神の羊は神の御声を聞く

「わたしの羊はわたしの声を聞く」黙示録も予言されました。「耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。」

キリスト教映画「ついに訪れた幸せ」あるクリスチャンの実話 日本語吹き替え

2020-05-31 17:38:21 | キリスト教映画

キリスト教映画「ついに訪れた幸せ」 日本語吹き替え


お金を稼いでいい生活を送るため、丁瑞琳と彼女の夫は商売を始めるためにきつい重労働をしています。しかし中国共産党政府による搾取と不当な扱いのせいで夫妻には多くの借金が残り、外国に出て働くしか選択肢がありません。さらに多くの収入を得ようと、丁瑞琳は二つの仕事を掛け持ちします。仕事の重荷と周囲の人たちの無関心は、金銭のために生きることの苦痛と無力を彼女に気づかせます。苦しみと混乱の中、彼女は高校のクラスメート林智欣と出会います。話をする中で、林智欣が神様への信仰のおかげで多くの物事を理解するようになっていたことを丁瑞琳は知ります。神様の臨在があるので霊の平和と幸福を感じ、穏やかかつ楽な状態で暮らしているというのですが、それを聞いた丁瑞琳は自分も神様を信じたいと望みます。程なく、丁瑞琳夫妻はさらに収入を増やそうとレストランの経営を引き継ぎますが、長期にわたる疲労のせいで丁瑞琳は重い病気にかかり、そのため麻痺状態に陥る危険にさらされます。病気の苦痛にさいなまれた丁瑞琳は人生について考え始めます。人は何のために生きるべきか。富や名声に自分の命を捧げる価値はあるのか。金銭は人が空虚さや惨めさから脱出する手助けをできるのか。それは人を死から救えるのか。神様の御言葉に関する姉妹たちの話を通じ、丁瑞琳は人生についてのこうした疑問にはっきりと答えを見つけることができ、人生の中で追い求めるべき一番大事なものについて知り、ついに霊の解放を見つけます。神様の御言葉にあるお導きを通じ、丁瑞琳は最後に人生における幸福を発見します…

東方閃電]全能神教会は、主イエスの再臨である終わりの日のキリスト全能神の現れと働きによって創られました。当教会は、終わりの日の全能神の働きを受け入れ、神の言葉によって征服され救われるすべての人々によって成り立っています。当教会は、全能神ご自身によって全てを創られ、全能神ご自身によって導かれ牧養されています。決して人によって創られたものではありません。キリストは道であり、真理であり、いのちなのです。神の羊は神の御声を聞きます。全能神の言葉を読めば神が現れられたのを見ることができます。


キリスト教音楽「二千年に及ぶ切望」主イエスは再臨された 日英字幕

2020-05-30 14:27:04 | キリスト教の歌

キリスト教音楽「二千年に及ぶ切望」主イエスは再臨された 日英字幕


神が肉体となる事は宗教界を揺り動かし
宗教的秩序を覆した
それは神の出現を待ち望んでる全ての人の魂を掻き立てた
この出来事を見て驚かない者がいるであろうか?
その目で神を見たいと願わない者がいるであろうか?
神は何年もの間人々と共に過ごしたが
人々はその事に少しも気付かなかった
今日 神自身が現れ
昔から持っていた人への愛を新たにした
昔の愛を新たにしたのだ

神はユダヤを去った後その足跡さえ
残さないまま 姿を消してしまった
人々はまた神を見る事を待ち望んでいたが
今ここで神と再び会うとは夢にも思わなかった
それは・・過去の記憶を呼び覚まさないか?
それは・・過去の記憶を呼び覚まさないか?
二千年前 バルヨナ・シモンはイエスと出会って
同じ食卓で共に食事をした
バルヨナ・シモンはイエスと共にいた 数年の間に
イエスへの愛を深めて心の底からイエスを愛した
神は何年もの間 人々と共に過ごしたが
人々はその事に少しも気付かなかった
今日 神自身が現れ
昔から持っていた人への愛を新たにした
昔の愛を新たにしたのだ
『言葉は肉において現れる』より

東方閃電]全能神教会は、主イエスの再臨である終わりの日のキリスト全能神の現れと働きによって創られました。当教会は、終わりの日の全能神の働きを受け入れ、神の言葉によって征服され救われるすべての人々によって成り立っています。当教会は、全能神ご自身によって全てを創られ、全能神ご自身によって導かれ牧養されています。決して人によって創られたものではありません。キリストは道であり、真理であり、いのちなのです。神の羊は神の御声を聞きます。全能神の言葉を読めば神が現れられたのを見ることができます。


戦い

2020-05-30 00:40:10 | 天の国の福音

戦い


私は張輝と申します。1993年、我が家は全員主を信じるようになったのですが、私は熱心な求道者だったので、すぐに伝道師になりました。頻繁に各地の教会を旅しては、働きや説教を行なったものです。数年後、私は仕事を辞めて主への奉仕に専念し始めました。しかしどういうわけか、兄弟姉妹の信仰と愛が徐々に冷めてゆき、同労者間の嫉妬や争いが大きくなったのです。私も自分の霊がしおれつつあるのを感じ、説教すべきこともなくなりました。2005年、妻ががんにかかり、直後にこの世を去りました。それは私にとってとてつもない打撃で、私はさらに弱くなりました。そんなある日、いとこの家を訪れたところ、全能神の国の福音を宣べ伝えている二人の姉妹と出会いました。そして数日間にわたる交わりと話し合いを経て、主イエスがお戻りになったこと、主が受肉された全能神でいらっしゃることを心から信じるようになりました。全能神の御言葉を読むことで、私の干からびていた心が潤しと糧を得て、私は聖霊の働きの甘美さを味わうとともに、それまで決してわからなかった数多くの真理と奥義を理解しました。しかし、主と再会する喜びに浸っていたまさにそのとき、サタンの試みと攻撃が私に忍び寄ってきたのです……

ある日の午後、私が霊のデボーションを実践していたところ、突然ドアをノックする音が聞こえました。ドアを開けると、私が以前に所属していた教会の李楊牧師と王軍という同労者が表に立っていました。私はすっかり驚き、首をひねりました。

「二人は何しに来たんだろう。俺が全能神を信じていることを知ったのか。以前、優れた求道者だった兄弟姉妹が全能神を信じ始めたとき、李牧師と王同労者は噂話で彼らを怯えさせ、家族をたきつけて全能神教会を無理やり捨てさせようとした。あの手この手で全能神に従うのを妨げたんだ。いま、この二人はどんな手を使って俺を邪魔しようとしているんだろう」

私は二人に挨拶し、腰を下ろすよう言いました。その直後、娘の小燕と息子の大勇も戻ってきました。私は不思議に思いました。子どもたちは仕事で本当に忙しいと言っていたのに、今日は二人とも帰ってきたのはどういうわけなのか。李牧師が来させたのか。李楊と王軍は前もって準備していたに違いない!そこで私は急いで神に祈りました。

「全能神よ!いま二人がここに来たのは、私の邪魔をして妨害するために違いありません。神よ、私の霊的背丈はあまりに低すぎます。どうか私をお導きになり、彼らに対処するのをお助けください。私は喜んであなたの証しを立ててまいります!」

祈り終えると心が落ち着きましたが、そのとき李楊が陰険な笑みを浮かべてこう言いました。

「張兄弟、君がいま東方閃電を信じていると聞いたんだが、それは本当か?東方閃電にどれだけ真理があろうと、我々には受け入れられない。張兄弟、私たちはみな長年にわたって主を信じ、主のために教えを説き、働きを行なってきた。主イエスが十字架にかけられて罪の捧げ物となり、それによって私たちを罪から贖われた事実は、私たち全員がはっきり知っている。それに主が授けてくださった豊富なお恵み、そして安らぎと喜びも私たちは享受してきた。だからいつ何時でも、主の御名と道を守らなければならないんだ。我々は別の神を信じることはできない。君が主イエスから離れて全能神を信じるのは、主を裏切ることじゃないか?」

私は穏やかに言いました。

「李兄弟、私たちは客観的かつ現実的に話し、証拠でもって自分の主張を支えなければなりません。恣意的に断罪してはいけませんよ。あなたは東方閃電の道を調べましたか?全能神の御言葉を読みましたか?あなたはそれを調べてもいないのに、東方閃電を受け入れたことで私が主を裏切ったと、どうして決めつけられるのですか?真理がどこから生じるか、あなたは知っていますか?真理を表わすのは誰かご存じなんですか?主イエスは『わたしは道であり、真理であり、命である。』(ヨハネによる福音書 14:6)とおっしゃいました。神は真理でいらっしゃいます。東方閃電にどれだけ真理があろうと受け入れるつもりはないなんて、どうして言えるのですか?それはわざと真理に抵抗し、神に抵抗することではないのですか?そんなことをするなら、私たちは主の信者に数えられるでしょうか?率直に言いますが、宗教界の牧師や長老は全能神による終わりの日の働きに公然と抵抗し、それを断罪しています。そのため私も全能神を信じ始めたとき、自分は間違っているのではないか、道に迷ってしまったのではないかと不安になりました。しかしその後、全能神の御言葉を数多く読み、それらがどれも真理で、六千年にわたる神の経営計画、3段階の働きの内幕、神が肉となられたことの奥義、聖書の真の内情といった数多くの真理を明らかにしていることがわかりました。私が長年主を信じる中で直面した混乱や困難は、全能神の御言葉を通じてすべて解決されました。神の御言葉を読めば読むほど、それが聖霊のご発言であり、神のお声だと感じられるのです。全能神が再臨された主イエスでいらっしゃること、主が私たちの前に姿をお見せになっていることを、私は固く信じています!李兄弟、それに王兄弟、全能神と主イエスは同じ神でいらっしゃいます。全能神を信じることは主の到来をお迎えすることなんです!そのことについて考えてみましょう。主イエスがおいでになって働きをなさったとき、多くの人が神殿を離れて主に従いました。当時の多数の人間が、その者どもはヤーウェ神を裏切り背教の罪を犯したのだと言って、彼らを非難したのは間違いありません。しかしいま、主イエスによる贖いの働きがヤーウェ神のなさった律法を発する働きと違うこと、そして神の御名も変わり、主イエスとヤーウェ神が一つの同じ神でいらっしゃることを、私たちは全員知っています。主イエスを信じることはヤーウェ神を裏切ることではなく、むしろ神の足跡に歩調を合わせてその救いを得ることなんです。事実、ヤーウェ神を信じながら主イエスに従わなかった人たちは、本当に神を捨てて裏切った者でした。同じことは現在についても当てはまります。終わりの日における全能神の裁きの働きは主イエスによる贖いの働きと同じではなく、神の御名も変わりましたが、全能神と主イエスは一つの同じ神でいらっしゃいます。これは否定できない事実です。恵みの時代、主イエスによる贖いの働きは人間の罪を赦しただけで、人間のサタン的な性質と罪深い本性まで赦したわけではありません。終わりの日における全能神の裁きの働きは、人間のサタン的な性質と罪深い本性を解消し、人間を完全に救い、人間がサタンの支配を捨て去って神のものとなるようにするためのものです。明らかに、これら2段階の働きは互いに補い合うものであり、進展するにつれて密接につながり、深まってゆきます。これはまさに唯一の神によってなされるのです。私が全能神を信じるのは主イエスを裏切ることではありません。小羊の足跡に歩調を合わせているのです。主を信じるだけで全能神に従うのを拒むなら、私たちはヤーウェ神を信じるだけで主イエスを拒み、神の救いを失ったパリサイ人と同じになるだけでなく、神の懲罰を受けることにもなります。これ以外に、本当に主に抵抗して裏切ることはありません!そう言えませんか?」

