神の羊は神の御声を聞く

「わたしの羊はわたしの声を聞く」黙示録も予言されました。「耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。」

聖書について(4)

2020-02-29 22:32:43 | 書籍

聖書について(4)


多くの人は、聖書を理解することと解釈できることは、真の道を探すのと同じことだと信じている。しかし、実際、物事はそんなに単純だろうか。聖書の実際は誰も知らない。つまり、聖書は単なる神の働きについての歴史的記録であること、神の以前の二段階の働きについての証しであること、神の働きの目的については何も教えていないことである。聖書を読んだことのある人はみな、そこには律法の時代と恵みの時代の二つの段階での神の働きが記録されていることを知っている。旧約はイスラエルの歴史と創造から律法の時代の終わりまでのヤーウェの働きを記録している。新約では四福音書に、イエスの地上の働きと、パウロの働きを記録している。これらは歴史的記録ではないのか。過去の物事を今日に持ち込めば、それは歴史となり、どんなにそれが事実で真実であろうと、やはり歴史である。そして、歴史は現在について取り上げることはできない。神は歴史を振り返らないからである。だから、聖書だけを理解して、神が今日しようとしている働きを何も理解しないのなら、また、神を信じていても聖霊の働きを求めないのなら、あなたは神を求めるということがどういうことなのか、わかっていない。イスラエルの歴史を学ぶために、神の天地創造の歴史を研究するために聖書を読むのなら、あなたは神を信じていない。しかし、今日、あなたは神を信じていのちを求めているのだから、神の認識を求めているのだから、また、死んだ文字や教義を求めていないのだから、あるいは、歴史を理解しようとしているのではないのだから、あなたは今日の神の心を求めなければいけない。そして、聖霊の働きの方向を尋ね求めなければいけない。もしもあなたが考古学者なら、聖書を読んでもよいであろう。しかし、そうではない。あなたは神を信じる者の一人なのだから、神の現在の心を探し求めるのが一番だ。聖書を読めば、せいぜいイスラエルの歴史が少しだけ、またアブラハムやダビデ、モーセの生涯を学び、彼らがどのようにヤーウェを崇めたか、ヤーウェが自分に敵対する人々をどのように火で罰し、その時代の人々にどのように話したかといったことがわかるだろう。神が過去に行った働きのことだけがわかるだろう。聖書の記録は、初期のイスラエルの人々がいかに神を崇め、ヤーウェの導きの下で生きたかということに関連している。イスラエル人は神の選ばれた民であったので、旧約では、イスラエルのすべての人々のヤーウェへの忠誠や、ヤーウェに従う人々が神からどのように守られ祝福を受けたかがわかる。また、イスラエルで働いたとき、神は慈悲と憐れみに満ちていたが、また激しい炎ももっていたこと、イスラエルの民は卑しい者から強い者まですべてがヤーウェを崇め、そのためすべての民は神から幸いを受けたことを知ることができる。これが旧約に記録されているイスラエルの歴史である。

聖書は神のイスラエルでの働きの歴史記録であり、古代の預言者たちの数多くの預言と、ヤーウェが当時その働きについて述べたことの一部が記録されている。だから、人々はこの本を神聖なものとして尊ぶ(神は聖く、偉大であるから)。もちろん、これはみな、人々のヤーウェへの畏敬と神への尊崇から来ている。人々がこの本をこのように扱うのは、神の被造物が自分たちの創造主を深く畏敬するためで、この本を天の書と呼ぶ者さえいる。実際のところ、これは人間の記録でしかないのだが。これはヤーウェが直接名付けたものではないし、ヤーウェが直接その作成を導いたものでもない。つまり、この本の著者は神ではなく、人間なのだ。聖書は、人間が敬ってつけた書名に過ぎない。この書名は、ヤーウェやイエスが話し合って決めたものではない。これは人間の考えでしかない。この本はヤーウェの著書ではないし、ましてイエスの著したものでもない。そうではなくて、多くの古代の預言者や使徒たち、予知する者の書いたものを後の世代が編集して、その人々にはとりわけ聖いものと映った古代の文書を一冊の本に、未来の世代によって解読されるのを待っている多くの計り知れない深遠な奥義を含んでいるとその人々が信じた一冊の本に、まとめたものである。だから、よけいに人々はこの本を天の書だと考えがちである。四福音書と黙示録の追加によって、この本への人々の態度は、他のどの本とも異なっていて、誰一人、この「天の書」を解明しようとしない。――それはあまりに「神聖」だからだ。

