神の羊は神の御声を聞く

「わたしの羊はわたしの声を聞く」黙示録も予言されました。「耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。」

クリスチャンの証し 2020「正しい道に戻る」

2020-11-19 17:36:40 | クリスチャンの証し

    全能神は言われます。「神に仕えることは単純な作業ではない。堕落した性質が変わらないままの人は決して神に仕えることはできない。もしあなたの性質が神の言葉により裁かれ、罰されていないのならば、その性質はいまだにサタンを表している。これは、あなたの奉仕があなた自身の善意から出ていることの十分な証明である。それはサタン的性質にもとづく奉仕である。あなたは自分の元来の性格のまま、また個人的好みに従って神に仕えている。さらに、自分が行いたいことが何であれ、神はそれを喜び、行ないたくないことが何であれ、神はそれを嫌うとあなたは思い続けている。そして働きにおいては、自分の好みに完全に左右されている。これを神への奉仕と呼ぶことができるであろうか。あなたのいのちの性質は、究極的には少しも変えられることはない。それどころか、自分は神に仕えているのだからと、ますます頑固になり、そのため、堕落した性質はさらに深く根付いたものとなる。このようにして、おもに自分の性格にもとづいた神への奉仕に関する規則と、自分自身の性質に従った奉仕から派生する経験をあなたは内面的に作り上げるようになる。それらが人間の経験と教訓であり、この世における人間の人生哲学である。このような人々はパリサイ人と宗教官僚に属する。このような人々は目を覚まし悔い改めないならば、最後には終わりの日に出現する偽キリストとなり、人間を騙す者となるであろう。話に出てくる偽キリストと反キリストは、このような人々の中から現れる」(「宗教的な奉仕は一掃されなければならない」『言葉は肉において現れる』)。特にこの一節、「神に仕えることは単純な作業ではない。堕落した性質が変わらないままの人は決して神に仕えることはできない。もしあなたの性質が神の言葉により裁かれ、罰されていないのならば、その性質はいまだにサタンを表している」この部分に深く感動しました。私は過去に失敗を経験しています。傲慢な性質に基づいて本分を尽くし、自慢ばかりした。人々からあがめられようと口先だけで説き、自分を誇示していました。そして無意識に、神に抵抗する道を歩んでいた。神の御言葉の裁きと暴きによって、ようやく自分が神に抵抗する根源と、自分のサタンの本性に気づき、神に悔い改めたのです。

    あれは2013年のことです。教会の指導者に選ばれ、熱心に打ち込んでいました。兄弟姉妹が窮地にあれば、神の御言葉を交わり、解決する手助けをした。みんなは困難が解決されると、通常どおり本分を尽くせました。数カ月が経ち、私の指導者がこう言った。「新参者が多い教会があって、その指導者として君の同労者が君を推薦している」私は自信満々で引き受けた。彼らが早く真理を理解して、真の道の基盤を築けるよううまく潤さなければ、ただそう考えました。その教会に着くと、教会全体の状況を把握し、兄弟姉妹の問題や困難を書き留めました。後日交わって解決するために、御言葉を調べる準備です。まだ出向いたばかりだったので、兄弟姉妹の多くが私のことを知らない。頑張って彼らと集まり、交わらなければと思った。短期間のうちに教会の仕事で良い働きができれば、彼らは、私に真理の現実と働く能力があると確信するでしょう。そうなれば指導者からも高く評価される。ちょうどそのとき、教会がその段階で入るべき真理を通知しました。交わる御言葉を探さなければなりません。私は興奮しました。自分の力を発揮する絶好のチャンスだ。その真理のあらゆる側面に関連した御言葉をいくつか見つけ、慎重に整理しながら、ずっとこう考えていた。「明日は同労者の集会だ同労者たちは私が一晩かけて御言葉を探したことを知って私を実直で責任感のある人物だと言うだろう」そうして、準備を終えたのは明け方近くだった。その集会で、私が探した御言葉を知った同労者はみんな、案の定、私を称賛した。「チェンさんを見ろ。なんて実直なんだ。一晩かけてこれらの御言葉を探したそうだ」と言った人もいれば、「ほんとに。御言葉を頻繁に読んでいるに違いない」と言った人も。集会を主催した兄弟は心配して言った。「チェンさん、この御言葉を探すために、どれくらい遅くまで起きていたんだい?」そう聞かれて、私は舞い上がりました。夜明けまで起きたことは無駄じゃなかった、兄弟姉妹に私の努力を知ってもらえる。興奮を隠して言いました。「探し終えたのは明け方近くだった本分を尽くすためによく徹夜してるんだ。当然のことだ、大したことではないよ兄弟姉妹が集会で交われるようにしないとね」すると彼から、「君は、徹夜も苦難も耐えられる、本分において実直な人物だ」と言われ、私の心は喜びであふれました。みんなから有能な指導者だと言われるよう、自分は努力を続けなければならない。

