神の羊は神の御声を聞く

「わたしの羊はわたしの声を聞く」黙示録も予言されました。「耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。」

欧州宗教及び信仰の自由円卓会議──全能神教会の信者の亡命希望者の支援を求める書簡

2019-09-29 12:05:01 | 書籍

欧州宗教及び信仰の自由円卓会議──全能神教会の信者の亡命希望者の支援を求める書簡

ブリュッセルの欧州連合(EU)議会の議員の皆様及び欧州連合全加盟国の大使の皆様へ – 2019年7月23日

送付先:

宗教または信仰の自由のEU特使のヤン・フィゲル(Jan Figel)様

国連の信教の自由に関する特別報告者を務めるアフメド・シャヒード(Ahmed Shaheed)様

全能神教会(CAG)の亡命希望者に関して

欧州議会の議員の皆様、

大使の皆様

私たちは学者、宗教及び世俗の代表者、人権 擁護者及び弁護士による非公式集団です。

私たちの懸念の一つは、宗教弾圧から逃げ出した難民の状況です。残念ながら、移民に関する正当な懸念が、難民への一般的な社会の敵対心を生み出すことがあります。しかし、宗教弾圧による難民の状況は、経済難民の苦境とは明らかに異なります。宗教を理由とする亡命希望者は、母国に帰国すると自由及び命を奪われる危険があるのです。

本書簡では、全能神教会の所属する中国出身の亡命希望者に関わる事例のみを取り上げています。全能神教会は中国で激しい弾圧に晒されている 新興宗教団体 です。2018年版の「国際 信教の自由」の報告書が、米国の国務省により2019年6月21日に発表されました。この報告書は、2018年の1年間で中国の「当局が同団体の1万1,111人の信者を逮捕」し、「525人の信者に「拷問や強制的な教化」を行った」と指摘しています。また、この報告書は、拷問を受け、拘留中に死亡した3人の全能神教会の信者の事例も取り上げています。最新の全能神教会の統計データによると、現在までに少なくとも105人の信者が「弾圧により死亡」しているようです。

米国国際宗教自由委員会(U.S. Commission on International Religious Freedom)も2019年度の報告書で同様に「2018年、中国政府は全能神教会の数千人の信者に嫌がらせを行い、逮捕した。この年に勾留された者の多くは拷問等の虐待を受け、勾留中の死亡や原因不明の行方不明につながる事例も幾つか見られた」と指摘しています。

人権高等弁務官事務所は、2019年の中国の普遍的・定期的レビューにおいてNGOの主張を要約し、「2014年から2018年にかけて中国共産党の監視、逮捕及び弾圧により少なくとも50万人の全能神教会のキリスト教徒が家を捨てて逃げ、数万の家庭がばらばらになった」と指摘していました。

私たちの目的は、神学理論に対する意見を示すことではなく、あらゆる信仰の信者及び無宗教の人々の人権を保護することです。しかし、その一方で豊富な学術文献から、中国のプロパガンダが原因で、実行していない犯罪の嫌疑を全能神教会がかけられている点が明らかになり、そして、国連が「世界人権宣言の思想、良心または宗教の自由を規定する第18条について「第18条は、伝統的宗教への適用に限定されない。従って、[国連は]新しく設立された等、理由が何であれ、いかなる宗教や信念に対して差別する傾向を危惧している(一般的意見22条)」と解釈している。「キリスト教徒」、「正統性」、「異端」、そして、信者が利用するべき神の名を決める権利は、政府にはない」と解釈している点に注目しています。

2019年6月の時点で、2,322人の全能神教会の信者が欧州連合の加盟国で亡命を申請しています(スイスでは33人)。最近では一部において心強い判決が下されていますが、現時点で亡命が認定されたのは265人であり、好意的な判決が下されることが多く、大勢の全能神教会の信者が亡命を申請しているニュージーランド及びカナダと比べるとそれぞれ11.4%、73%に過ぎません。307人は欧州連合の加盟国で出国命令を受けており、いつ中国に送還されてもおかしくない状況です。そのうちの227人はフランスに滞在しています。実際に数名が既に強制送還に処されています。学者及びNGOにより、通常、送還された者は帰国すると逮捕される、または「行方不明」になることが立証されています。2018年8月31日にドイツから送還された趙雪良(チョウ・シュエリャン)さんの件は典型的な例です。この行為に対し、赤十字、ドイツ福音主義教会及びその他の複数のNGOが積極的に抗議していました。

また、EUの加盟国ではないものの、日本と韓国に滞在し、亡命を希望している全能神教会の信者の難民(276人と1,038人)の状況は注目に値します。一人も亡命を認定されておらず、数百名の信者が強制送還される恐れがあります。両国の亡命認定率の低さは世界でも指折りです。

高等弁務官及びEU加盟国の法廷等では次の4つの主な理由により亡命の認定を付与していませんが、どれも説得力に欠けます。宗教弾圧を非難する国際的な資料は多く、また増え続けているにも関わらず、中国の宗教弾圧の一般的な状況について当局が充分に理解していないことがあります。他にも全能神教会や同団体に対する中国での弾圧に当局が精通していないケース、あるいは、中国の大使館や最新の情報ではない出身国情報(COI)が提供する誤った情報に頼るケースも見受けられます。一部の当局は、亡命希望者本人が弾圧されていた証拠を求めていますが、国際協定は妥当な「弾圧の恐怖」だけで充分であると明示しています。また、難民が有効なパスポートを取得した事実を、弾圧を受けていない証拠と見なし、中国のシステムの抜け穴及び同国にはびこる腐敗に関する資料を無視するケースもあります。中国では逃亡者がパスポートを取得することが可能であり、また、逃亡者が金銭とコネを持っている限り空港入国審査官は深く追求しません。

中国に送還されることは、全能神教会の信者の難民にとっては、信仰を明言する自由を失うだけでなく、再び米国国際宗教自由委員会の2019年度報告書を引用すると、逮捕される、「拷問及びその他の虐待」を受ける、そして、「殺害」される深刻な危険に直面するのです。

私たちは、欧州議会の議員の皆様及び大使の皆様に対し、発言力を持たない者の声に耳を傾け、それぞれの国に全能神教会の信者の難民を受け入れるよう進言し、全ての国々が(追放及び送還の禁止をうたう)ノン・ルフ-ルマン原則に従い、犠牲者が拷問者のもとに戻ることがないようにして頂くことを謹んで要請します。

また、EUの加盟国に対しては、このような懸念を日本と韓国を含む全能神教会の難民が苦境に立たされている友好国に説明して頂きたいと存じています。

なお、追加の資料の提供や実際の協議には喜んで応じる所存です。

敬具

署名:

団体:

All Faiths Network(あらゆる信仰を尊重する人々のネットワーク)― 英国

Association for the Defense of Human Rights and Religious Freedom(人権及び自由を保護する協会)

Bitter Winter Magazine

CAP-LC – Co-ordination of Associations and Persons for Freedom of Conscience(社団及び個人の良心の自由協会)

LIREC – Center for Studies on Freedom of Belief, Religion and Conscience(信仰、宗教及び良心の研究センター)

CESNUR – Center for Studies on New Religions(新興宗教研究センター)

信教の自由の欧州異宗教間フォーラム(European Interreligious Forum for Religious Freedom)

FOB – European Federation for Freedom of Belief(欧州信仰自由連合)

FOREF – Forum for Religious Freedom Europe(宗教の自由フォーラム欧州)

GNF – Gerard Noodt Foundation for Freedom of Religion or Belief(宗教と信仰の自由のためのゲルハルト・ノーズ(Gerard Noodt)財団)

HRWF – Human Rights Without Frontiers(国境なき人権)(ブリュッセル)

ORLIR – International Observatory of Religious Liberty of Refugees(難民の宗教的自由の観察機関)

オランダ世界平和統一家庭連合

個人:

ステファン・エリック・ブロナー(Stephen Eric Bronner)

政治科学教授長委員会

ディレクター – グローバルリレーションズ

ジェノサイド及び人権研究のためのジェノサイド防止センター(CGHR)付けUNESCO議長執行委員会

ジャミル・マクスード(Jamil Maqsood)

国際人権委員会(International Human Rights Council)

ブリュッセル及び東欧担当ディレクター

ヴィヴィアン・ワン(Vivian Wang)

コーディネーター

人権及び自由を保護する協会

フランス・デ・ウォルフ(Frans De Wolff)