私の言葉を聞いた李楊が不安そのものの表情を浮かべていると、王軍がその場を取り繕おうとこう言いました。

「張長老、李牧師がこのようにアドバイスしたのはあなたのいのちへの責任感によるもので、あなたが間違った道を歩んでしまうのではないかと心配だったんですよ。あなたは長年にわたり主を信じ、一緒に主に仕えてきた。その間いろんなことがあって、それを切り抜けるのは容易なことではなかった。あなたは私たちの教会の長老で、教会の働きを数多く任されてきました。兄弟姉妹はみんなあなたのことを尊敬し、あなたを信頼しています。それなのに教会を離れて全能神を信じるなんて、みんな心からがっかりしていますよ!張長老、どうかすぐに戻ってください!」

すると李楊が話を引き取り、こう言って私を丸め込もうとしました。

「王兄弟の言うとおりだ。君は長年ずっと懸命に働いてきた。教会で築き上げてきた名声と地位を、どうして傲慢にも捨て去れるんだ?それはとんでもなく恥ずかしいことだぞ!いますぐ戻りなさい。みんなが君の戻りを待っている!私たちの教会は養老院を建てたし、それに海外の教会と関係を築いたので、そこから資金援助を受けている。戻ってくればすぐに車を提供しよう。養老院を経営するのも、教会を経営するもの、あるいはこれまで通り教会の財務を管理するのも、全部君次第だ。何でも好きなようにして構わないんだぞ!」

聞けば聞くほど何か変だと感じました。彼らが言っていることは、主の信者が言うことのようにはまったく聞こえないのです。すると聖書に記されている、悪魔サタンによる主イエスへの試みが脳裏に浮かびました。

「次に悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華とを見せて言った、『もしあなたが、ひれ伏してわたしを拝むなら、これらのものを皆あなたにあげましょう』。」(マタイによる福音書4:8-9)

彼らが言ったことはどれも、サタンが言ったこととまさに同じ気持ち、同じ口調をもつものではないでしょうか。これはサタンの試みではないでしょうか。彼らが名声や地位や富で私を誘惑するのは、私が真の道に背を向け、全能神を裏切るようにすることが目的です。これはサタンの策略なのです!私は十年以上にわたって神を信じ、ようやく主の再臨をお迎えしました。ここでサタンの策略にはまるわけにはいきません。さもなければ生きている限り後悔するでしょう。そのとき、私が彼らの狡猾なたくらみを認識できるよう、神が先に立って私を導かれていることに気づきました。そのことを考えながら、私は断固こう言いました。

「私は主の再臨をお迎えする希望を胸に、長年にわたって主を信じてきたのではないですか?いまや主はお戻りになったのだから、私の唯一の選択肢は神とともに歩むことです。これ以上私を説得しようとしないでください。もう宗教には戻りません」

その瞬間、娘が目に涙を浮かべてこう言いました。

「パパ、お願いだから私たちの言うことを聞いて!ママは最近死んじゃったし、私たちはもう十分苦しんだわ。パパが東方閃電を信じ続けるなら、私たちはこれから兄弟姉妹にどう顔向けできるっていうの?兄弟姉妹はきっと私たちのことを見捨てるわ!」

子どもたちが涙で一杯なのを見て、私は心の中で強い痛みと苦しみを感じました。そして母親を失った二人がどれほど悲しかったか、私が全能神を信じているせいでどれほど笑われ、見捨てられているかを考えました。子どもたちがこれ以上苦しみを受けるなど、私にはとうてい耐えられません。私は心の中で深く葛藤しました。李楊と王軍が提示した条件を呑んで宗教に戻れば、私たち家族は仲良く暮らせるでしょう。一方、人類を救うべく人のあいだにおいでになった、受肉された最後の神に従わなければ、私は神を裏切ることになってしまい、救いの機会を失うでしょう。私はどうするべきかジレンマに陥りました。この苦痛のさなか、私にできたのは無言で神を呼び求めることだけでした。

「ああ神よ、私はいま二つの難問に挟まれ、心が弱っています。彼らの妨害から自由になり、あなたに従う確固たる信念をもてるよう、私に信仰と力をお授けください」

祈り終えたあと、数日前に呼んだ神の御言葉の一部が頭に浮かびました。

「あなたがたは常に目を覚まし、待っていなければならない。わたしの前にて、さらに祈らなければならない。いくつも存在するサタンの企てやずる賢い策略を見極め、霊を知り、人々を知り、どのような人や物事をも見分けることができなくてはならない。…サタンのさまざまな忌まわしさがあなたがたの前に明らかになる。あなたは進むのを止めて後ずさりするのか、それとも、わたしにより頼んで立ち上がり、歩き続けるのか。サタンの堕落した醜い素性を全て露わにしなさい。情に流されたり、憐れみをかけたりすることが一切あってはならない。死ぬまでサタンと戦いなさい!」(『言葉は肉において現れる』第一部「キリストの初めの言葉」の「第十七章」より)

全能神の御言葉は私に力を与え、見抜く力を身につけなければならないことを思い出させてくれました。この日私が直面したことは、どれもサタンの欺瞞と策略に満ちています。彼らは地位と金銭と私の感情を利用することで、私を試して攻撃し、神を裏切らせようと私の心を乱しているのです。絶対にサタンの罠にはまったり、その計略の餌食になったりするわけにはいきません!そこで私は子どもたちにこう言いました。

「小燕、大勇、私は調べてはっきりさせた。全能神は真の神でいらっしゃり、その御言葉と働きは真理にして真の道なんだ。私たちは長年にわたり主の再臨を待ち望んできた。そして今日、私たちは神の足跡と真の道を見つけた。これは何より貴いことなんだよ。他人に見捨てられるのが怖いからといって、真の道を諦めることはできない。彼らが私たちを見捨て、私たちのことをそれ以上必要としなくなっても、そんなことは何も怖くない。他人が自分に背を向けても、人は常に生きられる。しかし、神を信じながら真の道を求めも調べもせず、主に引き上げていただく機会を失い、終わりの日における神の働きによって捨て去られ、淘汰されてしまえば、私たちは滅びてしまうんだ。きっと災害に遭って懲罰されるんだぞ!そうなれば私たちのいのちに何の意味がある?小燕、大勇、お前たちはわかっていない。全能神の働きを真剣に調べれば、全能神が再臨された主イエスでいらっしゃることがわかるはずだ」

私の信念が確固たるものであることを知った李楊と王軍は、何もできない苛立ちを抱えてその場をあとにするしかありませんでした。

数日後、李楊と王軍が再び我が家を訪れましたが、今回は教会に戻るよう私を促す代わりに、結婚を使って私を試そうとしました。まず李楊がこう言いました。

「張兄弟!奥さんは亡くなり、娘さんは結婚して息子さんも家にいない。君はひとりぼっちだ。君のために食事を作る人が絶対に必要だよ。私たちの教会にいる王姉妹もいま独身なんだが、彼女はかなり裕福だ。我々の教会が君たち二人を引き合わせる手伝いをするから、そうすれば一緒に主に仕えることができる。どう思う?もう少し考えてみるべきだ。教会の兄弟姉妹は、君がいますぐ戻ってくるのを願って祈りを捧げている。闇に通じる道を歩いてはだめだ!」

その夜王姉妹から電話があり、通話中ずっと教会に戻るよう私を促しました。さらに、息子の結婚費用が不足しているのであれば、10万元でも20万元でもその額を言ってくれればいいというのです……彼女がそのように言うのを聞き、またいつも私の家族に親切で、しばしば娘の面倒を見てくれたことを考えながら、私は強い感謝の念を感じました。王姉妹が親切心から私にアドバイスしてくれていることはわかっていたので、私は葛藤するとともに、彼女を傷つけることを本当に言いたくありませんでした。そのため重い心持ちでこう口にしました。

「王姉妹、あなたがいつも私の家族の面倒を見てくださったことはわかっていますし、それに感謝しています」

電話を切ったあと、心の中で戦いが繰り広げられているのを感じました。私は常に王姉妹を尊敬していましたが、今日彼女の感情を傷つけてしまい、そのことで嫌な思いをしているのです。しかし神のご加護が、彼女の言葉に誘惑されて全能神を裏切ることから私を救ってくれたのでした。

ある日、私が畑仕事をしていたところ、李牧師が私を見つけてこう言いました。

「張兄弟、自分のことを考えなくても、お子さんたちのことを考えなければいけないよ。大勇くんは婚約したばかりだし、婚約者のご家族は全員主を信じている。君が全能神を信じているとわかれば、それでも君の家族に嫁がせるだろうか。そんなことになれば、大勇くんの結婚の計画が滅茶苦茶にはならないか?もっとよく考えるべきだ」

李牧師の言葉を聞いた私はこう思いました。

「俺を教会に連れ戻すために、こいつらは息子の結婚まで利用して俺を脅している。終わりの日における神の働きを受け入れることと子どもの結婚との間に何の関係があるっていうんだ。それに、息子と婚約者はとても愛し合っている。俺が全能神を信じているからといって、どうして結婚しないことがあるだろう」

そこで、私はごく穏やかな口調でこう答えました。

「息子が結婚できるかどうかはすべて神の御手の中にあって、全能神に対する私の信仰とは関係ありません。全能神は再臨された主イエスでいらっしゃると判断したんですから、私は最後まで従います。子どもたちはまだこのことを理解していないし、我々の間には誤解もあります。ですが、いつか私のことを理解してくれるでしょう」

ある日のこと、息子が働いている電気溶接所に出かけてみると、彼は一日中ベットに横たわるばかりで働いていませんでした。そのため私は首をひねり、いったいどうしたのかと息子に訊きました。すると息子は憂鬱そうな顔を浮かべ、低い声でこう言ったのです。

「父さん、婚約者から電話があって、父さんがどうしても東方閃電を信じるなら結婚しないって言うんだ」

これを聞いた私は強いショックと怒りを感じました。

「李楊たちは俺が全能神を信じていることを憎んでいるのだから、俺を攻撃するだけで十分じゃないか。息子の結婚という大事なことを使って俺を脅そうとするなど、いったいどういうことなんだ」

息子がすっかりしょげているのを見て、私はつらくなり、目に涙が溢れてきました。すると息子は続けました。

「父さんが教会に戻らず、それでも僕が結婚を望むなら、3つ約束してほしいとも言うんだよ。まずは親子の関係を終わらせること。次に父さんが歳をとっても面倒を見ないこと。そして父さんと完全に絶縁すること。父さん、頼むから家族のために教会へ戻ってきてくれ」