なぜ、聖書を読むとすぐに、実践の正しい道を聖書の中に見つけることができるのだろうか。なぜ人々には不可解であったものを幾分でもとらえることができるのか。今日、わたしはこのようにして聖書を分析しているが、これはわたしが聖書を憎んでいるからではないし、また、参考としての価値を否定するものでもない。わたしが聖書の本来の価値とそのなりたちを説明し、明確にしているのは、あなたが闇の中にとどまることのないようにである。人々は聖書について実に多くの解釈をしており、その多くは誤っているので、聖書をこのように読むのは、得るべきものを得ることを妨げるだけではなく、さらに重要なことに、わたしのしようとする働きの妨げとなる。これは未来の働きのために、はなはだしく邪魔なものとなり、有用さより欠点ばかりをもたらす。だから、わたしがあなたに教えていることは、単に聖書の本質とその内部事情である。わたしは聖書を読むなと言っているのではないし。また、聖書がまったく無価値だと告げて歩けとも言っていない。ただ、聖書に関して正しい知識と見方をもつべきだというのだ。あまり偏った見方をしないことだ。聖書は人間の書いた歴史書だが、これはまた、古代の聖人や預言者が神に仕えた原則とともに、近い時代の使徒たちが神に仕えた経験を記した文書でもある。これらはみな、そうした人々が実際に見て、知った事柄であり、この時代に真の道を求める人々に関する参考としては役立てることができる。だから、聖書を読めば、他の書物からは得られない多くのいのちの道について知ることができる。これらの道は、預言者や使徒たちがかつて経験した、聖霊の働きのいのちの道であり、その言葉の多くは貴く、人々の必要とするものを与えてくれる。だから、人々はみな聖書を読むことを好むのである。聖書にはまことに多くの事が隠されているから、人々の聖書の見方は偉大な宗教家の著作に対するものとは異なっている。聖書は古代と新しい時代にヤーウェやイエスに仕えた人々の経験と認識を集めた記録で、後の世代は、これにより多くの啓示、洞察、実践への道を学ぶことができた。聖書がどの偉大な宗教家たちの著作よりも高位にあるのは、彼らの著したものが聖書から引き出したものであり、彼らの経験はみな聖書から来ていて、いずれも聖書を解説しているからである。そこで、人々は偉大な宗教家の著書から糧を得られるが、彼らはまだ聖書を崇める。聖書がじつに偉大で深遠に思われるからだ。聖書はパウロ書簡やペテロの書簡といった、いのちの言葉の書の一部を収めているし、また、人々はこれらの書から必要なものや助けを得ることができるものの、これらの書は時代遅れで、過去の時代に属するものである。どれほど優れていても、一つの時代にだけ通用するもので、永遠ではない。神の働きは常に進展しており、ただパウロやペテロの時代にとどまることはできないし、いつまでもイエスが十字架につけられた恵みの時代にとどまることもできない。だから、これらの書は恵みの時代にのみふさわしいものであって、終わりの日の神の国の時代にはふさわしくない。これらは恵みの時代の信者の必要を満たすものであって、神の国の時代の聖徒のためのものではない。どんなにすぐれたものであっても、それらは過去のものなのだ。これはヤーウェの創造の働きやイスラエルでの働きも同様だ。働きがどんなに偉大なものであっても、それは過去のものであって、それが廃れる時が来ることは決まっていた。神の働きもまた同じである。偉大だが、終わる時が来る。いつまでも創造の働きにとどまることはできないし、十字架刑の時代にとどまっていることもできない。十字架刑の働きがいかに説得力があり、サタンを打ち負かすことにおいてどれほど効果的であっても、結局、働きは働きであり、時代もまた時代なのである。働きはいつまでも同じ基礎の上にとどまれない。また、時代がけっして変わらずにあるということはありえない。創造があったのだから、終わりの日がなければならない。これは必然だ。だから、今日、新約のいのちの言葉、つまり使徒たちの書簡とそれに四福音書は歴史的な書となり、古い年鑑となった。古い年鑑がどうして人々を新たな時代に導けるであろうか。年鑑がどれほど人々にいのちを与えることができたとしても、人々を十字架に導くことができたとしても、時代遅れなのではないか。価値がないのではないか。だから、盲目的にこれらの年鑑を信じるべきではないと言うのだ。ああしたものは古すぎて、あなたを新たな働きに至らせることができず、重荷になるだけだ。新たな働き、新たな進路に至らせることができないばかりか、古い宗教的な教会に入らせる。もしそうなると、神への信仰において退歩していることになるのではないか。

聖書に記されているのは、イスラエルにおける神の働きであり、そこにはイスラエルの選ばれた民によって行われたことも幾つか含まれている。つまり、これはヤーウェのことについて述べたものだ。これについて、聖霊は批判してはいない。聖書の成り立ちの過程にはどの部分を入れどの部分を除くかという選択があり、聖霊はこれを認めないが、批判もしない。聖書はイスラエルと神の働きの歴史の記録でしかない。人々、物事、そしてその記録していることは、みな事実であり、それらには象徴的な意味は全くなかった。――もちろん、イザヤとダニエルと、その他の預言者たちやヨハネの幻の書を除いては。イスラエルの初期の人々は知識が豊富で教養があり、彼らの古代の知識や文化はきわめて進んだものであり、彼らの書いたものは今日の人々のものより高度であった。だから、彼らがこれらの書を著せたのは驚くにあたらない。ヤーウェは彼らの間で実に多くの働きをし、彼らは多くを見たのだから。ダビデはヤーウェのわざをその目で見、自らそれを味わい、多くのしるしと不思議を見た。そこで、ヤーウェのわざをたたえて、あの多くの詩歌を書いた。彼らがそうした書を著すことができたのは、その置かれた状況のためであり、彼らが神聖であったためではない。彼らがヤーウェをたたえたのは、ヤーウェを見たからである。もしあなたたちがヤーウェをまったく見たことがなく、神の存在を知らなければ、どうして神をたたえることができたであろうか。ヤーウェを見たことがなければ、神をたたえることも、崇めることも知らないままであろうし、まして神をたたえる歌を書くこともできないであろう。そして、たとえヤーウェのわざを何かでっち上げてくれと言われても、できないであろう。今日、あなたたちが神をたたえ、神を愛するのは、あなたたちが神を見て、神の働きを経験したからでもある。そして、もしもあなたたちの能力が向上したなら、あなたたちもまた、ダビデのように神をたたえる詩を書けるようになるのではないか。

