神の羊は神の御声を聞く

「わたしの羊はわたしの声を聞く」黙示録も予言されました。「耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。」

七つの雷が轟く -- 神の国の福音が宇宙の隅々まで広まることを預言

2020-09-25 20:26:22 | 書籍

七つの雷が轟く -- 神の国の福音が宇宙の隅々まで広まることを預言


わたしは異邦人国家にわたしの働きを広めている。全宇宙にわたしの栄光は閃く。わたしの心はあちこちに散らばる人々の中に現れ、みなわたしの手によって誘導され、わたしが与えた作業をしている。この時点からわたしは新しい時代へと入り、全ての人々を別の世界へ連れて行く。わたしが自分の「故郷」へ戻ったとき、わたしの最初の計画にある働きの別の部分に着手した。その働きにより、人々がわたしをより深く知るようになるためだ。わたしは宇宙全体を眺め、わたしの働きにとっていちばん良い時だと知る。そしてわたしは、人々の中で新しい働きをするため、あちこちを巡る。いずれにしろこれは新たな時代であり、わたしは、もっと多くの新しい人々を新たな時代へ引き入れ、淘汰すべき者達をさらにより多く投げ捨てるために新しい働きをもたらした。大きな赤い竜の国家にあって、わたしは、人々には測り難い段階の働きを実行し、彼らを風の中で揺れさせる。その後、多くの者が吹く風によって静かに漂い去る。まさにこれが、わたしが一掃しようとしている「脱穀場」だ。それがわたしの願いであり、それはわたしの計画でもある。というのは、わたしが働いている間に多くの「悪い者」が静かに忍び込んだからだ。しかしわたしは急いで彼らを追い払いはしない。むしろ、適切な時が来たら、彼らを追い散らす。そうしてはじめて、わたしはいのちの泉となり、真にわたしを愛する人々がいちじくの実やゆりの香りをわたしから受け取れるようにする。サタンがとどまる地、塵の地には、砂があるのみで純金は残っていない。だから、このような状況を見て、わたしはこのような段階の働きを実行する。わたしが獲得するものは砂ではなく、精錬された純金であることを、あなたがたは知らなければならない。悪い者がどうしてわたしの家に残っていられるだろう。狐がわたしの楽園の寄生動物になるなど、わたしが許すだろうか。わたしは考えつくすべての方法でこれらのものを追い払う。わたしの心が表されるまで、わたしが何をしようとしているかを知る者は一人もいない。この機会をとらえて、わたしはこの悪い者たちを追い払うので、彼らはわたしから去るしかない。わたしは悪い者たちに対してこのようにするが、彼らがわたしのために仕える日はまだあるだろう。人々の神の恵みへの欲望はあまりに強すぎる。だからわたしはからだの向きを変え、わたしの栄光に満ちた顔を異邦人の諸国に見せ、人々がみな自分の世界に住み、自らを裁くようにする。そうする間に、わたしはわたしが言うべき言葉を言い続け、人々が必要とするものを与え続ける。人々が我に返るころには、わたしはわたしの働きをずいぶん広めていたことになるだろう。それからわたしは、人々にわたしの心を表し、わたしの人間に対する働きの二番目の部分に着手する。そして、わたしの働きに協力するために人々がわたしにしっかりと付き従うようにし、わたしのすべき働きを共に行うために、人々が能力の限りを尽くすようにする。

