神の羊は神の御声を聞く

「わたしの羊はわたしの声を聞く」黙示録も予言されました。「耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。」

マタイの福音書25章の说教:どのように賢い乙女になって主を迎えるか

2020-07-05 11:08:30 | 福音を証しするシリーズ

マタイの福音書25章の说教:どのように賢い乙女になって主を迎えるか

主イエスは言われた。「また、戦争と戦争のうわさとを聞くであろう。注意していなさい、あわててはいけない。それは起らねばならないが、まだ終りではない。民は民に、国は国に敵対して立ち上がるであろう。またあちこちに、ききんが起り、また地震があるであろう。しかし、すべてこれらは産みの苦しみの初めである」(マタイによる福音書 24:6–8)現在、世界中で大災害の発生がますます増加しており、武漢コロナウイルス、アフリカのバッタの大群、オーストラリアの山火事、その他の災害が次から次へと起こっています。ブラッドムーンも4回現れました。主の到来の預言はおおむね満たされているため、主はすでに再来されているはずです。そこで今、主を信じる多くの人々の心をとらえている問題は、「どうすれば思慮深い乙女として主の再来を迎えることができるか」というものです。主イエスはかつて、次のように語られました。「そこで天国は、十人のおとめがそれぞれあかりを手にして、花婿を迎えに出て行くのに似ている。その中の五人は思慮が浅く、五人は思慮深い者であった。思慮の浅い者たちは、あかりは持っていたが、油を用意していなかった。しかし、思慮深い者たちは、自分たちのあかりと一緒に、入れものの中に油を用意していた」(マタイによる福音書 25:1–4)聖書を読むと、思慮深い乙女たちは灯りの油を用意して主の到来を恭しく待ち受けていたことがわかります。彼女たちは最終的に主を迎え、天の国の饗宴に参列することができました。そのため多くの兄弟姉妹たちは、いつも聖書を読み、集まりに参加し、熱心に主の働きに取り組んで、恭しく待ってさえいれば、自分は油を用意した思慮深い乙女であり、主が到来されたときには天の国に引き上げられるのだと信じています。しかしこれは私たちが長年実践してきたことであり、そして現在あらゆる災害が起こっていながら、まだ私たちは主をお迎えしていません。そのため私たちはよくよく考え、自問せざるをえなくなっています。このように主の働きを熱心に行うことが、本当に思慮深い乙女であるということなのだろうか、と。私たちは主をお迎えし、患難が起こる前に引き上げられることができるのでしょうか。
聖書を読み、祈り、主の働きを熱心に行うことで、思慮深い乙女になれるのか
ここで律法学者や祭司長、パリサイ人らを思い出してみましょう。彼らはみな聖書をよく読んでおり、何世代にもわたって神に仕えていました。律法に厳格に従い、戒律を守り、熱心に働き、さらに世界中を回って神の福音を広めてもいたのです。彼らは非常に多くの働きを行い、少なからぬ苦難に耐え、メシヤの到来を恭しく待っていたと言ってよいでしょう。私たちの観念や想像に基づけば、彼らは油を用意した思慮深い乙女だったはずであり、誰よりも主を迎え主の救いと恵みを受ける資格があったはずです。しかし事実はどうでしょう。主イエスが受肉して働きを行うために到来されたとき、こうした人々は主イエスを認識できなかっただけでなく、自分の観念や想像に基づいて、「『メシヤ』と呼ばれていない者は神ではない」とさえ思い込んだのです。主の御言葉には明らかに権威と力があったにもかかわらず、彼らは自分の観念と想像に基づいて、主イエスの働きと言葉を聖書から逸脱しているといって糾弾しました。そしてそれを根拠として、主が神自身であるということを否定し、さらにそれに乗じて主イエスを裁き冒涜したのです。彼らは心の中に神への畏敬の念をかけらも持ち合わせておらず、それを理解もしていなければ、探し求めてもいませんでした。しまいにはローマ政府としめし合わせて主イエスを十字架にかけたため、最終的に神によって罰せられました。これで、パリサイ人は思慮深い乙女だったと言えるでしょうか。彼らは労苦し働きを行うことだけを気にかけており、旧約聖書の律法は守っていましたが、神については少しも知らず、神の声を聞くことができなかったのです。彼らは最も思慮の浅い乙女だったと言えるでしょう。では、真に思慮深い乙女とはどういったものなのでしょうか。それについてはこの先を読んでみてください。

思慮深い乙女とは
主イエスはかつて、次のように語られました。「わたしの羊はわたしの声に聞き従う。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしについて来る」(ヨハネによる福音書 10:27)「夜中に、『さあ、花婿だ、迎えに出なさい』と呼ぶ声がした」(マタイによる福音書 25:6)聖書を見ると、思慮深い乙女たちが花婿を迎えることができるのは基本的に、彼女たちが神の声を聞くことを非常に大事にしているからであることがわかります。誰かが「花婿が来る」と叫ぶのを聞くと、思慮深い乙女たちは率先して出迎えに行き、探し求めます。そして最終的に、神の言葉の中に神の声を聞き、主を迎え入れるのです。これはちょうど、聖書に書かれているように、サマリアの女が主イエスの次のような言葉を聞いたときに似ています。「あなたには五人の夫があったが、今のはあなたの夫ではない。あなたの言葉のとおりである。」(ヨハネによる福音書 4:18)彼女は自分が心に隠していることを知り語ることができるのは神しかいないことに気づき、驚嘆して、そこにいた人々にこう呼びかけます。「わたしのしたことを何もかも、言いあてた人がいます。さあ、見にきてごらんなさい。もしかしたら、この人がキリストかも知れません」(ヨハネによる福音書 4:29) 彼女は主の言葉から、主イエスこそその到来が預言されていたメシヤであると気づいたのです。そしてペテロもそうです。彼は主とともにいた間、主イエスが話された言葉やなされた働きが、常人に可能なものではないことを目にしました。主の言葉や働きから、ペテロは主イエスがキリストであり、神の子であることに気づいたのです。そしてナタナエル、ヨハネ、アンデレその他の人々もみな、主イエスの言葉の中に神の声を聞きました。彼らは主イエスが神自身であることを確信し、すべてを捨てて主に従いました。こうした人々だけが、思慮深い乙女なのです。

上記の事実から、聖書を読み、集まりに参加し、熱心に主の働きを行い、恭しく待っている人々が、すべて思慮深い乙女なわけではないことは明らかです。思慮深い乙女とは何よりも、神の声を聞き入れる人々のことであり、こうした人々は他の人が神の福音を広めているのを聞くと、自分の観念や想像を捨て、神の働きを謙虚な心で探し求めることができます。最終的に彼らは神の啓きを得て、神の声を認識し、主を迎えることになります。しかし神の声を聞くことに注意を払わず、真理が表されるのを聞いても求めることをせず、判断力に欠け、かたくなに聖書の言葉だけにこだわっている人々や、労苦し、力を尽くし、捧げ物をすることで神の出現を出迎えることができると信じている人々は、すべて思慮の浅い乙女であり、最終的に神の救いと恵みを失うことになるのです。

思慮の浅い乙女になって、大災害のただ中で神に見捨てられ排除されることがないようにするため、私たちは主の到来を迎えるべきこの重大な時期に、思慮深い乙女となり、神の声を聞こうと努めることに集中しなければなりません。ヨハネの黙示録には次のように書かれています。「耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい」(ヨハネの黙示録 2:7)「見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう」(ヨハネの黙示録 3:20)こうした予言から、世の終末に主が再来されるとき、主は何らかの言葉を発されることがわかります。では私たちはどうやって神の声を聞き分ければよいのでしょうか。次は、さらにいくつかの原則について見ていきましょう。

1) 神が表される言葉には権威と力があり、それらは神の性質を表している

ご存じのとおり、神が最初に世界を創造するために用いたのは言葉でした。神の言葉には権威と力があり、神の言葉が発されると、それはただちに現実となります。これは神が創世記で次のように語られたとおりです。「『光あれ』と言われた。すると光があった。」(創世記 1:3)「『天の下の水は一つ所に集まり、かわいた地が現れよ』。そのようになった。」(創世記 1:9)ヤーウェは次のようにモーセに言われました。「イスラエルの人々の全会衆に言いなさい、『あなたがたの神、主なるわたしは、聖であるから、あなたがたも聖でなければならない。』」(レビ記 19:2)また、主イエスがパリサイ人を暴いて言われた言葉に次のようなものがあります。「偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたは、天国を閉ざして人々をはいらせない。自分もはいらないし、はいろうとする人をはいらせもしない」(マタイによる福音書 23:13)