聖書を理解し、歴史を理解するが、聖霊が今日何をしているかを理解しない──これは間違っている。あなたは歴史を学ぶことはよくできたし、実にすばらしい成果を上げた。しかし、聖霊が今日している働きについては、何も理解していない。これは愚かなことではないか。人々があなたに「神は今、何をしているのですか。あなたたちは今日、何に入るべきなのですか。あなたのいのちの探究はどうはかどっていますか。あなたは神の御心を理解しているのですか」と尋ねても、あなたには答えることができないであろう。それで、あなたは何を知っているのか。あなたは、わたしは肉に背を向け、自分を知らなければいけないことを知っているだけですと言うであろう。そして、もし相手が「他には何を知っているのですか」と尋ねたなら、あなたは、神のすべての計画に従うことを知っている、そして、聖書の歴史について少し知っている、それで全部だと答える。それが、この数年間神を信じてきて、学んだことのすべてなのだろうか。それがあなたが理解していることのすべてなら、あなたには実に多くのことが欠けている。だから、あなたたちの今日の背丈では、わたしがあなたたちに求めることを満たすことは基本的にできないし、また、あなたたちの識別力とあなたたちの理解している真理はあまりにわずかである。つまり、あなたたちの信仰はあまりに表面的なのだ。あなたたちは、もっと真理を身につけなければいけない。あなたたちにはもっと認識が必要だ。あなたたちはもっと多くを見なければいけない。そうしてはじめて、福音を広められる。これがあなたたちの成し遂げるべきことなのだから。

 

ゴスペル音楽「時」女性ソロ 日本語字幕

2020-02-27 20:30:10 | キリスト教の歌

「時」女性ソロ 日本語字幕

ゴスペル音楽孤独な魂が遠くから旅だち
未来をさぐり、過去を求め
労苦しながら夢を追い求める
労苦しながら夢を追い求める
どこから来てどこへ行くか知らず
涙のうちに生まれ 絶望のうちに消える
涙のうちに生まれ 絶望のうちに消える
踏まれても、頑張りぬく
あなたの到来で辛い人生の漂流は終わる
希望を見出し、夜明けを喜び迎える
靄にかすんだ先にあなたの姿を見る
それはあなたの御顔の輝き
昨日は異郷に彷徨ったが
今日は家へ帰る道を見つけた
傷つき人間性を失い
人生は夢だと嘆く
あなたの到来で辛い人生の漂流は終わる
もう迷った者でも、さまよう者でもない
今、自分の家で白い衣を見る
それはあなたの御顔の輝き
あなたの到来で辛い人生の漂流は終わる
もう迷った者でも、さまよう者でもない
今、自分の家で白い衣を見る
それはあなたの御顔の輝き
何度も生まれ変わり幾年も待ちわび
全能者が今来た
孤独な魂は自分の道を見つけ
悲しいことはもうない
それは千年の夢
『小羊に従って新しい歌を歌おう』より

東方閃電]全能神教会は、主イエスの再臨である終わりの日のキリスト全能神の現れと働きによって創られました。当教会は、終わりの日の全能神の働きを受け入れ、神の言葉によって征服され救われるすべての人々によって成り立っています。当教会は、全能神ご自身によって全てを創られ、全能神ご自身によって導かれ牧養されています。決して人によって創られたものではありません。キリストは道であり、真理であり、いのちなのです。神の羊は神の御声を聞きます。全能神の言葉を読めば神が現れられたのを見ることができます。


聖書について(3)

2020-02-26 22:06:46 | 書籍

聖書について(3)