オランダのプロテスタント系教会


神様を本当に信仰するには

2019-09-28 17:53:44 | 書籍

神様を本当に信仰するには

花費

神様が私たちクリスチャンひとり一人に求めていらっしゃるのは、本物の信仰を自分のものにすることです。信仰のおかげで神様の素晴らしい行ないを見、神様に祝福されることができた人の数多くの例が聖書には記されています。モーセは神様を信仰し、神様のお導きを通じてファラオの様々な障害や制約を乗り越え、エジプトから脱出するイスラエル人を見事に導くことができました。アブラハムも神様への信仰をもち、独り子イサクを生け贄として神様に捧げることをいとわなかったので、神様は最後にアブラハムを祝福なさるとともに、その子孫がどんどん増えて偉大な諸国になるようになさいました。ヨブも神様を信仰し、二度の試練を通じて神様の証しをすることができました。神様はヨブをさらに祝福なさり、嵐の中から彼にお姿を見せてお語りになりました。マタイによる福音書に登場するカナンの女は主イエスへの信仰をもち、主が娘から悪霊を追い払えると信じました。彼女は主イエスに懇願し、娘の病は癒やされました。私たちはクリスチャンとして、仕事の失敗や生活のつまずき、家族の不幸な出来事など、人生においてどんな困難に遭遇しようとも自分の信仰に頼ってぐらつくことなく神様に従い、鳴り響くような神様の証しをして、最終的に神様の承認を得られるよう、真の信仰とは何かという真理を理解しなければなりません。

 

私たちには主への真の信仰があるか

 

信仰についての議論を聞いて、自分には確かに信仰があると自信たっぷりに言い切る兄弟姉妹がいるかもしれません。

「私は100パーセント神様を信じている。いつも神様の存在を認めているし、そのことは私が信仰者であることを証明している」

「主イエスは私たちの救い主であり、私たちの罪を贖われるため十字架にかけられたと私は信じている。主に祈って告白する限り、私たちの罪は必ず主によって赦される。それが主への信仰をもつということではないのか」

「私は何年も前からずっと信者だ。主のために自分を費やし、働くために出世も家庭も仕事も捨てた。私はあらゆる場所に教会を建て、不満も言わず多くの苦しみに耐えてきた。それらはみな神様への信仰の表明である」

確かに、私たちは神様の存在を信じていますし、主のために熱心に働き、自分を費やし、苦しみ、代償を払っていることは事実です。しかしそうしたことは、神様への真の信仰があることを意味しますか。これは、心から主を信じて真理を渇望している兄弟姉妹である私たち全員が探求して分かち合う価値のある問題です。

私を例にとってみます。クリスチャンになって以来、私はいつも積極的に集会に参加し、他の人たちと福音を分かち合い、弱っている兄弟姉妹に手を差し伸べてきました。どんな困難があってもこのような活動をやめることは決してありませんでした。熱心に主に仕えるためなら自分の肉体的な快適さを脇にのけることもまったくいとわないので、自分のことを主を愛し、主に忠実で、主への信仰をもつ人間だと考えています。しかし家族と私が病気にかかり、しばらく祈ったあとも状態がよくならなかったとき、私は落胆して主に失望し、私や家族をお守りにならなかったことについて主に文句さえ言いました。このまぎれもない事実が明らかにしたことのおかげで、自分には本物の信仰がまったく欠けており、家庭に調和があり、身体的な病気や災難がないという土台の上に信仰があるだけなのがわかりました。望ましくないことが起きた瞬間、私の真の霊的背丈が明らかにされたのです。そのとき初めて、自分の神様への信仰が情けないほど取るに足らないものであり、自慢するようなものではまったくないことがわかりました。周りの兄弟姉妹に目を向けても、ほとんどが同じでした。家庭や仕事の予定とかち合うようなことがあると、自分の利益がそこなわれないようにと、教会礼拝に出席するのをほぼすっかりやめてしまう人もいます。職探しや他のことで困難に見舞われると、最初は解決法を求めて主に祈ることができるものの、それがいつまでも未解決のままだと主への恨みを募らせるとともに、落胆して失望する人さえいます。そうした人は顔がきき権威がありそうな周りの友人に頼るようになるか、自分自身の考えをもとに行動することもあります。また、主の祝福を受けているときはありとあらゆる教会の仕事に熱心に参加するものの、家庭で悪いことが起きたり、事業で失敗したりすると、主への誤解と不満の中で生き、果ては主のもとから立ち去ってしまう兄弟姉妹もいます。

私たちは自分が日々表し、生きる姿勢を通してあらわにすることから、自らの信仰が決して現実の試練に耐えられないことに気づきます。私たちは主イエスが真の神様であることを認め、自分たちの救い主であるとは信じますが、そのことは神様への真の信仰があることを意味するわけではありません。それは特に、自分がどんな環境にいようと決して神様を否定したり捨てたりしないということを意味するものではありません。それは私たちの信仰が神様に関する真の認識という土台ではなく、神様の祝福と約束を得られるかどうか、何らかの利益を得られるかどうかという土台の上に築かれているからです。私たちの神様への信仰がまったく本物でないのはそれが理由です。では真の信仰とは何でしょうか。真の信仰があることはどのように表現されるのでしょうか。

 

真の信仰とはいったい何か

 

神様の御言葉はこう述べています。

「神がどのように働くのか、あなたがどんな状況に置かれているのかに関わらず、あなたはいのちを追い求め、あなたの内で行われる神の業の進展を求め、真理を追求することが出来るであろう。あなたは神の働きに関する認識を得て、真理に従って行動出来るようになるであろう。これがあなたの真の信仰であり、それは、あなたが神への望みを失っていないことを示している。あなたはなおも精錬の中で真理を追求し、神を真に愛することができ、神への疑念を募らせることはないであろう。神がどんなことをしようと、あなたは神を満足させるために真理を実践し、神の意志を深く追求し、神の意志に気を配ることが出来るであろう。これのみが神への真の信仰である。」(『完全にされる者は精錬されることを体験しなければならない』より)

神様の御言葉から、真の信仰とは自分がどんな環境に直面しようとも、困難や精錬、つまずきや失敗に見舞われようとも、肉体的あるいは霊的な苦しみがどれほど大きかろうとも、神様を畏れ神様に服従する心を保てることだと認識することができます。私たちは神様が用意された環境において真理を探し求め、神様の御心を認識し、神様に忠実であり続けることができなければなりません。このような人のみが真の信仰をもつ人とみなされます。本物の信仰とは何かをよりよく理解できるように、ここでアブラハムとヨブの経験を見てみましょう。

 

1.アブラハムの信仰

 

信仰, 神様を本当に信仰する

アブラハムが百歳のとき、神様は息子イサクを彼に授けると約束なさいました。しかしイサクが成長していくと、神様はアブラハムにイサクを生け贄として捧げなければならないとおっしゃいました。神様がこのようにお働きになるのは人間の観念からあまりにかけ離れていると感じる人は多いでしょうし、そうした試練が自分に降りかかったらきっと神様に反論しようとするはずだと考える人さえいるかもしれません。しかしアブラハムがこの事態に見舞われたとき、彼の反応は私たちの予想と正反対でした。彼は神様に反論しなかっただけでなく、本当に純粋にイサクを神様にお返しすることで、神様に真に服従しようとすることができたのです。聖書にもこう記されています。

「アブラハムは朝はやく起きて、ろばにくらを置き、ふたりの若者と、その子イサクとを連れ、また燔祭のたきぎを割り、立って神が示された所に出かけた……彼らが神の示された場所にきたとき、アブラハムはそこに祭壇を築き、たきぎを並べ、その子イサクを縛って祭壇のたきぎの上に載せた。そしてアブラハムが手を差し伸べ、刃物を執ってその子を殺そうとした……」(創世記22:3、9-10)

すべての人間は肉でできています。私たちはみな感情的であり、こうしたことに見舞われると苦しんだり痛みを感じたりするのは間違いありません。しかしアブラハムが神様と取引しようとするのを慎み、神様のご命令に従えた理由は、イサクがそもそも神様から授けられたこと、そして神様によって連れて行かれることを知っていたからです。アブラハムは当然のこととして従順であり、それが神様へのアブラハムの信仰でした。彼は真に神様を信じ、絶対的に服従しました。それが自分が一番大切にしているものを手放すことを意味しても、進んでイサクを神様にお返ししようとしたのです。神様へのアブラハムの真の信仰と服従は、最終的に神様の承認と祝福を獲得しました。神様は彼を多くの国の父となさいました。彼の子孫は栄え、ますます増え、そして偉大な諸国となりました。

 

2.ヨブの信仰

 

聖書によるとヨブの家庭は大いに富み栄え、十人の子どもと多くの僕たちがいました。当時、人々からは大いに尊敬され、高く評価されていました。しかしサタンの誘惑と攻撃によって、ヨブは一日のうちにすべての財産と子どもを失い、その後全身が腫れ物で覆われました。その試練のせいで、ヨブを東方のもっとも大なる人からもっとも貧しい人になり、さらに家族や友人からも裁かれ攻撃されました。こうした過酷な試練に晒されながらも、ヨブは一言たりとも神様への不満を漏らすことなく、それどころかひれ伏して神様を崇拝し、こう言いました。

「わたしは裸で母の胎を出た。また裸でかしこに帰ろう。主が与え、主が取られたのだ。主のみ名はほむべきかな」(ヨブ記1:21)

「われわれは神から幸をうけるのだから、災をも、うけるべきではないか」(ヨブ記2:10)

