神の羊は神の御声を聞く

「わたしの羊はわたしの声を聞く」黙示録も予言されました。「耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。」

日々の神の御言葉「働きと入ること(3)」抜粋309

2020-10-21 21:09:08 | 日々の神の御言葉

 

日々の神の御言葉「働きと入ること(3)」抜粋309

 

人間の性質を変化させる最善の策は、人々の心の奥深くにある、酷く毒された部分を回復させ、人々が考え方や倫理の変化を始められるようにすることである。まず何より、神がそうした宗教的な儀式や活動、そして年月や祭祀を憎んでいることを、人々は明瞭に知る必要がある。人々はそうした封建的思考の束縛から解放され、自分に深く根ざした迷信的傾向を跡形もなく一掃する必要がある。これらのことはすべて人間の入りに含まれるものである。あなたがたは、神が俗世から人間を導き出すのはなぜか、規則や規制から遠ざけるのはなぜかを理解する必要がある。これが、あなたがたが入る門である。これらの事柄はあなたがたの霊的経験と無関係でありながら、あなたがたの入りを妨げ、神を知ることを阻む最大の障害である。それらは人々を捕らえる網になる。多くの者が聖書を読み過ぎており、無数の聖句を暗唱することさえできる。今日の入りの中で、人々は無意識のうちに、あたかも神の働きの現段階の基礎が聖書であり、その根源が聖書であるかのように、聖書を用いて神の働きを測ろうとする。神の働きが聖書と一致していれば、人々はその働きを強く支持し、新たに神を尊ぶ。神の働きが聖書と一致していなければ、人々は不安のあまり汗が噴き出し、必死で神の働きの根拠を聖書から探し出そうとする。神の働きについて聖書に記載がなければ、人々は神を無視する。今日における神の働きに関する限り、大半の人がそれを注意深く慎重に受け入れ、選択した上で服従し、知ることには無関心だと言える。従来の物事について言えば、人々はその半分を固持し、もう半分を捨てる。これが入りと言えるのか。人々は他人の書物を宝とし、神の国の門を開ける黄金の鍵として扱いながら、神が今日要求していることに一切関心を示さない。その上、多数の「見識ある専門家」が、神の言葉を左手に、他人の「名著」を右手にもっているが、それはまるで、神による今日の言葉が正しいことを完全に証明すべく、その根拠をそれらの名著の中に見出そうとしているかのようである。彼らはまた、あたかもそれが仕事であるかのように、名著と組み合わせることで神の言葉を他人に解説しさえする。実のところ、現在における最先端かつ前例のない科学的業績(すなわち神の働き、神の言葉、いのちに入る道)を高く評価したことがない「科学研究者」が、人類の中に多数存在する。そのため、人々はみな「独立独歩」し、自分の雄弁さに頼って至るところで「説教」をして、「神の評判」を誇示している。その一方で、彼ら自身の入りは危うくなり、創世から現時点までがかけ離れているのと同じく、神の要求からかけ離れた所にいる。神の働きを行なうのは、どれほど容易なことか。人々はすでに自分の半分を過去に残し、残りの半分を現在に持ち込むとともに、半分をサタンに託し、現在に持ち込まれた半分を神に捧げようと決意したかのようである。それはあたかも、そうすることが自分の良心を癒やし、ある種の快適さを感じさせる術であるかのようである。人々の内面世界は極めて陰険であり、明日だけでなく過去をも失うことを恐れ、サタンに背くこと、そして存在するかどうかもわからない今日の神に背くことを強く恐れている。人々は自分自身の思考と倫理を正しく発達させることに失敗したので、並外れて識別力に欠けており、現在の働きが神のものであるかどうかを見極めることがまったくできない。それはおそらく、人々の封建的かつ迷信的な考えが極めて深く、そのために迷信と真理、神と偶像を長い間同類として扱い、区別する気にならなかったことが原因であり、どれほど頭を悩ませても明確に区別できないようである。人間が道を歩むのを止め、それ以上前進しなくなったのはこのためである。こうした問題はどれも、人々に正しい観念的教育が欠如していることに起因しており、それは人間の入りを大いに難しくする。その結果、人々は真の神の働きにまったく興味を抱かず、人間(たとえば人間が偉人とみなす者など)の働きには、あたかもそれに烙印を押されたかのようにあくまで固執する。これらは人間が入るべき最新の問題ではないのか。