息子の言葉がナイフのように私の心を突き刺し、私はこう考えました。

「俺が真の道を信じているというだけで、連中は息子に俺との縁を切るよう強制している。真の道を信じるのがこんなに難しいのはどうしてなんだ」

私は涙をこらえて息子にこう言いました。

「息子よ、父さんは全能神を信じなければならない。だが、婚約者の要求には従おう。今後はもうお前をこの件に巻き込まない。一緒に幸せな人生を送ってくれ」

私はそう言って息子に背を向け、作業場をあとにしましたが、通りを歩きながら涙をこらえることができなくなりました。そして家に着くと床にひざまずき、大声で叫びました。

「ああ、全能神よ!私はとてもつらいです!神よ、これが真の道であり、あなたがおいでになったことを私は知っていますので、あなたに従わないわけにはいきません。しかし終わりの日のあなたの働きを受け入れてからというもの、人々がわたしに嫌がらせを加え、いまは息子さえも親子の関係を終わらせようとしています。ああ、神よ!私の霊的背丈はあまりに低すぎ、自分一人ではとてもこれを乗り切れません。私がしっかり立てるよう、どうか私をお導きになり、信仰をお与えください……」

祈り終えたあと、私は讃美歌の本を開いて次に挙げる神の御言葉の讃美歌を読みました。

「苦難に直面した時、肉のことを考えず、神に対して不平を言わずに居ることが出来なければならない。神があなたから自身を隠している時は、あなたは神に付き従う信仰を持ち、以前の愛が揺るいだり、消え去ったりすることがないように維持出来なければならない。神が何を為そうが、神の意図に従い、神に対して不平を言うよりも、自らの肉を進んで呪わなければならない。あなたは、試練に直面する時、たとえ自分が愛するものと訣別する未練や苦い涙があっても、神を満足させなければならない。ただこれのみが真の愛、真の信仰と呼ぶことができる。」(『小羊に従って新しい歌を歌おう』の「完全な者とされるには」より)

神の御言葉を読んでいると、神が私を慰め、励まし、私に力を与え、私がその御心を理解できるようにしてくださるのを感じました。どんな逆境や試練が降りかかろうと、私が神にすがり、神への信仰を守り、神を裏切らないことを、神は私に期待されているのです。そして何度もやって来ては、私にますます嫌がらせして圧力をかけた、以前の教会の同労者のことを考えました。しかし深い苦しみの中に置かれるたび、心から神に祈ってすがりさえすれば、神の御言葉がいつも私を啓いて導き、私に力を与えて実践すべき道を示してくれました。神がいつもそばにいらっしゃるので、私は孤独などではないのです。その瞬間、心に力が蘇り、神に満足していただけるよう、進んで苦痛に耐えて自分が最も大事にしている物事を捨てようと思いました。神を裏切って引き返すつもりは絶対にありません。

翌日、私は我が家を訪れた全能神教会の高姉妹と張姉妹に過去数日間の出来事を話しました。すると高姉妹が「兄弟、あなたに降りかかったそれらの出来事について、どうお考えですか」と訊くので、私は一瞬考えてからこう答えました。

「最初、李牧師たちは全能神による終わりの日の働きを調べておらず、理解もしていないけれど、私のためを思ってそうしているのだと思っていました。しかし、息子の結婚という大事なことを使って私を脅そうとするなど、考えもしませんでした。私にはとても受け入れがたいことです」

すると高姉妹はこう言いました。

「兄弟、神の御言葉の一節を読んでみませんか?全能神はこうおっしゃいました。

『神が人々に対して行う働きのあらゆる段階で、物事があたかも人の手配で生まれたかのようであり、あるいは人の干渉から生まれたかのようであり、外面的には人々の間の相互作用のように見えるかもしれないが、舞台裏では、働きのあらゆる段階、起こるすべてのことは、神の面前でサタンが作った賭けの対象であり、人々は、神に対する証しにしっかりと立つことが要求される。ヨブが試練に会った時のことを例にとってみよう。秘かにサタンは神と賭けをしており、ヨブに起こったことは人間の行為であり、人間による干渉であった。神があなた方に対して行うすべての段階の背後にはサタンと神との賭けがある――その背後にはすべて戦いがある。…。人が行うすべてはその人が一定の代償を努力で支払うことを要求する。実際の苦難がなければ、人が神に満足してもらうことはできないし、神に満足してもらうことに近づくことさえなく、空虚なスローガンを吐き出しているに過ぎなくなる。』 (『言葉は肉において現れる』の「神を愛することだけが本当に神を信じることである」より)

神の御言葉は、霊の世界で繰り広げられている戦いの真相を明らかにしています。こうした出来事に遭遇すると、表面上は宗教の指導者たちが私たちに嫌がらせをしているように見えますが、実際には霊の世界で戦いが繰り広げられているのであり、人間を巡ってサタンが神と争っているのです。事実、宗教の教派を率いる指導者の多くは、全能神の表わす御言葉は真理だと心の中で認めていますが、神が終わりの日に御言葉を通じてなさる裁きの働きが、自分の観念や想像とまったくかけ離れており、単に祝福されて天に引き上げていただくという自分たちの夢を打ち壊すものであるため、神の新しい働きにしつこく反対し、それを受け入れるのを拒んでいるのです。そのうえ彼らは、さらに多くの人が全能神の働きを受け入れれば地位と生計を失ってしまうと恐れ、あの手この手で人々に強要し、彼らが全能神に立ち返るのを止めるとともに、真の道を諦めて神を裏切るように仕向けています。実のところ、彼らは霊の世界におけるサタンの化身であり、人々が神に立ち返るのを妨げているのは、実際にはサタンが人々を呑み込もうとしているのです。彼らの行動と振る舞いの裏にある意図や動機を見抜けさえすれば、彼らの本質を徹底的に理解することができます。ヨブが試練に晒されていたとき、人々の肉眼には、盗人がヨブの財産を持ち去っているように見えていました。しかし、霊の世界ではサタンと神が賭けをしていたのです。当時、霊の世界で戦いが繰り広げられていることをヨブは知りませんでしたが、彼はその苦痛を残らず受けることを選び、神を責めるどころか自分が生まれた日を呪いさえしました。それでもヨブはヤーウェの御名を讃えて神の証しを立て、かくして悪魔サタンに恥をかかせて神の賞賛を勝ち取りました。サタンに囚われているいま、私たちは強要され見捨てられる苦痛に苛まれ、つかの間の肉の享楽を失いましたが、真の道から離れず、神の証しを立ててその賞賛を得てきたのです。私たちが被ってきた苦痛はかくも価値あるものなのです!」

全能神の御言葉と姉妹の説く教えを聞いて私は心が明るくなり、こう言いました。

「そう、私はそれまで無知で、以前の教会に属する同労者たちの実質を完全には理解していませんでした。彼らは私のためを思って行動していると思っていたのです。今日初めて、彼らが現実世界のサタンだということがわかりました。この交わりを通じてようやく、霊の世界で繰り広げられている戦いの真の状況について、多少の洞察を得られたのです。私はいまだ真理を理解しておらず、依然として完全にわかっていないこともありますが、この過程を通じ、神が私を導き守ってくださっていること、そのすべてが私に対する神の祝福だったことを自ら経験しました」

それを聞いた二人の姉妹は喜びも露わにこう言いました。

「心から神に感謝いたします!彼らが再びあなたに嫌がらせをしに来たら、もっとお祈りなさい。そうすれば、神にすがることでサタンを打ち負かせます!」

私は信仰で一杯になり、姉妹の言葉にうなずきました。

ある朝、以前の教会の同労者数名が再びやって来たので、私は信仰と知恵と勇気を授けてくださるよう、心の中で急いで神に祈りました。すると李牧師が間髪入れずにこう言って私を脅しました。

「張兄弟、君が東方閃電を離れなければ、我々の教会は君を見捨て、我々の兄弟姉妹とこれ以上接触するのを許さないぞ」

私はこう言い返しました。

「見捨てたければ好きにすればいいでしょう。しかし、教会にいる千人以上の兄弟姉妹のいのちにはちゃんと責任を負ってもらいたい。主がお戻りになったことを受け入れなくても、兄弟姉妹が真の道を調べて受け入れるのを妨げてはいけません。教会の現状をご覧なさい。兄弟姉妹は弱気になって打ちひしがれているではありませんか。仕事を探しに別の地へ行った人もいれば、教会を離れてもはや主を信じていない人もいます。それに、悪霊に取り憑かれた例も数多く存在しています。教会は明らかに主のご配慮とご加護を失ってしまったのです。それに、私たち伝道師の状況に目を向ければ、私たちの説教に新たな光はこれっぽっちもなく、退屈な古い物事ばかりを宣べ伝え、兄弟姉妹はまったく糧を施されていない。これは反省して深く考える価値のあることではないですか?物事の真相を見つけようとするのは無価値なことなんですか?」

ここまで言ったところで気持ちが乱れ、私は心から一同にこう言いました。

「ここにいる我々はみんな教会の主要な同労者だ。だから次のことをしばらく考えてみるといいだろう。我々は一日中、主の信者を牧養することについて話し合っているが、主がお戻りになって新たな働きをなさり、新たな御言葉を発せられてきたというのに、それを求めることも調べることもまったくしていない。それに、兄弟姉妹が神の御言葉による潤しと施しを受け入れるように導いてもいない。その代わり、兄弟姉妹が真の道を調べるのをありとあらゆる手を使って防いでいる。我々はそうすることで、兄弟姉妹を宗教に縛りつけ、そのせいで彼らが渇きと疲労で死ぬようにしているんじゃないか?このようなことをできる人間はよき召使いだろうか、それとも悪しき召使いだろうか。こうした行為の結果がどんなものになるか、君たちは考えたことがあるのか」

まさにそのとき、李牧師が怒りも露わにこう言いました。

「我々が今日君の家に来てこれを言ったのは、君のためを思ってのことだ。それなのに、君は我々に説教するのか!」

私は義の力に駆られて答えました。

「あなたたちは全能神教会に真理があることを完全によく知りながら、何度も何度も私に嫌がらせをしに来た。そして私がそれを受け入れることも、いのちを得ることも許そうとしない。あなたたちが言う『あなたのためを思って』とはどういうことなんだ?あなたたちは私についての噂を広め、私と子どもたちとの間に不和の種を蒔き、息子が我々の親子関係を終わらせるように仕向けた。これがあなたたちの語る愛なんですか?これらのたくらみを考え出すことで、本当に私のためを思っているつもりですか?それとも隠れた動機があるんですか?」

私がこう言うのを聞いた李牧師は表情を一変させ、怒りを剥き出しにして「何が自分のためになるか、お前は知らないんだ!」と怒鳴りました。私はそれに対し「これからは別の道を歩みましょう。私のいのちは神が責任を負ってくださるし、あなたたちに心配してもらう必要はない!」と叫び返しました。李楊たちはこれを聞いて意気消沈した様子でその場をあとにしました。その日以降、私に嫌がらせをしに来る人はいなくなりました。

この霊の戦いを経験したあと、私はサタンの策略を多少は見抜けるようになり、宗教界の指導者たちの神を拒む本質についてもすっかり理解しました。私は二度と宗教の悪しき勢力に縛られず、ようやく解放されて自由に全能神に従えるようになったのです!