ヨブは試練のあいだ、言葉で罪を犯すのを避けるとともに、祈りにおいて神様の御前へ赴くことができました。そのことはヨブの心に神様の居場所があったこと、ヨブには神様への真の信仰があったこと、そして一切の出来事と物事は神様の手中にあり、自分が直面した状況はどれも神様が承認なされたものであって、人間がこしらえたものではないと彼が信じていたことを示しています。ヨブが数十年間の生涯において深く体験したのは、自分がもつ一切のものは神様のご支配と采配から生まれたものだということでした。彼の富はすべて神様から授けられたものであり、自分の努力によって生まれたものではなかったのです。よって、神様が以前にお与えになったものを取り上げたいとお思いになれば、それは当然にして正当なことであり、被造物であるヨブはそれらのものをお取り上げになる神様に服従すべきなのです。神様に反論してはならず、ましてや不満を言うべきではありません。自分のいのちを取り上げられたとしても、一言たりとも不満を漏らすべきでないと彼は知っていました。ヨブの証しはサタンにすっかり恥をかかせ、その後神様は嵐の中からヨブに姿をお見せになり、さらなる祝福をお授けになりました。

アブラハムとヨブの経験から、神様への真の信仰に到達するには、まず神様のご支配について真の認識を得て、一切の出来事と物事はひとえに神様の手中にあると信じなければならないことがわかります。また被造物である自分の立場を本当に知り、被造物が有するべき理知をもたなければなりません。試練や困難がどれだけ大きかろうと、神様を責めたり捨てたりすることはできず、神様の御心を探し求めてそのおそばに立ち、断固として神様に従うことができ続けなければなりません。耐える苦痛がどれほど大きかろうと、それでも神様の証しをしっかり行なえなければなりません。それをできる人だけが神様への真の信仰を自分のものにしているのです。無神論思想をもつ中国共産党によって逮捕、迫害され、残酷な拷問を受けて何年間も投獄されながら、決して神様を否定したり捨てたりしなかった兄弟姉妹のことを考えてください。あれが神様への真の信仰なのです。信者になったあとで家族や友人に拒絶されたり、家庭で不幸な出来事があったりしながらも決して神様に不満を言わず、神様に従い神様のために自分自身を費やし続けることのできる兄弟姉妹がいます。それもまた神様への真の信仰の表われです。自分自身とこれらの証しを比べて、自分が神様への真の信仰の持ち主だと本当に言えますか。私たちの大半にとって、神様がいらっしゃることを無条件に認めることや、主のために福音を広めようと働くことにおいて少しだけ苦しんだり、小さな代償を払ったりできることが信仰の基礎となっています。しかしそれは真の信仰には数えられません。

 

神様への真の信仰を築くには

 

真の信仰を有したいと願うなら、日々遭遇するすべての人、出来事、物における神様のご支配を認識しようと努めるべきであり、神様の準備なさる環境が自分自身の観念と合致しているかどうか、それらが表面的に自分の利益となるかどうかにかかわらず、被造物としての自分の立場を知り、畏れの心をもって神様の御心を探し求めなければなりません。経験するすべてのことから何かを得て、神様が采配なさるすべてのことにおいて神様の行ないを見られるように、神様が私たちのために用意される環境の背後にある綿密かつ熱心な意図を認識しなければなりません。すると神様への私たちの信仰は徐々に本物に近づいてゆきます。ヨブの信仰も同じです。それはヨブに生まれつき備わっていたのではなく、人生で起きたあらゆる出来事において神様のご支配を経験し、神様についての認識を求めたことで徐々に大きくなったのです。ヨブの例にならい、生活の中で神様のご支配を経験し、それを本当に認識することに集中し、そうして神様についての真実の認識に到達することができれば、そのとき初めて神様への真の信仰を自分のものにすることができます。そのとき、いかなる困難や試練が降りかかろうと、肉体や霊の苦痛がどれほど大きかろうと、私たちは信仰を通じて冷静にそれと向き合い、神様の御心と神様が私たちにお求めになることを積極的に探し求め、神様のご支配と采配に従い、神様の証しをすることができます。

神様の啓きとお導きに感謝します。アーメン!


「パリサイ人たちがイエスに反抗した理由の根拠」

2019-09-27 12:27:01 | 讃美歌

 

キリスト教讃美歌「パリサイ人たちがイエスに反抗した理由の根拠」

あなたは何故パリサイ人たちが
イエスに反抗したのか知りたいか?
彼らの本質が何であるのか知りたいか?
彼らはメシアへの幻想と
メシアの到来を信じるだけで
いのちの真理は求めていなかった
彼らは救い主を待っているが
まだ真理やいのちの道を知らない

これ程愚かで・・頑なで・・
無知な 彼らが神の祝福を得られようか?
メシアをその目で 見ることなどありえようか?
彼らがイエスに背いたのは イエスが彼らに語った
真理の道を知らなかったからだ
彼らはメシアまたは聖霊の働きを理解していなかったのだ
彼らはメシアを見たことも 一緒にいたこともないまま
メシアの名に虚しい敬意を払い
その一方で あらゆる手段を使って
メシアの本質に抵抗した

不従順で・・頑なで・・傲慢な
彼らは 「あなたの説教は深遠で高い権威があるが
もしメシアと呼ばれていないなら
あなたはキリストではない」と信じていたが
これらのことは嘲笑すべきたわ言であり 誇大妄想である
今・・神は問いかけている
あなたはパリサイ人たちの過ちを繰り返すのではないか?
イエス・キリストを理解していないのに
真理の道を見極められるのか?
聖霊の働きに ついて行くことができるのか?
あなたはキリストに逆らわないと 保証できるのか?
できないならいのちではなく死が間近に迫っているのだ
『小羊に従って新しい歌を歌おう』より

 

おすすめ動画:

「天国への危険な道」抜粋シーン(5)

 「滅びゆく都」抜粋シーン(3)

 


主の再臨をお迎えした

2019-09-26 16:21:20 | 書籍

主の再臨をお迎えした

エイミー(アメリカ)

 「主とお会いすることは、すべての信者の最大の望みです。主の恵みによって、私は主の再臨をお迎えし、主への感謝の気持ちでいっぱいです」。夜です。明るい月光が窓から部屋に注ぎ込んでいます。灯りの柔らかい光の下で、エイミーは自分が主の再臨をお迎えした体験談をすばやくキーボードを打ちながら書いています。神の彼女への愛と救いを思い、エイミーは立ち上がって静かに窓辺へ行き、満月を見つめながら過去を振り返ります。

主の再臨, 主の再臨をお迎えした

 

教会の荒廃、無力感と混乱

 

エイミーは仕事のためにアメリカに来るまで主を信じていませんでした。信仰を得てからの数年間は、どんなに仕事で疲れていても毎週日曜日には必ずミサに行き、神父の説教を真剣に聞きました。主の愛を心で感じ取り、教会の仲間たちとは家族のように助け合い、支え合っていました。しかし時が経つにつれて、説教が決まり文句の繰り返しであることにだんだん気づきました。いつも同じ聖書の知識と神学の話で、新たな照らしなど何もなかったのです。エイミーは何年もの間カトリック教徒でしたが、宗教の規則や儀式をいくつか守る以外には、主の御心が何であるかや、主の言葉にいかに従うべきかについては一切理解していませんでした。霊のいのちのための養いをまったく受けなかったのです。わからないことがあっても神父に相談しようなどとはしませんでした。なぜなら、神父はお金を一番多く寄付した人や地位のある人でなければ評価せず、話をしたがらないことに気づいたからです。彼女のような一般の教区民に対しては、質問に答えてくれるどころか何の関心も示さなかったのです。エイミーをさらに落胆させたのは、ある神父が年長の教区民と意見の相違で衝突し、なんと彼を他の教区民の前で叱りつけたことでした。それ以来、その人は教会に行くのをやめてしまいます。エイミーが知ったのは、神父は表向きは敬虔に見え、いつも霊的な原則の話をし、人には謙虚で辛抱して主の道に従うようにとよく説いているけれど、実生活での行いは全然違い、非常に偽善的だということでした。彼女はまた、教会がまるで世間のようであることにも気づきました。教区民の関係は各人の自己利益に基づいていました。彼らは商品を売り込んで商業を行うために自分たちの人脈を利用することには非常に熱心でしたが、そうでなければ大概お互いに警戒し合い、とても冷たく接していました。エイミーにはそこに愛のかけらも感じられませんでした。教会の無法な側面をますます多く見るにつれて、彼女の最初の熱心さは冷水がかけられたように徐々に冷めていきました。

やがてエイミーは教会に行く気をなくし、行っても他の人たちのように眠くなることがありました。この事態は変わらず、エイミーは非常に狼狽し、無力感を抱き途方に暮れました。何度も主に祈りましたが、返事はありませんでした。「どうして教会は世間のようになったの。主が私たちと共におられることをどうして感じられないの」と混乱していました。

 

混乱を解消し、主の再臨を迎える

 