『言葉は肉において現れる』より引用


キリスト教の歌「神を満足させるほど更に祝福される」歌詞付き

2020-10-20 21:58:33 | キリスト教の歌

 

キリスト教の歌「神を満足させるほど更に祝福される」歌詞付き

神を満足させればさせるほど
神はあなたを祝福し
神に対するあなたの愛は強くなるそして、あなたは信仰をもち
神を満足させればさせるほど神はあなたを祝福し
神に対するあなたの愛は強くなる
そして、あなたは信仰と決意をもち
神を愛することに生涯を捧げることほど価値や意義のあるものはないと思うだろう
神を愛しさえすれば悲しみがなくなるとも言える
自分の肉が弱り多くの実際の問題に悩むことがあっても
その間あなたは心から神にすがり
霊の内側で慰められ確信を抱き、頼るものがあると感じるだろう
このようにして、あなたは多くの状況を克服することができ
降りかかる苦しみのせいで神に不満を抱くこともないはずだ
その代わりにあなたは歌い、踊り、祈り
集って交わり神のことを考えたいと思うだろう
そして自分の周囲にある神によって整えられたすべての人や出来事や物事は
ふさわしいものだと感じるだろう

神を満足させればさせるほど神はあなたを祝福し
神に対するあなたの愛は強くなる
そして、あなたは信仰と決意をもち
神を愛することに生涯を捧げることほど価値や意義のあるものはないと思うだろう
もしもあなたが神を愛さないなら
何を見ても退屈で
目を楽しませるものは一切ない
霊においては自由がなく虐げられており
心の中で絶えず神に不満を抱き
自分の苦しみはあまりに大きくまったく不公平だと常に感じる
幸福のために追求するのではなく
神を満足させるためサタンにそしられないために追求するのであれば
そうした追求は神を愛する多大な力を与えてくれる
そうした追求は神を愛する多大な力を与えてくれる
人は神によって語られたすべてのことを実行でき
その人が行なうすべてのことは神を満足させられる
これが現実を自分のものにするということである

『小羊に従って新しい歌を歌おう』より

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キリスト教の歌「神の言葉を大切にする者は祝福される」歌詞付き

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キリスト教の歌「神のいない日々は苦しみに満ちる」歌詞付き

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日々の神の御言葉「実践(3)」抜粋314

2020-10-19 22:06:37 | 日々の神の御言葉

 

日々の神の御言葉「実践(3)」抜粋314

 