聖書にあることがみな、神が直接語った言葉の記録だというわけではない。聖書はただ、神の働きのうちの前の二段階を文書で記録しているに過ぎない。そこには預言者たちの預言と、各時代で神に用いられた人々の経験と認識を記したものが含まれる。人間の経験には人間の意見や認識が紛れ込んでいるが、これは避けられないことである。聖書の多くの書には、人間の観念、人間の偏見、人間の愚かしい解釈が含まれている。もちろん、ほとんどの言葉は聖霊による啓示と教えの結果で、それらは正しい解釈である。しかし、すべてが真理を正確に表現しているとは言えない。ある物事についての見方は、個人的な経験による知識に過ぎないか、聖霊による啓示である。預言者たちの預言は神が直接指示したものだ。イザヤ、ダニエル、エズラ、エレミヤ、そしてエゼキエルの預言は聖霊が直接指示したものだ。これらの人々は預言者で、預言の霊を受けた。彼らはみな旧約の預言者であった。律法の時代、ヤーウェの霊感を受けたこれらの人々は、多くの預言を語った。それはヤーウェが直接指示したものであった。それでは、なぜヤーウェは彼らの内で働いたのだろうか。イスラエルの人々が神の選ばれた民だったからだ。預言者の働きは彼らの間で行わなければならなかったし、彼らはそうした啓示を受ける資格をもっていた。実際のところ、彼ら自身は神の啓示を理解していなかった。聖霊が彼らの口を通して言葉を述べたのは、未来の人々がそれらのことを理解し、それらがほんとうに神の霊、聖霊の働きであって、人間から出たものではないとわかるようにであり、聖霊の働きを確認させるためであった。恵みの時代には、イエス自身が彼らに代わってこの働きをすべて行った。だから、人々はもはや預言を語らなかった。では、イエスは預言者だったのだろうか。イエスは、もちろん、預言者だった。しかし、イエスはまた、使徒の働きもできた。イエスは預言を告げることも、全土の人々に教えを説くこともできた。しかし、イエスのした働きと、その身分は同じではない。イエスはすべての人間を贖うために、罪を贖うために来たのである。イエスは預言者、使徒であったが、それ以上にキリストであったのだ。預言者は預言を告げることができるが、だからといって、その人がキリストだとは言えない。当時、イエスは多くの預言を語ったので、イエスは預言者であったと言うことはできるが、預言者であったからキリストではないとは言えない。つまり、イエスは神自身を代表して一つの段階の働きを実行したのであり、その身分はイザヤとは違う。イエスは贖いの働きを完了するために来た。イエスはまた人間にいのちを与えた。また、神の霊が直接イエスに訪れた。イエスの行った働きには、神の霊の霊感やヤーウェからの指示はなかった。その代わりに霊が直接働いた──このことは、イエスが預言者と同じではなかったことの十分な証拠である。イエスの行った働きは贖いの働きで、それに次ぐのが預言を語ることであった。イエスは預言者、使徒、そしてそれ以上に贖い主であった。一方、預言者たちは、預言ができるだけで、他の働きをして神の霊を代表することはできなかった。イエスは、かつて人間がしたことのない働きをかなり行ない、人間の贖いの働きをしたので、イザヤのような人々とは違っていた。現在の流れを受け入れない人々がいるのは、これがその人たちの妨げとなっているからである。その人たちは言う。「旧約では多くの預言者もまた多くの言葉を語っています。では、なぜあの人たちは受肉した神ではなかったのですか。今日の神は言葉を語る──それで、あの人が受肉した神であると証明するのに十分なのですか。あなたは聖書を重視していないし、聖書の勉強もしない──では何を根拠にしてあの人が受肉した神だと言うのですか。あなたは、彼らは聖霊に導かれていて、あなたは、この段階の働きは神が自ら行う働きだと信じています。――でも、その根拠は何なのですか。あなたは今日の神の言葉に注意を集中し、まるで聖書を否定して、脇に置いてしまったかのようです。」それで、人々はあなたが異端の教えを信じており、邪教集団の一員だと言う。