誰一人としてわたしの栄光を見る時が来ると信じるものはいない。そしてわたしは人に強要もしない。それよりは、わたしは人々の中からわたしの栄光を移し、他の世界へ持っていく。人々が再び後悔するなら、わたしは信仰を持つより多くの人々へわたしの栄光を示す。これがわたしの働きの原則である。わたしの栄光がカナンの地を去る時があるからであり、わたしの栄光がわたしに選ばれた者から去る時もあるからである。さらに、わたしの栄光が全地を去る時がある、その時、光は暗くぼやけ、暗闇へ陥る。カナンの地にさえ太陽は照らさないだろう。すべての人々は信仰を失うが、誰一人カナンの地の香りから去ることには耐えられない。わたしが新たな天と地へ進む時になってはじめて、わたしの栄光のもうひとつの部分をまずにカナンの地で示す。そうするとかすかな光が闇夜ほど暗い全地に輝き、全地がその光に集まる。全地のあらゆるところの人々を来させ、光から力を得られるようにし、わたしの栄光が増し、全ての国々に新たに現れるようにしよう。わたしがずっと前に人間の世界に現れており、ずっと前にわたしの栄光をイスラエルから東方へもたらしたことをすべての人々に気づかせよう。なぜならわたしの栄光は東方から輝きを放ち、恵みの時代から今日までもたらされたからである。しかし、わたしが去ったのはイスラエルであり、そこから東方に到来した。東方の光が徐々に白く変わるとはじめて、全地の暗闇は光に変わり始める。そしてその時になってはじめて、人はわたしがずっと前にイスラエルを去っていて、東方で新たに現れるのだと知るだろう。わたしは以前イスラエルへ下り、その後そこから立ち去った。そのため、わたしは再びイスラエルに生まれることはできない。なぜならわたしの働きは宇宙のすべてを導き、さらに、稲妻が東から西へひらめき渡るからである。だからわたしは東方へ下り、カナンの地を東方の人々にもたらしたのである。わたしは地上のすべての人々をカナンの地へ連れて行きたいと願う。それ故わたしは全宇宙を支配するため、カナンの地で声を発し続ける。この時、カナンの地以外はどこにも光はなく、すべての人々は飢えと寒さにさらされている。わたしはわたしの栄光をイスラエルに与え、その後その栄光を移す、そしてイスラエルの人々を東方へ連れて行き、すべての人々を東方へ連れて行った。わたしは彼らをみな「光」へと導いた、彼らが光と再会し、光と交わり、それ以上探す必要がないように。わたしは探し求めているすべての者が再び光を見て、わたしがイスラエルで持っていた栄光を見られるようにする。わたしはずっと前に白雲に乗って人々の間に降ったことを彼らが理解するようにし、無数の白い雲と豊かな果実、さらにはイスラエルの神ヤーウェを見るようにしよう。わたしは、彼らがユダヤ人の「先生」、待望のメシア、そして歴代の王たちによって迫害されてきたわたしの完全な姿を見上げるようにする。わたしは、全宇宙の働きを行い、偉大な働きをし、わたしの栄光のすべてとわたしの業すべてを、終わりの日に人々に表す。わたしは、わたしの栄光に満ちた全容を、長年わたしを待った人々、わたしが白雲に乗って下るのを熱望してきた人々、わたしが再び現れるのを熱望してきたイスラエル、そしてわたしを迫害するすべての人類に見せる。それによって、すべての者はわたしがずっと前にわたしの栄光を取り去ってそれを東方へもたらしていたことを知るだろう。それはもはやユダヤにはない、なぜなら終わりの日はすでに来ているからである。