張輝 中国

 


私はいかにして愚かな乙女になりかけたか

2020-05-28 19:59:11 | 天の国の福音

私はいかにして愚かな乙女になりかけたか


 2002年秋、真理教会という私の教派に所属する趙姉妹が姪の王姉妹を連れて我が家を訪れ、主の到来という素晴らしい知らせを伝えてくれました。数日間にわたって全能神の御言葉を読み、王姉妹による詳細な交わりを聞いたあと、創世から現在に至るまで、神は人類を救われるべく3段階の働きをなさってきたことがわかりました。他にも、働きの各段階で神がそれぞれ異なる御名を名乗られたこと、各時代における神の御名の意義、神の受肉の奥義といった真理も知るようになりました。これらの真理は本当に私の目を大きく開いてくれました。私は大いに楽しみながらそれらを読み、こう考えました。「この道はとても明瞭に聞こえるし、全能神はきっと再臨なさった主イエスに違いない。だからこの機会をしっかり捉えて全能神の御言葉をもっと読まないと」立ち去り際、王姉妹が神の御言葉の本を何冊か置いていってくれたので、私は日中暇があるたび神の御言葉を読みました。読めば読むほどそれを楽しむようになり、本当に神の御言葉だとますます強く感じました。その三日後、私は不安になって考えました。「同じく信者である息子も、私の教会にいる多くの兄弟姉妹も、主の再臨に関するこの素晴らしい知らせをまだ知らない。急いで伝えたほうがいいわ」

 翌日の早朝、私は息子の家に出かけて弾んだ声で言いました。「これは本当に素晴らしい本よ。できるだけすぐ読むべきだわ」 息子は私を一瞥してこう訊き返しました。「何の本? とても嬉しそうだけど。時間があるときに目を通すからそこに置いといてよ」私はそれを聞いて、信者はみな主の再臨を楽しみにしているのだから、主がすでにいらっしゃったと知れば息子もきっと喜ぶはずだと思いました。

 ところがそれから3日後、まったく予想もしなかったことに、息子が6名の人を連れて私の家に来ました。その1人は私の教派の夏牧師で、他の5人は息子の教派の牧師と説教師です。私は一同を見ていささか驚きました。何が目的なのか、どうしてこんなに多くの人が私に会いに来たのか、見当もつかなかったからです。李という名字の牧師が一瞬私をじっと見たあと、心配そうな表情を浮かべてこう言いました。「お母さま、私たちはみな主の信者、1つの大家族です。息子さんから聞きましたが、誰かから本をもらったようですね。しかしそれを読んでは絶対にいけません。いまは終わりの日であり、主イエスはこうおっしゃいました。『そのとき、だれかがあなたがたに『見よ、ここにキリストがいる』、また、『あそこにいる』と言っても、それを信じるな。にせキリストたちや、にせ預言者たちが起って、大いなるしるしと奇跡とを行い、できれば、選民をも惑わそうとするであろう。』(マタイによる福音書24:23-24)主イエスのこの御言葉は、主が戻られたと言う者は詐欺師であり、それに用心して耳を傾けてはいけないという意味だと、私たちは信じています。現在、主の再臨を公然と証ししているのは全世界で東方閃電だけです。なので何をするにしても、彼らとこれ以上関わってはいけません。東方閃電の本も読まないように。彼らの道は私たちの信仰とは違っているので、耳を傾けてはいけません。あなたは聖書をよく理解しておらず、霊的背丈も低いので、簡単に騙されてしまいます。私たちは何年も教えを宣べ伝えており、聖書をよく理解しています。中国全土を旅して多くの物事を目の当たりにし、いのちがより成熟しているのです。今日、私たちはあなたを救うべく特にここへ来ました。だから私たちを信じ、自分で判断しようとしてはいけませんよ」 私はそれを聞いてこう考えました。「この牧師は私を心配しているようだし、言ったことも間違っていない。私は老婆で大した教育も受けていないし、聖書もそんなによく理解していない。この人たちのように見分けるなんてとてもできないわ」 このとき、夏牧師がこう言いました。「私は牧師で、主から信者たちの取り扱いを任されています。つまり、あなたが真の道から外れないようにすることが私の責任なのです。主の信者たちの世話をしなければ、主に申し開きができません。姉妹、このような他の集団と付き合ってはいけません。東方閃電の手であなたが私たちから奪われてしまえば、主を信じてきた年月がすべて無駄になるんですよ」 一同の緊張した表情と、私に語りかける深刻な口調のせいで私は少し怖くなり、こう思いました。「そうだわ。間違った信仰を始めてしまえば、いままでの信仰の年月が無駄にはならないかしら」 しかし、そこでこんな考えが浮かびました。「あの本の御言葉はとても素晴らしく、まったく正しいように思えた。これらの牧師や説教師は全能神の御言葉をまだ読んでいない。だったら、それは真の道ではないとどうして言えるのかしら」 そこで私は一同に言いました。「あなたたちがそうおっしゃるからには正しいのでしょう。けれど、私があの人たちから聞いたことは、聖書にある主の御言葉と完全に一致しているんです」 それを聞いたとたん、みんな一斉に口をひらき、私を脅かすようなことをいくつも言ったので、私は目まいがして混乱し、大いに感情が乱れました。その場に座ったまま何も言うことができません。すると一同は私に、自分たちと一緒に祈って東方閃電を呪わせようとしました。ところが、私がそれに従わなかったので、またも私を脅し始めました。最後に息子が「母のことは僕に任せてください」と言って、戸棚から賛美歌の本2冊と『子羊に従って新しい歌を歌おう』のカセットテープ、それに『裁きは神の家から始まる』という神の御言葉の本を取り出し、牧師に渡しました。

 一同が去ったあと、私は動揺のあまり食事を口にすることもできなかったので、主の御前に出て祈りました。「主イエスよ、あの牧師たちが言ったことは本当でしょうか、それとも違いますか。彼らは心から私のいのちを心配してくれているようです。彼らに耳を傾けなければ、私は自分の信仰を間違った場所に置くことになるのでしょうか。ああ主よ、あなたが本当に全能神としてお戻りになっているのに、私があなたを受け入れなければ、あなたに扉を閉じることにはならないでしょうか。私は単に愚かな乙女の1人ではないでしょうか。ああ主よ、ここ数日のあいだに全能神の御言葉を読むことで、私の霊が多くの施しを得たような気がしています。本当に心からそう感じているのですが、私は間違っているのでしょうか。賛美歌の本とカセットテープを持って行かれたので、本当に悲しくどうすべきかわかりません。どうか道をお示しください…」 祈ったあと、王姉妹が全能神の御言葉の本をもう1冊くれたことと、それを戸棚の奥に隠しておくよう言っていたことを突然思い出しました。その本がまだ手元にあることに気づいたとき、ほんの少し気分がよくなりました。しかしあの牧師たちが言ったことを思い出し、どうすればよいか途方に暮れたままでした。あの本を読むべきか、それとも読まないべきか。その夜は心が乱れてほぼまったく眠れませんでした。私は涙を流しながら、何度も何度も神に祈ったのです…

 翌日の早朝、息子が我が家に来て、私が以前所属していた教会の集会に連れて行こうとしました。私はためらいましたが、息子は集会の場所に私を引っ張っていくと、牧師の1人に「母は東方閃電に盗まれた」とまで言って、なんとしても引き留めてほしいと頼みました。次の瞬間、その牧師と兄弟姉妹全員が私を囲みました。そして牧師は私の手を握ると、穏やかな声でこう言いました。「お母さま、何をするにしても、他の人の説教に耳を傾けてはいけませんよ。間違った信仰を始めてしまうと、主がいらっしゃって信者たちを引き上げられるとき、あとに取り残されてしまうわ。そうじゃありませんか。あなたは霊的背丈が低いので、誰かから何かの本をもらったら、まずは私たちに相談したほうがいいですよ。あなたのために確かめてあげますから……」 兄弟姉妹も私にとどまるよう説得したので、私はその「愛」に感動して涙を流しました。私が感動しているのを見た一同は、こう言って再度念を押しました。「東方閃電の誰かが再びあなたを訪ねてきても、家に入れてはいけません。これ以上彼らと関係してはいけません」 私はそれを聞いてうなずきました。

 それからわずか数日後、王姉妹が私に会いに来ましたが、私はこう言いました。「牧師が聖書のこの一節を私に読んでくれたんです。『そのとき、だれかがあなたがたに『見よ、ここにキリストがいる』、また、『あそこにいる』と言っても、それを信じるな。にせキリストたちや、にせ預言者たちが起って、大いなるしるしと奇跡とを行い、できれば、選民をも惑わそうとするであろう。』(マタイによる福音書24:23-24)終わりの日には偽キリストが現われます。主はもうお戻りになったと言う人はみな詐欺師なんです。私は聖書を理解していなくて霊的背丈も低いから、簡単に騙されてしまいます。他の道に耳を傾けようとは思いませんし、だからあなたを家に入れるつもりもありません。もう来ないでください」 すると王姉妹は誠実そのものの口調で言いました。「主イエスがそうおっしゃったのは、私たちが終わりの日に偽キリストから確実に身を守るようになさるためです。しかし、キリストからも背を向けよという意味ではありません。偽キリストがいるのはすでに真のキリストが現われたからであり、真のキリストがいなければ詐欺師も真似しようがないからです。主イエスのその御言葉は、見分け方を学ばなければならないことを私たちに伝えているのであって、終わりの日に偽キリストが現われるからといって、主の再臨の福音に耳を傾けてはならないと言っているわけではありません。そうでなければ、どうやって主の再臨をお迎えできるでしょう。実際のところ、主イエスは偽キリストの特徴をすでにはっきり述べられています。そのおもなものは、しるしを見せること、奇跡を行なうこと、病人を癒やして悪霊を追い出すこと、主イエスがすでになさった働きを真似て人々を騙すことです。なので、終わりの日に主イエスを真似て悔い改めの道を説く人、いくつかの単純なしるしを見せたり、病人を癒やして悪霊を追い出したりする人はみな偽キリストです。全能神、つまり終わりの日に肉をまとわれ再臨された主イエスは、主イエスがすでになさった働きを繰り返されることはなく、主イエスによる贖いの働きを土台として新たな働きをなさいます。全能神は恵みの時代を終わらせて神の国の時代をお開きになっており、真理を表わされるとともに、人類を裁いて清めるという働きの一段階をなさいます。全能神は人々の罪深い本性の束縛を一掃し、サタンの闇の権力から人々を解放なさることで、すでに贖われながらいまだ罪の中に生きる人を残らず完全に救われます。それから人類を素晴らしい最後の終着点へとお連れになるのです。この働きを行なえるのは神ご自身だけであって、偽キリストは誰1人としてそれをすることができません」 姉妹の言うことはもっともだと思えましたが、牧師から言われた言葉が頭の中でまだ渦を巻いていました。心が乱れて集中できず、彼女の交わりをこれ以上聞きたくなくなりました。そこで彼女を追い払おうと、用があって隣のお宅に出かけなければならないと嘘をつきました。その後も王姉妹は私の家を何度も訪れましたが、私はいつも彼女を避けました。近所の人は「悪い人には見えないけど、何が怖いの」と言っていましたし、私も王姉妹はいい人だと内心わかっていましたが、自分の霊的背丈が低いせいで間違った信仰をもつのが不安だったのです。