一度神の言葉を聞けば、私たちはそれが普通の人間に語れるものではないことに気づきます。神の言葉は万物を支配することができ、万物は神の言葉によって形を成し完全にされるのです。神に抗う者、服従しない者はすべて、神の言葉によって呪われることもあります。神の言葉を聞くと、私たちは畏怖の念に満たされ、神の性質がいかなる人間の侮辱も許さないこと、神の言葉は神の状態と権威を完全に表していることを感じ、そして終わりの日には自分が聞いているものが再来された主の声であるかどうかを聞き分けねばならないと感じます。そのようにして、私たちは判断力を得ることができるのです。

2) 神の言葉は神秘を露わにし、人類の堕落と秘密とを暴く

ご存じのとおり、受肉した主イエスは働きを行っていた間、多くの神秘をあらわされました。「悔い改めよ、天国は近づいた」(マタイによる福音書 4:7)という言葉や、「わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである」(マタイによる福音書 7:21)という言葉が語られています。主が神の国への入りにまつわる神秘をあらわされたおかげで、私たちは真に悔い改めて天の父の旨を行う者だけが天の国に入れるということを知っています。これは、もし主イエスがこの神秘を私たちにあらわされていなかったなら、誰も知り得なかったことです。

そして神は、人々の心の奥を探る方です。神は私たちを完全に理解しており、神だけが私たちの堕落とその心の中にあるものを露わにすることができます。たとえば、ナタナエルがいちじくの木の下にいたことを主イエスが語ったことで、ナタニエルはイエスが、到来が預言されていたメシヤであると気づきました。また取税人のマタイも、主イエスが自分の祈りの内容を語ったため、イエスが神だと気づきました。このように、神の言葉は神秘をあらわすだけでなく、人類の堕落と秘密も露わにすることがわかります。これもまた、何かが神の声であるかどうかを見分ける1つの方法です。

3) 神の言葉はいのちの糧を与え、人々に道を備えてくれる

主イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない」(ヨハネによる福音書 14:6)神自身が真理であり、神は人類の糧に関する真理を、人の必要性に応じていつでもどこでも表すことができます。律法の時代、人類はどのように生きるべきか、どのように神を崇めるべきかを知らなかったため、神はモーゼを通して、人々の人生を導くための律法をお与えになりました。これは十戒で次のように言われているとおりです。「わたしはあなたの神、ヤーウェであって、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した者である。あなたはわたしのほかに何ものをも神としてはならない。」(申命記5:6-7)「あなたは殺してはならない。あなたは姦淫してはならない。……あなたは隣人について偽証してはならない。あなたは隣人の妻をむさぼってはならない。……」(申命記5:17-21)神の言葉を聞いたことで、当時の人々はどのように生き、どのように神を崇めるべきかを知りました。そして主イエスが到来して働きを行い、天の国の福音を広められたとき、主は人々に、自分の罪を告白して悔い改めねばならないこと、寛容で忍耐強くあらねばならないこと、他人を自分自身のように愛さねばならないこと、地の塩となり世の光とならねばならないことなどを教えられました。あるときペテロが主イエスに、次のように尋ねました。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯した場合、幾たびゆるさねばなりませんか。七たびまでですか」(マタイによる福音書 18:21)イエスはペテロに直接答えてこう言われました。「わたしは七たびまでとは言わない。七たびを七十倍するまでにしなさい」(マタイによる福音書 18:22)主のこうした言葉を聞いて、ペテロは赦しというものが常に順守すべきものであり、条件をつけたり一定の回数までと制限したりするものではないことを理解しました。そしてペテロは実践の道を得たのです。

このためもしこれから誰かが、主が再来されたという朗報をもたらし、聖霊が教会で語っていると証ししたら、私たちは耳を傾け、それが私たちの現在の必要に対する糧をもたらせるかどうかを考えてみればよいのです。私たちは現在みな、罪を犯してはそれを懺悔するというだけの状態にあり、そこから抜け出せずにいます。語られた言葉が、私たちが罪から自由になり清められるための道を指し示せるのであれば、それは主イエスが再来されたことを意味します。このただ1つの原則によって、私たちは神の声を聞き分けることができるのです。

この交わりで、思慮深い乙女になり主をお迎えするための道は示されたでしょうか。もしこれが役に立ったなら、ぜひ他の人々にも知らせてあげてほしいと思います。私たちがみな思慮深い乙女となり、主の声を求め注意深く耳を傾けることに心を注げるよう願っています。まもなく私たちが主の再来をお迎えし、神の饗宴に参列することができますように。

 

なんと一度救われたことが永遠に救われたことに等しくなかったんだ

2020-06-14 11:49:43 | 福音を証しするシリーズ

 

なんと一度救われたことが永遠に救われたことに等しくなかったんだ

 

太陽が西の空に沈みかけ、夕焼けが広がる中、私は牧師が集会で言った言葉を考えながら家に向かっていました。「一度救われれば、私たちは永遠に救われているのです。聖書はこう言っているからです。「自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる。なぜなら、人は心に信じて義とされ、口で告白して救われるからである。」(ローマ人への手紙10章9-10節) 私たちが主イエス様を信じ、心の中で主を信じて認め、言葉でそう告白するならば、私たちは救われます。一度救われたならば、永遠に救われているのです。終わりまで主のために働き、尽くし、耐えるならば、主が戻られるときに、私たちはすぐに天国に引き上げられます。」私は牧師の言葉にアーメンと答えました。「その通りだ。主イエス様は十字架にかけられた。それゆえに私たちは贖われたんだ。私たちが主の御名を呼び求め、罪を告白して主の前に悔い改めるならば、主の恵みによって罪は赦され、救われるんだ。そして一旦救われたならば、それはずっと続くことであり、後の日には天国へと引き上げられるんだ。」長年の信仰の中で、私はいつもそれが正しいと堅く信じ、疑ったことは一度もありませんでした。
けれどもある日、私が聖書を学んでいると、次のような主イエス様の御言葉が目に入りました。「わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。」(マタイによる福音書7章21節)「もしわたしの言葉のうちにとどまっておるなら、あなたがたは、ほんとうにわたしの弟子なのである。」(ヨハネによる福音書8章31節) 私は注意深くこの御言葉を思い巡らしました。そして、主イエス様が言われていることは、神様の御心を行い、実践する人だけが、天国へ入ることができるということだと理解しました。信仰を持てばそれで救われると言っているのでも、一度救われればそれがずっと続くと言っているのでもなく、主が戻られた時にその人々はすぐに天に引き上げられると言っているのでもないのです。自分の考え方は主の言葉と一致していないのではないかと感じ始めました。これまでの長い年月、ずっと間違っていたということなどあるだろうか。ずっと主を信じてきて、主イエス様によって贖われたということを微塵も疑ったことはなかった。けれど、主の教えを実践しないことも多くあった。神様の御心を実践しないのに、どうやって天国に入れるのだろう。そう考えると不安も感じたけれど、こうも考えた。「主イエス様が私たちの罪のいけにえとなってくださり、全ての罪を赦してくださったのだから、私たちは恵みにより救われているんだ。それなら天国に入れないことなどあるだろうか。恵みによって救われるとは、永遠の救いを意味するのではないだろうか。」私はひどく困惑し、このことを追い求め、主の御前で繰り返し祈りました。何冊もの霊に関する本も読みましたが、答えは見つかりませんでした。

後日、同労者との会議に出席した私は、ずっと会っていなかったヂャン兄にばったり会いました。ヂャン兄は説教師で、聖書をまっすぐに理解していました。どの集会でも、ヂャン兄から新たな光を与えられ、多くを得ることが出来ました。久しぶりにヂャン兄に会った私は、挨拶を交わすと、しばらく話し込みました。そうするうちに、私は自分がずっと引きずっている問題を彼に話しました。ヂャン兄は微笑んで言いました。「ヤンさん、あなたが今言われた問題は、私たちが天国へ入ることができるかどうかに関する重要な問題と関連しています。私も以前悩みましたが、主の導きを与えられました。そして追い求める中で、真の救いが何かを明確に理解できるようになりました。」私は待ちきれずに言いました。「それを今すぐ教えてください!」ヂャン兄は微笑みながら次のように言いました。「すでに知っているように、ヨエル書2章32節にはこうあります。「すべてヤーウェの名を呼ぶ者は救われる。」当時、ヤーウェである神様は律法を定め、イスラエルの人々がそれに従うように命じられました。イスラエルの人々は、自分達が律法に従って罪に定められることがなければ、救われると信じていました。だが律法の時代の末期、人類はサタンによって益々堕落させられ、イスラエルの人々は律法を守ることができず、益々罪深くなっていきました。もはや彼らの罪を償うに相応しいいけにえはなく、彼らは罪に定められて、律法により死刑に処せられる危機にさらされたのです。だが神様は人間を憐れまれ、人類が救われて律法により罪に定められることのないように、イエスという名で肉となられ、贖いの業をされ、罪のない肉として十字架にかけられ、私たち人間を律法から贖ってくださった。その時以来、私たちが主イエス様の名を受け入れ、呼び求め、主の前で罪を告白して悔い改めるなら、私たちの罪は赦され、罪に定めされることも律法により罰せられることもなくなったのです。主イエス様が私たちを贖ってくださったので、私たちは救いを得たのです。