宇宙の隅々までわたしはわたしの働きを行っている。東方では、雷のような轟音が終わることなく発生し、すべての国々や宗派を震わせている。すべての人々を現在に連れて来たのはわたしの声である。わたしはすべての人々がわたしの声により征服され、みなこの流れに落ち、わたしの前に帰服するようにする。わたしはずっと前に全地からわたしの栄光を取り戻し、東方で新たにそれを発したからである。わたしの栄光を見ることを願わない者がいるだろうか。わたしの再臨を心待ちにしない者がいるだろうか。わたしが再び現れることを渇望しない者がいるだろうか。わたしの愛らしさを思慕しない者がいるだろうか。光の元へ来ようとしない者がいるだろうか。カナンの地の豊かさを見上げようとしない者がいるだろうか。「贖い主」が再び来るのを待ち望まない者がいるだろうか。偉大なる全能者を敬慕しない者がいるだろうか。わたしの声は全地の隅々まで広められるであろう。わたしはわたしに選ばれた者に向かって、彼らにもっと話しかけたいと願う。山々や川を震わせる強大な雷のように、わたしは全宇宙と人類にむかってわたしの言葉を話しかける。そしてわたしの口にある言葉は人の宝になり、すべての人々はわたしの言葉を大切にする。稲妻が東から西へひらめき渡る。わたしの言葉は、人が決して手放したくないもの、そして測り難いものであるが、それ以上に彼らにさらなる喜びをもたらすものである。生まれたての赤児のように、すべての人々は喜びに満ち、わたしの到来を祝う。わたしはすべての人々を、わたしの声によってわたしの前へ連れて来る。その時から、わたしは正式に人類へ入る、人々がわたしを礼拝するために。わたしから放たれる栄光とわたしの口にある言葉によって、人々はみなわたしの前へ来るようになり、稲妻が東方から閃くこと、またわたしが東方の「オリーブ山」に降ったことも知るようになる。彼らはわたしがずっと前からすでに地上にいたことを知り、「ユダヤ人の息子」ではなく、東方の稲妻だと知るだろう。なぜならわたしはずっと前に復活し、人々の中から去って、その後栄光と共に再び人々の中に現れたからである。わたしは幾時代も前に崇拝された神であり、幾時代も前にイスラエル人によって見捨てられた「赤児」である。それだけでなく、わたしは今の時代の栄光に満ちた全能神である。すべての者をわたしの玉座の前に来させ、わたしの栄光に満ちた顔を見させ、わたしの声を聞かせ、わたしの業を見上げさせなさい。これがわたしの心の全てである。これがわたしの計画の結末であり、クライマックスであると同時に、わたしの経営の目的でもある。すべての国々にわたしにひれ伏させ、すべての人にその言葉でわたしを認めさせ、すべての人にわたしを信頼させ、またすべての人がわたしに服従するようにしなさい。


キリスト教賛美歌【神が出現することの意義】救い主の降臨を賛美しよう

2020-09-24 19:39:36 | キリスト教賛美歌

キリスト教賛美歌【神が出現することの意義】救い主の降臨を賛美しよう

 

王国新歌「神が出現することの意義」は、独特でやわらかい太極舞の形で、神様が二回受肉して働き、言葉を発する本当の意義をあなたの心に響くように語っている。舞台全体は青空広がる青草を背景にして、古典楽器の筝と蕭の調和が、のびやかで美しく、渾然一体となっている。メロディはしとやかで美しく、天からの音みたいで、あなたをこの混乱した世の中から離れて造物主のそばに戻るようにし、あなたに造物主が新しい時代に発表した命の御言葉を享受させる。

[東方閃電]全能神教会は、主イエスの再臨である終わりの日のキリスト全能神の現れと働きによって創られました。当教会は、終わりの日の全能神の働きを受け入れ、神の言葉によって征服され救われるすべての人々によって成り立っています。当教会は、全能神ご自身によって全てを創られ、全能神ご自身によって導かれ牧養されています。決して人によって創られたものではありません。キリストは道であり、真理であり、いのちなのです。神の羊は神の御声を聞きます。全能神の言葉を読めば神が現れられたのを見ることができます。

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救いとは? 天国に入るために必要なのは救いだけ?

2020-09-23 22:00:29 | 書籍

救いとは? 天国に入るために必要なのは救いだけ?

 

目 次
● 「救い」の真の意味
● いかにして救いを受け、天国に入ることができるか?

 

多くの人が、主の到来後すぐに救われ、天国に引き上げられることを待ち望みます。主イエスが帰ってきて、人々を救い清めるために、神の家から始まる裁きの働きを行っていると、公然と証しているのは、今のところ『全能神教会』だけです。この知らせを聞いて困惑する人もいるでしょう。彼らは次の節を読みます。「信じてバプテスマを受ける者は救われる。しかし、不信仰の者は罪に定められる」(マルコによる福音書 16:16)。「なぜなら、人は心に信じて義とされ、口で告白して救われるからである」(ローマ人への手紙 10:10)。この聖句の意味は、主イエスが人類すべての罪を贖うために十字架に掛かられたのだから、主に信じる限り、自分たちは救われるし、いったん救われると永遠に救われるということだと、彼らは信じています。自分たちが最後まで主のみ名を保ち、耐え抜けば、終わりの日に裁きや清めという神の働きを受け入れずとも、主が帰りたもう時、すぐに天国に引き上げられると信じています。このような考えは正しいのでしょうか?