もしあなたが終わりの日の神の働きを証ししたいのなら、聖書の内部事情、聖書の構成、そして聖書の本質を理解しなければいけない。今日、人々は聖書が神であり、神は聖書だと信じている。また、聖書の言葉のすべてだけが神の語った言葉であって、それはみな、神が語ったと信じている。神を信じている人々は、旧約と新約の六十六書はすべて人間が書いたものだけれど、これらはみな神から霊感を受けており、聖霊の告げたことを記録しているのだとさえ考えている。これは人々の解釈が誤っているのであって、事実に完全に沿ったものではない。実際、預言の書以外、旧約のほとんどは歴史的記録である。新約の書簡のいくつかは人々の経験に基づいたもので、またいくつかは聖霊の啓きによるものである。たとえば、パウロの書簡はひとりの人間の働きから生まれたもので、それはみな、聖霊の啓きを受けた結果であった。また、その書簡は教会のために書かれたもので、教会の兄弟姉妹への勧告と激励の言葉だった。聖霊の語った言葉ではなかったのである。パウロは聖霊の代わりに語ることはできなかった。また、彼は預言者でもなかったし、ましてヨハネが見たような幻を見てもいない。パウロの書簡はエペソ、フィラデルフィア、ガラテヤ、その他の教会に向けて書かれた。だから、新約のパウロの書簡はパウロが諸教会に向けて書いた手紙で、聖霊の霊感によるものではないし、また、聖霊が直接語ったものでもない。あれは単に、パウロが働きの間に諸教会に向けて書いた勧告と慰めと励ましの言葉である。また、当時のパウロの活動の大部分の記録でもある。あれは主における兄弟姉妹のために書かれたもので、当時のすべての教会の兄弟姉妹に、パウロの助言に従い、主イエスの教えを守らせるためのものだった。当時の教会であれ、未来のものであれ、パウロは自分の書いたものをみなが飲み食いしなければならないとは絶対に言わなかったし、また、自分の言葉がみな神から出たものだとも言わなかった。当時の教会の状況に合わせて、パウロは単に兄弟姉妹と心の交流をして、彼らを励まし、彼らの信仰を深めようとしていた。そして、彼は単に説教をしたり思い起こさせたりして、勧告していたのだ。彼の言葉は、彼自身の重荷に基づいて、言葉によって人々を支えたのだ。彼は当時の教会の使徒としての働きをした。彼は主イエスに用いられた働き手だった。そして、教会の責任を与えられていた。彼は教会の仕事を行なうよう任じられていて、兄弟姉妹の状況を調べなければいけなかった。そのために、主においての兄弟姉妹すべてに手紙を書いたのだ。彼が人々に向けて言った信仰を養い、確信に満ちた言葉はみな正しかったが、それは聖霊の言葉を代弁していたのではないし、パウロにも神の代理はできなかった。一人の人間の経験の記録や手紙を聖霊が諸教会に向けて語ったものとして扱うのは、ばかげた解釈であり、ひどい冒瀆である。パウロが諸教会に向けて書いた手紙については、特にそうである。彼の手紙は当時の各教会の事情や状況に基づいて兄弟姉妹に向けて、主における兄弟姉妹を励まし、主イエスの恵みを受けられるようにと書いたものなのだから。彼の手紙は、当時の兄弟姉妹を奮起させるためのものであった。これは彼自身の重荷であり、聖霊が彼に負わせたものだったといえる。結局のところ、彼は当時の教会を導いた使徒で、諸教会に手紙を書いて励ました。それが彼の責任であった。彼の身分は単に活動中の使徒であって、単に神に遣わされた使徒だった。彼は預言する者でも、予知する者でもなかった。だから、彼にとって自分の働きと兄弟姉妹の生活が最も重要なものであった。それで、彼は聖霊を代弁することはできなかったのだ。彼の言葉は聖霊の言葉ではなかったし、まして、神の言葉であったとは到底言えない。パウロは神の被造物でしかなく、受肉した神では絶対になかったのだから。彼の身分はイエスの身分とは違っていた。イエスの言葉は聖霊の言葉で、神の言葉であった。イエスの身分はキリスト、神の子であったのだから。どうしてパウロがイエスと対等になれるのか。もし人々がパウロの書いたような手紙や言葉を見て、聖霊の言葉として神のように崇めるなら、それはあまりにも分別がないと言うことになるだろう。もっと厳しい言い方をすれば、これは冒瀆以外の何物でもないのではないか。どうして人間が神に代わって話せるのか。また、どうして人々は人間の手紙や語った言葉の記録をまるで聖なる書か天の書であるかのように、その前に額づくことができるのであろうか。神の言葉は人間が何気なく口にできるものなのか。どうして人間が神に代わって話せるのか。それで、どう思うのか──パウロが諸教会に宛てて書いた手紙には、彼自身の考えが混じっているのではないか。どうして人間の考えで汚れていないと言えるであろうか。彼は自分の個人的経験や人生の幅に基づいて諸教会に向けて手紙を書いた。たとえば、パウロはガラテヤの諸教会に向けて手紙を書いているが、そこには、ある意見が含まれている。そして、ペテロも別の手紙を書いているが、別の意見が見られる。どちらが聖霊から出たものなのか。誰一人確かなことを言えない。だから、彼らは二人とも教会のために重荷を負っていたが、二人の手紙は彼らの霊的背丈を、彼らの兄弟姉妹に向けた備えと支えを、諸教会への彼らの責任を象徴している。その手紙は人間の働きを表しているに過ぎない。すべてが聖霊から出ていたのではないのだ。もしもパウロの手紙は聖霊の言葉だというのなら、その人は愚かで、冒瀆を犯している。パウロ書簡と新約のその他の書簡は、もっと最近の宗教活動家の回顧録のようなものだ。それらはウォッチマン・ニーの著書やローレンスの経験その他と同じようなものだ。簡単に言えば、最近の宗教活動家の著作は新約には含まれていないが、そうした人物の本質は同じである。彼らは一定の期間、聖霊に用いられた人々であったが、直接神を代表することはできなかったのである。

新約のマタイの福音書は、イエスの系図を記録している。冒頭で、イエスはアブラハムの子孫、ダビデの子孫、ヨセフの子であったと述べている。次に、イエスは聖霊によってもうけられ、処女から生まれたと述べている。すると、イエスはヨセフの子でもアブラハムの子孫でもダビデの子孫でもない ことになる。しかし、系図はイエスとヨセフのつながりを主張している。次に、系図はイエスが誕生した過程を記し始める。それによると、イエスは聖霊によってもうけられ、処女から生まれたのであり、ヨセフの子ではない。しかし、系図では、はっきりと、イエスがヨセフの子であると書いてあり、系図はイエスのために書かれているため、その記録は四十二世代に及ぶ。ヨセフの代になると、ヨセフがマリヤの夫であると手短に告げている。これらの記述は、イエスがアブラハムの子孫であることを証明するためのものである。これは矛盾ではないのか。系図は明らかにヨセフの祖先を列挙しており、それは確かにヨセフの系図なのだが、マタイは、それがイエスの系図だと主張している。これはイエスが聖霊によって生まれたことを否定するものではないのか。だから、マタイの系図は人間の考えではないのか。これはばかげている。このことから、この書がすべて聖霊から出たものではないことがわかる。おそらく、神には地上に系図がなければいけないと考えた人々がいて、その結果、イエスをアブラハムの四十二代目の子孫だとしたのではないであろうか。これはまことに愚かなことだ。地上に到着した後で、どうして神に系図があり得るのか。神に系図があると言うのなら、それは神を被造物と同列に置いているのではないか。神は地上の存在ではなく、創造の主であり、肉の体をもってはいても、本質においては、人間と同じではないのだ。どうして神をその被造物と同じものにできるのか。アブラハムは神の代理人ではない。彼はヤーウェの当時の働きの対象であり、単にヤーウェの認める忠実なしもべでしかなく、イスラエルの民の一人であった。どうして彼がイエスの祖先であり得ようか。