ヂャン兄の話を聞いた私は、突然啓きを与えられたように感じ、驚きの中でこう言いました。「そうであれば、律法の時代には、人々がヤーウェである神の律法を守っている限り人々は救われ、恵みの時代には、人々が主イエスを信じて罪を告白し、悔い改めるならば、人々は救われるのですね。」

ヂャン兄は言いました。「そうです。神様が新たな段階の働きをされる時はいつでも、神様の働きについて行くことができ、新たな時代で神様の要求に沿うことができ、神様の御言葉に従って実践することができ、そうすることで救われ、神様から罪に定められることはないのです。実は、主イエス様を信じ、主イエス様の恵みによって救われるということは、罪が赦され、律法により罪に定められたり死刑に処せられたりすることがなくなるということであって、私たちが神様の道を歩んでいて罪をすべて捨て去ったということではないのです。一旦救われればずっと救われているということなど、なおさらないのです。我たちは主イエス様を信じ、イエス様によって贖われ、罪赦されていますが、それでも私たちは罪を何度も犯して神様に逆らってしまい、昼間犯した罪を夜になると悔い改めるといった悪のスパイラルの中を生きており、罪のかせと束縛から自分を解放することができないのです。例えば、何か問題が起きれば、私たちは自分の外見と地位を守り、周りの人々から良く見られよう、尊敬されようとして自分を良く装い、偽りを言い、ごまかします。何かするときは目立ちたがり、高い地位のために周りの人々に対して策略を企てて競い合います。兄弟姉妹の誰かが消極的になって弱ってしまい、信仰を失っている時、私たちはしばしばその人のところに行って助け、支えようとします。けれどもその効果が見られない時は、憐れみや忍耐を失い、相手を避けるようになり、自分を愛するように相手を愛することが出来なくなります。特に、私たち自身に試練が臨むとき、私たちは不平を言って主のせいにして批判し、主に背く思いや考えを抱くほどになるのです。私たちはどうしても主の言葉を実践することができず、主に対する真の信仰はなく、真に従順ではなくなるのです。この世の流れに従って罪の快楽を求め、未信者と同じように食べたり飲んだり騒いだりといった事に浸ってしまう兄弟姉妹も多いのです。神様は言われました。「よくよくあなたがたに言っておく。すべて罪を犯す者は罪の奴隷である。 そして、奴隷はいつまでも家にいる者ではない。しかし、子はいつまでもいる。」(ヨハネによる福音書8章34-35節)。「…わたしは聖なる者であるから、あなたがたは聖なる者とならなければならない。」(レビ記11章45節)神様の言葉は明確です。神様は聖く、その性質は義であり神聖です。天国に入りたいのであれば、罪の性質を除いて清められ、罪を犯したり神に反抗したりすることを止めなくてはなりません。そのような人だけが、神様の約束を受け継ぐ資格があります。昼間罪を犯しては夜それを悔い改め、罪から逃れることができずにいるような人間に、どうして天国に入る資格があるでしょうか。もし私たちが罪の問題を元から解決しなければ、たとえ千回赦されたとしても、1万回赦されたとしても、やはりサタンに属しており、神に反抗しているのです。考えてみてください。もし神様が、私たちのような、サタンによる堕落した性質に満ち、神様に逆らい、背くことができる人間が神の御国に入ることをお許しになるのであれば、どうして神の御国が聖なる御国と呼ばれることができるでしょうか。そのようなことはあり得ません。」

私はヂャン兄の言うことに大いに共感しました。彼の言うとおり、日々罪の中に生き、分かっていながら罪を犯してしまう私たちに、天の御国に入る資格などあるでしょうか。そう思った途端、私は自分の信仰が酷く曖昧なものだと感じました。主の言葉が明確に語られているにも関わらず、私はそれを追求しようと思いませんでした。それどころか、自分の概念と想像の中に生き、神様の御心をすっかり誤解し、自分が心で信じて言葉でそれを表現していれば救われ、主が戻って来られる時に天の御国に入れられるなどとおかしな信じ方をしていたのです。何と愚かだったのでしょう。ただ夢を見ていたのです。もしそのまま自分の概念と想像に頼り続けていたならば、最終的に主に嫌われ、拒絶され、排除されていたに違いありません。私はヂャン兄に尋ねました。「本当の救いとは何なのですか?」

ヂャン兄は鞄から一冊の本を取り出し、その本にその答えが書かれていると言うと、読み始めました。「人々が、汚れて、堕落したサタンのものを置き去りにする時、神の救いを得る。しかし、彼らが汚れや堕落を投げ捨てることができないままでいるなら、相変わらずサタンの支配下にとどまるだろう。人々の狡猾さ、不正直さ、ねじれた心はサタンのものである。あなたを救うことによって、神はあなたをこれらのものから切り離す。神の働きは間違っていることはなく、すべては人々を闇から救うためである。あなたがある程度信じていて、肉体の堕落を脱ぎ捨てることができ、もはやこの堕落の束縛を受けない時、あなたは救われているのではないだろうか。サタンの支配下で暮らしている時、あなたは神を現わすことはできず、あなたは不潔で、神から与えられるものを受け取ることはない。いったん清められて、完全にされると、あなたは聖くなり、正常になり、神の祝福を受け、神に喜ばれる者となるだろう。」(「実践(2)」より)「人の罪は罪のためのいけにえによって赦されることができたが、どうすれば人がもはや罪を犯さないようにし、その罪深い本性が完全に取り去られ変えられるかということに関しては、人にはこの問題を解決する方法はないのである。人の罪は神の十字架の働きの故に赦されたが、人は古い、堕落したサタン的な性質の中で生き続けてきた。そのため、人は堕落したサタン的な性質から完全に救われなければならない。そうすることで、人の罪深い本性が完全に取り除かれ、二度と芽生えなくなり、人の性質が変えられるのである。そのためには、人はいのちの成長の筋道、いのちの道、そして性質を変えるための道を知らなくてはならない。また、人はこの道に沿って行動することが必要とされる。その結果、人の性質は次第に変わり、光の輝きの下で生きることができ、すべてを神の心に沿って行なうことができ、堕落したサタン的な性質を捨て去ることができ、サタンの暗闇の影響から解放されることができ、それにより罪から完全に抜け出ることができる。このとき初めて人は完全なる救いを受けることができる。」(「受肉の奥義(4)」より)

ヂャン兄は続けてこう言いました。「主に感謝します。これらの言葉により、真の救いが何であるかが明確にされました。人が真理を得て、神により清くされ完全にされ、完全に罪を捨ててサタンの闇の影響を捨てるなら、もう罪を犯したり神に逆らったりしなくなります。主イエス様のされた働きは贖いの働きであり、私たちはもう罪には属しません。けれども私たちの中のサタンの性質は根深く、罪の赦しは受けたけれども、問題に直面すれば、サタンの性質、つまり、傲慢やうぬぼれ、不正や欺瞞、利己主義や卑劣さ、陰湿さや悪意と言ったものが優勢になり、罪を犯して神を否定せずにはいられなくなり、主の御言葉を実践することが出来なくなるのです。あたかも窃盗の罪で警察に捕まった泥棒のようです。両親は自分の息子が拘置所で失意の中にいるのに耐えられず、多額の保釈金を支払って息子を解放しますが、窃盗の性質は息子の中から抜けず、チャンスがあればまた窃盗を働く性質が働いて盗んでしまうのです。ですから、もし私たちが真理の全ての側面を理解し、サタンの支配から完全に解放され、サタンによる堕落した性質を清められ、罪の束縛から解かれて神の御心を求め、神様の御言葉を実践して何があろうとも神様を畏れて従うのであれば、私たちは常に救われているのであり、そうなって初めて、私たちは完全に神様のものとされるのです。」

私は喜びを感じながら次のように言いました。「神様の啓きと導きにより、『一度救われれば救いはずっと続き、天の御国に入れる』という考えが間違っていることが分かりました。永遠の救いは私たちの罪の性質を取り除かれて清められることであり、それは一度救われて罪赦されることとは全く別のことだということも分かりました。この本は真の救いが何であるかを明確にしてくれますが、私たちが罪から解放されて救われる方法も書かれていますか?もし罪から解放されてその道を歩むことができるのであれば、真の救いを得て天の御国に入れるのではありませんか?