よく考えてみましょう:人が一旦救われたら、天国に入れるなどと主が言われたでしょうか?聖書に書かれているでしょうか?この二つの問いに対する答えは明らかにノーです。主イエスは言われました。「わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである」(マタイによる福音書 7:21)。この神の言葉によって、天の父の御旨を行う者だけが天国に入ることができるということがわかります。 天の父の御旨を行うとは、神の言葉を実行することができ、神に服従し、どんな状況にあろうと、神の言葉に従って生きることができること、また二度と罪を犯したり神に反抗したりしないことです。とはいえ、私たちは、思わず嘘をつき罪を犯し続け、主の教えを実践しないことさえあります。それでは、罪を犯し、このようになおも主に逆らう可能性のある者が、天国に入ることができるのでしょうか?残念ながら「一度救われると永遠に救われる」という私たちの考えは誤りです。神の国に入るという重要な問題になると、私たちは主の言葉に従わなければなりません。人間の見解や想像で判断することはできません!では、聖書における「救い」の真の意味は何でしょうか?実際、人はいかにして天国に入るのでしょうか?ここでは、この問題について、一緒に、検討し探求したいと思います。

 

「救い」の真の意味

律法時代の後半、人類はサタンにより次第にひどく堕落していきました。イスラエルの人々はたびたび律法と戒めを破り、ますます罪を犯すようになりました。そのため、どんな多くの犠牲も十分ではなく、民はみな、律法により有罪とされ死刑を宣告される危険にさらされるほどでした。人類を死の脅威から救うために、神は人間の姿になって主イエスとして地上に降り、贖いの働きをなし、人のために十字架におかかりになり、全人類の罪のためのいけにえとなって、人の罪を一思いにお許しになりました。それ以来、主イエスを信じ、主に自らの罪を告白し、悔い改めさえすれば、罪の赦しを得られ、主イエスが与えるすべての祝福と恵を享受できるようになったのです。律法のもとに生きている人々にとって、これは「救い」でした。そのため、主イエスが語られた「救い」とは、私たちが想像するように、主イエスを信じさえすれば永遠に救われるというものではありません。むしろ、罪を犯す人々がもはや律法により罪に定められて死刑になることがなく、人の罪が許されるということです。全能神の言葉の一節を見てみましょう。「人は贖われ罪を赦されたが、それはただ神が人の過ちを覚えず、過ちに応じて人を取り扱わないこととみなすことが出来る。しかし、肉に生きる人が罪から解放されていないと、人は堕落したサタン的な性質をどこまでも顕し続け、罪を犯し続けることしかできない。これが人の送る人生で、罪と赦しの終わりのないサイクルである。大多数の人は昼間罪を犯し、夜になると告白するだけである。そのように、たとえ罪のためのいけにえが人にとって永久に有効だとしても、人を罪から救うことはできない。救いの働きは半分しか完成していない。人は堕落した性質を持ち続けているからである。……人が自分の罪に気づくのは容易ではない。人は自分自身の深く根ざした本性を認識することができない。言葉による裁きに頼らなければそのような成果を達成することはできない。これによって初めてその時点から次第に人は変えられていくのである」(「受肉の奥義(4)」『言葉は肉において現れる』)。