 再びもとの教会での集会に出席してみると、説教師たちは以前と同じことを説教していました。東方閃電からこのように身を守りなさいとか、教会に寄付しなさいとかいうことを話し、自分たちがどれだけ主のために働いて苦しんだか、主のお恵みをどのくらい享受してきたかなど、いつもの退屈な話を繰り返すだけだったのです。新しい光があることは何一つ口にしませんでした。私はすぐにこれ以上聞くのが嫌になり、うとうとしてしまいました。あるとき、別の教会の兄弟が説教をしに来たのですが、それも自分が主の働きを行なうためにどれほど浮き沈みを経験したか、どれだけ苦しんできたか、福音の伝道を通じてどれほど多くの人を転向させたか、どれほど多くの教会を建てたかなど、まったく同じ話ばかりでした。その人はひたすら自慢ばかりしていたのです。その話を聞いているととても不快に感じ、この人は主ではなく自分の証しをしているに過ぎないと思うようになりました。また別のときには、私が集会の場所に着くやいなや姉妹の1人に、「今日は20代の女性の神学生が説教をしてくれるんですよ」と教えられました。私はそれを聞いてとても嬉しくなり、説教師よりも素晴らしい説教をしてくれるはずだから、今回は特に注意して聞かなくてはと自分に言い聞かせました。ところがその学生は東方閃電からの身の守り方という話で説教を始めたあと、16歳のときに神学を学ぶべく普通の教育を捨てて神学校に入ったこと、雨天にもかかわらず外で働き苦しんだこと、どれほど多くの場所へ行ったかなどを話し続けたのです。私は聞けば聞くほどうんざりしてこう考えました。「新しい酒袋に古い葡萄酒を入れるとはまさにこのことだわ。どうしてみんな、同じようなつまらない話ばかりするのかしら。そのどれも主の御言葉にまつわる経験や知識とは関係ないし、私たちが主の道に従ったり、主の御言葉を実践してそれに入ったりするよう導いてもくれない」 私が集会に戻ってもう1ヵ月以上経っていましたが、そこからは何も得ていませんでした。そこでの説教に耳を傾ければ傾けるほど、私の霊はますますしおれ、このような形で信じ続ければ霊が乾きと飢えで死んでしまうだろうと思いました。どこに行けばいのちをひとかけらでも得られるでしょうか。それについて考えれば考えるほど、私は動揺しました。

 集会のあと、私は重い心持ちで家路につきました。王姉妹からもらった『裁きは神の家から始まる』という本のことが頭に浮かびましたが、そこには、人は傲慢であったり自分を賞揚したりしてはならず、神を偉大なものとして讃え賞揚しなければならないと記されていました。しかしあの説教師たちはみな自分の証しをし、他の何にもまして自分を讃え、他人が自分を仰いで崇拝するようにしています。私にはその本に書かれていることが正しいように思えました。そこでその晩、一人で家にいるとき、『裁きは神の家から始まる』を取り出してその中身を読みました。すると読むほどに心が舞い上がり、これらの御言葉は自分のいのちの糧かもしれないと実感しました。また、私たちの牧師がこんなに素晴らしい本を読ませないのはなぜなのかと首をひねりました。私たちのいのちに責任を負っているということを私たちの牧師はよく口にしますが、説教の中でいかに自分の証しをするかだけしか知らないらしく、どのようにいのちを得るかなど話したことはありません。自分がとても弱って教会の集会に行きたくなかった時期のことを思い出すと、牧師が私のもとを訪れたり、手を差し伸べたりしたことなどありませんでした。それなのに、私が全能神の御言葉を読んで霊の糧をいくらか得始めるやいなや、私のところに姿を見せてもとの教会に引っ張っていき、以前と同じ話を繰り返し聞かせたのはどういうことでしょう。そんなのは私のいのちに責任を負っているとは言えません。そのとき突然、自分がいかに間違っていたかに気づき、私は自分を激しく責めました。全能神の御言葉は私のいのちに糧を施すことができましたが、そのことはまさに、それらの御言葉が神から来たものに違いないということを意味しています。牧師が言ったことを信じて真の道の考察を諦めるなど、私はなんて愚かで盲目だったのでしょう。また、私が神による終わりの日の救いを得られるよう、王姉妹がいつも愛情深く私を支え、終わりの日の神の働きを証ししてくれたことを思い出しました。しかし私は王姉妹に冷たくあたり、何度も彼女と会おうとさえしなかったのです。私は彼女を敵として扱うべきではありませんでした。そのことを考えるととてつもなく悲しくなり、神の御前に出て涙ながらに悔い改めの祈りを唱えました。「主よ、私は神の御言葉の本をくれたあの姉妹を敵として扱い、彼女に背を向けてしまいました。それは1人の人間に背を向けていたのではなく、実はあなたの救いを拒んでいたのです。主よ、私はいま、あの牧師たちの言うことに耳を傾けて、神による終わりの日の働きの考察を諦めるべきではなかったことを知っています。あなたに悔い改めたいのですが、どうしたら王姉妹を見つけられるかわかりません。どうかお助けください……」 祈り終えたあと、私は再びその本を手にして夜遅くまで読みました。読めば読むほど素晴らしい内容だと感じ、全能神の御言葉を読ませようとしなかったあの牧師たちを蔑むようになりました。

 私の祈りを聞いてくださった主に感謝いたします。翌日の正午ごろ、私が昼食をとっていると王姉妹が自宅に姿を見せました。私は最後に会ってからの出来事を残らず彼女に話しました。宗教の中で糧を得られなかったことを聞いた彼女は全能神の御言葉の一節を読んでくれました。「神はこの事実を成し遂げる。彼は全宇宙のすべての人々を彼の前に迎え、地上の神を礼拝させる。他の場所での神の仕事は終わり、人々は真の道を求めなければならなくなるだろう。それはヨセフのようだ。みな食べ物を求めて彼のもとを訪れ、頭を垂れた。彼は食べ物を持っていたためである。飢饉を避けるために、人々は真理の道を求めなければならない。宗教界全体が深刻な飢餓に苦しみ、今日の神のみが、人の喜びのために提供される、枯れることのない生ける水の泉であり、人々は彼のもとに来て彼を頼るだろう。」(『言葉は肉において現れる』の「千年神の国は訪れた」より) 次いで姉妹は次のように教えを説いてくれました。「神は生きた水の源泉でいらっしゃり、神だけが人のいのちを供給できます。人が神から離れるとすべてが暗くしおれてしまうのであって、それはまさに木の幹から切り離された枝と同じです。私たちは神を信じる中で、子羊の足跡にしっかり従い、神が現在なさっている働きを受け入れ、神の御前に出なければなりません。そうして初めて聖霊の働きと、神の生きたいのちの水による糧と施しを得られるからです。宗教の牧師や長老の話を聞いても糧を得られないのはなぜですか。それには2つの理由があります。1つは、それらの牧師や長老が主の戒めに従わず、主の御言葉を実践しないからです。本当のいのちの経験も神に関する真の知識もなく、まして神を畏れる心などありません。働きや説教の中で神を賞揚することも、神の証しをすることもまったくないのです。いつも自分を賞賛しては、自分の証しをしています。主の道から完全に逸れることで、人を惑わす典型的な偽の羊飼いになったのです。彼らが聖霊に嫌悪されて拒まれ、その啓きと導きを決して得られないのはそれが理由です。そして宗教界がここまで荒廃しているのもそれが主な理由なのです。もう1つの理由として、主イエスがもうお戻りになって新しい時代の働きをなさっていることが挙げられます。聖霊が恵みの時代の人々になさった働きはすでに引き下げられ、いまは神の新たな働きに歩調を合わせる人々の集団に対してなされています。しかし牧師や長老は神の新たな働きをまったく調べず、神の足跡に従ってもいなければ、神の導きを受け入れてもいません。それとは逆に、神による終わりの日の働きに狂ったように抵抗してそれを断罪し、全能神、すなわち終わりの日のキリストを中傷、冒涜しています。信者が真の道を調べて神に立ち返るのを、ありとあらゆる手を尽くして妨げ、そうして主を十字架につけたパリサイ人のようになってしまったのです。彼らはすでに神によって断罪され、取り除かれているので、聖霊が彼らに働きをなさる術はありません。なので、私たちがいのちの糧を受けたければ、聖霊の現在の働きに歩調を合わせ、神がいま表わされている御言葉を受け入れ、全能神、すなわち終わりの日のキリストによる導き、施し、牧養を受け入れなければならないのです。それによって主イエスのおっしゃった次の聖句が成就されます。「わたしは道であり、真理であり、命である。」(マタイによる福音書 14:6)「しかし、わたしが与える水を飲む者は、いつまでも、かわくことがないばかりか、わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が、わきあがるであろう。」(マタイによる福音書 4:14)

 神の御言葉に関する王姉妹の説教を聞いた私は、宣べ伝える価値のあるものが牧師や長老や神学者にないのはなぜなのか、突如として気づきました。その人たちには真理がないのです。神に抵抗しているので、聖霊はとうの昔に彼らのもとを離れました。彼らが説教するときは頭脳的な知識に頼るばかりで、聖霊の啓きはありません。彼らの説教が誰にも益をもたらさないのはそれが理由です。しかし私にはまだわからないことがあったので、王姉妹にこう尋ねました。「牧師や長老は口を揃えて、自分は聖書に精通しているとか、神学校に行って多くのいのちを自分のものにしたとか言っています。私は聖書をそれほど理解していないし、彼らが本当に私よりもいのちにおいて成熟していると信じていました。だから彼らの話に耳を傾けたんです。なのでいま、彼らが本当に多くのいのちを自分のものにしているのかどうか判断がつきません。姉妹、彼らは本当に多くのいのちを自分のものにしていると思いますか」 すると王姉妹はこう答えました。「いのちを自分のものにしていると証しできる人はいません。それはひとえに神の御言葉によって決まります。いのちを自分のものにしているとはどういう意味ですか。具体的にどのようなことが現われていなければなりませんか。主イエスは「わたしは道であり、真理であり、命である。」(マタイによる福音書 14:6)とおっしゃいましたし、全能神はこうおっしゃっています。「あなたが現実性を自分のものにしているかどうかは、あなたが言うことにではなく、あなたが実際に生きることに基づいている。神の言葉があなたのいのちとなり、あなたの自然な表現となる時、それは初めて現実性と見なされ、また、あなたが理解と真の器を自分のものにしているものと見なされる。あなたは長期にわたる試みに持ち堪え、神があなたに要求する人間像を実際に生きることができなければならない。それは単なる身振りではなく、あなたから自然と滲み出るものでなければならない。その時初めて、あなたは真に現実性を得、いのちを獲得することになるのである。」(『言葉は肉において現れる』の「真理を実行に移すことだけが現実性を有することである」より)「なぜ多くの人にはいのちがないと言われるのであろうか。それは彼らが神を知らず、従って彼らの心には神はなく、いのちがないと言われるのである。」(『言葉は肉において現れる』の「神を知る者だけが神に証しを立てることができる」より) 神の御言葉から、キリストは真理であり、道であり、いのちでいらっしゃることがわかります。真理は人のいのちとして機能することができるので、真理を得るのはいのちを得るのと同じことです。そしていのちを自分のものにしているとは、その人が真理を得て神を知っていることを指し示しています。真理を理解せず神を知らない人には神を畏れる心がなく、神の御言葉の現実を生きることができません。これは、その人がいのちを自分のものにしていないことを意味しています。神の御言葉を自分のいのちとしてもっていなければ、その人は依然として自分本来のサタンの害毒によって生きています。そのような人は傲慢、自惚れ、利己心、卑劣、不実、狡猾といった、自らの堕落した性質をしばしば露わにします。さらに、たとえ神を信じているとしても、依然として神を畏れることも、悪から離れることもできません。しばしば嘘をつき、騙し、罪を犯し、神に抵抗するのです。そのような人がいのちを自分のものにしている人だとどうして言えるでしょう。彼らがいのちを自分のものにしていると言ったところで、それは以前と同じ肉のいのち、神に反抗するという堕落した性質に満ちているサタン的ないのちに過ぎず、神の御言葉を経験して真理を得ることから生じる、新しいいのちではありません。したがって、牧師や長老が聖書に通じ、聖書や神学理論の知識をもっていたとしても、神を知り、神を畏れ、真理を理解して聖霊の働きを有していることを意味するわけではないのです。さらに、彼らが主の御言葉を実践している、あるいは主に従っていることを意味するものでは決してありません。それどころか、彼らが普段から自分を賞揚して自らの証しをし、いつも信者に自分を崇拝させようとしているのを、私たちは目にしています。彼らはサタンらしさを露わにし、それを生きています。傲慢で自惚れていて、神への畏れがなく、人を欺こうと偽善を装っているのです。彼らは働くにしても説教するにしても、主の御言葉に関する真の知識や、人々の益になる実際的な経験を語ることができません。たとえ何年彼らに耳を傾けようと、真理を理解することは決してなく、いのちが成長することもありません。彼らには神や神の働きに関する知識がなく、神が終わりの日に肉をまとってお戻りになり、真理を表わして裁きの働きをなさるときも、心の中でほんの少しも神を畏れず、狂ったように神に抵抗し、神を断罪、冒涜します。彼らが自分のものにしているのはどのようないのちですか。それは完全にサタンのいのちです。聖書に精通し、敬虔に神を信仰していのちを自分のものにしていると思い込みながら、神を知らず、主に抵抗して断罪し、十字架につけさえしたパリサイ人と同じなのです。そのことは、聖書に精通しているからといって、その人が真理やいのちを自分のものにしているわけではないことを、私たちに教えています。いのちを自分のものにしているのは、真理を理解して実践し、神を知り、神を畏れる心をもち、神の御言葉によって生きることができる人だけです。それらの牧師や長老は多くのいのちを自分のものにしていると言いますが、それは信者を惑わし自らを欺いているだけなのです」