ヂャン兄は喜んで、こう答えました。「ヤンさん、あなたの言う通りです。主に感謝します。罪から解放されて罪の性質の問題が解決できるならば、私たちは真の救いを得て天の御国に入ることができるのです。この本はそのことを実に明確に語っています。続けて読みましょう…。」

 

 


私たちの罪が赦された今、私たちは天国に入れるのか?

2020-06-13 10:26:48 | 福音を証しするシリーズ

私たちの罪が赦された今、私たちは天国に入れるのか?


2018年8月5日(日)曇り
今日、集会の後、ある兄弟が心配そうな顔で私の所にやってきた。彼は「神は人々に聖なる人となることを求められますが、私は無意識のうちに罪を犯してしまいます。いつもこのように罪を犯しながら生きていたら、私は主が来られる時に天国に入れるのでしょうか?」と言った。私は「主イエス様は十字架に磔られ、私たち全員の罪を負って、その命を犠牲にされ、私たちの罪は、私たちの主イエス様への信仰によって許され、主はもはや私たちのことを罪人としては見ておられず、私たちは主のために全てを捨て、労力を費やし、一生懸命に働き、最後まで耐えしのいでさえいれば、主が再臨される時に天国に携挙される」と彼に伝えた。私がこう言うのを聞いた後、兄弟はまるで私の言葉が期待外れだったような表情で、少しがっかりして去って行った。彼が歩き去る様子を見て、私はとても複雑な気分になった。正直なところ、私もこの兄弟と同じことを心配していたんじゃないのか? 長年に渡って主を信仰していながら、頻繁に罪に束縛され、昼に罪を犯して夜にそれを告白するという状態の中で生きてきたことを考えて、そのような生活を続けたくはないと思った。しかし、私には本当に罪を打破することができなかった。それで、頻繁に主に祈りを捧げ、もっと熱心に聖書を読むようにした。でも、罪の問題を本当に解決することはできなかった。主は聖なる御方なのに、罪で満ちた私のような人を褒めてくださるのだろうか?

2018年8月7日 (火) 曇り
今日は妻とつまらない事で喧嘩をして、自責の念にかられ、苦しんでいる。どうして過去と同じ過ちを繰り返してしまうんだろう?今晩、主に祈りを捧げながら涙を流し自分の罪を告白したが、祈りの後もまだ動揺していた。主のこの教えについて考えた。イエスは言われた、「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。これがいちばん大切な、第一のいましめである。第二もこれと同様である、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』」。(マタイ福音書22章37―39)この御言葉は第一に心と精神をつくして神を愛するよう私たちに教えており、第二に私たちは自分を愛するように他人を愛するべきだと言っている。兄弟姉妹たちはお互いに励まし合い、寛容で忍耐強くあり、安楽と慰めを与え合わなければならない。これは私たちがクリスチャンとして行うべきことであり、こうしてのみ、私たちは主を讃えて主の証を立てる生活を送ることができる。でも今まで主を信仰してきた年月において、私はこのいずれの要件も満たせていない。家にいる時、妻と私は些細なことでときどき喧嘩をしてしまう。教会にいる時、兄弟姉妹たちに恥じをかくような事を言われると、彼らに対して偏見をもってしまい、無視してしまうことすらある。大抵の場合、主を愛したいと言って祈りを捧げてはいるものの、家で何か不愉快なことが起ったり、何かのアクシデントが起こると「主のために労力を費やしているのに、どうして主は私を守ってくれないんだ?」と思って、やっぱり主を誤解し、非難してしまう。あぁ、私がすることで主の御要求を満たすことや、主の御心に適うものは何もない。頻繁に主に祈りを捧げるものの、依然としてしょっちゅう罪を犯し、どれだけコントロールしたいと思ってもそうできない。よくこう考える。「主への信仰によって私の罪は許されたものの、未だに罪を犯して神を怒らせてしまう。こんなことを続けていて、私は主が来られる時に天国に入れるのだろうか?どうすれば、罪を犯すことを止められるんだ?」

最近、頻繁に聖書を読み、何度も牧師と長老の意見を求めたが、満足のいく答えは全く得られなかった。この問題は私が天国に入れるかどうかという重大な事柄に直接関連しており、どうしても忘れてしまうわけにはいかない。主はこう仰った。「求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。」(マタイ福音書7:7)探求する心を持っている限り、主が必ず私をお啓きくださると信じている。

2018年8月12日 (日)本曇り
今朝、熱心に主に祈りを捧げた後、普段通りに聖書を開いてディボーションを始めた。その時、ヨハネの黙示録のこの節を読んで心を動かされた。「しかし、汚れた者や、忌むべきこと及び偽りを行う者は、その中に決してはいれない。はいれる者は、小羊のいのちの書に名をしるされている者だけである。」(ヨハネ黙示録21:27)聖書は、清められていない人たちはその中に入れないと聖書は明確に言っている。この「その」というのは天国のことではないのか?次にマタイによる福音書7:21を読んだ。「わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。」また、ヨハネによる福音書8:34-35にはこうある。「イエスは彼らに答えられた、「よくよくあなたがたに言っておく。すべて罪を犯す者は罪の奴隷である。そして、奴隷はいつまでも家にいる者ではない。しかし、子はいつまでもいる。」これらの聖句について熟慮しながら、自分は長年における主への信仰生活において、毎日のように主に祈り、聖書を読み、そして頻繁に福音を伝道し、働き、主のために物事をあきらめて自身を捧げてきたにも関わらず、依然として承知の上で罪を犯し、罪を犯してはそれを告白し、さらに主の教えを守ることも、主の求めることを実践することもできていないと思った。私は明らかに天の父の御心を行う人ではないし、まして清められた人でもない。それでも私は天国に入れるんだろうか?天国は神の御国であり、神は聖なる御方だ。そうなら、汚れにまみれて罪を犯してばかりいる人がどうやって天国に入って神と共に生きる資格を得られるというんだ?天国に入るのは想像していたほど単純なことではないようだ!

2018年8月13日 (月) 曇りのち晴れ
今日、ヂェン兄弟にばったり会った。彼とは長い間顔を合わせていなかったので、会えてとても嬉しかった。彼と話している最中、ずっと頭を悩ませている事柄を持ち出した。話の後、ヂェン兄弟はこんなふうに話してくれた。「人間の罪は主イエス様が十字架に磔られた時に許されており、私たちが主を信仰すると、私たちの罪は許され、私たちは救われます。しかし、罪が許されるとは正確にはどういう意味なのでしょうか?これについて理解できれば、私たちが主への信仰を始めて、罪を許された後も罪を犯し続けてしまう理由が分かると思います。私たちが天国に入れるかどうかということについては、先ず初めに主イエスの出現と働きの背景を見る必要があります。律法の時代末期に、人間はサタンによってどんどん堕落させられ、さらに罪を犯すようになっていました。その状態はあまりにも酷く、もはや彼らの罪を償うに十分な罪の捧げものは残っておらず、彼らは当時の律法によって有罪とされ、死刑に処される危険に陥っていました。これを背景に、神は主イエスとして受肉され、人間のために罪の捧げものとして十字架に磔にされました。こうして、人間の罪は永久に許されたのです。それ以降、人々は主の御名によって祈り、罪を告白し、悔い改めさえすれば、罪を許され、律法により有罪とされ処罰を受けることはなくなったのです。神は人間を罪深い者として見ることをお止めになり、人々は神に直接祈り、神に呼び掛け、神の豊かな恵みと真理の備えを授かることができるようになったのです。これより、私たちの罪は主への信仰によって許され、『私たちの罪は許された』というのは、私たちが神の律法と戒めを破り、神の御言葉に逆らうという罪を犯したことを、神がお許しくださったということに過ぎないことが分かります。すなわち、主は、神の律法に違反し、それを侵したという私たちの罪深い行いは心に留めてはおられないということです。しかし、私たちに罪を犯させるサタンの性質と罪深い本性は神から許されてはおらず、私たちが依然として頻繁に罪を犯すことができてしまう明確な理由は、神に逆らう罪深い本性とサタンの性質が私たちの内に存在し続けているということです。従って、私たちの罪深い本性は神に対して最も反抗的で、真理に反するものであり、私たちが自分たちの罪深い本性を直さなければ、人間の罪の問題を解決するのは不可能であり、私たちは律法に違反することよりも深刻な罪さえ犯すようになり、天国に入ることなど完全に論外となってしまうということが分かります。聖書には明確にこう書かれています。「むしろ、あなたがたを召して下さった聖なるかたにならって、あなたがた自身も、あらゆる行いにおいて聖なる者となりなさい。 聖書に、「わたしが聖なる者であるから、あなたがたも聖なる者になるべきである」と書いてあるからである。」(ペテロの第一の手紙1:15−16)「もしわたしたちが、真理の知識を受けたのちにもなお、ことさらに罪を犯しつづけるなら、罪のためのいけにえは、もはやあり得ない。ただ、さばきと、逆らう者たちを焼きつくす激しい火とを、恐れつつ待つことだけがある。」(ヘブル人への手紙10:26−27)「罪の支払う報酬は死である。……」(ローマ人への手紙6:23)これらの聖句から、もし私たちの罪深い本性が直らず、いまだに昼に罪を犯し、夜にそれを告白するという状態の中で生きていたら、たとえ最後まで主を信仰したとしても、結局は滅びることになり、それは神は聖なる御方であり、汚れて堕落した人類は神の祝福と約束を受けるにふさわしくなく、天国に入れないからである、ということを知りました。」