私たちが主に信じる時、救いの賜物を受け、罪が許されたとしても、罪の束縛から解放されるのではなく、罪の中で生き続けるのです。その例をあげます。私たちは信じられないほど傲慢になる可能性があります。どんなグループの中でも常に最終決定権を持ちたいと思い、他の人たちが自分の言いなりになるようにします。誰かが自分の言う通りにしないと、カッとなってその人をいさめたりするかもしれません。もっと深刻な場合、なんらかの方法でその人を罰し、虐待することもあります。信じがたいほど自己中心的になり、自己の利益という原則をすべての基とし、神への信仰において神と取り引きしようとさえすることがあります。物事が平和で順調に進んでいるときは、神に感謝しますが、つまずきや失敗に直面すると、神に対する誤解と不満でいっぱいになり、神を裏切り捨て去るようにまでなります。あまりに欺瞞に満ちているため、自分の個人的利益が関わると、思わず嘘をついて人をだますこともあります。これは私たちがいかに罪の中に生き続けるかを示すほんの数例にすぎません。聖書には、こう書いています。「もしわたしたちが、真理の知識を受けたのちにもなお、ことさらに罪を犯しつづけるなら、罪のためのいけにえは、もはやあり得ない。ただ、さばきと、逆らう者たちを焼きつくす激しい火とを、恐れつつ待つことだけがある」(ヘブル人への手紙 10:26-27)。「すべて罪を犯す者は罪の奴隷である。そして、奴隷はいつまでも家にいる者ではない。しかし、子はいつまでもいる」(ヨハネによる福音書 8:34-35)。神は聖です。私たちが真の道について学んだ後、なおも、我知らず罪を犯し神に反抗する可能性があります。ということは、私たちは罪の奴隷であり、神の推薦は受けられないということです。聖書にはこうあります。「きよくならなければ、だれも主を見ることはできない」(ヘブル人への手紙 12:14)。罪が清められておらず、たびたび罪を犯し神に背くなら、その人は永遠に救われるでしょうか?天国に入るにふさわしい者となれるでしょうか?それは明らかに無理です。私たちが罪より完全に清められてはじめて、聖なるものとなり、天国に入ることができるのです。そこで「どうしたら清められて天国に入ることができるのだろう?」と問う人もいるでしょう。

 

いかにして救いを受け、天国に入ることができるか?


全能神は言われます。「イエスは人間のあいだでたくさんの働きをしたが、全人類の贖いを完了しただけで、人の贖罪のためのささげものとなり、人から堕落した性質のすべてを取り除くことはなかった。サタンの影響から完全に人を救うためには、イエスが贖罪のささげものとして人の罪を引き受けることが必要だっただけではなく、神にとっても、サタンによって堕落させられた人の性質を完全に取り除くためにもっと大きな働きを行うことが必要だった。そこで、人が罪を赦された後、神は人を新しい時代に導くために人間の姿に戻り、刑罰と裁きの働きを開始し、この働きは人をより高い領域に連れてきた」(「序文」『言葉は肉において現れる』)。このことから分かることは、人間に深く根差したサタン的性質を解決し、人を罪の束縛から完全に開放するためには、主が終わりの日に帰ってきて、神の家から始まった裁きの働きを実行し、人類を清め救うために真実を表す必要があるということです。事実、聖書に書かれている通り、主はこのことについて昔から既に予言しておられたのです。「わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう」(ヨハネによる福音書 16:12-13)。「わたしを捨てて、わたしの言葉を受けいれない人には、その人をさばくものがある。わたしの語ったその言葉が、終りの日にその人をさばくであろう」(ヨハネによる福音書 12:48)「さばきが神の家から始められる時がきた」(ペテロの第一の手紙 4:17)。

全能神は、今、主イエスの贖いの働きに基づいて、神の家から始まる裁きの働きを行いつつあります。人の罪深い本性をすっかり清算し、清めて罪の縄目から解き放つために、人類を清め救うための真理をすべて表しておられます。それは、最終的に人が神のものとなり、神の国に導かれるようになるためです。終わりの日における全能神の裁きの働きにより、これらの预言が完全に成就するのです。終わりの日に神の働きを受け入れる者はみな、神の清めと救いを受けるのです。大惨事が到来する前に、勝利者となり、神とともに栄光が与えられ、天国に引き上げられる機会が与えられるのです。それでは、全能神は、いかにして、人々を裁き、清め、罪の縄目から解き放つのでしょうか?

全能神はこう言われます。「終わりの日には、キリストはさまざまな真理を用いて人間を教え、人間の本質を明らかにし、人間の言動を解剖する。そのような言葉は、人の本分や、人はいかに神に従うべきか、人はいかに神に忠実であるべきか、いかに正常な人間性を生きるべきかや、また神の知恵と性質など、さまざまな真理を含んでいる。これらの言葉はすべて人間の本質とその堕落した性質に向けられている。とくに、人間がいかに神をはねつけるかを明らかにする言葉は、人間がいかにサタンの化身であり、神に敵対する力であるかに関して語られる。裁きの働きを行うにあたって、神は少ない言葉で人間の本性を明らかにするだけではない。神は長い期間にわたり、それをさらけ出し、取り扱い、刈り込む。このような方法のさらけ出し、取り扱い、刈り込みは通常の言葉が取って代わることはできず、人間が一切持ち合わせていない真理でなければ取って代われない。このような方法のみが裁きと呼ばれることができる。このような裁きを通してのみ人間は屈服し、徹底的に納得して神への服従に向かうようになり、さらに神についての真の認識を得ることができる」(『言葉は肉において現れる』の「キリストは真理をもって裁きの働きを行う」より)。