    その後、伝道の働きが拡大し、教会がいくつか設立されました。私は毎日、夜明けから日暮れまで、すべての教会を回って兄弟姉妹を潤した。困難を抱える人の問題解決のために、根気よく御言葉を交わっていると私への評価はさらに高まりました。数人の兄弟姉妹が、あるとき伝道で問題に直面し、解決できずにいた。弱って消極的になり、私の元に来た。そこで私は、自分の伝道の経験を共有しました。「観念があって受け入れない相手だった。家から追い出されたことも当時は、私もつらかった。だから絶えず神に祈った御言葉を一晩中探し、何度も彼らの問題解決のために交わりに行った彼らが神の御声を聞き、終わりの日の神の救いを享受するためだどんな屈辱を受け、困難に直面しても諦めなかったそして最後には、彼らを迎え入れられた」話し終えると、兄弟はこう賛美しました。「チェンさんを見ろ。苦難によく耐え、重荷を背負ってる」「我々もチェンさんのやり方で福音を広めるべきだ」彼らが私を高く評価するのを見て、私は最高に幸せでした。それからというもの、本分において困難に直前した兄弟姉妹たちは、私に助けを求め、パートナーのところに行く人はいませんでした。彼らは本分を尽くすなかで、私の頼みを積極的に聞いた。彼らが私に好意的なのを見て、自尊心がより高まり、自分が教会の中心人物になったように感じたよ。

    ある集会のことです。私は、本分において、どう苦しみ、どんな代償を払い、どんな結果を得られたかを話していた。すると突然、姉妹が言ったのです。「チェンさん、本分においてどれだけ苦しみ、費やしたかという話ばかりで苦難に直面したときに露わになったあなたの弱さや、堕落した性質あなたが得た知識、解決のためにどう真理を求めたかという話がないまるで少しも、あなたは堕落していないみたい」彼女が言い終えると、みんなが私を見ました。私は驚いて突然のことに動揺し、顔を赤らめた。そして思った。「兄弟姉妹の前でそんな言い方をされたら、面目丸潰れだみんなはどう思うだろう」なんとかプライドを取り戻そうと、すぐに言いました。「君の話はもっともだ。受け入れるよでも兄弟姉妹は本分において困難に直面し、弱く消極的になってる堕落についてだけ話すのでなく、もっと肯定的な実践を交わるべきだそれが唯一、彼らが進むべき道を持ち、信仰を見つける方法だ」でも、他の兄弟姉妹たちが私に言いました。君は自分の経験と知識を話すなかで、露わになった堕落についてはほとんど語らなかった真理の実践に精通して見えるのは、どう苦しみ、どんな代償を払いどう肉に背いたかという内容が多いからだそのような忠告を受け、私も少し不安になった。私が交わった内容は不適切だったのか? でも傲慢で利己的だったことを話したこともあるそれに私は、本分でいつも良い結果を達成し、教会の仕事を妨げたこともない私が交わってきた方法に間違いは何もないはずだそう思い、真剣に反省しなかった。