今、心は少し明るくなった。私たちの罪が赦されたというのは、神の律法を違反したという私たちの罪深い行いを主がお許しくださったということしか意味していないことを理解した。しかし、私たちは依然として神に逆らう罪深い本性を改善していないため、昼に罪を犯し夜にそれを告白するという状態の中で毎日を生きながら、どれだけ望んでもそれを改善できないのは当然のことだ。主に感謝!今日受けた交流はとても明確で、曇り空が晴れてやっと青空が見えるような気がする。帰りがけに、ヂェン兄弟がある書籍をくれて、彼の理解は全てその書籍から得たものだと教えてくれた。私はとても嬉しかった。

 

 


人生の意味とは。ある漫画家の体験の答え

2020-05-05 14:26:24 | 福音を証しするシリーズ

人生の意味とは。ある漫画家の体験の答え


ある日、ニュースを見ていると、台湾のある有名な漫画家がたった51歳で急死したことを知りました。その知らせを聞いた時の気持ちは複雑でした。彼は漫画業界では傑出した人で、数多くの優れた作品を生み出していました。多くの人の羨望と憧れの的で、富も名声もありました。そんなにあっさり亡くなるとは思いもしませんでした。「どんなに有名でも、どれだけの地位があっても、死んでしまったら何になるのだ」とため息をつかずにはいられませんでした。それから、私自身の30年の漫画家人生を思い起こしたのです。…

青年の頃の夢
私は幼少の頃から漫画を描くのが好きで、本当に熱中し努力を重ねていました。25歳の時、幸運にもある漫画家と直接会い、彼がたくさんのファンに囲まれてちやほやされているのを見ました。大変うらやましく、「いつかこの人のようなスターになりたいな」と思いました。技量をプロの域にまで上げるには一生懸命努力し続ける必要があることは承知でしたが、代償を惜しまなければ必ずその日が来ると信じました。この思いが原動力となって、10年以上の間この道に没頭しました。技量向上のための参考として優れたグラフィックノベルを入手するのに給料の数ヶ月分の数万元をかけることもためらいませんでした。家計は苦しくなりましたが一向に構いませんでした。腕を磨くためによく午前二時、三時まで描き、眠くてたまらなくなった時は少し仮眠を取りましたが、目を開けてすぐに考えることは、そのとき作業中のものをどのように仕上げるかでした。毎日、10時間以上いつも同じ姿勢で作画を続けたので、首や肩、背中、右手が頻繁に痛み、指が変形までして、視力が悪化するようになりました。それでも成功のためなら、ただ歯を食いしばって耐えました。自分の漫画が人から賞賛を得ると有頂天になり、もう人気漫画家になっていい車や豪邸のある自分を夢想していました。しかし現実の生活ではただの冴えない会社員であり、有名になるチャンスなどありませんでした。描くのがどれだけうまくても、稼ぎはいつまで経っても知れたものだろうと思うと、本当に悲しくなり落胆しました。

夢のための奮闘、毎度のスランプ
何とか前に進もうと、私は仕事を辞めてアジアで最大手の出版社に就職しました。そこが多くの有名な漫画家の登竜門だったからです。そこで働くことでいい機会を得れば、自分も名が売れるかもしれないと思ったのです。ある時、ある漫画出版社の社長が、現地の作家による漫画の雑誌の刊行を決定し、才能のある人材を探しにうちの会社に来ることになりました。私はその話を聞くと興奮して何日も眠れませんでした。この機会は天からの贈り物であり、ついに自分の才能を発揮して脚光を浴びるチャンスが巡って来たと思いました。このことではかなり思い悩みました。漫画のコンセプトから素材、プロットに色付けまで、検討に検討を重ねました。他の漫画もかなりの数を参考に読んでみました。日中は仕事があったので、毎晩徹夜で作業し、数日経ってやっと最終作品ができました。希望に溢れて私は上司に会いに行きました。ところが、驚いたことに考えが衝突し、口論になり、上司の機嫌を損ねてしまったのです。結局、上司は同僚の作品を選び、私の有名になるという望みは打ち砕かれたのです。

それ以後、私は猛烈に憤り、その時の自分の思慮の足りなさを後悔しました。しかし絶望はしませんでした。自分の漫画を持ち込みにその出版社に戻ったのです。グラフィックノベルの編集者に作品を大変気に入ってもらい、社内漫画家の一人になりました。その後間もなく、ある脚本家と共にグラフィックノベルの制作の担当になり、それに全てを注ぐ準備を整えましたが、その制作の成功が私が機嫌を損ねた上司の手に委ねられることを後になって知りました。私の気持ちは激しく交錯しました。自分の過去の行動を後悔し、自分の作品がどんなに優れていても上司の目に適うことは決してないだろうと悟り、あきらめるしかありませんでした。漫画家になるチャンスをまたしても失ったことに本当に落胆し、あまりに衝動的だった自分自身を憎みました。あのことがなかったら、その機会が出世への一歩だったかもしれません。夢の実現のために長年苦労と努力を重ねても失敗ばかりなことを思うと、絶望に満ちました。言葉にならないほど苦しく、先がとてつもなく陰鬱になったと感じました。

希望が打ち砕かれたことでひねくれた私には、描くことがしばらくとても苦痛になり、ペンと紙を見るのも嫌でした。しかし、漫画家になるという夢をそれだけの理由であきらめたくなかったので、描き続け、描き続け、描き続けました。数年が経ち、私は作品を様々な出版社に持ち込みましたが、それは海に小石を落とすようなもので、失敗の度にひどく心が痛み、ますます憂鬱になりました。よく川のそばに一人で座り、車や人が行き来するのを見ました。途方に暮れ、どうすればいいのか分からなかったのです。なぜあんなに一生懸命働き、全身全霊を捧げたのに、うまく行かないように運命づけられていたのか。ただそうならないように決まっていたのか。有名になれないように予め決められていたのか。なぜ人生はこんなにも厳しいのか。

いつも調子の悪い私を見た家族には、夢を諦めるよう何度も何度も勧められました。けれど私は、「あれほど時間と金をかけ、体を壊してまで何年も頑張って来たのに、そう簡単に諦められるか」と感じました。全く諦める気はなかったので、ひたすら描き続けましたが、60代になっても無名のまま、失望で胸が潰れそうでした。元同僚の作品が店頭に並んでいるのを見る度に、妬ましくて辛い思いをしました。自分の作画は彼らに負けないと思うものの、30年以上を漫画に費やしたのに何も世に出せなかったのです。何もかも静かになった夜中に、自宅で自分の漫画を見回して、一層絶望と苦痛を感じました。「この才能はどうしてこんなに無駄になったんだ。どうして有効活用する機会がなかったんだろう」とよく自問せずにはいられませんでした。それでも、有名になりたいという願望は檻の中の獣のように落ち着きがなく、たとえかすかな希望しかなくても私は一生懸命働いて挑戦し続ける覚悟でした。

でこぼこ道の果て、そして神の御前に
2017年、私はあちこちで情報を集め、アメリカとヨーロッパではグラフィックノベルの需要がかなり高いことを知りました。それで、欧米のどこかの国に行けば有名になってたくさん稼げるかもしれないと思いました。元気を取り戻した私は、欧米で一般的な漫画のスタイルを学び始めます。しばらく経って、ようやく作品を準備すると私はとても嬉しくなり、海外の出版社に作品を送ることを計画していました。ちょうどその時、終わりの日の神の救いが私に訪れたのです。私はそれを受け入れましたが、それでも漫画を完成させるのに常に没頭していました。それで心に平静を保つことができず、神の御言葉を真剣に読んでいませんでした。神の前に立ち返ったのは別の壁にぶつかってからだったのです。