このことから、神が多くの真理を用いて、神に逆らい反抗するという、人の悪魔的な性質を裁き暴き出しているのがわかります。全能神の言葉による裁きを経験すると、神の義なるご性質は、どんな罪も許さないということを、私たちは身をもって体験します。神の一つ一つの言葉は私たちの心を貫き、あらゆる種類の堕落の現れを暴き出します。また、誤った考えや見方、不純な動機、心の奥底にある意図や妄想、これらの裏に隠れている悪魔的な本性についても暴き出します。それによって私たちに羞恥心と深い悔恨の念が生じ、神のみ前にひれ伏し、真に神にざんげするようになるのです。しばらくは、神も実践の道を示してくれます。たとえば、神を信じる信仰においてどのような見解を持つべきか、いかにして正直な人となるべきか、いかにして神を崇め、その証人となるべきか、いかにして反キリストの道を避けるべきか、いかにして神への真の服従と真の愛を達成すべきかなどについでです。神の裁きの働きを経験し、神の言葉を実践してはじめて、私たちは正常な人の生きぶりができるのです。これはもっぱら神の裁きの成せる業です。

現在、裁きの体験をした『全能神の教会』の兄弟姉妹たちによる様々な体験的な証が、インターネット上に公開されています。この実際の体験と証からわかることは、神が終わりの日に行う刑罰と裁きの働きを経験しなければ、人は、清められ、神のものとなることができないということです。これが天国に到達する唯一の道です。これまで、真に神を信じる世界の多くの人々が、全能神の言葉を通して天国への道を発見し、神に立ち返っています。私たちが「一度救われると永遠に救われる」という概念に執着し、終わりの日の裁きという神の働きを受け入れないならば、私たちの堕落した性質が、清められ、変えられることはないでしょう。それゆえ、天国に入る機会を得ることは決してないでしょう。それなら、あなたがなおも待ち望むものは何でしょうか?

 


聖書映画「敬虔の奥義:続編」抜粋シーン(1)主はどのように再臨されるか?

2020-09-22 20:33:49 | 聖書映画

聖書映画「敬虔の奥義:続編」抜粋シーン(1)主はどのように再臨されるか?   

 

東方閃電]全能神教会は、主イエスの再臨である終わりの日のキリスト全能神の現れと働きによって創られました。当教会は、終わりの日の全能神の働きを受け入れ、神の言葉によって征服され救われるすべての人々によって成り立っています。当教会は、全能神ご自身によって全てを創られ、全能神ご自身によって導かれ牧養されています。決して人によって創られたものではありません。キリストは道であり、真理であり、いのちなのです。神の羊は神の御声を聞きます。全能神の言葉を読めば神が現れられたのを見ることができます。


質問1

2020-09-21 18:31:23 | 書籍

質問1. 終わりの日に裁きの働きを行うべく神が受肉され人の子になられたとあなたがたは証ししていますが、大多数の宗教界の牧師と長老たちは、主が雲に乗って来られると主張し、次の聖句をもっぱらこの根拠にしています。

 

回答

主の再臨と終わりの日の人の子の受肉については、聖書には明確な預言があるだけでなく、そのような預言が数多くあります。例えば、「あなたがたも用意していなさい。思いがけない時に人の子が来るからである。」(ルカによる福音書12:40)

「いなずまが天の端からひかり出て天の端へとひらめき渡るように、人の子もその日には同じようであるだろう。しかし、彼はまず多くの苦しみを受け、またこの時代の人々に捨てられねばならない。」(ルカによる福音書17:24~25)