誰がイエスの系図を書いたのか。イエス自身が書いたのだろうか。イエスは自ら「わたしの系図を書きなさい」と言ったのだろうか。これはイエスが十字架につけられた後で、マタイが記録したものである。当時、イエスは弟子たちには理解のできない働きを数多く行ったが、何も説明していない。イエスが去った後、弟子たちはいたるところで説教と働きを始め、その段階の働きのために、彼らは手紙と福音の書を書き始めた。新約の福音の書はイエスが十字架につけられてから二十年から三十年後に書かれた。それ以前には、イスラエルの人々は旧約だけを読んでいた。つまり、恵みの時代の始めに、人々は旧約を読んだのである。新約は恵みの時代になって、はじめて現れる。イエスが働いていた間、新約は存在しなかった。イエスがよみがえり、昇天した後になって、人々はイエスの働きを記録した。そうしてはじめて、四福音書が生まれ、それに加えて、パウロとペテロの書簡、そして黙示録が生まれた。イエスが昇天して三百年以上過ぎた後で、後の世代が記録を集め、新約が生まれた。この働きが完了した後ではじめて新約が存在した。それ以前にはなかったのである。神がすべての働きを行った。使徒パウロも自分のすべての働きを行った。その後に、パウロとペテロの書簡が集められ、ヨハネがパトモス島で記録した最大の幻が、終わりの日の働きを預言していたため、最後に加えられた。これらはみな、後の世代の編集したものであって、今日の言葉とは別物である。今日記録されていることは、神の働きの段階に沿ったものである。人々が今日関わっているのは、神が自ら行った働きであり、神が自ら語った言葉である。人は介入する必要がない──霊から直接出る言葉は順を追って並べられており、人間の記録を編集したものとは異なっている。彼らが記録したものは、彼らの教養と人間としての能力の程度に従っていたと言える。彼らが記録したものは人間の経験であった。人々にはそれぞれ自分なりの記録の手段と認識があり、それぞれの記録は異なっていた。だから、聖書を神と崇めるなら、あなたは極めて無知で愚かだということになる。なぜ今日の神の働きを求めないのか。神の働きだけが人間を救うことができるのである。聖書は人間を救えない。彼らは聖書を数千年の間読むことが出来たが、それでもなお彼らのうちには少しの変化も見られない。そして聖書を崇めるのなら、けっして聖霊の働きを得ることはないであろう。イスラエルで神の行った二段階の働きは、いずれも聖書に記録されている。だから、これらの記録の中に見る名前はみなイスラエルのもので、出来事もすべてイスラエルにおけるものである。「イエス」という名前さえ、イスラエル人の名である。もしも今日聖書を読み続ければ、因習に従うことになるのではないか。新約聖書に記録されていることは、ユダヤの物事である。原文はギリシャ語とヘブライ語で書かれており、イエスの言葉とイエスが当時呼ばれた名はすべて人間の言語のものである。イエスが十字架につけられた時、イエスは「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と言った。これはヘブライ語ではないのか。これは、単にイエスがユダヤで受肉したためであり、神がユダヤ人であるとの証明ではない。今日、神は中国で受肉した。だから、その語ることはみな、間違いなく中国語である。しかし、原文の言葉が違うのであるから、中国語訳の聖書とは比較できない。一方は人間が記録したヘブライ語を原典とし、他方は霊による直接の言葉から来ているのである。

 


聖書について(2)

2020-02-25 19:16:32 | 書籍

聖書について(2)