 全能神の御言葉と王姉妹の説教に耳を傾けたあと、心の中ですべてが完全にはっきりしました。聖書に通じ詳しく説明できるからといって、その人が真理を理解しているとか、神を知っているとか、いのちを自分のものにしているとかいうわけではないのです。私はそれまで、高い地位にいる人、神学を勉強した人、あるいは聖書の知識がある人はみな、多くのいのちを自分のものにしていると考えていました。しかしいまは、そのような見方が完全に馬鹿げていることを知っています。真理を自分のものにしていない人は見分けることができないので、簡単に惑わされてしまうようです。そこで私は王姉妹にこう質問しました。「全能神の御言葉はとても素晴らしいです。私たちはひたすら神の御言葉を注意深く読めばいいのであって、そうすればそれが神の御言葉であり、神のお声であることがわかるのですね。では、牧師や長老がそれを受け入れず、全力で神に抵抗し、断罪するのはどういうわけですか」 王姉妹はこう答えました。「終わりの日であるいま、全能神がおいでになって、堕落した人類が清められ救われるのに必要なすべての真理を表わされてきました。それらの真理は、神が私たちに授けられた永遠のいのちの道です。神の御言葉を真剣に読みさえすれば、人はそれらの御言葉が真理であり、いのちであり、道であり、人類が生存する基礎にして指針であることを認めます。それは事実です。大半の牧師や長老は終わりの日の神の働きに抵抗し、それを断罪して、人々が全能神の御言葉を読むのを妨げようとしていますが、それは御言葉の権威と力を彼らが聞くことができないという意味ではありません。牧師や長老の中には、自分では何一つ有益な説教をできないため、全能神の御言葉を盗んで信者たちに宣べ伝え、これは聖霊が自分に与えた啓きだと主張する人もいます。しかし、それでも狂ったように全能神に抵抗し、断罪するのはなぜですか。それは真理を憎む彼らの本性と実質が関係しています。主イエスが最初に働きを始められたときのことを振り返ると、特にラザロの復活や、5枚のパンと2匹の魚で5,000人の空腹を満たしたことなど、主は数多くの奇跡を示されましたが、それらはユダヤの地に住む人々にとって大いに驚くべきものでした。ゆえに当時の普通の人々の多くは、その御言葉と働きから、主がメシアの到来であると認識しました。しかしユダヤの指導者たちは主イエスを受け入れず、それどころか主に抵抗して断罪し、最後はローマ政府と共謀して主を十字架につけました。どうしてこのようなことになったのでしょう。主イエスの御言葉の権威と力を聞けなかったからでしょうか。そうではありません。ますます多くの人が主イエスの道を受け入れているのを見たからです。一般の大衆がみな主イエスを信じれば、自分たちに従う人も崇拝する人もいなくなり、地位と生計を失ってしまうのを恐れたのです。彼らは主イエスが神でいらっしゃることをはっきり知りながら、あえて主に抵抗しました。そのことは、神に抵抗して真理を憎む彼らの反キリスト的な実質を明らかにしています。主イエスはこのようにおっしゃって、彼らを痛烈に非難なさいました。『ところが今、神から聞いた真理をあなたがたに語ってきたこのわたしを、殺そうとしている。』(ヨハネによる福音書 8:40)『どうしてあなたがたは、わたしの話すことがわからないのか。あなたがたが、わたしの言葉を悟ることができないからである。あなたがたは自分の父、すなわち、悪魔から出てきた者であって、その父の欲望どおりを行おうと思っている。彼は初めから、人殺しであって、真理に立つ者ではない。彼のうちには真理がないからである』(ヨハネによる福音書 8:43-44) そして現在、いまの宗教界の指導者たちの本性と実質を、全能神の御言葉がはっきり明らかにしています。『荘厳な教会で聖書を読む者たちは毎日聖書を暗唱するが、一人として神の働きの目的を理解しない。一人として神を知ることができない。さらに、一人として神の心と一致していない。彼らは皆価値のない、卑劣な人々だが、それぞれ神を教えるために高い地位に就いている。彼らは神の名をこれ見よがしに振りかざすが、故意に神に反抗している。彼らは自分たちを神を信じる者と呼びはするが、人の肉を食し、その血を飲んでいる者たちである。そのような人々は皆人の魂を貪り食う悪魔、正しい道に一歩踏み出そうとする人々を故意に混乱させる悪霊のかしら、神を探し求める人々の道を妨げる躓きの石である。彼らは『健全な肉体』の者たちであるが、彼らの信者たちはどうしたら彼らが人を神に敵対する方向へ導く反キリストであると知ることができるだろうか。どうしたら彼らが魂を好んで求めては貪り食う悪魔の権化であることを知ることができるだろうか。』(『言葉は肉において現れる』の「神を知らない人はすべて神に反対する人である」より) 今日の宗教界の指導者たちは、まさにかつてのパリサイ人と同じです。聖書に精通しながら神の働きについて何一つ知りません。神の出現を切望して求めるますます多くの人が全能神の御言葉を受け入れているのを目の当たりにし、信者がみな全能神を信じれば誰も自分たちに従わず、献金もしなくなることを恐れています。そこで自分たちの地位と生計を守るため、主に忠実であり信者を守るという旗印のもと、ありとあらゆる悪意に満ちた噂を捏造し、終わりの日の神の働きに狂ったように抵抗し、それを断罪するとともに、信者が真の道を求めて調べるのを全力で阻んでいます。ゆえに、宗教の指導者たちが実際には真理にうんざりしてそれを憎むパリサイ人であることがわかります。彼らは人の魂をむさぼり食う生ける悪魔であり、終わりの日の神の働きによって暴かれつつある反キリストなのです」

 神の御言葉と姉妹の説教を聞き終えると、突然光が見えました。私は何度かうなずいてこう言いました。「いまようやく、あれらの牧師と長老が、神の再臨を証ししている人がいると聞いて、それを求めも調べもせず、それどころか神をしつこく断罪している理由がわかりました。牧師と長老が声を大にして私を守るとか、私のいのちが心配なんだとか言いながら、実際には全力を尽くして私を引き留め、神の御言葉を読むのを阻み、神からのいのちの糧を得るのを妨げている理由が、いまやっとわかったのです。それはすべて、彼らの行ないがどれも自分の益を守ることだからなんですね。人々が全能神に従い始めれば、もはや自分たちの説教を聞く人も、自分たちに献金する人もいなくなることを恐れ、そのため人々が真の道を調べるのを妨げています。彼らはまさに下劣であり、私が真の救いを得る機会を台無しにするところでした。いま私は見分け方をよりよく知ったので、彼らと関係することを拒否するつもりです。彼らがどんなことをして私の邪魔をしようと、しっかり立って全能神に従っていきます」 その後、私は以前の教会での集会に二度と出席しませんでした。

 それから程なくして、以前の教会の説教師が2人、私の家を訪れました。その1人、張という説教師が私にこう言いました。「お母さん、どうして集会に来なかったんですか。また東方閃電の連中と接触しているんですか。何をするにしても信仰を切り替えてはいけません。連中の信仰に従えば、あなたはもう終わりですよ」 私は断固言い返しました。「最近あなたたちの集会に出席しても、私は何も得られませんでした。霊がますます暗くなるばかりで、主の存在を感じられなかったんです。しかし全能神の御言葉を読み始めてからというもの、私の霊は持ち上げられて、いまでは真理を理解し始め、いのちも糧を得ています。神がともにいらっしゃり、聖霊が私に働いてくださるのを感じるんです。いまでは全能神が再臨された主イエスでいらっしゃること、全能神の表わされる真理がいのちの生きた水であることを、私は固く信じています。全能神の御言葉だけが私に糧を施せるのであって、いのちを得られるならば私はどこにでも行きますよ」 するともう1人の宋という説教師がこう言いました。「私たちはあなたのことが心配なんです。正しい道から逸れてしまうのではないかと不安なんですよ。あなたのいのちは未熟ですから……」 そこで私は言いました。「私のいのちは未熟かもしれませんが、とにかく神が導いてくださいます。ご心配には感謝しますけど、ご自分のいのちのことをお考えなさい。私のいのちは神の御手の中にあるんですから……」 私がそう言うのを聞いた2人は、腹を立てて出て行きました。その姿が遠くに消えるのを見ていると、それまで感じたことのない大きな安堵を覚えました。その後、2人は我が家を2度訪れましたが、自分たちの警告に私がまったく動じないのを見て、再びやって来ることはありませんでした。神が導いてくださったおかげで、私はそれら宗教指導者たちの素顔と邪悪な動機、そしてサタンの策略を見抜き、混乱から脱出して神のもとに戻る道を見つけたのです。いまではいのちの生きた水の施しを受けており、これからもひたすら全能神に従い、崇拝してまいります。

李芳 中国

 


暗いトンネルの先で見た暖かな光

2020-05-27 22:30:28 | 天の国の福音

暗いトンネルの先で見た暖かな光
2020-01-24


主イエスの再臨を渇望する他の兄弟姉妹と同じく、私も主がいますぐお戻りになって私たちを天国に迎えられ、その祝福を享受できるようにしてくださるのをひたすら待ち望んできました。そして2006年11月のある日、私はついに主の再臨の知らせを聞きました。全能神の表す御言葉を読み、また終わりの日における神の働きに関する兄弟姉妹の交わりと証しを通じ、受肉された全能神が主イエスの再臨でいらっしゃることを認識したのです。私はその場で、終わりの日における全能神の働きを喜んで受け入れました。