2017年12月のある日、エイミーは公園で同級生のスーザンとばったり会いました。スーザンも何年も前から信者です。おしゃべりをするうちに、エイミーは自分の混乱の気持ちを伝えました。スーザンは自分も同じ経験をしたけれど、ある友人の説教を聞いてやっと解決されたと話しました。そしてエイミーを「一緒に礼拝しましょう」と誘い、エイミーは喜んで誘いを受けました。

寒い12月でしたが、明るく晴れた日で、日差しが暖かく感じられました。スーザンはエイミーを友人の家での説教に連れて行きました。説教者は李(リー)兄弟でした。彼は聖書を熟知しており、彼の交わりは実に啓蒙的でした。エイミーは心が明るくなるのを感じました。それから長い間心の中で鬱積していた混乱を打ち明けたのです。

「神父や指導者は何も説教することがなく、兄弟姉妹は信仰に欠けていて、私はいのちの糧を少しも得られていないようなのはなぜですか。教会がとても荒れ果てている本当の理由は何でしょうか」。

李(リー)兄弟はにっこり笑って言いました。

「エイミー、あなたが取り上げた問題は本当に重要です。それは私たちが聖霊の働きに追いつき、主の再臨をお迎えすることができるかどうかに直接関係しています。私たちが終わりの日の最終段階にあり、宗教において多くの不法行為が起きていることは誰もが知っています。神父や指導者は主の戒めを守っておらず、主の御言葉を実践してもいません。ただ宗教儀式を行い、先代から伝わったこと守っているだけです。教会を宗教儀式を行う場所に変え、自分たちの任務と本分を地位の獲得と生計を立てる道具としてきました。表向きは敬虔で辛抱強く、謙虚に見えますが、本質においては偽善者です。宗教界の神父や指導者はなにかと聖書の知識や神学を広めます。その目的は誇示することです。主を高く掲げたり証ししたりはこれっぽちもしません。主の御言葉と人類への要求を証しせず、完全に主の道から外れて、ただ教区民を自分の元に集めるだけです。宗教界は人間、パリサイ人の支配下に置かれました。神はそれを厭われ、取り除かれました。これが宗教界が荒廃した理由の一つです。もう一つの理由は、聖霊の働きが移ったことです。主はすでに再臨しておられ、終わりの日に新たな段階の働きをなさいました。神は真理を表して、サタンによって堕落した人間を徹底的に救うために受肉して地上に来られたのです。それは聖書で述べられた通りです。

さばきが神の家から始められる時がきた』(ペテロの第一の手紙4:17)

たとい、わたしの言うことを聞いてそれを守らない人があっても、わたしはその人をさばかない。わたしがきたのは、この世をさばくためではなく、この世を救うためである。わたしを捨てて、わたしの言葉を受けいれない人には、その人をさばくものがある。わたしの語ったその言葉が、終りの日にその人をさばくであろう』(ヨハネによる福音書12:47−48)

これらの聖句では、主は再臨されたとき、私たちが救いと清めを得て天国に入れるように、裁きの働きを行い、私たちの堕落したサタン的な性質を清めて私たちを罪の束縛から救う、と言われています」

エイミーはこれを聞いて非常に興奮し、「本当なのかしら。主イエスが本当に戻られたなんて」と思い、李(リー)兄弟の交わりを一言も聞き逃さないよう一層熱心に耳を傾けました。

そして李(リー)兄弟は交わりを続けました。

「今や再び受肉なさった主イエス、全能神がすでに地上に来られ、私たちが救いを得るために必要な真理をすべて表されました。終わりの日の神の働きを受け入れる人々をすべて清めるために、神の家から始まる裁きの働きをなさったのです。聖霊の働きはそれに応じて、終わりの日の神の働きを受け入れた人たちに移りました。終わりの日における神の裁きの働きを受け入れた人々は、聖霊の働きを得て、神の御前に引き上げられ、子羊の祝宴に出席し、いのちの水に潤され、養われています。宗教の場にはまり込み、終わりの日の神の働きを受け入れることを拒んだ人々は、終わりの日の神の救いを失って、暗闇と荒廃に陥りました。宗教界が現在荒廃しているのはこのためです。旧約聖書に記録されている律法の時代の後期と同じです。かつて神の栄光に満ちていた神殿が荒れ果て、単なる商いの場となりました。強盗の巣となったのです。これは二つの理由で引き起こされました。一つは、神殿内で神に仕えていた宗教指導者が神の戒めを放棄し、神の律法を犯したことです。単に自分たちの宗教伝統を守っただけで、神の御言葉には従いませんでした。神を畏敬する心は微塵もなく、神の道から外れ、神の呪いと懲罰を受けました。もう一つの理由は、主イエスが神殿の外で新たな段階の働きを行われていたことです。主は恵みの時代を開かれ、律法の時代を終えられました。聖霊の働きはすでに主イエスの贖いの働きに移っていたのです。このため、主イエスの働きを受け入れた人々がそれに応じて聖霊の働きを受けたのに対し、神殿内に留まって主イエスの働きに抵抗し、それを非難した人々は、当然捨てられ、聖霊の働きから排除されたのです」

李(リー)兄弟の交わりを聞いた後、エイミーは言いました。

「教会は商いの場になっていますし、聖霊の働きはありません。律法の時代の終わり頃の神殿とまったく同じ状況です。それは神父たちが教会を宗教儀式の場に変えたからだと今わかりました。彼らは人々を神の御言葉に従うように導かないで、代わりに教区民を自分たちの元に集めます。これが神の嫌悪を招いたのです。それに、神が今や新たな働きをなさったというのに、私たちは神の歩みに追いついていないからでもあります」

李(リー)兄弟はうなずき、「これはすべて全能神の御言葉ではっきり説明されています。仰せられていることを読みましょう」と言うと、パソコンの電源を入れて、全能神の御言葉から二節を読みました。

神はこの事実を成し遂げる。彼は全宇宙のすべての人々を彼の前に迎え、地上の神を礼拝させる。他の場所での神の仕事は終わり、人々は真の道を求めなければならなくなるだろう。それはヨセフのようだ。みな食べ物を求めて彼のもとを訪れ、頭を垂れた。彼は食べ物を持っていたためである。飢饉を避けるために、人々は真理の道を求めなければならない。宗教界全体が飢えており、今日の神のみが、人の喜びのために提供される、枯れることのない生ける水の泉であり、人々は彼のもとに来て彼を頼るだろう。」(『言葉は肉において現れる』の「千年神の国は訪れた」より)

全宇宙における神のすべての働きは、この一群の人々に焦点を当てている。神はあなたがたにすべての努力を注ぎ、あなたがたのためにすべてを犠牲にした。そして全宇宙における聖霊のすべての働きを取り戻し、あなたがたに与えたのだ。それが、あなたがたは幸運なのだとわたしが言う理由である。さらに神は、自らが選んだイスラエルの民から自分の栄光をあなたがたへと移した。それはあなたがた一団を通して、神の計画の目的を全て明らかにするためである。それゆえ、あなたがたは神の嗣業を受ける者、更には神の栄光の継承者となるのだ。」(『言葉は肉において現れる』の「神の働きは人間が想像するほど簡単か」より)

李(リー)兄弟は交わりを続けました。

「全能神の御言葉から、神は全宇宙における聖霊の働きをすべて引き戻され、終わりの日における神の働きを受け入れた人々の中で今や働かれていることを私は理解しました。この人々は神にあらかじめ選ばれており、本当に真の道を求めている人々です。これが、宗教界が聖霊の働きを失い、荒廃した理由です。なぜ神はこうなるようになさったのでしょうか。この荒廃が起こった後、かなりの数の敬虔な真の信者が聖霊の働きのある教会を求めて、神の歩みのしるしを求めて、さまざまな教会に通い始めたことを私たちは皆見てきました。聖霊に導かれて、そのうちの何人かが「神がすでに戻られた」という知らせを聞き、全能神の終わりの日における働きを学び始めました。神の御声を聞き、神の御座の前に引き上げられ、子羊の祝宴に出席したのです。神の御言葉通りです。

人々は真の道を求めなければならなくなる

全宇宙における神のすべての働きは、この一群の人々に焦点を当てている……それゆえ、あなたがたは神の嗣業を受ける者、更には神の栄光の継承者となるのだ

これは、宗教界におけるこのひどい荒廃には神の御厚意がこめられていることを示しています。これを通して、真理を愛し、神の再臨を切望する真の信仰者たちが荒れ果てた宗教界をすぐに離れ、神の御心を求め、子羊の足跡に付き従い、神の御座の前に立ち返るように、神は強いておられるのです。私たちへの神の愛と救いがここにあります。神はとても心優しいのです。もし聖霊の働きを得て生ける水を経験したいのであれば、宗教指導者による惑わしと束縛から自分自身を解放し、終わりの日の神の働きを求め学ばなくてはなりません。神の現在の働きに追いつくことによってのみ、私たちの魂の暗い状態が解消されえるのです。頑に宗教の教会にしがみつけば、いつまでも暗闇の中で生き、聖霊の働きに取り除かれてしまいます」