ある日、次の神の御言葉を目にしました。「人の運命は神の手によって掌握されている。あなたは自分自身を掌握することはできない。いつも自分自身のことであくせく動き回っているのにもかかわらず、人は自分自身を掌握することができないままでいる。あなたがもし自分の前途を知ることができ、自分の運命を掌握できるなら、それでもあなたは被造物だろうか。」(『言葉は肉において現れる』の「人間の正常な生活を回復し、素晴らしい終著點に連れて行くこと」より)私は神の御言葉を思案し、大いに目が覚めました。私たちの運命は全て神の支配下にあり、神の手に委ねられていると悟ったのです。私たちはただの被造物ですから、自分で自分の運命を変えることはできません。明日何が起こるのかも分からない私たちに、どうして自分の運命の主になれるのでしょうか。私は過去30年間を思い返してみました。有名な漫画家になるためにたゆまず奮闘しましたが、スランプが相次ぎました。成功はいつも手が届きませんでした。ということは、私には自分の運命を掌握していないということではないのか。実際には、神は私たちが人生においてどんな仕事に就き、どんな成功を収め、どんなキャリアに進むかをとうの昔に決定されていたのです。しかし私は神の支配を理解していませんでした。群を抜こうとし、傲慢にも神の支配から脱せられると考え、自分自身の能力と勤勉に頼り続けました。その結果、自己も肉体も精神を完全に消耗し、戦傷に悩まされ、絶えず苦痛を背負って暮らしていました。

私の苦しみは求めるものを誤った結果だった
後に、私は神の御言葉を読みました。「実際には、人間の理想が如何に高尚であったとしても、また人間の願望が如何に現実的であり、適切であったとしても、人間が成し遂げたい事、求める事は、二つの言葉と不可分な関連性がある。その二つの言葉は、人間それぞれの生涯にとって極めて重要であり、サタンが人間に吹き込みたいことです。その二つの言葉とは、何でしょうか。そのひとつは『名声』で、もうひとつは『利得』。二つの言葉とは、名声と利得です。サタンは極めて温和な方法、人間の観念に極めてうまく適合する方法を用います。その方法には、全く過激さが無いのです。人間は、無意識のうちにサタンの生き方や生活の規則を受け入れるようになり、人生の目標や方向性を決定し、またそうすることにより無意識のうちに人生の理想を持つようになります。そうした人生の理想は、どれほど高尚な響きがあったとしても、名声や利得と複雑に関連している建前に過ぎません。偉人や有名人のみならず、全ての人々が人生において従う全ての事柄は、『名声』と『利得』のふたつだけに関連するものです。そうではないですか。人間は、名声と利得を手に入れれば、それを利用して高い地位や莫大な富を堪能し、人生を楽しむことができると考えます。名声と利得を手に入れれば、それを悦楽の追求と不徳な肉の快楽に利用できると考える。人間は、自分が求める名声と利得のために、無意識ではあるが率先して、自分の心身や所有する全ての物事、将来、運命をすべてサタンに引き渡します。人間はこの引き渡しにあたり、実に一瞬たりとも躊躇することが無く、それを奪回する必要性を省みることも一切ありません。このようにして人間がいったんサタンを頼りにし、サタンに忠義を尽くしたなら、人間は自分自身を支配していることができるでしょうか。無論できません。こうした人間は完全にサタンに支配されます。彼らはすっかり泥沼に沈み込んだのであり、そこから抜け出すことは一切不可能です。」(『言葉は肉において現れる』の「唯一の神自身6」より)

神の御言葉に私は深く感動し、そこで明かされたことから、自分が有名な漫画家になりたいと絶えず思い、そのために必死で働いていたのは、サタンに惑わされて堕落していたからだと悟りました。名声と利益に縛られていたのです。教育や有名な偉人の影響により、私たちは「生きては傑人,死しては優れた鬼とならん」「頭角を現すは人の道」「人は高い所を目ざし,水は低い所に流れる」といった誤った考えを植え付けられてきました。その結果、私たちは群を抜いて人を追い越すことを正当な目標と思い誤り、「名声と地位があって、人に尊敬されて取り巻かれ、注目の的とならなければ人生に意味と価値はない」と思い込んでいます。私は有名な漫画家になるのに30年もの時間とエネルギーを費やしたことを何とも思わず、貯蓄を全て注ぎ込んだだけでなく、かなりのエネルギーを費やし健康まで危うくしました。作品の持ち込みの失敗はその度に大きな打撃で非常に苦痛を感じ、迷って優柔不断になり、あきらめようかと思ったものの、有名になることの栄光を考えたとたん、そこから抜け出せなくなっていたのです。私は精一杯漫画の道を歩み続けました。神の救いが私に訪れた時でさえ、まだそれに向ける心がなく、それどころか、私は無我夢中で名声のために死に物狂いで働き続けました。それはまた別の障害物が私の前に立ちはだかるまででした。その時初めて、名声と富を追求するというサタンの考えに自分が支配され、踊らされていると悟ったのです。私はその考えの操り人形に過ぎず、そのためにどんな代償でも払い、全てを費やし、サタンの手の中でもてあそばれていたのです。それから私はまた有名人のことを考えました。彼らは広く知られていて、評判も良く、人々に囲まれて称賛されているからといって、心の中は安らいで満たされていたわけではありません。むしろ一層空しさを感じ、悲観的になって世の中にうんざりして、自ら命を絶っています。多くの人は名声を得る前にしっかり足を地に着けていることができていますが、成功して有名になると心の空虚さが増し、退廃し堕落しました。飲み食いやどんちゃん騒ぎにふけり、肉体を満足させ欲望に身を任せる人もいれば、刺激を求めて麻薬に手を出し、犯罪に走って人生を棒に振る人もいました。名声のためだけに自分の体を売って、人格と尊厳をすっかり失った人もいました。このおかげで、群を抜こうとすること、人の称賛と人気を求めることは人生の正しい道では全くなく、真の幸せな人生をもたらせないと私は一層はっきり悟ることができました。そうすることはますます邪悪になって堕落するだけであり、たとえ手に入っても、空虚さと苦痛でしかありません。これはサタンが人類に危害を加える悪しき手段の一つなのです。このことを全て悟った私は、突然心の中に光を感じ、もはや有名になることにそれほど執着もせず取りつかれてもいませんでした。それは正に神の私への救いのおかげです。もし神の御言葉の暴露がなければ、名声と利益の追求が自分に与えた害を自覚できず、サタンに弄ばれ傷つけられたままであったでしょう。今の私は新しい人生設計を立てる必要があり、一文の得にもならない名声と利益はもはや求めていません。

新たな方向性を見出だす
「忘れ去ろう」と言うのは簡単でしたが、いざ実行するとなると、本当はあまり気がすすまないことがわかりました。結局、私は30数年も血と汗と涙を漫画に捧げたのです。しかし、名声と利益の追求が自分にもたらした全ての苦しみを思い出すと尻込みしました。それで、私は祈りの中で神の御前に出て、前に進み、この追求の束縛から解き放れるように導いてくださるようにお願いしました。私は後に「唯一の神自身3」における神の次の御言葉を読みました。「人々が追求する人生の様々な目標や生活様式を繰り返し調査し、注意深く分析すると、創造主が人類を創った時の創造主の本來の意図と一致するものがひとつも無いことが分かります。それらは全て人間を創造主による統治と慈しみから引き離し、人間を墮落させて地獄へと導く罠です。このことを確認した後の作業は、以前の人生観を捨て、様々な罠から離れ、自分の人生を神に託して神による採配に委ね、神の指揮と導きのみに従うよう心がけ、それ以外の選択肢をもたない神を崇拝する者となることです。」「ある者が、人生は創造主による統治を体験し、その権威を知る機会であり、その者が創造された人間として本分を尽くし、使命を果たす希な機會であると考えているのであれば、その者は必然的に正しい人生の見通しを得て、創造主により祝福され、導かれた人生を送り、創造主の光の中を歩み、創造主による統治を知り、創造主の支配に服従し、創造主の奇跡の業と権威の証をするものとなる。」

 神の御言葉は正しい道と求めるべき方向性を私に示してくださいました。名声と利益の追求による苦痛から自分を解放するために、私は以前の誤った目標と人生観を捨て去り、名声と利益はサタンが人類を堕落させるためのやり方の一つであると悟らなくてはなりませんでした。人に好かれ尊敬されるように他人より秀れ、有名になろうとするのをやめなければならず、そうではなく自分の人生を神の手に委ね、自分の進路に関しては神の支配と采配に従わなくてはならなかったのです。善良で堅実な人にならなくてはならず、全てのことにおいて創造主の権威を受け入れ、経験して知り、被造物の一つとしての自分の本分を果たすことに専念し、神に与えられた使命を成し遂げなければなりません。それだけが人生における価値であり、最も意味のある人生を送るための道です。過去には、私は神の御心が分からず、それどころか名声と利益のためだけに30年以上も骨を折ってきました。人生の方向性を失い、サタンに弄ばれて大変苦しみました。今や神の御言葉に実践の道を示されたので、二度とサタン的な邪説と思考に基づいて生きることは決してしません。神は私たち人間のために万物を創造し、私たちにいのちを吹き込んでくださいました。そして終わりの日に、神は再び人類のもとで働き、人類を救うために肉となられました。私は神が授けられたもの全てを享受する被造物なので、良心と理知を持ち、神の愛に報いるために神の御前にて私の本分を果たすべきなのです。神は私に描く力をお恵みくださったのですから、私はその賜物を用いて創造主に証しをし、神に満足していただくために生きるべきです。ひとたびこれを理解すると、私の心はかなり明るくなり、それからどのような道を進むべきであるのかが分かりました。