現在、あなたがたが理解するようになったことは、歴史上の完全にされなかった他の誰よりも高度である。それが試練についての認識であろうと神への信仰であろうと、どれも神を信じる他の誰のものよりも高度である。あなたがたが理解しているのは、環境の試練を受ける前に知るようになったことであるが、あなたがたの実際の霊的背丈は、そのことと全く相容れない。あなたがたが知っていることは、あなたがたが実践することよりも高度である。あなたがたは、神を信じる人は神を愛すべきであり、祝福のためでなく、神の旨を満たすためだけに努力すべきであると言うが、あなたがたの生活に現れているものはそれとは程遠く、ひどく汚れている。ほとんどの人は、平穏やその他の利益のために神を信じる。自分の利益にならなければ神を信じず、神の恵みを受けられないのであれば不機嫌になる。あなたが言ったことが、どうしてあなたのほんとうの霊的背丈でありえようか。家庭において避けられない出来事、たとえば子どもの病気、家族の入院、農作物の不作、家族からの迫害等については、このようなよく起こる日常的なことさえもあなたには過剰である。このようなことが起きると、あなたは当惑してどうして良いかわからなくなる。そして大抵、神について不満の言葉をこぼす。神の言葉に騙されたとか、神の働きに振り回されたと不平を言う。あなたがたはこのような思いを抱いていないのか。このようなことは自分にはまれにしか起こらないと思っているのか。あなたがたは毎日こうした出来事のただ中に生きている。あなたがたは神への信仰を成功させることや、いかに神の旨を満たすかについては少しも考えない。あなたがたの真の霊的背丈は低すぎて、ひよこの背丈よりも低い。自分の家族の事業が損失を出すと神について不平を言い、神の守りがない環境に置かれると、やはり神について不平を言い、ひよこが一羽死んだり、囲いの中の年老いた牛が病を煩っただけでも不平を言う。息子が結婚する時になったものの家族に十分な資金がないときも、不平を言い、もてなしの本分を尽くしたいのにその余裕がないときも不平を言う。あなたは不満であふれており、そのために時折集会へ行かなかったり、神の言葉を飲み食いしなかったり、長期間にわたって否定的になったりする。今日あなたに起こる出来事は一つとしてあなたの将来の展望や運命と関係がない。このようなことは神を信じていなくても起こることだが、今日あなたはその責任を神に負わせ、神が自分を淘汰したと主張する。神への信仰はどうなったのか。あなたは本当に自らのいのちを神に捧げたのか。あなたがたがヨブと同様の試練を受けたなら、今日、神に付き従うあなたがたのうち、揺るぎなく立つことができる者は一人もおらず、みな倒れるであろう。あなたがたとヨブの間には雲泥の差がある。今日自分の資産の半分でも差し押さえられたなら、あなたがたは神の存在さえ否定するであろう。自分の息子や娘が自分から奪い去られれば、不当だと叫びながら町中を走り回るであろう。生活に行き詰まったならば、神に挑んで文句をぶつけようとするであろう。わたしが最初になぜ多くの言葉を語って脅したのかと疑問に思うことであろう。このようなとき、あなたがたはどんなことでもする。このことは、あなたがたがまだ真の識見も真の霊的背丈も得ていないことを示している。したがって、あなたがたの試練は大きすぎる。なぜなら、あなたがたは多過ぎるぐらいに知識はあるが、真に認識しているのは、気づいていることの数千分の一にも満たないからである。単に理解や知識を得ることに留まってはならない。どの程度を本当に実践でき、自分の労苦の汗がどれほどの聖霊からの啓きと照らしに結実し、自分の実践のうち幾つにおいて決意を実現したかを、検討してみるべきである。自分の霊的背丈と実践を真剣にとらえるべきである。神への信仰においては、誰かのために単に上辺だけの身振りをしようとしてはならない。最終的に真理といのちが獲得できるか否かは、あなた自身の追求により決まるのである。

『言葉は肉において現れる』より引用

 


日々の神の御言葉「あなたは生き返った人か」抜粋537

2020-10-18 21:43:42 | 日々の神の御言葉

 

日々の神の御言葉「あなたは生き返った人か」抜粋537

 