しかしある集会のとき、楊さんという姉妹がとても真剣な口調で私にこう教えを説きました。

「最近、神による終わりの日の働きを受け入れたあと、サタンの妨害や試みに遭う兄弟姉妹が多くいます。中国共産党政府の嘘に騙される人もいれば、牧師や長老による妨害と脅しに遭ったり、家族の強要や邪魔を受けたりしている人もいます。また、家族が病気や災難に見舞われている人もいます。これらはどれも、私たちが神に立ち返るのを止めようとするサタンのたくらみです。全能神の裁きの働きが神の家から始まり、それが人類を救う神の働きの最終段階であることを、私たちはすでに全員知っています。神は全力を尽くして人間をお救いになろうとしており、サタンは私たちが神の御前に出てその救いを受けるのを妨げるべく、おのれのたくらみや妨害を実行しています。まさにいま、霊の世界で繰り広げられている戦いはますます激しさを増しています。ですから、サタンのたくらみが降りかかっても決して騙されず、むしろ神の証しを立てられるよう、私たちはいますぐ真理を身につけ、識別力を自分のものにする必要があります。全能神の御言葉の一節を読みましょう。」

そこで私は神の御言葉の本を手にとり、次の部分を真剣に読みました。

「神が働きを行うと、サタンは阻害を行う。終わりの日にサタンの妨害は終わるだろう。同様に神の働きは終えられるだろう。そして神が全き者としたい人間は全き者となるだろう。神は人々を積極的に導く。神のいのちは生ける水であり、測ることができず、終わることがない。サタンはある程度まで人を堕落させた。最後に、そのいのちの生ける水は人を完全にし、サタンが邪魔したり、その働きを実行したりすることは不可能となるだろう。そのようにして、神はそれらの人々を完全に自らのものとすることだろう。サタンはそれを受け入れることを今、依然として拒んでいる。サタンは神に対して継続的に対抗しているが、神はサタンを気に留めない。神は述べた、『わたしはサタンの暗い力のすべてと暗い影響のすべてに勝利するだろう。』と。…神はサタンより賢明で、神の働きはサタンをはるかに凌ぐ。だから、わたしは以下を前に述べた。「わたしが行う働きはサタンの策略に対応して実行される。最後にわたしは、自らの全能性とサタンの無力さを示す。」神が自らの働きを行うとき、サタンは自分が最後に結局粉砕されるまで神の後ろについてゆく。サタンは自分を討ったものを知ることさえないだろう。サタンはすでに打ち破られ、砕かれて初めて、真実に気づく。そのときサタンは、すでに火の池で焼かれてしまっている。サタンはそのとき完全に確信するのではないだろうか。打つ手がなくなったからだ。」(『言葉は肉において現れる』の「あなたは人類全体が現在までどのように発展してきたかを知るべきである」より)

すると楊姉妹が静かな口調でこう話しました。

「神の御言葉から、神による経営の働きの各段階において、サタンが絶えずそのあとをぴたりと追っていることがわかります。神が前に立って人間を救う働きをなさっている一方、サタンはその後ろで妨害したり破壊したりしているのです。サタンは人間を巡って常に神と争っていますが、人間を完全に救う神の働きの最終段階においては特にそれが当てはまります。そしていま、サタンはますます力の限りを尽くしてありとあらゆる人や物事を利用し、私たちが神の働きを受け入れてそれに従うのを妨害し、止めようとしています。サタンの卑劣な目的は、人間を神から引き離し、私たちが神を拒んで裏切り、それによって神の救いを失うようにさせることです。しかし、神の知恵はサタンのたくらみに応じて実行されます。神はサタンの妨害をお使いになることで、私たちに神の働きと知恵、そして全能を理解させてくださるとともに、サタンの邪悪さと醜さをはっきり見えるようにしてくださるのです。だから今後どんなことに見舞われようと、私たちはみな神に祈り、神を頼り、真理を求めなければなりません。また神の証しを立てられるよう、サタンのたくらみを見透かさなければなりません。それはヨブが受けた試練とまさに同じです。ヨブは神の証しを立て、サタンは恥辱にまみれて退散しました」

楊姉妹が説く教えを聞き、私は自信をもってこう答えました。

「ええ、私たちは真の神を信じています。神に頼れば恐れるものは何もありません。もしサタンの試みに遭うことがあっても、私は絶対神の側に立ちます」

それから間もないある日、私が福音の伝道を終えて自宅の玄関に近づいたところ、隣の家の人が手を振りながら駆け寄ってきてこう言いました。

「どうしてこんなに遅くなったの?大変な事故があったのよ!今日、劉さんという息子さんの友達があなたのトラックを借りに来たんだけど、なかなか動かせないものだからトラクターで引っ張り出そうとしたの。でも何度か試してみてもトラックは動かなかった。そのときたまたま胡さんもいたから、彼がトラクターに乗ってギヤを5速に入れたの。そしたらトラクターが急に走りだして、トラックについていた鉄のロープがバチンと切れた。それが胡さんのこめかみに直撃して、すぐに血が溢れだしたわ。それから病院に運ばれたけど――」

私は急に頭の中が真っ白になり、家に駆け込んで神にこう祈りました。

「ああ、神様!私にはあなたの御心がわかりません。どうしてこんなことが私の身にいきなり起こったのでしょうか。どうか私をお啓きください――」

祈ったあと、私は霊の戦いについて楊姉妹が説いてくれた真理を思い出し、それで理解しました。これらの出来事はまさにサタンが私を試し、妨害しているのです。私が神を疑い、非難し、拒否するよう、サタンはこの厄災を利用することで、私を攻撃しようとしているのです。これはまさしく霊の戦いです! ちょうどそのとき、神の御言葉が私の脳裏に浮かびました。

「神がサタンと戦う時にあなたが神の側に立つことができ、サタンの方へ後戻りしないならば、あなたは神への愛を獲得し、固く立って証しをするだろう。」(『言葉は肉において現れる』の「神を愛することだけが本当に神を信じることである」より)

神の御言葉は私を大きな信仰で満たしました。そして私はこう考えました。

「サタンよ、あなたがどう私の邪魔をしても、私はあなたのたくらみにははまらない。神を責めたり疑ったりするつもりはないし、きっと神の側に立つわ。従うべき全能神に従うつもりよ」

いったん神の御心がわかると、私の心はかなり落ち着きました。

しかしサタンは負けを認めず、その後も他の人々や物事を通じて私を妨害する手を緩めませんでした。胡さんの入院中、彼の家族は我が家にすべての責任を押しつけ、私たちに医療費を全額払わせようとしました。私は胡さん一家と話し合おうと試み、半額を負担するつもりだと言いましたが、相手は拒否するばかりでした。それから20日ほど経ち、胡さんはすっかり回復していましたが、それでも退院しませんでした。我が家からお金を取ろうとわざとそうしていたのです。そんなある日、胡さんから「トラックはあなたの所有なのだから、あなたが費用を全額払うべきだ」と言われました。胡さんの妻も立ち上がって「その通りよ!事故を起こしたのはあなたのトラックなのだから、あなたがすべて払うべきよ」と怒鳴りました。いつまでもしつこく迫る人たちを前にして、私はとても腹が立ってきました。私は心ならずもこの事故に巻き込まれたのです。そう思うと本当につらくなり、心が乱れました。私はこれ以上話を続ける気も失せ、腹立たしい思いで病室を出ました。そして階段を下りながらこう思いました。

「私は神の信者なのよ。こうしたことが起きても腹を立てちゃだめ。この件は神にお任せするべきだわ。私は神に頼らなければならないのよ」

それから家に戻って神の御言葉の本を開き、次の一節を読みました。

「神が人々に対して行う働きのあらゆる段階で、物事があたかも人の手配で生まれたかのようであり、あるいは人の干渉から生まれたかのようであり、外面的には人々の間の相互作用のように見えるかもしれないが、舞台裏では、働きのあらゆる段階、起こるすべてのことは、神の面前でサタンが作った賭けの対象であり、人々は、神に対する証しにしっかりと立つことが要求される。ヨブが試練に会った時のことを例にとってみよう。秘かにサタンは神と賭けをしており、ヨブに起こったことは人間の行為であり、人間による干渉であった。神があなた方に対して行うすべての段階の背後にはサタンと神との賭けがある――その背後にはすべて戦いがある。…あなたは自分に起こることのすべては大いなる試練であり、その試練の時に神があなたの証しを必要とすることを知るべきである。」(『言葉は肉において現れる』の「神を愛することだけが本当に神を信じることである」より)

この御言葉を読みながら、あの日、サタンの試みがいつ降りかかろうとも必ず神の側に立つと楊姉妹の前で言い切ったことを思い返しました。サタンが何度も私を悩ませたとき、自分が静かに神の御前に出て御心を求めることができず、常に頭が一杯になるとは思ってもいませんでした。私はそう考えて恐ろしくなりました。自分の身にサタンのたくらみが降りかかっているのではないでしょうか。そのことを何度もじっくり考えて初めて、サタンがいかに腹黒く邪悪であるかがようやくわかりました。サタンはこの問題を利用して私を妨害し、私が俗世の利益のために腹を立てるよう仕組んでいたのです。さらに、サタンはそれを利用して、私に全能神を否定させ、裏切らせようとしました。しかし、サタンのたくらみにはまるわけにはいきません。進んで神に頼り、この件を神にお任せしようと思ったのです。胡さんが退院しようとしまいと、私が最終的にどれだけ出費することになろうと、それらはすべて神の御手によって指揮されることであり、結果がどうなろうと、私は喜んでそれに従うつもりでした。神の御心を理解し、進んで神の証しを立てようと望んだところ、驚くべきことにその次の日、神の不思議な御業の一つを目の当たりにしました。神はある若者を鼓舞して胡さんの病室に行かせ、次のように戒めさせたのです。

「善良な人をいじめて金を巻き上げるなんて、君のような人間は見るに堪えない。僕だったら一文たりとも君に渡さない」

すると、同じ病室の別の患者が一緒になってこう言いました。

「その通りだ。自分の意志でトラクターに乗ったのは胡さんなのに、いまこの人のお金を取ろうとしている。なんと理不尽なことか!」

「そうだ!トラックを借りた人も何か払うべきだ!持ち主に全額払わせるなんて無理だぞ!」

それを聞いた胡さんはうつむいたまま何も言いませんでした。そして3日後、胡さんは退院しました。私は心の奥深くで、この背後には神がいらっしゃり、私のために道を開いてくださったことを知っていました。

この経験のあと、私はサタンの邪悪さと卑劣さがわかるようになりました。お金を失うという理由で、私が神に文句を言い、神を非難し、神から離れるようにしようと、サタンは周囲の人や物事を利用することで、私を妨害、攻撃しました。私が苦しみの中で生きることを望んだのです。同時に、私が自分の肉にまつわる損得勘定をやめ、信仰の中で神に頼り、神の側に立つとき、神は不信心者の言葉をお使いになって私のために道を開き、サタンを屈辱のうちに退散させたこともわかりました。私はそのおかげで、あらゆるものを動かし支配する神の権威を目の当たりにできたのです。それは神の御言葉にこう記されているとおりです。