被造物として基準を満たそうとすることのみが価値と意味ある生き方
ある日、ディボーション中に神のこの御言葉を目にしました。「あなたがたが邪悪と堕落の地から離れ、邪な集団と離別するならば、その時、あなたがたの考え、霊、そして心が虐げられたり堕落させられたりすることは無くなるであろう。あなたがたが清らかな場所へ来て、神の御前に来る時、それは大いなる恵みではなかろうか。……宇宙の万物や地球に住む数十億の人間のうちのひとりとして、こうした自らの本分を尽くし、責任を果たすことに自らを捧げることによって創造主の業の証しに立つ機会を得られる者は何人居るであろうか。誰がこうした機会が得られるであろうか。そうした者は多数居るであろうか。そうした者は全体の何割であろうか。(1万人に1人である。)1万人に1人居るであろうか。いや、それよりも少ないであろう。とりわけ、あなたがたは習得した知識を用いて自らの本分を尽くしている。これは極めて有意義である。これは極めて大いなる祝福ではなかろうか。あなたがたは、特定の人間の証しに立っているのでも、些細な活動に参加しているのでも無い。あなたがたが仕えているのは、創造主である。何と素晴らしい事であろうか。……全ての創造物のうち、ここに居る諸君以上の恵みを授かっている者や集団は一切存在しない。他人は何のために生きるであろうか。他の者は、輪廻のため、そして地の刺激のために生きる。あなたがたは何のために生きるであろうか。あなたがたは、創造物として自分の本分を尽くすために生きる。そのように生きることは貴いことではなかろうか。それは極めて貴い。」(『言葉は肉において現れる』の「自らの真心を神に捧げた後に真理を得ることができる」より)

私は神の御言葉を読んで非常に感動し、神に選んで頂き、神の家族の楽園へ導いて頂いたことに感謝しました。神は御言葉をもって、私を潤し養い、啓き導いてくださり、そのおかげで私はサタンが人類を堕落させ傷つける戦術を見極められます。私は二度と名声と利益のためにあんなに苦い努力をすることはありません。教会では、兄弟姉妹に何か困ったことがあるといつでも誰もが真理について交流し合い、辛抱強くその人を支え、助けていることを見てきました。兄弟姉妹の間に争いや誤解が生じても、皆が純真で率直で、思っていることを打ち明ける誠実な人々です。これは私にこの上ない自由と解放をもたらしました。非常に多くの兄弟姉妹が熱心に自らの本分を果たし、神の国の福音に全てを捧げています。自らの本分を果たす過程で、彼らはますます真理を理解するようになり、神に関する認識が次第に増し、自分たちのいのちにおいて急速に前進しています。この様子を見て私は彼らを立派に思い、自分の本分を果たせることも楽しみにしていました。その後、作品を海外の出版社に持ち込むことを完全にあきらめて、教会で福音漫画を制作することを学び始めました。神の導きにより、素早く習得しました。今では自分のこの強みを神の証しをするために使えることを非常に光栄に思います。実体験から学んだのは、名声と利益を求めることをやめ、神の支配と采配に従い、被造物の本分を果たし、神の配慮と指導の中で生きることでした。こうして初めて私の心は本当に落ち着き、安らぐのです。このような霊的な喜びと平安は、物質的な楽しみや名声や利益で代用できるものでは決してありません。

人生は短く、光陰矢の如し、全ては儚いのです。一日も無駄にできません。私は自分の本分を果たす上で、真理を追求し、神の権威を理解して自分のサタン的で堕落した性質を捨て、真に神に従って崇敬する者になることを目指します。神に感謝します。

沈(シェン)爱(アイ)(台湾)


「一度救われればその救いはずっと続く」という定義に聖書的な根拠はあるか

2020-04-18 00:36:36 | 福音を証しするシリーズ

「一度救われればその救いはずっと続く」という定義に聖書的な根拠はあるか


太陽が西の空に沈みかけ、夕焼けが広がる中、私は牧師が集会で言った言葉を考えながら家に向かっていました。「一度救われれば、私たちは永遠に救われているのです。聖書はこう言っているからです。「自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる。なぜなら、人は心に信じて義とされ、口で告白して救われるからである。」(ローマ人への手紙10章9-10節) 私たちが主イエス様を信じ、心の中で主を信じて認め、言葉でそう告白するならば、私たちは救われます。一度救われたならば、永遠に救われているのです。終わりまで主のために働き、尽くし、耐えるならば、主が戻られるときに、私たちはすぐに天国に引き上げられます。」私は牧師の言葉にアーメンと答えました。「その通りだ。主イエス様は十字架にかけられた。それゆえに私たちは贖われたんだ。私たちが主の御名を呼び求め、罪を告白して主の前に悔い改めるならば、主の恵みによって罪は赦され、救われるんだ。そして一旦救われたならば、それはずっと続くことであり、後の日には天国へと引き上げられるんだ。」長年の信仰の中で、私はいつもそれが正しいと堅く信じ、疑ったことは一度もありませんでした。

けれどもある日、私が聖書を学んでいると、次のような主イエス様の御言葉が目に入りました。「わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。」(マタイによる福音書7章21節)「もしわたしの言葉のうちにとどまっておるなら、あなたがたは、ほんとうにわたしの弟子なのである。」(ヨハネによる福音書8章31節) 私は注意深くこの御言葉を思い巡らしました。そして、主イエス様が言われていることは、神様の御心を行い、実践する人だけが、天国へ入ることができるということだと理解しました。信仰を持てばそれで救われると言っているのでも、一度救われればそれがずっと続くと言っているのでもなく、主が戻られた時にその人々はすぐに天に引き上げられると言っているのでもないのです。自分の考え方は主の言葉と一致していないのではないかと感じ始めました。これまでの長い年月、ずっと間違っていたということなどあるだろうか。ずっと主を信じてきて、主イエス様によって贖われたということを微塵も疑ったことはなかった。けれど、主の教えを実践しないことも多くあった。神様の御心を実践しないのに、どうやって天国に入れるのだろう。そう考えると不安も感じたけれど、こうも考えた。「主イエス様が私たちの罪のいけにえとなってくださり、全ての罪を赦してくださったのだから、私たちは恵みにより救われているんだ。それなら天国に入れないことなどあるだろうか。恵みによって救われるとは、永遠の救いを意味するのではないだろうか。」私はひどく困惑し、このことを追い求め、主の御前で繰り返し祈りました。何冊もの霊に関する本も読みましたが、答えは見つかりませんでした。

後日、同労者との会議に出席した私は、ずっと会っていなかったヂャン兄にばったり会いました。ヂャン兄は説教師で、聖書をまっすぐに理解していました。どの集会でも、ヂャン兄から新たな光を与えられ、多くを得ることが出来ました。久しぶりにヂャン兄に会った私は、挨拶を交わすと、しばらく話し込みました。そうするうちに、私は自分がずっと引きずっている問題を彼に話しました。ヂャン兄は微笑んで言いました。「ヤンさん、あなたが今言われた問題は、私たちが天国へ入ることができるかどうかに関する重要な問題と関連しています。私も以前悩みましたが、主の導きを与えられました。そして追い求める中で、真の救いが何かを明確に理解できるようになりました。」私は待ちきれずに言いました。「それを今すぐ教えてください!」ヂャン兄は微笑みながら次のように言いました。「すでに知っているように、ヨエル書2章32節にはこうあります。「すべてヤーウェの名を呼ぶ者は救われる。」当時、ヤーウェである神様は律法を定め、イスラエルの人々がそれに従うように命じられました。イスラエルの人々は、自分達が律法に従って罪に定められることがなければ、救われると信じていました。だが律法の時代の末期、人類はサタンによって益々堕落させられ、イスラエルの人々は律法を守ることができず、益々罪深くなっていきました。もはや彼らの罪を償うに相応しいいけにえはなく、彼らは罪に定められて、律法により死刑に処せられる危機にさらされたのです。だが神様は人間を憐れまれ、人類が救われて律法により罪に定められることのないように、イエスという名で肉となられ、贖いの業をされ、罪のない肉として十字架にかけられ、私たち人間を律法から贖ってくださった。その時以来、私たちが主イエス様の名を受け入れ、呼び求め、主の前で罪を告白して悔い改めるなら、私たちの罪は赦され、罪に定めされることも律法により罰せられることもなくなったのです。主イエス様が私たちを贖ってくださったので、私たちは救いを得たのです。