あなたが正常な人間性を持つ生き方を達成し、全き者にされたら、預言や玄義について話すことができなくても、人間の姿を生き、表しているのである。神は人を造ったが、その後人はサタンによって堕落させられ、この堕落が人々を死人にしてしまった——したがってあなたが変われば、あなたは「死人」とは違うものになるだろう。人々の霊にいのちを与え、人々を再生させるのは神の言葉であり、霊が再生した時、人々は生かされる。死人について言及する時は、霊を持たない死体のこと、霊が死んでいる人々のことを指している。霊にいのちが与えられると、人々は生かされる。以前語られた聖者は生かされた人々、サタンの支配下にあったがサタンを打ち負かした人々のことだ。中国の選ばれた人々は、赤い大きな竜による非人道的な迫害や策略に耐えてきた。その結果、精神はひどく荒廃させられ、生きる勇気を少しも持たなくなった。したがって彼らの霊を目覚めさせるには彼らの本質から始めなければならない。本質の中で少しずつ彼らの霊を目覚めさせなければならない。いつか彼らが生かされたら、障害物は何もなくなり、すべては順調に進むことだろう。今のところ、これは相変わらず達成不可能である。ほとんどの人は死の環境をかなり含んだ状況下で暮らし、死の雰囲気に包まれており、欠けているものがあまりにも多い。一部の人の語る言葉には死が含まれており、行動には死が含まれており、彼らの生き方のほとんどすべてが死である。今日、人々が公に神について証しをしようとしても、この働きは失敗するであろう。なぜなら彼らはまだ完全には生かされていないし、あなたがたの中にはあまりにも多くの死人がいるからだ。今日、一部の人は、「なぜ神はしるしや奇跡を示さないのだろう、異邦人たちの間に神の働きをすばやく広めることができるのに」と言う。死人は神について証しをすることはできない。生きている者はできるが、今日ほとんどの人は死んでいる、あまりにも多くの人が死に覆われて生きており、サタンの支配下にあり、勝利を得ることができない——それなら彼らは神について証しをすることなどできるだろうか。彼らは福音の働きを広げることなどできるだろうか。

 

暗黒の影響を受けて生きている人々は死の中に生きているのであり、サタンにとりつかれている。神に救われなければ、そして神の裁きを受け、刑罰を受けなければ、人々は死の権勢から逃れることはできず、生きている人にはなれない。こうした死人たちは神について証しをすることはできないし、神に用いられることもない。いわんや神の国に入ることはできない。神は死人ではなく、生きている人々の証しを望んでおり、死人ではなく生きている人々が神のために働くことを要求する。死人とは神に反対し、神に逆らう人々であり、霊が麻痺し、神の言葉を理解しない人々、真理を実践することはなく、神への忠誠心など微塵もない人々、サタンの支配下に住み、サタンに利用されている人々のことだ。死人は真理に反対し、神に逆らい、卑しく、卑劣で、悪意があり、野卑で、悪賢く、陰険であることで自らを表す。そのような人々はたとえ神の言葉を飲食しても、神の言葉の通りに生きることはできない。彼らは生きているが、歩いている死体、呼吸している死人である。死人は神を満足させることは全くできないし、いわんや神に完全に従うことなどできない。神をだまし、冒涜し、裏切ることしかできない。死人の生き方すべてはサタンの性質を明らかにする。もし、人々が生きている存在になり、神への証しとなり、神に認められることを望むならば、神の救いを受け入れ、神の裁きと刑罰に喜んで服従し、神による手入れや取り扱いを喜んで受け入れなければならない。そうして初めて神が要求した真理のすべてを実行することができ、そうして初めて神の救いを得て、本当に生きた存在になることができる。生きている人々は神によって救われ、神から裁きと刑罰を受けており、進んで神に身を捧げ、喜んで命を投げ出し、全人生を神に捧げるだろう。生きている人々が神について証しをする時にだけサタンを辱めることができ、生きている人々だけが神の福音の働きを広めることができ、生きている人々だけが神の心にかなう人であり、生きている人々だけが本当の人である。元々神によって造られた人は生きていたが、サタンに堕落させられたために死の中で暮らし、サタンの支配下で暮らすようになり、そこで人は霊のない死人となり、神に反対する敵となり、サタンの道具になり、サタンの囚われ人になってしまった。神が造った、生きている人々はすべて死人となり、そこで神は証しを失い、神が造って息を吹き込んだ唯一の人類を失ってしまった。もし神が証しを奪い返し、その手で造られたがサタンに奪われた人々を奪い返そうとするならば、神は彼らが生きている人々になるようによみがえらせなければならないし、神の光の中で生きるように彼らを奪い返さなければならない。死人とは霊を持たず、極端に無感覚で、神に反対する人々のことである。そのうえ、彼らは神を知らない。こうした人々は神に従う意思など微塵も持たず、神に反抗し、反対するだけであり、忠誠心はまったくない。生きている人々は霊が再生しており、神に従うことを知っており、神に忠実な人々である。彼らは真理と証しを所有しており、これらの人々だけが神の家で神に喜ばれる。神は生かされる人々、神の救いを見ることができる人々、神に忠実になることができ、進んで神を探し求める人々、神の受肉を信じる人々、神の出現を信じる人々を救う。生かされる人もいれば、生かされない人もいるが、それはその人の本性が救われるか否かによる。神の言葉を数多く聞いているにもかかわらず神の心を理解しない人が大勢いる。彼らは神の言葉を数多く聞いているが、実行することができず、真理の通りに生きることができず、さらに神の働きを故意に邪魔したりもする。彼らは神のために働くことは全くできず、神に何も捧げることができず、そのうえこっそり教会のお金を使ったり、ただで神の家で食べたりする。これらの人々はみな救われない死人である。神は自身の働きの中にいるすべての人々を救うが、一部の人は神の救いが得られない。神の救いが得られるのはほんの少数だけである。なぜならばほとんどの人はあまりにも死んでおり、救うことができないほど死んでいて、完全にサタンに利用されており、本質的に、あまりにも悪意がある。それら少数の人々も完全に神に従うことができたわけではなかった。彼らは最初から完全に神に忠実な人々、あるいは最初から神に最大限の愛をもっている人々ではなかった。それどころか、彼らは神の征服の働きのために神に従うようになったのであり、神の究極の愛のために神を見ているのであり、神の義である性質のために彼らの性質に変化が見られるのであり、実際的で、正常である神の働きのために彼らは神を知るようになる。神のこの働きがなければ、これらの人々がどんなに善良でも、まだサタンに属しており、まだ死に属しており、まだ死んでいるだろう。今日これらの人々が神の救いを得られるのは、彼らが進んで神と協力するからだということに尽きる。