「わたしは、全てのものを動員してわたしに仕えさせ、さらに、宇宙世界の中でひとつとして私たちの手の中にないものはなく、ひとりとして私たちに奉仕していない者はなく、達成されたものでひとつとして私たちのためになされなかったものはないことを、全ての人が見ることができるよう、わたしはわたしの力を現すだろう。」(『言葉は肉において現れる』第一部「キリストの初めの言葉」の「第百十九章」より)

神の御言葉を読めば読むほど、神の全能と不思議がわかります。万事が神の御手の中にあるのを目の当たりにしたことで、私の神への信仰は高められ、次に何が起きようとも神の働きをもっと経験し、神に頼ってサタンの試みに打ち勝ちたいと思うようになりました。

その1か月後、またもやサタンの試みが私に降りかかりました。ある日、結婚したばかりの娘が我が家に立ち寄ったのですが、突然玄関先で気を失い、隣人が抱き起して家に入れてくれました。最初はただの風邪だろうと思って特に気に留めませんでしたが、夜半になって娘が突然頭からつま先まで震えだすとは当然ながら思いませんでした。怖くなってどうしたらいいかわからなかったものの、即座に娘を胸に抱き寄せたところ、しばらくすして娘は少し具合が良くなったように見えました。翌朝、娘が「お母さん、私は大丈夫だから本分を尽くしに行って」と言うので、私は無言で神にこう祈りました。

「神様!万事はあなたの御手の内にあります。だから、娘のことはお任せいたします――」

それから娘に向かい「ねえ静、もっと神に祈って頼りなさい。神は私たちを強く支えてくださる力なんだから」と言いました。娘にそう促してから、私は本分を尽くしに出かけました。ところが驚いたことに、2日後に帰宅してみると、娘は重態に陥って病院にいるというではありませんか。すると私の義理の娘が、私に向かって悲しそうにこう言いました。

「お義母さん、お義母さんがお出かけになってから静ちゃんの具合はどんどん悪化していったんです。診察してくれたお医者さんは、脳出血を起こしていて開頭手術が必要だと言ったんですけど、お義母さんも静ちゃんのご主人も2日間留守だったので、同意書に署名できる人がいなかったんです。それで手術の機会を逃してしまいました。それに、静ちゃんの病状は治療不可能で、たとえ意識が戻っても植物状態になるだろうと、医師が静ちゃんの姑さんに告げているのも耳にしました」

私はそれを聞いてナイフで心をえぐられたように感じ、目から涙が溢れてきました。そして、それが本当のことだとどうしても受け入れられませんでした。そこで私は一縷の望みにすがりつき、専門医に相談しに行きましたが、その医師は首を振り、「私たちはできる限りのことをしてあらゆる手を尽くしましたが、どんなによくても植物状態で意識が回復するだけでしょう」と告げました。医師の言葉を聞いて、天が落ちてきたような気がしました。私は無限の苦しみの中で生きていたのです。その後、娘の状態を知った義理の息子は、娘が生きるか死ぬかに無関心だったばかりか、私のほうさえ向かず、自分たちが結婚したとき私たちに贈った結納金を返してくれと言うなど、人間性がまったくないこと見せつけたのです。その日、病院から家に帰る道のりがとても遠く感じられました。私は魂の抜け殻となって道をさまよっていたのです。長く暗いトンネルを歩きながらも、行く手に光がまったく見えないかのようでした。

帰宅後、私は神の御言葉の本を力なく開き、次の一節を読みました。

「地上には、あらゆる悪霊が果てしなく休みどころを求めてさまよい、いつも食べるための人間の死体を探している。わが民よ。あなたがたは、わたしの保護と世話の中にとどまりなさい。けっして自堕落なことをしてはいけない。けっして無謀なことをしてはいけない。そうではなく、わたしの家で忠誠をささげなさい。そして、忠誠によってのみ、あなたは悪魔の狡猾さに対抗できるのだ。」(『言葉は肉において現れる』第二部「全宇宙への神の言葉」の「第十章」より)

「苦難に直面した時、肉のことを考えず、神に対して不平を言わずに居ることが出来なければならない。神があなたから自身を隠している時は、あなたは神に付き従う信仰を持ち、以前の愛が揺るいだり、消え去ったりすることがないように維持出来なければならない。神が何を為そうが、神の意図に従い、神に対して不平を言うよりも、自らの肉を進んで呪わなければならない。あなたは、試練に直面する時、たとえ自分が愛するものと訣別する未練や苦い涙があっても、神を満足させなければならない。ただこれのみが真の愛、真の信仰と呼ぶことができる。」(『言葉は肉において現れる』の「完全にされる者は精錬されることを体験しなければならない」より)

神によるこれらの御言葉を読みながら、私はたったいま起きた出来事を振り返り、サタンの卑劣さ、悪意、そして凶暴さを心の底から理解しました。サタンは私を神の御手からもぎ取り、私の霊を食い尽くそうと、事あるごとに私への狡猾なたくらみを実行し、私を妨害、攻撃したのです。最初は他人にゆすられ、お金を失ってしまうのではないかと苦しい思いをさせられました。そして今回、サタンは愛する娘を利用して再び私を試み、娘の病気を使うことで、私が神に不平を言い、神を拒否して裏切るようにさせ、そうして終わりの日に神の救いを得られないように試みているのです。これらはすべてサタンの狡猾なたくらみであり、ヨブが自分の時に直面した試練とまさに同じです。その背後では戦いが繰り広げられており、サタンは富と子供らを失わせることで、ヨブが神を捨てて拒むようにさせました。しかし、ヨブは決して神を責めず、それどころか神の御名を讃えたので、サタンは屈辱のうちに退散し、それは神に対する美しく鳴り響くような証しとなったのです。たとえ自分の肉体が弱くても、私はサタンの狡猾なたくらみを見透かし、神の側に立たなければなりません。神はこうおっしゃっています。

「そして、忠誠によってのみ、あなたは悪魔の狡猾さに対抗できるのだ。」「たとえ自分が愛するものと訣別する未練や苦い涙があっても、神を満足させなければならない。ただこれのみが真の愛、真の信仰と呼ぶことができる。」

神はサタンによる攻撃をお使いになって、神に対する私の信仰と献身を完全にさせようとしていらっしゃるのです。人間の生死はともに神の御手にあります。そのため私は、自分の娘を神の御手に委ねようと思いました。そしてそう考えつつ、苦い涙を流しながら地面に跪き、神にこう祈りました。

「全能神よ!人々の運命はあなたの御手にあります。あなたがお許しにならなければ、娘は最後のひと息が残っている限り死にません。それに、医者の言うことが正しく娘が植物状態になったとしても、私は絶対にあなたを非難せず、あなたに従い続けます」

その日の夜遅く、私は病院で娘の枕元に座っていましたが、いつの間にか居眠りをしていました。そして意識がもうろうとする中、「お母さん、お母さん、水が飲みたい」という娘の声で目を覚ましました。娘の声を聞いて心臓が激しく鼓動し、私はその場に飛び上がりました。目をこすって娘を見ると、両手を動かし目を開けているではありませんか。それを見たとたん、私は感情の渦に巻き込まれて言葉もなく、ただ「ああ神様!ああ神様!」と口にすることしかできませんでした。同じ病棟の人も驚きのあまり、「おお、奇跡だ!どうしてそんな風にいきなり良くなったんだ?」と言いました。私は高揚のあまり満面の笑みを浮かべました。人の生死がともに神の御手の中にあることをまさに目の当たりにしたからです。神の御業は本当に不思議です。娘を救ってくださったのは神でした。3日後、娘は奇跡的に回復し、再び普通の人と変わりなく見えるようになりました。サタンの手によるこの打撃を経験した私は、霊の世界で繰り広げられている戦いがいかに熾烈かを知るとともに、サタンの悪意に満ちた卑劣さと、凶悪な残酷さをまざまざと目の当たりにしました。同時に、私は神の御心をずっとよく理解できるようになりました。神は私をよりよく救い、私を完全になさるべく、これらの試練が私に降りかかるのをお許しになりました。そのおかげで、私は神の全能と知恵を認識し、神の権威と支配もわかるようになりました。また、それによって、神に対する私の信仰、献身、服従が完全なものになりました。私はそのおかげでサタンの影響から救われ、いのちの成長を遂げることができたのです。神は本当に素晴らしい!

その後、私は神の御言葉の次の一節を読みました。

「わたしの全経営(救いの)計画、六千年にわたる経営(救いの)計画は三段階、あるいは三時代から成る。それは始まりの律法の時代、次に恵みの時代(贖いの時代でもある)、そして終わりの日の神の国の時代である。これら三時代におけるわたしの働きは、各時代の性質によって異なるが、それぞれの段階においてこの働きは人間の必要性に対応している。正確には、わたしがサタンに対して行なう戦いでサタンが用いる策略に応じて働きは行われる。わたしの働きの目的は、サタンを打ち負かし、わたしの知恵と全能を明らかにし、サタンの策略をすべてあばくことであり、それによりサタンの支配下に生きる人類全体を救うことである。それはわたしの知恵と全能を示し、サタンの耐え難いおぞましさを明らかにするものである。それに加えて、被造物が善悪を区別し、わたしこそがすべてを治める者であることを認識し、サタンが人類の敵であり、下の下、悪い者であることをはっきりと見極められるようにし、善と悪、真理と偽り、聖さと汚れ、偉大さと卑劣の違いを絶対的な明白さをもって区別できるようにすることである。それにより無知な人類は、人類を堕落させるのはわたしではなく、創造主であるわたしだけが人類を救うことができ、人々が享受できるものを彼らに授けることができることをわたしに証しし、わたしこそがすべてを治める者であり、サタンは後にわたしに背いたわたしの被造物の一つにすぎないと人類は知ることができる。」(『言葉は肉において現れる』の「贖いの時代における働きの内幕」より)

神のこの御言葉を通じ、私は神の御心をよりよく理解できるようになり、神がなさるすべてのことは人類の救いであり、人類への愛だということがわかりました。自分が経験した試練に次ぐ試練を思い返してみると、多少の困難を耐え忍ぶこともありましたが、同時に多くのことも得ました。これらの経験を通じて、サタンが私に嫌がらせをしようと、常に私の周囲の人々や物事を使っていたことがわかりました。しかし、私の側にはずっと神がいらっしゃり、私が識別力をさらにもてるよう、御言葉を使って私を啓き導いてくださったのです。そして、私が受け身で弱っているときもしっかり立てるよう、神は辿るべき道をくださり、信仰と力を与えてくださいました。その道を一歩進むごとに、私はサタンの闇の影響から解放され、神の不思議な御業を目にすることができました。これらの経験により、いのちが成熟してより強くなったのです。そして、そのすべてを経ることで、自分の側には神がいらっしゃるのだから、サタンによるこれらの妨害や苦痛をこれ以上恐れることはないと思いました。神に頼って神の御言葉から離れない限り、そして神を信じる限り、神はサタンの試みや攻撃に勝利するよう私たちをお導きになり、私たちは神が見守ってくださる中で生きていくでしょう。いまや私は、全能神が再来された主イエスでいらっしゃることをさらに強く確信しています。全能神は私の主であり、神なのです!また、私たちは被造物であって、祝福を享受するにせよ、困難に耐えるにせよ、絶えず神に従い、神を崇めるべきであることにも気づきました。私は次のように固く決意しました。この道が果てるまで、私は全能神に従うことを心に決めています!

王玉萍 中国