ヂャン兄の話を聞いた私は、突然啓きを与えられたように感じ、驚きの中でこう言いました。「そうであれば、律法の時代には、人々がヤーウェである神の律法を守っている限り人々は救われ、恵みの時代には、人々が主イエスを信じて罪を告白し、悔い改めるならば、人々は救われるのですね。」

ヂャン兄は言いました。「そうです。神様が新たな段階の働きをされる時はいつでも、神様の働きについて行くことができ、新たな時代で神様の要求に沿うことができ、神様の御言葉に従って実践することができ、そうすることで救われ、神様から罪に定められることはないのです。実は、主イエス様を信じ、主イエス様の恵みによって救われるということは、罪が赦され、律法により罪に定められたり死刑に処せられたりすることがなくなるということであって、私たちが神様の道を歩んでいて罪をすべて捨て去ったということではないのです。一旦救われればずっと救われているということなど、なおさらないのです。我たちは主イエス様を信じ、イエス様によって贖われ、罪赦されていますが、それでも私たちは罪を何度も犯して神様に逆らってしまい、昼間犯した罪を夜になると悔い改めるといった悪のスパイラルの中を生きており、罪のかせと束縛から自分を解放することができないのです。例えば、何か問題が起きれば、私たちは自分の外見と地位を守り、周りの人々から良く見られよう、尊敬されようとして自分を良く装い、偽りを言い、ごまかします。何かするときは目立ちたがり、高い地位のために周りの人々に対して策略を企てて競い合います。兄弟姉妹の誰かが消極的になって弱ってしまい、信仰を失っている時、私たちはしばしばその人のところに行って助け、支えようとします。けれどもその効果が見られない時は、憐れみや忍耐を失い、相手を避けるようになり、自分を愛するように相手を愛することが出来なくなります。特に、私たち自身に試練が臨むとき、私たちは不平を言って主のせいにして批判し、主に背く思いや考えを抱くほどになるのです。私たちはどうしても主の言葉を実践することができず、主に対する真の信仰はなく、真に従順ではなくなるのです。この世の流れに従って罪の快楽を求め、未信者と同じように食べたり飲んだり騒いだりといった事に浸ってしまう兄弟姉妹も多いのです。神様は言われました。「よくよくあなたがたに言っておく。すべて罪を犯す者は罪の奴隷である。 そして、奴隷はいつまでも家にいる者ではない。しかし、子はいつまでもいる。」(ヨハネによる福音書8章34-35節)。「…わたしは聖なる者であるから、あなたがたは聖なる者とならなければならない。」(レビ記11章45節)神様の言葉は明確です。神様は聖く、その性質は義であり神聖です。天国に入りたいのであれば、罪の性質を除いて清められ、罪を犯したり神に反抗したりすることを止めなくてはなりません。そのような人だけが、神様の約束を受け継ぐ資格があります。昼間罪を犯しては夜それを悔い改め、罪から逃れることができずにいるような人間に、どうして天国に入る資格があるでしょうか。もし私たちが罪の問題を元から解決しなければ、たとえ千回赦されたとしても、1万回赦されたとしても、やはりサタンに属しており、神に反抗しているのです。考えてみてください。もし神様が、私たちのような、サタンによる堕落した性質に満ち、神様に逆らい、背くことができる人間が神の御国に入ることをお許しになるのであれば、どうして神の御国が聖なる御国と呼ばれることができるでしょうか。そのようなことはあり得ません。」

私はヂャン兄の言うことに大いに共感しました。彼の言うとおり、日々罪の中に生き、分かっていながら罪を犯してしまう私たちに、天の御国に入る資格などあるでしょうか。そう思った途端、私は自分の信仰が酷く曖昧なものだと感じました。主の言葉が明確に語られているにも関わらず、私はそれを追求しようと思いませんでした。それどころか、自分の概念と想像の中に生き、神様の御心をすっかり誤解し、自分が心で信じて言葉でそれを表現していれば救われ、主が戻って来られる時に天の御国に入れられるなどとおかしな信じ方をしていたのです。何と愚かだったのでしょう。ただ夢を見ていたのです。もしそのまま自分の概念と想像に頼り続けていたならば、最終的に主に嫌われ、拒絶され、排除されていたに違いありません。私はヂャン兄に尋ねました。「本当の救いとは何なのですか?」

ヂャン兄は鞄から一冊の本を取り出し、その本にその答えが書かれていると言うと、読み始めました。「人々が、汚れて、堕落したサタンのものを置き去りにする時、神の救いを得る。しかし、彼らが汚れや堕落を投げ捨てることができないままでいるなら、相変わらずサタンの支配下にとどまるだろう。人々の狡猾さ、不正直さ、ねじれた心はサタンのものである。あなたを救うことによって、神はあなたをこれらのものから切り離す。神の働きは間違っていることはなく、すべては人々を闇から救うためである。あなたがある程度信じていて、肉体の堕落を脱ぎ捨てることができ、もはやこの堕落の束縛を受けない時、あなたは救われているのではないだろうか。サタンの支配下で暮らしている時、あなたは神を現わすことはできず、あなたは不潔で、神から与えられるものを受け取ることはない。いったん清められて、完全にされると、あなたは聖くなり、正常になり、神の祝福を受け、神に喜ばれる者となるだろう。」(「実践(2)」より)「人の罪は罪のためのいけにえによって赦されることができたが、どうすれば人がもはや罪を犯さないようにし、その罪深い本性が完全に取り去られ変えられるかということに関しては、人にはこの問題を解決する方法はないのである。人の罪は神の十字架の働きの故に赦されたが、人は古い、堕落したサタン的な性質の中で生き続けてきた。そのため、人は堕落したサタン的な性質から完全に救われなければならない。そうすることで、人の罪深い本性が完全に取り除かれ、二度と芽生えなくなり、人の性質が変えられるのである。そのためには、人はいのちの成長の筋道、いのちの道、そして性質を変えるための道を知らなくてはならない。また、人はこの道に沿って行動することが必要とされる。その結果、人の性質は次第に変わり、光の輝きの下で生きることができ、すべてを神の心に沿って行なうことができ、堕落したサタン的な性質を捨て去ることができ、サタンの暗闇の影響から解放されることができ、それにより罪から完全に抜け出ることができる。このとき初めて人は完全なる救いを受けることができる。」(「受肉の奥義(4)」より)

ヂャン兄は続けてこう言いました。「主に感謝します。これらの言葉により、真の救いが何であるかが明確にされました。人が真理を得て、神により清くされ完全にされ、完全に罪を捨ててサタンの闇の影響を捨てるなら、もう罪を犯したり神に逆らったりしなくなります。主イエス様のされた働きは贖いの働きであり、私たちはもう罪には属しません。けれども私たちの中のサタンの性質は根深く、罪の赦しは受けたけれども、問題に直面すれば、サタンの性質、つまり、傲慢やうぬぼれ、不正や欺瞞、利己主義や卑劣さ、陰湿さや悪意と言ったものが優勢になり、罪を犯して神を否定せずにはいられなくなり、主の御言葉を実践することが出来なくなるのです。あたかも窃盗の罪で警察に捕まった泥棒のようです。両親は自分の息子が拘置所で失意の中にいるのに耐えられず、多額の保釈金を支払って息子を解放しますが、窃盗の性質は息子の中から抜けず、チャンスがあればまた窃盗を働く性質が働いて盗んでしまうのです。ですから、もし私たちが真理の全ての側面を理解し、サタンの支配から完全に解放され、サタンによる堕落した性質を清められ、罪の束縛から解かれて神の御心を求め、神様の御言葉を実践して何があろうとも神様を畏れて従うのであれば、私たちは常に救われているのであり、そうなって初めて、私たちは完全に神様のものとされるのです。」

私は喜びを感じながら次のように言いました。「神様の啓きと導きにより、『一度救われれば救いはずっと続き、天の御国に入れる』という考えが間違っていることが分かりました。永遠の救いは私たちの罪の性質を取り除かれて清められることであり、それは一度救われて罪赦されることとは全く別のことだということも分かりました。この本は真の救いが何であるかを明確にしてくれますが、私たちが罪から解放されて救われる方法も書かれていますか?もし罪から解放されてその道を歩むことができるのであれば、真の救いを得て天の御国に入れるのではありませんか?

ヂャン兄は喜んで、こう答えました。「ヤンさん、あなたの言う通りです。主に感謝します。罪から解放されて罪の性質の問題が解決できるならば、私たちは真の救いを得て天の御国に入ることができるのです。この本はそのことを実に明確に語っています。続けて読みましょう…。」