 

神に忠実であるために、生きている人々は神に得られ、神の約束の中で暮らし、神に反対するために死人は神から嫌われ、拒絶され、神の懲罰と呪いの中で暮らすことになる。これが神の義の性質であり、いかなる人もそれを変えることはできない。自ら探し求めることにより、人々は神の承認を得て、光の中に暮らす。ずるい企みのために、人々は神に呪われ、懲罰の中に身を落とす。悪行のために、人々は神に懲罰される。神に対する切望と忠誠心により、人々は神の祝福を受ける。神は義である。生きている人々を祝福し、死人を呪うので、死人は永遠に死の中にとどまり、決して神の光の中では暮らさない。神はその国に生きている人々を連れていき、生きている人々を祝福へと連れて行き、永久に神の傍らに置く。死人は永遠の死に陥れられる。死人は神による破壊の対象であり、永遠にサタンに属する。神は誰も不当に扱わない。心から神を探し求める人はすべて必ず神の家に留まり、神に逆らい、神に味方しない人は必ず神の懲罰を受けながら過ごすことになるだろう。おそらくあなたは受肉した神の働きについて確信がないだろう——しかしいつか神の肉は直接人の終末を定めなく、その代わりに神の霊が人の終着点を定め、その時人々は神の肉と霊は一つのものであること、神の肉は間違いを犯すことはなく、神の霊はより一層間違いを犯すことがないことを知るだろう。最終的に神は必ず一人も余分はなく、一人も欠かすことはなく、生かされる者はだれでも神の国に連れていき、生かされなかった死人はサタンの洞窟に追いやられるであろう。

 

『言葉は肉において現れる』より

 


日々の神の御言葉「聖書について(2)」抜粋270

2020-10-17 18:23:14 | 日々の神の御言葉

 

日々の神の御言葉「聖書について(2)」抜粋270

 