これらの預言は人の子、あるいはその日の人の子が来ることを述べています。人の子とはそれが人間から生まれたこと、普通の人間性をもつ人のことです。霊ならば、人の子と呼ぶことはできません。ちょうどヤーウェ神は霊であり、人の子と呼ぶことができないようにです。天使を見た人がいますが、天使は霊であり、人の子と呼ぶことはできません。人の姿をしていても霊と分類されるものはどれも人の子と呼ぶことはできません。受肉した主イエスは人の子、キリストと呼ばれますが、これはイエスは神の霊が受肉した人であり、ごく普通の一般的な人になり、人々のもとで生きたからです。ですから主イエスが述べた人の子あるいはその日の人の子の再来は、終わりの日に神の受肉が再来することを指しているのです。

神の国の福音に関する代表的な質問と解答(セレクション)』より

主イエスは人の子として再臨すると預言されています。人の子とは受肉した神のことです。ちょうど主イエスと同じです。見かけは普通の人間で、人間と同じように生活しますが、復活後の霊体は違います。壁を突き抜けたり姿を消したりできたので、人の子とは呼ばれませんでした。主イエスはこう預言されています。

「しかし、彼はまず多くの苦しみを受け、またこの時代の人々に捨てられねばならない」(ルカによる福音書17:25)

あなた方は、主は霊体として雲に乗って公衆の前に現れ、人々はそれを見てひれ伏し崇拝すると言うのですね。それでは「しかし、彼はまず多くの苦しみを受け、またこの時代の人々に捨てられねばならない」(ルカによる福音書 17:25)これはどう成就しますか? 神が人の子として受肉し働かれる時、人々はそれがキリストだとわからずに非難し拒んでしまうのです。そうではないですか? 主はこうも預言されています。

「その日、その時は、だれも知らない。天の御使たちも、また子も知らない、ただ父だけが知っておられる」(マタイによる福音書 24:36)

「もし目をさましていないなら、わたしは盗人のように来るであろう。どんな時にあなたのところに来るか、あなたには決してわからない」(ヨハネの黙示録3:3)

主が雲に乗って降りてくるなら、誰でもそれに気付くでしょう。では、主の再臨が「だれも知らない」「また子も知らない」「盗人のように」ならば、どう成就しますか? 霊体として現れるなら、主が知らないはずがない。終わりの日に神が人の子として受肉するからこそ、「また子も知らない」が成就するのです。主イエスはその働きを始められる以前、ご自身がキリストだとはご存じありませんでした。しばしば父なる神に祈り、職分を果たすようになり、ようやくご自身の身分に気づかれたのです。

『神の国の福音に関する代表的な質問と解答(セレクション)』より

主イエスは再来することについて多くを語ったが、あなた方は主は雲に乗って来られるというその預言のみに固執し、他の預言を探究していません。これでは、主に見捨てられてしまいますね。聖書に書かれた預言は「雲に乗って降臨される」というもの以外に、主は盗人のように、ひそかに来られるというものも多くあります。例えば、黙示録16章15節「見よ、わたしは盗人のように来る。」マタイ25章6節「夜中に、『さあ、花婿だ、迎えに出なさい』と」黙示録3:20「見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう」これは、神が人の子として肉となり、ひそかに降臨されることに言及しています。「盗人のように」ということは、静かにひそかにという意味です。人々は彼を見たり、聞いたりしても、神であることが分かりません。その昔、主イエスがそうなさったように、外からは、主イエスはただの人の子であり、誰も神であると知らなかった。なので、主イエスは「盗人のように」という例えを使って説明したのです。とてもすばらしい例えですね!真理を愛さない者は皆、肉となった神が、いかに多くの真理を表したとしても受け入れません。その代わり受肉した神のことをただの人として扱い、非難し、見捨てるのです。なので再臨について、次の預言をしました。「いなずまが天の端からひかり出て天の端へとひらめき渡るように、人の子もその日には同じようであるだろう。しかし、彼はまず多くの苦しみを受け、またこの時代の人々に捨てられねばならない」(ルカによる福音書 17:24-25)主の預言にもとづくとその再臨は「人の子の再来」となります。「人の子」とは、受肉した神のことを意味しています。復活した主イエスが霊的な体として降臨することとは違います。なぜでしょうか?もしそれが雲に乗って降臨する霊的な体のことであれば、世界は衝撃を受けるでしょう。誰もが地にひれ伏し、抵抗はしません。再臨の主イエスはそれでも苦しみ、この時代から捨てられますか?ですから、「人の子としての再来」であり、「盗人のよう」だと預言したのです。現実には、それは神が受肉し、ひそかに人の子として来られることを意味しているのです。