エイミーはこれを聞いて初めて、宗教界の荒廃の背後には神の御心があり、主はそれを用いて私たちがもっと早く聖霊の新たな働きを求め、主イエスの足跡に付き従うようになさっていることを理解しました。その瞬間、「神は私たちを見捨てず、私たちが神の御座の前に立ち戻れるようにあらゆる方法で救おうとなさっている」と悟ると、エイミーは深く感動しました。主の私たちへの配慮と気づかいを、そして責任感と愛を感じたのです。涙が湧き上がるのを止められず、視界がかすみました。

エイミーは、「終わりの日の全能神の働きのことはよくわからないけど、学んでみる価値のある道だ」と感じました。

その後、全能神の御言葉を読み、李(リー)兄弟の交わりを聞くことで、エイミーは様々な真理を理解するようになりました。それは、聖書の内幕、神の受肉の奥義、神が人類を救うための三段階の働きからなる経営計画、神が新たな働きの段階ごとに御名を変えられる意義、終わりの日の神の裁きの働きがいかに人々を清め、変え、完全にするか、人類の将来の結末と終着点などです。彼女は今までに理解したことのない多くの真理を理解し、霊における大きな喜びを感じ、「全能神の御言葉は真理であり、権威と力があり、神の御声であり聖霊から諸教会への言葉だ」と心の中で確証しました。全能神こそが再臨された主イエスであり、終わりの日のキリストの出現であると断定したのです。

 

サタンの妨害、疑念に沈む

 

まもなくして、エイミーは自分の子供を姉の家に連れて行ったとき、姉に終わりの日の全能神の働きのことを知っているかと尋ねました。姉は神経質そうに彼女を見つめると、「言っとくけど、東方閃電を信じちゃだめよ」と言いました。次に姉は、中国共産党政府が全能神の教会について捏造したあらゆる噂をエイミーに告げました。それを聞いた後、エイミーはとても真剣に言いました。

「どんなことでも、自分が分かってないことをしゃべるべきじゃないわ。人の話をただ繰り返さないで。全能神教会のことを理解せずに盲目的に判断したり非難したりしていいのかしら。キリスト教徒として、私たちは神様を畏れる心を持って、言葉を慎むことができるようになるべきよ」

姉はこれを聞いて機嫌を損ね、厳めしい顔で、「警告してるだけよ。ネットを見て自分で調べなさい」と言いました。姉の真剣な表情を見て、エイミーは「お姉さんの話は本当なのかしら。ネットで見てみないと」と思わずにいられませんでした。実際にネットでは、5月28日招遠市マクドナルド殺人事件を含む、想像していなかった噂をたくさん目にし、怖くなって思いました。

「招遠事件は本当に中国共産党の話の通りに起こったのかしら。東方閃電の信者には本当にこんなことができたの。私の信仰は本当に真の道なのかしら。間違っていたらどうしよう」

エイミーは少し困惑しましたが、そのとき、自分で読んだ全能神の御言葉をすべて思い起こしました。それは誰にでも思いつけるような言葉ではありませんでした。確実に真理であり、神の御声でした。神から来たのです。それから彼女は全能神教会の兄弟姉妹との交流での多くのことを思いました。皆がとても敬虔で、純粋で誠実であるのを彼女は見てきました。堕落を明らかにしたり、何か間違ったことをしたりした人は誰でも自己認識のために集会でそれを打ち明け、神の御言葉に従って分析し、神の御言葉の裁きと刑罰を、また兄弟姉妹による刈り込みと取り扱いを受け入れます。彼らには神を畏敬する心がありました。そんな人々にどうして殺人を犯せるのでしょうか。エイミーはそのときの深刻な心の葛藤に直面していました。間違った道を歩んでいないかと恐れましたが、主の再臨による救いのチャンスを逃すことも恐れました。彼女はそこでスーザンに電話して、「5月28日招遠マクドナルド事件の真相を知るために全能神教会で兄弟姉妹と話をしたい」と言いました。

 

欺瞞を見抜き、決心を更に固める

 

集会で兄弟姉妹は、明(ミン)鏡(ジン)火(フオ)拍(パイ)[訳注-YouTubeのニュースチャンネル]の「贾(か)春(しゅん)旺(おう)、全能神教会包囲を指示。第807計画がいわゆるマクドナルド殺人の発端か」と、全能神教会が制作した「五二八山東招遠事件の背後で暴かれた真実」という二本の動画をエイミーに見せてくれました。この二本の動画を見た後、エイミーは中国共産党が広めた噂についてある程度の識別力を得ました。招遠事件は中国共産党が家庭教会と全能神教会を根絶するためにでっちあげた偽事件に他ならず、教会が行なったことでは決してなく、中共がただ教会を陥れるためにしたことであると彼女は知ったのです。李(リー)兄弟が交わりで述べました。

「中国が独裁政権であり、一党の支配下にあることは周知の通りです。中国の主要メディアは中国共産党の代弁者に過ぎず、特に党の裁判官は中国共産党政府の望み通りに事件を処理しなければなりません。自主性がないのです。中国共産党の裁判所で審理された事件が公平に扱われることがありえると本当に思いますか。私たちは何年もこの国に住んでいました。中国共産党による誤審がどれだけあったかは誰もが知っていると思います。山東招遠事件が法廷で審理されたとき、事件の刑事容疑者は『国が取り締まるのは趙(チャオ・)维(ウェイ)山(シャン)の全能神であり、私たちの全能神ではない』、『私は全能神教会とは関わったことも組んだこともない』と非常にはっきり供述しています。彼ら自身が自分たちは全能神教会の者ではない、教会とは何の関係もないと言ったのです。しかし、中国共産党の裁判官はそれでも彼らの証言を無視し、事実に反して、『容疑者は全能神教会に所属している』と何の証拠もなしに判断しました。裁判官は教会を非難すると決めていたのです。これは中国共産党が意図的に事実を歪め、全能神教会を陥れ、中傷しているのではないでしょうか」

この兄弟の話を聞いて、エイミーは招遠事件のことを思い返し、なるほどとうなずいて言いました。

「そうですね。裁判官は事実に基づいて判決を下さなくてはならないのは、法律の基本がわかる人なら誰でも知っていますが、この中国共産党の裁判官はあからさまに事実に反しています。これは本当に怪しいです。招遠裁判が放送されてすぐに多くのネチズンがこの事件のあらゆる不審な点を投稿で指摘したのも不思議ではありません。招遠事件は中国共産党政府が全能神教会を抑圧するために仕組んだのですね」

趙(チャオ)姉妹が交わりで述べました。

「中国共産党の歴史を理解している人なら誰でも、中共が宗教信仰や民主化運動、人民の権利の擁護や少数民族の抗議運動を暴力で抑圧するときはいつも、先ず偽の事件を作り世論を扇動し、国民をそそのかしてから、残虐なやり方で弾圧することを知っています。これは中共の常套手段です。誰もが知っている天安門運動と同じです。あれは学生による反汚職、民主化運動として始まりましたが、中共は不審人物を何人か送り込んで学生のふりをさせ、学生のあいだに潜入させました。彼らはただ混乱を起こすために人を殴り、物を壊し、店を略奪し、火事を起こし、軍用車両をひっくり返しました。そしてそれらの犯罪を学生の責任にして、学生の運動が反革命的な暴動だと言ったのです。それは学生を抑圧する根拠として世論を利用するためでした。その後、中国共産党は学生に対して残虐な弾圧戦術を行使し、その結果少なくとも何千人もの学生が射殺され戦車で押しつぶされました。中国と世界に衝撃を与えた天安門広場事件はこうして作られたのです。中国共産党がチベットと新疆の人々の抗議と行進を鎮圧したときも同様です。先ず共産党は数名の人に偽の事件を捏造するように扇動してから、その事件を用いて特定の集団の信用を傷つけ、名を汚します。最後には暴力で抑圧します。これらは共産党が反体制派の根絶のために常に用いる卑劣な戦術です。このことから明らかなように、山東招遠事件は中国共産党が全能神教会を残忍に抑圧し迫害するために世間の論議の根拠を作り出したのであり、共産党は宗教信仰の迫害という重大な罪をまた一つ犯したのです」

