界が創造された後のずっと昔に用いられていた。

『言葉は肉において現れる』より引用


神は、ニネベの人々の心の底からの真摯な悔い改めを確認した

2020-07-27 22:29:18 | 天の国の福音

神は、ニネベの人々の心の底からの真摯な悔い改めを確認した

 

ヤーウェの警告に対するニネベとソドムの反応の明らかな相違点

滅びる、とは何を意味するであろうか。言葉通りに解釈すれば、消滅するということである。しかし、どのようにして消滅するであろうか。一体誰が町全体を滅びさせることができようか。当然、そのようなことは人間には不可能である。ニネベの人々は愚かではなかったので、この宣告を聞いてすぐに、その旨を理解した。ニネベの人々は、その宣告が神から伝えられたものであること、神が業を行うつもりであること、自分達の邪悪さがヤーウェ神の怒りに触れ、その怒りが自分達に対するもので、程なくしてニネベの町も自分達も滅ぼされるであろうことを理解した。ヤーウェ神の警告に対し、ニネベの人々はどのように行動したであろうか。聖書では、王から一般人まで、ニネベの人々の反応が詳細に記載されている。聖句には、「そこでニネベの人々は神を信じ、断食をふれ、大きい者から小さい者まで荒布を着た。このうわさがニネベの王に達すると、彼はその王座から立ち上がり、朝服を脱ぎ、荒布をまとい、灰の中に座した。また王とその大臣の布告をもって、ニネベ中にふれさせて言った、『人も獣も牛も羊もみな、何をも味わってはならない。物を食い、水を飲んではならない。人も獣も荒布をまとい、ひたすら神に呼ばわり、おのおのその悪い道およびその手にある強暴を離れよ。…』とある。

ヤーウェ神の宣告を聞いた後、ニネベの人々はソドムの人々が見せた態度とは正反対の態度を取った。ソドムの人々は、何の躊躇もなく、神に反抗し、邪悪を重ねたが、ニネベの人々は、この宣告を聞いた後、それを無視することも、それに反抗することも無く、神を信じ、断食を命じた。ここで「信じ」、とは何を意味するであろうか。言葉自体は、信仰と服従を意味する。ニネベの人々が実際に取った行動で説明すれば、ニネベの人々は、神は言葉通りの業を行うことが可能であり、またその通り実行することを信じ、悔い改めることを望んだ、という意味である。ニネベの人々は喫緊の災いに瀕して恐れを感じていたであろうか。ニネベの人々が恐れたのは、信仰のためである。ニネベの人々の信仰と恐れは、何によって証明することが出来るであろうか。それは聖句にある通りである。すなわち、「断食をふれ、大きい者から小さい者まで荒布を着た。」つまり、ニネベの人々には真の信仰があり、その信仰から恐れが生まれ、その結果として、断食と粗布の着用が行われた。ニネベの人々は、こうして悔い改めの開始を示した。ソドムの人々とは全く対照的に、ニネベの人々は神に反抗しなかっただけでなく、自分達の行動により悔い改めを明示した。無論、これはニネベの一般人だけでなく、王も例外ではなかった。

ニネベの王の悔い改めがヤーウェ神のニネベに対する称賛を獲得した

このうわさを聞いたニネベの王は、王座から立ち上がって王衣から荒布に着替え、灰の中に座った。そして王は、町の人々全員に対し、全員何一つ口にしてはならない、そして家畜、羊、牛も飲食してはならない、と宣言した。人間も家畜も同様に粗布を身にまとっていた。人々は熱心に神に懇願した。また王は、各人が悪の道を離れ、その手から不法を捨てよ、と宣言した。こうした行動から判断すれば、ニネベの王は心から悔い改めを示していた。王座から立ち上がり、礼服から粗布に着替え、灰の中に座るという、王が取った一連の行動は、人々に対してニネベの王が王という身分を投げだし、一般人と同様に粗布をまとっていたことを伝えた。これは、ヤーウェ神の宣告を聞いたニネベの王が王位を継続し、その手で邪悪や不法を続けることは無く、むしろ王の権威を捨て、ヤーウェ神の前で悔い改めた、ということを示すものである。この時、ニネベの王は、王として悔い改めていたのではなく、普通の一信者として神の前で罪を告白し、悔い改めた。その上、王は、王に倣って、ヤーウェ神の前で自分の罪を告白して悔い改めることを町全体に命じた。その上、聖句にあるとおり、どのように悔い改めるかについて、王には具体的な計画があった。すなわち「人も獣も牛も羊もみな、何をも味わってはならない。物を食い、水を飲んではならない。…ひたすら神に呼ばわり、おのおのその悪い道およびその手にある強暴を離れよ。」と命じた。町を支配する存在として、王には最高の地位と権力があり、全てが王の意のままであった。ヤーウェ神の宣言を聞いた王は、それを無視したり、自分だけが悔い改めて罪の告白をしたりすることもできたはずである。王は、町の人々が悔い改めるか如何について、完全に気に留めずにいることも出来たはずである。しかし、ニネベの王は、そのような行動を一切とらなかった。王は、王座から立ち上がり、粗布を身にまとって灰の中に座ってヤーウェ神の前で罪を告白し、悔い改めた上、町の人々全員、家畜のすべてに対し、王と同様に行動するよう命じた。王は人々に対し「ひたすら神に呼ばわり」とさえ命じている。これら一連の行動により、ニネベの王は、支配者が真に達成すべき目標を達成した。王が取った一連の行動は、人類史上のなかで、どの王にとっても為し難いことであり、それまでのいずれの王も為し得なかった行動であった。これらの行動は、人類史上で前例の無いことであったと言えるであろう。こうした行動は、称賛し、人類が倣う価値のある行動であった。人類の黎明以来、王は皆、臣民に対して、神を反抗し、反対するように統治を行っていた。それまで、それぞれの悪に対して神に贖いを求めるよう臣民を祈らせ、ヤーウェ神の赦しを得て、喫緊の罰を免れた者は、誰も居なかった。しかしニネベの王は、臣民に対して、神に立ち返り、各人が悪の道を離れ、その手から不法を捨てるよう指導した。加えて、ニネベの王は自らの王位を捨て、それに対してヤーウェ神は思い直して宣告した災いをくだすのを取りやめ、ニネベの町の人々は滅びを免れ、生き残ることができた。ニネベの王の行動は、人類史上希にみる奇跡であると言うほか無い。これらの行動は、腐敗した人類が神の前で罪の告白と悔い改めを行う際の模範とも呼べるであろう。