聖書は旧約・新約聖書とも呼ばれる。あなたがたは「約」の意味を知っているだろうか。「旧約」の「約」は、ヤーウェがエジプト人を殺し、イスラエル人をパロから救ったときの、ヤーウェとイスラエルの民との契約に由来する。もちろん、この契約の証しは鴨居につけた子羊の血であり、神はそれをもって人間との契約を立てた。この契約は、戸枠のてっぺんと両側に子羊の血がついた家の者はみなイスラエル人で、彼らは神の選民であり、ヤーウェは彼らを見逃す(このとき、ヤーウェはエジプト人の初子および羊と牛の初子をみな殺そうとしていた)という内容だった。この契約には二重の意味がある。まず、ヤーウェはエジプトの民や家畜を一切救わず、男の初子および羊と牛の初子を残らず殺す。そのため多くの預言書の中で、エジプト人はヤーウェの契約のために厳しく罰せられると預言された。これが契約の第一層の意味である。ヤーウェはエジプト人の初子と家畜の初子をみな殺したが、イスラエルの民はすべて見逃した。つまり、イスラエルの地に住む民はみなヤーウェの慈しむ者であり、みな見逃されるということである。ヤーウェは彼らの中で長期にわたって働こうと思い、子羊の血で彼らと契約を立てた。それ以降、ヤーウェはイスラエル人を殺すことなく、彼らは永遠に我が選民であると告げた。つまり、イスラエルの十二部族の間で、律法の時代全体にわたる働きに乗り出し、イスラエル人に自身の律法をすべて明かし、彼らの中から預言者と士師を選び、彼らを自身の働きの中心に置くのである。ヤーウェは彼らと契約を立てた。時代が変わらない限り、ヤーウェは選民の間でだけ働く。ヤーウェの契約は変えられないものだった。なぜなら、それは血で作られ、自身の選民との間で立てられたからである。さらに重要なこととして、ヤーウェは時代全体を通じて働きに乗り出す適切な範囲と対象を選んだ。そのため、人々は契約をとりわけ重要なものと見た。これが契約の第二層の意味である。契約が立てられる前の創世記を例外として、旧約の他の書はみな、契約を立てた後のイスラエル人の間における神の働きを記録している。もちろん、異邦人のことを述べている箇所もあるが、総体的に言えば、旧約はイスラエルにおける神の働きを記録したものである。ヤーウェのイスラエル人との契約のため、律法の時代に書かれた書は旧約と呼ばれている。これはヤーウェのイスラエル人との契約に因んで名付けられた。

新約は、イエスが十字架の上で流した血と、イエスを信じるすべての人との契約に因んで名付けられた。イエスの契約はこうである。ただイエスを信じれば、人々はイエスの流した血のおかげで罪を赦され、ゆえに救われ、イエスを通じて生まれ変わり、もはや罪人でなくなる。イエスの恵みを受けるには彼を信じさえすればよい。そうすれば、死後に地獄で苦しまずに済む。恵みの時代に記された書はみな、この契約の後のものである。そのどれもが、そこに含まれる働きと発言を記録している。これらの書は主イエスの磔刑による救い、あるいは契約から先には進まない。これらはどれも、経験を有する、主における兄弟たちが記した書である。したがって、これらの書も契約に因んで名付けられ、新約と呼ばれる。これら二つの契約には、恵みの時代と律法の時代だけが含まれていて、最後の時代とは何のつながりもない。ゆえに、聖書は終わりの日の今日の人々にとってそれほど役に立たない。せいぜい、時おり参照する価値があるくらいで、基本的にはほとんど無価値である。しかし、宗教関係者は、依然としてそれを最も貴重なものとしている。彼らは聖書を知らず、聖書を説明する方法を知っているだけで、そのなりたちを根本的に知らない。聖書に対する彼らの態度は、聖書に書かれていることはすべて正しく、そこに不正確なことや誤りは一切ない、というものである。聖書は正しく、誤りはないと最初から決めてかかっているので、大いに興味をもって学び調べる。今日の働きの段階は、聖書で預言されていなかった。最も暗い場所における征服の働きについて、一切言及されることはなかった。それは最新の働きだからである。働きの時代が異なるので、イエス自身でさえ、この段階の働きが終わりの日に行なわれるとは知らなかった。ならば、終わりの日の人々がこの段階の働きを、聖書を調べることでその中に見つけることなどできるだろうか。

『言葉は肉において現れる』より引用