聖書は旧約・新約聖書とも呼ばれる。あなたたちは、「約」の意味を知っているだろうか。「旧約」の「約」とは、ヤーウェがエジプト人を殺してイスラエルの民をパロから救ったときの、ヤーウェとイスラエルの民との契約に由来する。もちろん、この契約の証しは鴨居につけた羊の血で、神はそれをもって人間と契約を結んだ。この契約は、二本の門柱と鴨居に羊の血のついた家の者はイスラエル人で、彼らは神の選ばれた民であり、ヤーウェは彼らを通り過ぎる(このとき、ヤーウェはエジプト人の初子たちと羊や牛の初子をみな殺そうとしていた)という内容であった。この契約には二重の意味がある。ヤーウェはエジプト人とその家畜を一切救わず、男の初子と羊と牛の初子をみな殺す。そこで、多くの預言書は、エジプト人がヤーウェの契約のために厳しい刑罰を受けることを預言していた。これが契約の第一層の意味である。ヤーウェはエジプト人の初子と家畜の初子をみな殺したが、イスラエルの民は、すべて見逃した。つまり、イスラエルの地に住む民はヤーウェの慈しむ者たちであり、みな助かるであろうということである。ヤーウェは彼らのために長期におよんで働こうと思い、羊の血で彼らと契約を結んだ。それ以後、ヤーウェはイスラエル人を殺すことなく、彼らは永遠に自分の選んだ民であると告げた。イスラエルの十二部族の間で、ヤーウェは律法の時代を通して働きを開始する。イスラエル人に律法を示し、彼らの中から預言者と士師を選び、彼らを神の働きの中心に置いた。ヤーウェは彼らと契約を結んだ。時代が変わらない限り、ヤーウェは選ばれた民の間でだけ働く。ヤーウェの契約は変えられないものだった。それは血で結ばれたからである。そして、神が選んだ民との間で結ばれたのである。より重要なことに、ヤーウェは時代全体を通じて働くために適切な範囲と対象を選んだ。そこで、人々は契約をとりわけ重要なものと見た。これが契約の第二層の意味である。契約締結前の創世記を例外として、旧約の他の書はみな、契約を結んだ後のイスラエル人の間での神の働きを記録している。もちろん、異邦人のことを述べている箇所もあるが、総体的に旧約はイスラエルにおける神の働きを記録している。ヤーウェのイスラエル人との契約のため、律法の時代に書かれた書は「旧約」と呼ばれている。これはヤーウェのイスラエル人との契約に因んで名付けられた。

新約は、イエスが十字架上で流した血と、イエスを信じる者たちとの間での契約に因んで名付けられた。イエスの契約はこうである。ただイエスを信じれば、イエスの流した血により罪を赦され、救われ、イエスをとおして生まれ変わり、もはや罪人ではない。神の恵みを受けるにはイエスを信じさえすればよい。そうすれば、死後、地獄の苦しみを受けることがない。恵みの時代に記された書はみな、この契約の後のものだ。そしてみな、働きと、そこで述べられた言葉を記録している。これらの書は主イエスの磔刑による救い、あるいは契約より先には進まない。これらは、すべて経験をした主における兄弟たちが記した書である。だから、これらの書も契約に因んで名付けられ、「新約」と呼ばれる。この二つの契約には、恵みの時代と律法の時代だけが含まれていて、終わりの時代には何のつながりもない。したがって、聖書は終わりの時代の今日の人々にとってそれほど役に立たない。せいぜい、臨時の参照用になるが、基本的にはほとんど無価値である。しかし、宗教関係者は、まだこれを最も貴重なものとしている。彼らは聖書を知らない。彼らは聖書を説明する方法を知っているだけで、基本的にそのなりたちを知らない。そうした人々の聖書への態度は、聖書に書かれていることはすべて正しい、そこには不正確なことや誤りはない、というものである。彼らは聖書は正しく、誤りはないと最初から決めているので、大いに興味をもって学び調べる。今日の働きの段階は、聖書で預言されていなかった。最も暗い場所における征服の働きについてはどこでも触れていなかった。これは最新の働きだからだ。働きの時代は異なるものだから、イエス自身でさえ、この段階の働きが終わりの日に行われるとは知らなかった──では、終わりの日の人々がこの段階の働きを聖書の中に見つけることなどできるであろうか。