李(リー)兄弟は続けて言いました。

「それでは、なぜ中国共産党が全能神教会をこのように弾圧し、抑圧しているのでしょうか。それは受肉された全能神が現れて働きをなさり、数百万語もの御言葉、『言葉は肉において現れる』を発されたからです。あらゆる教派における、真理を愛し、光を熱望する人々が全能神の御言葉を読み、『それらはすべて真理であり、力と権威があり、全能神は終わりの日のキリストの出現であり、再臨された主イエスだ』と断定しました。このような人々が次々と終わりの日の全能神の働きを受け入れました。特に近年では、全能神の御国の福音は他の国々や地域にもどんどん広がり、教会の新しい支部が設立されています。ますます多くの人が全能神の御言葉を広め、証しをしています。全能神教会の急速な発展により、中国共産党は慌てふためきました。彼らが最も懸念しているのはキリスト教徒が神の出現と働きを証しすることです。真理が広められるのを恐れ、中国人民が神を受け入れ、全能神の御言葉を通して真理を理解したならば、中国共産党の悪魔的な本質を見抜き、党を完全に拒絶し、壊滅に追いやることを最も恐れています。中国共産党政府が全能神教会を躍起になって弾圧し迫害しているのはこのためです。彼らは教会を陥れて中傷するためにありとあらゆる噂を作り出しただけでなく、機密文書を発布して武装警察や兵士を多数動員し、全国各地の教会とキリスト教徒を躍起になって弾圧し、逮捕し、迫害しました。山東招遠事件は、中国共産党による言いがかりの典型的な一例にすぎません。彼らが手間暇かけて全能神教会に招遠事件の濡れ衣を着せた目的は、教会に対する世間の非難の根拠を築くことで、教会の弾圧と排除を「正当に」行えるようにすることです。それはまた人民をだまし、人々が全能神を否定して神の救いを受け入れることを拒むように扇動するためでもありました。これで人民はいつまでも中国共産党の支配下に留まり、無神論地帯が中国に築かれ、そこでは党が永久に権力を維持して人民を支配しますが、ついには全世界を制すという野望さえ実現することもありえます。中国共産党は天に背き、正しい原則に歯向かい、神の敵であると同時に、真理と正義に敵対しています。しかし、神の知恵がサタンの策略の上に働き、中国共産党によるこの狂った抵抗を通して、サタンの醜い顔が白日の下にさらされました。それで私たちはその邪悪で反動的な本質を見極め、中国共産党が神に抵抗し真理を憎むサタン悪魔であることをはっきりと知ることができます」

スーザンは言いました。

「そうです。彼らの隠蔽と欺瞞は長続きしません。暗い雲には太陽を隠せません。嘘はいつも嘘であり、真理にはなれません。中国共産党はここ何年もの間、嘘を捏造しており、あちこちでますます悪名高くなっています。中国共産党の裁判所で審理された訴訟には少しも信憑性がありません。分別のある人なら誰でも彼らの陰謀を見破れます」

中国共産党の悪しき動機をはっきり知った後、エイミーは憤慨して言いました。

「中国共産党政府は本当に邪悪で、実に忌まわしいです。どんな卑劣な行動も辞しません。神にそこまで敵対するのなら確実に神の義なる罰を受けるでしょう。ああ、今思えば、私は本当にとても愚かで無知でした。判断力に欠けて、サタンの策略に危うくはまるところでした」

趙(チャオ)姉妹が言いました。

「実のところ、話を戻しますと、全能神教会の信者が実際に法律を破ったとしても、それが全能神の出現と働きにどう関係があるというのでしょうか。教会と関係がありますか。カトリック教徒が犯罪を犯したら、それはカトリック教と関係があるでしょうか。それだけの理由でカトリックの神が真の神であることを否定できますか。主イエスの弟子の一人、ユダが主を裏切った時と同じです。だからといって主イエスが真の神ではなかったと疑っていいのでしょうか。宗教を信じる者がどんな犯罪を犯したとしても、どんな法的制裁を受けたとしても、その人の教会とは無関係です。これは一般常識です。全能神の働きが真の道であるかどうか、この方が神の出現であるかどうかを検討したいのなら、肝心なのはその方が表されることが真理であるか、それが神の御声であるのか、その行いが終わりの日に人類を救う働きであるかどうかを判断できることです。これだけが最も重要なのです。全能神が表されることが真理であると断定できる限り、中国共産党と宗教界がどんな嘘や中傷を作り出しても、全能神は依然として真の神です。誰にもこの事実は否定できません。主イエスが現れて働かれた時と同じです。ユダヤ教の指導者たちは主イエスについて多くの嘘を作り上げました。しかし、主の追随者たちは主の御言葉が真理であると知り、主が来たるメシアであると認めました。彼らは嘘の影響をまったく受けず、断固として主に付き従いました。同様に、全能神が表された御言葉がすべて真理であり、神の御声であると私たちが現在断定することができれば、中国共産党が五二八山東招遠事件を何件でっち上げても、たとえそれが百件、千件あったとしても、全能神が真の神であるという事実は覆い隠せません。このことから明白なのは、真の道を学ぶ際には、神の御声を聞き、真理を求め、サタンの嘘と戯言を絶対に聞かないという原則を守らなければならないということです。さもなければ神の救いを失ってしまいます」

趙(チャオ)姉妹の交わりを聞いた後、エイミーは喜んで言いました。

「今日の交わりは最高です。おかげで本当に雲が晴れて、澄んだ空が見えます。真の道を学ぶ上で一番大切なことが何なのかが今ではわかります。それは、そこに真理が含まれているか、それが神の御声であるかどうかを確かめることです。これだけが最も肝要なことであり、神の働きや神が表されている真理とまったく無関係なものの影響や妨害を受けるべきではありません。特にサタンの戯言に耳を傾けるべきではないのです」

真の神と確証し、神の恵みを感じる

そのような嘘による混乱を経験して、エイミーは「神に抵抗して真理を憎む」という中国共産党の邪悪な本質に関してある程度の認識と識別力を得ました。それらの嘘を捏造する悪しき意図を見極め、もはやそれらにだまされなくなったのです。それ以来、機会があるときはいつも、神の御言葉を読み、兄弟姉妹と集って、真理について交わるようになりました。エイミーは全能神が主イエスであるとすっかり確証したのです。その後、終わりの日の全能神の福音を夫に伝えると、神の御言葉を聞いた後、夫もそれを神の御声と認め、神の家に入りました。

パソコンの画面で自分の体験談を見て、エイミーは幸せな笑みを顔に浮かべ、さらに書き加えました。

「今日、迷える羊だった私はついに主をお迎えし、神の家に戻りました。よく兄弟姉妹と共に集会し、神の御言葉について交わり、福音を伝え、本分を果たしています。心がこれまで知ることがなかった落ち着き、安らぎ、喜びを味わっています。神に感謝します」

編集者注 主とお会いすることは、すべての信者の最大の望みです。主人公エイミーは、喜んで主の再臨をお迎えした後、中国共産党が仕組んだ5月28日招遠市マクドナルド殺人事件による混乱に見舞われました。幸いにも、真理を求めることで、彼女は中国共産党の嘘を見抜くことができました。私たちが主の再臨をお迎えする道は嘘と策略に満ちていますが、その道中で「キリストが真理であり、道であり、いのちである」と断定する限り、私たちはこれらの嘘の惑わしを乗り越えて、主の足跡に付き従うことができます。読者の皆さんに、福音映画「知らぬが命取り」をお薦めします。