『神の国の福音に関する代表的な質問と解答(セレクション)』より

全能神の国の福音は中国本土中に20年以上かけて広がり、様々な宗教や教派に広がっています。この間、中国共産党政府の暴虐な抑圧や取り締まり、および共産党系メディアの宣伝活動が合わさり、全能神は今のように誰もが知る名前となったのです。後に、全能神が表したすべての真理、全能神教会が作った様々なビデオや映画は段々とネット上で公開され、世界に広がっています。全能神教会の多様な証しの方法につき、宗教界の人々は皆、ご存知だと思います。多くの人が神は来られたと証しています。主イエスの預言を成就しているのです。「夜中に、『さあ、花婿だ、迎えに出なさい』と呼ぶ声がした」(マタイによる福音書 25:6)宗教指導者や長老たちは、どうして終わりの日における全能神の働きを非難し、抵抗するのでしょうか?聖書には主の再臨に関する預言が多くあります。彼らはなぜ主が雲に乗り降臨するという預言に、固執するのでしょうか?彼らはなぜ主の再臨についての証を求めようとしないのでしょうか?全能神が多くの真理を表していることを知り、神の働きの現実を見ているのに、なぜ終わりの日の神の働きに抵抗し、自分たちの考えに執着するのでしょう?彼らは果たして、真理を愛し主の到来を待ち望んでいるのでしょうか?彼らは賢いおとめでしょうか?愚かなおとめでしょうか?彼らが賢いおとめであり、主の到来を待ちわびていれば、なぜ神の声を聞き、神の国の福音が広まっていると知っても、まだ頑固に非難し、抵抗をするのでしょうか?彼らは主を待ちわびているのに、これが誠実さの現れなのでしょうか?これは主の再臨を喜ぶ彼らの真の表現なのでしょうか?率直に言えば、結局彼らの信仰と主イエス再臨への切望は偽りで、天国に入りたいという切望は現実なのです!真理を追求し、命を得るために主を信ずるのではなく、真理を得て、罪から逃れるためでもありません。彼らの希望は何なのか?降臨された主に天国に連れて行ってもらうこと、肉の苦しみから逃れ、天国の祝福を享受すること、これが彼らが神様を信ずる本当の目的です!この理由以外に、人類を救う真理を表す全能神を、彼らが拒絶する理由があるでしょうか。考えてみましょう。ある人が真理を愛し、神の出現を待ちわびているならば、主が来られたと聞いたときに、どうするでしょうか?耳を傾けず、状況を見ず、接触を避けるでしょうか?それを盲目に否定し、非難し、抵抗しますか?ないでしょう。神の出現を心から待ち望み歓迎する人ならば、真の光を待ち望み真理と正義の支配を願うでしょう。彼らは神が到来して人類を救い、人々が罪から完全に逃れて清められ、神のものとされる手助けをすることを望んでいます。しかし、主が雲に乗って来られることだけを待ち、全能神を否定し、拒む者もいます。ことに、自分の地位と生活を守るために、全能神を猛烈に非難し、抵抗する宗教指導者たちは、真理を軽蔑し、真理を憎んでいる者たちと言えます。彼らは皆、終わりの日の神の働きにより明らかにされた未信者や反キリストです。受肉された神が、その救いの働きを終えた後は、これらの人々はめったにない災害に陥り嘆き、歯ぎしりをするでしょう。そして、雲に乗って公に現れる主についての預言は、完全に成就される。「見よ、彼は、雲に乗ってこられる。すべての人の目、ことに、彼を刺しとおした者たちは、彼を仰ぎ見るであろう。また地上の諸族はみな、彼のゆえに胸を打って嘆くであろう」(ヨハネの黙示録 1:7)

『神の国の福音に関する代表的な質問と解答(セレクション)』より