神は、ニネベの人々の心の底からの真摯な悔い改めを確認した

神の宣告を聞いた後、ニネベの王と臣民たちは、一連の行動を取った。ニネベの人々の態度と行動の本質は何であろうか。すなわち、ニネベの人々の行動全体における真髄は何であろうか。ニネベの人々がそのような行動を取った理由は何であろうか。神の目には、ニネベの人々は、真摯に悔い改めたように映った。それはニネベの人々が神に心から誓願し罪を告白したからのみならず、ニネベの人々が悪の行いも捨てたからである。ニネベの人々がこのような行動を取ったのは、神の言葉を聞いたのち、ニネベの人々は大いに恐れ、神が言葉通りの業を行うものと信じていたからである。ニネベの人々は、自分達のあり方を改めて悪から離れ、ヤーウェ神に対して怒りを静めるよう祈りを捧げて裁きと差し迫った災いの取消を求める自分達の希望を、断食して粗布をまとい、灰の中に座ることで示すのを望んだ。ニネベの人々のすべての行動を検討すると、ニネベの人々は、従前の邪悪な行動がヤーウェ神により嫌悪されるものであること、またヤーウェが自分達を間もなく滅ぼす理由を既に知っていたことが分かる。そのため、ニネベの人々全員が完全に悔い改め、悪の道を離れ、その手から不法を捨てることを望んだ。換言すると、ニネベの人々がヤーウェ神の宣言を確認した後、ニネベの人々それぞれが心に恐怖を覚え、悪の道を離れて、ヤーウェ神が嫌悪する行動を続けることを止めた。さらに、ニネベの人々は従前の罪に対する赦しと、従前の行動に基づいて処分しないことを、ヤーウェ神に誓願した。ニネベの人々は悪に二度と戻らず、二度とヤーウェ神の怒りを買わないよう、ヤーウェ神の指示に従って行動する意志があった。ニネベの人々の悔い改めは真摯であり、徹底していた。その悔い改めは、ニネベの人々の心底から出たものであり、偽りでも一時的なものでもなかった。

ヤーウェが自分達に対して怒られていることを、王から臣民までニネベの人々全員が知った後、ニネベの人々のあらゆる行動と態度、そしてあらゆる判断、あらゆる選択は、神の目に明らかなものであった。ニネベの人々の行動に従い、神の心が変わった。神は、この時点でどのように感じていたであろうか。その答えは、聖書に記されている。聖句には、「神は彼らのなすところ、その悪い道を離れたのを見られ、彼らの上に下そうと言われた災を思いかえして、これをおやめになった」とある。神は思い直したものの、神の御心に複雑な部分は一切なかった。単に神は、怒りを伝えていた状態から怒りを静める状態へと変化し、ニネベに災いをくだすのを止めることに決めた。神がニネベに災いをくだすのを止めることに決断したのが迅速であったのは、神がニネベの人々すべての心を確認したからであった。神は、ニネベの人々の心底にあったもの、すなわち自分達の罪の真摯な告白と悔い改め、ニネベの人々の神に対する真摯な信仰、ニネベの人々が、自分達の悪の行いが神の性質の怒りを買った理由に関する深い理解、その怒りの結果となるヤーウェの罰に対する恐れを理解した。それと同時に、ヤーウェは、ニネベの人々が災いを免れることができるよう、ヤーウェに自分達に対する怒りを静めるよう誓願するニネベの人々の心底からの祈りを聞いた。神がこうしたことを認識した時、神の怒りは徐々に静まっていった。神の従前の怒りがどれほど激しいかを問わず、人々の心底からの真摯な悔い改めを神が認めた場合、神の心はその悔い改めを喜び、神は災いをニネベの人々にもたらすことに耐え兼ね、ニネベの人々に対する怒りを静めた。その代わりに、神はニネベの人々に憐れみと寛容さを引き続き与え、引き続き導きと施しを与えた。

『言葉は肉において現れる』より

 

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ニネベに届いたヤーウェ神の警告

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