二度の受肉が受肉の意義を完成させる

2019-09-25 19:50:33 | 書籍

二度の受肉が受肉の意義を完成させる

神による各段階の働きには実質的な意義がある。イエスが来た時男性であったが、今回は女性である。このことから、神はその働きのために男と女の両方を造ったが、神には性の区別がないことがわかる。神の霊が来るとき、それは意のままにいかなる肉体でも持つことができ、その肉体が神を表す。男性であろうと女性であろうと、それが受肉した神である限り、どちらも神を表す。イエスが女として現れたとしても、つまり、男ではなく女の赤子が聖霊によって受胎されたとしても、その働きの段階はまったく同じように完成されたことであろう。もしそうなっていたならば、今回の働きの段階は女性ではなく男性によって完成されなければならず、それでも結局、働きはまったく同じように完成されることになる。両方の段階でなされる働きには意義がある。働きは繰り返されることはなく、お互いに矛盾することもない。その働きの際、イエスは神のひとり息子と呼ばれたが、それは男性であることを示している。それではなぜこの段階でひとり息子のことは言及されていないのか。それは、働きの必要性から、イエスの性とは異なる性へと変更せざるを得なかったためである。神に関しては性の区別はない。神の働きは神の望むようになされ、いかなる制限にも左右されることはなく、非常に自由であるが、各段階には実質的な意義がある。神は二度肉となったが、終わりの日の神の受肉が最後であることは言うまでもない。神はすべての業を明示するために来た。人が目撃できるように、今の段階で神が受肉して自ら働きを行わなければ、人は神は男性にだけなりえるが女性ではないという観念を永久に持ち続けているだろう。これまで、神は男性にだけなりえ、女性は神と呼ばれることはないとすべての人が信じていた。すべての人は男は女に対して権威を持つものとみなしていたからである。権威を持てるのは男だけで、女は誰も持つことはできないと人々は信じており、男は女のかしらであり、女は男に従わねばならず、男を超えることはできないとさえ言った。男は女のかしらであると過去に語られた時、それは蛇にだまされたアダムとエバに関して言われたことであって、初めにヤーウェによって造られた男と女に関してではなかった。男が家族を養えるようにならなければならないのと同様、女は夫に従い、愛さなければならないのはもちろんのことである。これらはヤーウェが示した律法と命令であり、人類は地上の生活において順守しなければならない。ヤーウェは女に「あなたは夫を慕い、彼はあなたを治めるであろう」と言った。こう言ったのは、人類が(すなわち男も女も)ヤーウェの支配下で正常に暮らすことができ、人類の生活が構造を持ち、秩序を失わないようにするためにだけである。従って、ヤーウェは男と女がどう行動するべきかに関する適切な規則を作ったが、この規則は地上に住むすべての創造物にのみ言及するもので、受肉した神に関するものではなかった。どうして神が自分の創造物と同じであり得ようか。神の言葉は創造物である人類にのみ向けられた。それらは人類が正常に暮らせるようにと男と女に対して示された規則であった。最初、ヤーウェが人類を創造したとき、男と女の両方を造った。従って、受肉した神の肉体にも男女の区別があった。神はアダムとエバに語った言葉に基づいて働きを決定したのではなかった。神が受肉した二回は、完全に神が人類を最初に造った時の考えに沿って決定された。すなわち、神はまだ堕落していなかった男性と女性に基づいて二回の神の受肉の働きを完成させた。蛇にだまされたアダムとエバにヤーウェが語った言葉を人が神の受肉の働きに適用したら、イエスも果たすべきこととして妻を愛さなければならなかったのではないだろうか。それでもやはり神は神なのだろうか。もしそうなら、神は働きを完成させることができるだろうか。受肉した神が女性であることが間違いならば、神が女を造った時も大きな間違いだったのではないだろうか。神が女性として受肉することが間違いだと人がまだ信じているなら、結婚をせず、したがって妻を愛することができなかったイエスの受肉も現在の受肉と同じように誤りではないだろうか。ヤーウェがエバに語った言葉を使って今日の神の受肉の事実を判定するのなら、恵みの時代に受肉した主イエスを評価するのに、ヤーウェがアダムに語った言葉を使わなければならない。これら二つは同じではないのか。蛇にだまされなかった男に基づいて主イエスを評価するのならば、今日の受肉の事実を蛇にだまされた女に基づいて判断することはできない。それは公正さに欠ける。そのような判断を下すならば、あなたは理性に欠けていることは明らかだ。ヤーウェが二度受肉した時、肉体の性は蛇にだまされなかった男と女に関連していた。神は蛇にだまされなかったそのような男と女に従って二度受肉した。イエスの雄性は蛇にだまされたアダムの雄性と同じだと考えてはいけない。イエスはアダムとはまったく関係がなく、彼らは本質の異なる二人の男性である。確かに、イエスが雄性を持っているからといって、イエスがすべての女だけのかしらであり、すべての男のかしらではないと証明することにはならないのではないか。イエスは全ユダヤ人(男も女も含む)の王ではないのか。イエスは神自身であり、女だけのかしらでなく、男のかしらでもある。イエスはすべての被造物の主であり、すべての被造物のかしらである。どうしてイエスの雄性が女のかしらであることの象徴だと決めることができようか。これは神への冒涜ではないだろうか。イエスは堕落しなかった男性である。イエスは神であり、キリストである。イエスは主である。どうしてイエスが堕落したアダムのような男性でありえようか。イエスはもっとも聖なる神の霊が身に着けた肉体である。どうしてイエスはアダムの雄性を持つ神であるなどと言えようか。それではこれまでの神の働きはすべて間違っていたことになるのではないか。ヤーウェはだまされたアダムの雄性をイエスの中に組みこむことができたのだろうか。現在の受肉は、性はイエスと異なっていても、本質は同様な受肉した神の別の働きなのではないか。それでもまだ受肉した神は女性ではありえない、なぜなら蛇に最初にだまされたのは女だからだとあえて言うのか。女は最も不潔で、人類の堕落の発端なのだから、神が女性として受肉することなど到底ないとまだあえて言うのか。「女はいつも男に従うべきで、決して神を明らかにしたり、直接象徴したりしてはならない」とまだあえて言うのか。あなたは過去に理解しなかった。今でもなお神の働き、とりわけ受肉した神を冒涜できるのか。このことをはっきり理解できないならば、自分の愚かさや無知が明らかにされ、醜さが暴露されないよう、発言にはせいぜい気をつけなさい。自分がすべてを理解していると考えてはいけない。あなたがこれまで目にし、経験してきたことは、すべてわたしの経営計画の千分の一を理解するのにさえ十分ではないとわたしは言う。ではなぜそんなに傲慢なのか。あなたの持っているほんのわずかな才能と最小限の認識では、イエスの働きの一秒に使用するのにさえ不十分である。あなたは実際どれほどの経験を持っているのか。あなたが生涯で見てきたもの、耳にしてきたすべて、想像してきたことは、わたしが一瞬で行う働きより少ない。あら探しをしたり、欠点をみつけたりしないほうがよい。どんなに傲慢でも、あなたはまだアリ以下の被造物なのだ。あなたの腹の中にあるすべては、アリの腹の中にあるすべてよりも少ない。自分が多くを経験し、先輩になったので、思うがままの横柄さで語り、行動してもよいと考えてはならない。あなたの経験があり、先輩であるのは、わたしが発した言葉の結果ではないのか。自分の労働や苦労と引き換えにそれらを獲得したと信じているのか。今日、あなたはわたしの受肉を見て、その結果、たっぷりと観念を持ち、そこから数え切れないほどの勝手な考えが出て来る。わたしの受肉がなかったら、あなたの才能がどんなに並外れたものであっても、これほどの観念を持つことはないだろう。勝手な考えが生まれるのはここからではないのか。イエスの初めて受肉がなければ、あなたは受肉について何を知っているだろうか。あなたが二度目の受肉を厚かましくも大胆に批判するのは一度目の受肉を知っているからではないのか。いったいなぜ素直に従う代わりに細かく調べなければならないのか。あなたはこの流れに入り、受肉した神の前に来た。どうしてあなたに研究することが許されようか。あなたが自分の家族史を研究するのは結構なことだが、神の「家族史」を研究するなら、今日の神はあなたがそうすることをどうして許せようか。あなたは盲目ではないのか。あなたは自ら屈辱を受けようとしているのではないのか。

イエスの働きが終わりの日のこの段階の補完なしに行われていたら、人は永久にイエスだけが神のひとり子である、すなわち、神は一人の息子しか持たず、別の名前でその後に出て来る者はだれも神のひとり子ではなく、いわんや神自身でもないという観念を持ち続けるだろう。罪の贖いの捧げものとしての役割を果たす者、あるいは神のために権力を担う者、また、全人類を罪から救う者は神のひとり子であるという観念を人は持っている。現れる者が男性である限り、その人は神のひとり子、神の代理と見なすことができると信じている人々もいる。そして、イエスはヤーウェの息子、ひとり子であるという人々さえいる。これは人の作った深刻な観念ではないだろうか。今の段階の働きが最後の時代になされなかったならば、全人類は、神について陰に包まれてしまうだろう。もしそうなら、男は自分を女より高い地位にあるものと考え、女は堂々としていることが決してできないだろう。そうなれば、女性はだれも救いを受けないだろう。人々はいつも、神は男で、女を常にひどく嫌い、女には救いを与えないと信じている。もしそうなら、ヤーウェによって造られ、そして堕落したすべての女は決して救いを受ける機会が得られないというのは本当なのではないか。それなら、ヤーウェが女を造ったこと、すなわち、エバを造ったのは無意味だったのではないのか。そして女は永久に消滅するのではないだろうか。従って、終わりの日のこの段階の働きは全人類、女だけでなく全人類を救うことである。この働きは女のためだけでなく、すべての人類のためである。そうでないと考える者は、なおさら愚か者である。