聖書を解説する人のほとんどは、論理的推測をしているので、実際の背景を知らない。彼らは単に、多くのことを論理的に推測しているだけだ。何年ものあいだ、あえて聖書を細かく調べたり、聖書に「否」といったりする人は誰もいなかった。この本は「聖なる書」であり、人々は聖書を神のように崇めているからである。これが数千年も続いている。神は気にしないし、誰一人として聖書のなりたちを発見していない。わたしたちは、聖書を大切なものとするのは偶像崇拝だと言うが、そうした敬虔な信者たちは誰もそのように見ようとはしない。その人たちは「兄弟!そんなことを言うのではありません。それはひどい。どうして神を冒瀆できるのです」と言うであろう。次には辛そうな顔をして、「ああ、慈悲深いイエス、救いの主、この人の罪をお赦しください。あなたは人間を愛する主で、わたしたちはみな罪を犯しました。どうか、わたしたちを憐れんでください。アーメン」と言う。彼らの「敬虔」とはこのようなものである。彼らが真理を受け入れるのは容易なことではない。あなたの言うことに、彼らはひどく怯えるだろう。聖書が人間の考えや観念によって汚されているかもしれないとは、誰も考えようとしない。また、誰にもこの欠陥が見えない。聖書のある部分は人間の経験や認識であり、一部は聖霊の啓示であり、また、人間の知性や思考が混じっていもする。神はこうしたことに介入したことはないのだが、物事には限界がある。これらは通常の人間の考えを超えられない。もしそうなれば、神の働きに介入し、邪魔していることになる。通常の人間の考えを超えるものはサタンの働きである。それは本来人間のするべきことを奪うからである。それはサタンの働きで、サタンの指示によるもので、このような時、聖霊はあなたがそのように行動することを許さない。時に、兄弟姉妹が「これこれのやり方で働いていいのですか」と尋ねる。わたしは彼らの背丈を見て、「いいですよ」と言う。また、「もしわたしがこれこれの働き方をしたら、わたしの状態は正常でしょうか」と尋ねる人もいる。そこでわたしは「はい。それは正常です。ごく正常です」と言う。別の人は「こういうふうに働いていいですか」と言う。そこでわたしが「いけません」と言うと、「なぜあの人はよくて、わたしはいけないのですか」と尋ねてくる。そこで、わたしは「あなたがしていることは、サタンから来ているからです。それは混乱させます。あなたの動機は逸脱しています」と答える。また、働きが十分に進んでいないが、兄弟姉妹はそれに気づいていないときがある。わたしに、こういうふうに働いていいかと尋ねる人たちもいる。それを見て、その人たちの行動が将来の働きを妨げないものなら、わたしは、それでよい、と言う。聖霊の働きは人々にひとつの範囲を与える。人々は聖霊の願うことに厳格に従う必要はない。人々は普通の考え方と弱点を持っているし、身体的な必要もあり、現実的な問題を抱えており、頭の中には自分では基本的には抑制のできない考えもあるからである。わたしが人々に求めることにはみな、一定の限界がある。わたしの言葉が曖昧で、わたしがみなに、適当に行動するよう指示を出していると思っている人がいる。それは、わたしの要求には適切な範囲があることを理解していないからである。あなたたちの想像のとおりなら──もしわたしが同じ要求を例外なく全員にしていたなら、みな同じ背丈を達成することを要求するなら──それではうまくいかないであろう。これは不可能な要求というものだ。それに、これは人間の働きの原則であって、神の働きの原則ではない。神の働きは、人々の実際の状況に従って行われるのであって、人々の生まれながらの素質に基づいている。これはまた、福音を広める原則でもある。あなたは、自然に任せ、誰かに真理を明瞭に話すときのみ、ゆっくりと進まなければいけない。そうしてはじめて、人々は理解し、そうなってはじめて、聖書を脇に置くだろう。もし神がこの段階の働きをしなければ、誰が因習を打ち破れるのか。誰が新しい働きをできるのか。誰が聖書の外に新たな道を見いだせるのか。人々の伝統的な観念と封建的倫理とが甚だしいので、人々は自分ではこれらを捨て去る能力をもたず、そうする勇気もない。今日の人々が聖書にある死んだ言葉のいくつかに捕らえられていること、言葉に心を奪われていることは、言うまでもない。どうしてそんな人々が聖書を捨てようと思うであろうか。どうして聖書の外にある道を容易に受け入れることができるであろうか。つまり、あなたが聖書の内部事情と聖霊の働きの原則を明瞭に話して、すべての人々を完全に納得させることができなければ、である。これが最も必要なことだ。これは、宗教を信じているすべての人が聖書を尊重し神として崇拝しているから、神を聖書の内に閉じ込めようとしているから、さらには再び神を十字架につけなければ、そんな人々の目的は達成できないという事態だからである。


キリスト教会寸劇2019「戸を叩かれる主」神の羊は神の御声を聞き分ける 日本語吹き替え

2020-02-24 21:14:26 | キリスト教の歌

キリスト教会寸劇2019「戸を叩かれる主」神の羊は神の御声を聞き分ける 日本語吹き替え
本劇「戸を叩かれる主」では、終わりの日に主が御言葉によって私たちの心の戸を叩いてくださり、賢い乙女が神の御声を聞き、子羊と婚宴を共にするということが、どのように実現するかが明らかにされる。
チャン・ショウダオ牧師は日頃から主の再来を待ちわびていたが、信徒のチェンによる「主が既に再来された」という証を聞いても、「主は雲に乗って戻られるはずだ」と自分の観念や想像に頑なに執着し、真の道へ通じる心の戸を閉ざし続ける。しかし今回、チェンが主の再来に関する聖句を参照してチャン・ショウダオと議論し、チャン・ショウダオは聖書に、終わりの日に主は受肉して密かに再来し、新しい御言葉を語り人を清められた後、初めて公にお姿を表し、善に報い、悪を罰せられる、というような預言があることを学ぶ。また、「主が戸を叩かれる」ことの真の意味を理解し、主の再来をお迎えするには神の御声を聞くことが大切であると悟る。全能神の御言葉において神の御声を聞いた牧師は、ついに心の戸を開き、主の再来をお迎えする。

東方閃電]全能神教会は、主イエスの再臨である終わりの日のキリスト全能神の現れと働きによって創られました。当教会は、終わりの日の全能神の働きを受け入れ、神の言葉によって征服され救われるすべての人々によって成り立っています。当教会は、全能神ご自身によって全てを創られ、全能神ご自身によって導かれ牧養されています。決して人によって創られたものではありません。キリストは道であり、真理であり、いのちなのです。神の羊は神の御声を聞きます。全能神の言葉を読めば神が現れられたのを見ることができます。