現在なされている働きは恵みの時代の働きを推し進めた。すなわち、六千年経営(救いの)計画全体における働きは前進した。恵みの時代は終わったが、神の働きはさらに前進している。なぜわたしは今の段階の働きは恵みの時代と律法の時代を基礎にしていると繰り返し言うのだろうか。これは、今日の働きは恵みの時代に行われた働きの延長であり、律法の時代に行われた働きを向上させたものであることを意味する。三つの段階は密接に相互関連しており、一つはその次の段階に繋がっている。なぜわたしは今の段階の働きはイエスによってなされた働きの上に築き上げられるとも言うのだろうか。この段階がイエスによってなされた働きの上に築き上げられなければ、キリストの磔刑、つまり過去に行われた贖いの働きはこの段階でなお実行されなければならない。だが、これは無意味なことであろう。従って、働きは完全に終わったのではなく、時代が前進し、働きは以前に比べていっそう高まったということである。今の段階の働きは律法の時代、および、イエスの働きの堅固な支えを基礎に置いて築かれるということができるだろう。働きは段階ごとに築かれ、今の段階は新しい始まりではない。三つの働きの段階の組み合わせのみを六千年にわたる経営(救いの)計画とみなすことができる。今の段階は恵みの時代の働きを基礎にして行われる。これら二つの働きの段階に関連がなければ、なぜ今の段階には磔刑がないのか。なぜわたしは人の罪を背負わないのか。わたしは聖霊による受胎により来るのではないし、人の罪を背負うために磔刑にされることもないだろう。むしろ、わたしは人を直接罰するためにここにいる。磔刑のあとわたしが人を罰しなければ、そして今わたしが聖霊による受胎を通して来るのでないならば、わたしは人を罰する資格がないだろう。わたしがイエスと一つなのであるからこそ、わたしは人を罰し、裁くために直接来るのだ。今の段階の働きは完全に過去の段階を基礎にしている。だからそのような働きだけが段階を追って人を救済に導くことができる。イエスとわたしは同じ霊から来ている。わたしたちの肉体には何の関連性もないが、わたしたちの霊は一つである。わたしたちがすることやわたしたちが担う働きは同じではないが、わたしたちは本質的に同じである。わたしたちの肉体の形は異なるが、これは時代の変化ならびにわたしたちの働きの必要性のためである。わたしたちの職分は同じではないので、わたしたちが作り出す働きや、わたしたちが人に明らかにする性質も異なっている。そういうわけで、今日人が見るものや受け取るものは過去のものと同じではない。それは時代の変化のためである。彼らの肉体の性や形は異なっているが、そして彼らは同じ家族から生まれたのではなく、ましてや同じ期間に生まれたのではないが、彼らの霊は一つである。彼らの肉体は血縁関係も物理的関係も決して共有していないが、それによって彼らが二つの異なる時期において受肉した神であることを否定することにはならない。彼らは同じ血統ではなく、共通する人間の言語を持っていないが(一人はユダヤ人の言語を話す男性であったし、もう一人は中国語しか話さない女性である)、彼らが受肉した神であることは否定できない真実である。これらの理由から、彼らは異なる国で、異なる期間になすべき働きを行う。彼らの霊は同じで、同じ本質を持っているという事実にも関わらず、彼らの肉体の外見には完全な類似性はまったくない。彼らは同じ人間性を共有しているだけで、彼らの肉体の外見と誕生は似ていない。これらのことはそれぞれの働きや、人が彼らに関して持つ認識に何の影響も与えない。なぜなら結局彼らは同じ霊であり、誰も彼らを分けることはできないからである。彼らには血縁関係はないが、存在全体は彼らの霊によって指示されているので、肉体は血統を共有しないままに、彼らは異なる期間に異なる働きを引き受けている。ヤーウェの霊はイエスの霊の父ではなく、イエスの霊もヤーウェの霊の子ではない。彼らは同じ霊である。今日の受肉した神とイエスと同様である。彼らに血縁関係はないが、彼らは一つである。これは彼らの霊が一つだからである。彼は慈愛と憐れみの働きを行うことができ、同様に義である裁きの働きや人を罰する働き、人にのろいをもたらす働きも行うことができる。結局、彼は世界を破壊し、不道徳な人々を罰する働きを行うことができる。彼はこのすべてを自分自身で行うのではないのだろうか。これは神の全能性ではないのだろうか。神は人のための律法を示し、戒律を発令することができ、また古代のイスラエル人が地上で暮らせるように導き、神殿や祭壇を建造して、イスラエル人すべてを統治するよう指導することができた。その権威のため、神は地上で二千年イスラエル人とともに生きた。イスラエル人はあえて反抗しなかった。すべての人がヤーウェを崇拝し、戒律を守った。この働きはすべて神の権威と全能性によって行われた。恵みの時代、イエスはすべての堕落した人類(イスラエル人だけではない)を罪から救うために現れた。イエスは人に慈愛と憐れみを示した。恵みの時代に人が見たイエスは憐れみに満ちており、いつも愛情にあふれていた。というのは、イエスは人を罪から救い出すために来たからである。イエスは磔刑を受け、本当に人類を罪から救い出すまで人の罪を許すことができた。その間、神は人の前に慈愛と憐れみを持って現れた。すなわち、イエスは人のために罪の生け贄になり、人が永久に許されるように人の罪のため磔刑にされた。イエスは慈悲深く、憐れみ深く、我慢強く、愛情があった。恵みの時代にイエスに従ったすべての人々も、あらゆることにおいて我慢強く、愛情深くあろうとした。彼らはすべての苦しみに耐え、たとえ叩かれても、罵られても、石を投げつけられても、決して反撃しなかった。しかし、この最終段階でそうはならないのは、霊は一つであったにもかかわらず、イエスとヤーウェの働きが異なっていたのと同様のことであった。ヤーウェの働きは時代を終わらせることではなく、時代を導き、地上における人類の生活を先導することであった。しかし今の働きは、異邦人の諸国のひどく堕落した人々を征服し、中国の家族だけでなく全宇宙を導くことである。今、この働きが中国で行われているのをあなたは知っているが、実はすでに海外に広がり始めている。なぜ外国人は何度も真理の道を探し求めるのだろう。それは霊がすでに働きを開始しており、言葉は今や全宇宙の人々に向けられているからである。これはすでに働きの半分にあたる。神の霊は世界が創造されて以来極めて偉大な働きをなしてきた。神は異なる時代にわたって、異なる国々で異なる働きを行ってきた。各時代の人々は、神の異なる性質を見ているが、それは神が行う異なる働きを通して自然に明らかにされる。それは神であり、慈愛と憐れみに満ちている。神は人の罪の生け贄であり、人の羊飼いであるが、人を裁き、刑罰を与え、のろいをかけることもある。神は人が二千年地上で生活するよう導くことができ、堕落した人類を罪から救い出すこともできる。そして今日、神は神のことを知らない人類を征服し、彼らを神の支配下に置き、すべての人が完全に神に服従するようにすることもできる。最後には、神は全宇宙の人々の中の不潔なもの、不義なものをすべて焼き払い、彼らに神が慈愛、憐れみ、英知、不思議、高潔の神というだけでなく、さらには人を裁く神でもあることを示す。全人類の中にある悪い者に対して、神は激しい炎、裁き、懲罰そのものである。完全にされるべき人々に対して、神は試練、精錬、苦難であり、同時に慰め、滋養、言葉の供給、取り扱い、刈り込みである。取り除かれる人々にとって、神は懲罰であり、報いである。教えてくれ。神は全能ではないのか。神はあなたが想像した磔刑だけではなく、すべての働きができる。あなたは神のことをあまりに低く考えている。磔刑による全人類の贖罪後、すべては終ると信じているのか。しかも、その後、神に従って天に行き、いのちの木から果実を食べ、いのちの川から水を飲むのか。そんなに単純なことであろうか。教えてくれ。あなたは何を成し遂げたのか。あなたはイエスのいのちを持っているのか。あなたは確かにイエスによって罪から救われたが、磔刑はイエス自身の働きであった。人としてあなたはどのような義務を果たしたのか。あなたは表面的に神を敬っているだけで、神の道を理解していない。それが神を明らかにするあなたの方法なのか。神のいのちを受け取っていなければ、あるいは神の義なる性質のすべてを見ていなければ、いのちを持っている者であると主張することはできず、天の国の門を通過するに値しない。

神は霊であるだけでなく、肉体になることもできる。そのうえ、神は栄光のからだである。あなたたちは見ていないが、イエスはイスラエル人によって、すなわち、当時のユダヤ人に目撃された。彼は最初肉体であったが、はりつけにされた後、栄光のからだになった。神はすべてを包みこむ霊であり、あらゆる場所で働きを行うことができる。彼はヤーウェ、イエス、メシアになれる。最後には全能の神になることができる。それは義であり、裁き、刑罰であり、のろい、怒りであるが、慈愛と憐れみでもある。神の働きはすべてが神を表すことができる。神とはどのようなものだと言うのか。あなたはまったく説明することができないで、「神とはどのようなお方なのか私には説明することはできない」と言えるだけである。ある段階で神が贖いの働きをしたと言うだけで、神は永久に慈愛と憐れみの神であると結論づけてはいけない。あなたは、神はそのようなだけの神であると確信できるのか。もし神が慈悲深く、愛情あふれる神ならば、なぜ終わりの日に時代を終わらせるのだろうか。なぜ神はこれほどたくさんの災難を送り出すのだろうか。あなたが考えるように神が最後まで、最後の時代まで、人に対して慈悲深く、愛情があるならば、なぜ神は災難を天から地上に落とすのだろうか。神が自身のように、また神のひとり子のように人を愛するならば、なぜ疫病やあられを天から地上に落とすのだろうか。なぜ神は人が飢饉や疫病に苦しむのを許すのか。なぜ神は人がこれらの災難に苦しむのを許すのか。あなたたちのだれも神がどのようなものであるのかあえて言わないし、誰も説明できない。神は霊であると確信できるか。神はイエスの肉体だとあえて言うのか。そして、神は人のために永久に磔刑にされる神であるとあえて言うのか。