    その後、自分の本分のために、別の教会に移ることになりました。同労者との集会で、チャンさんが深刻な口調で言いました。「チェンさん君が去った教会で、本分に興味を失ってしまった兄弟姉妹がいる困難に直面しても、御言葉を読まず真理も追求せず、ただ君に解決してもらいたがる集会に参加したがらなくなった人もいるこれは君が本分において、神をたたえ、神に証しをしてこなかったことを示す君は人からあがめられようと、自分を誇示してきた邪悪な行為だ。じっくり反省しなければ!」それを聞いた私は、面食らいました。なぜそんなことに? 兄弟姉妹が私をあがめている? それは深刻な問題だ! 不安で仕方なかった。その後の交わりには集中して聞けませんでした。頭が混乱し、この状況をどう打破すればいいのか分からなかった。帰宅した私は、チャンさんの言葉をじっと考えました。それまで、自分は本分においていくらか結果をもたらし、問題を解決するための真理を交われたと思ってた。こんな事態につながるとは、夢にも思ってなかったのです。この一件によってひどく心が乱れ、なすすべなく、神に祈りました。「神様問題の根源を見つけ、自分を本当に理解できるよう、私を啓いてください」。

    そのあと、こんな神の御言葉を読みました。「下り坂を行く者はみな自分自身を高く掲げ、自分の証しをします。あちこちで自分のことを自慢したり増長したりして、神を心に留めたことなどまったくありません。私が話していることをあなたたちは経験したことがありますか。多くの人は絶えず自分の証しをしています。『私はあれやこれに苦しみ、あれやこれの働きを行なってきたが、神は私をあれやこれの方法で取り扱い、あれこれするように求めた。神は私のことを特に高く評価しており、今や私はかくかくしかじかである』という具合です。このような人たちは故意にある特定の調子で語り、特定の態度をとります。最終的に、一部の人々は、そのような人が神だと思うようになります。いったんその段階に達すると、聖霊はそれよりずっと以前に彼らを見捨てています。今のところは無視されているだけで、追い出されたわけではないものの、彼らの運命は定まっており、彼らにできるのは懲罰を待つことだけです」(「人はあまりに多くを神に要求する」『キリストの言葉の記録』)。「自分の地位を利用して繰り返し自分に有利な証言をして自分の立場を強化し、人や地位に関して神と争おうとする者もいます。彼らはあらゆる手段を用いて人々に自分を崇拝させ、常に人々の心を虜にし、支配しようとします。さらにひどい場合には意図的に彼ら自身が神であるかのように扱われると考えさせるように誤って導いたりもします。彼らは自分が堕落しているとは決して言いません。自分も堕落した高慢な存在であり、崇拝の対象にはなりえないことを人々に決して伝えません。また彼らがどれだけ立派にやっているとしても、それは神の行ったことのためであり、単にすべきことをしているに過ぎないとは言いません。なぜ彼らはこの事実を伝えないのでしょうか。それは人々が自分に見向きもしなくなるのを恐れているからです。そのためこうした人たちは、神を称揚することも、神に証しをすることもないのです」(「神の働き、神の性質、そして神自身1」『言葉は肉において現れる』)。御言葉を読み終え、不安に襲われました。自分を振り返って気づいた。私は苦しみ代償を払ったように装い、問題解決のために兄弟姉妹に御言葉を交わりながらも、実際は自分を誇示していただけだった。みんなからあがめられようとしていたんだ。思えば、新参者の多い教会の指導者に推薦されたとき、私は成果を上げることばかり考えていた。兄弟姉妹や自分の指導者から評価されるためだ。集会で交わる御言葉を徹夜で探して整理したのも、そのためです。兄弟姉妹が伝道で困難に直面したときは、神の旨を交わって彼らを真理の原則に導くのではなく自分が伝道においてどう苦しみ、どんな代償を払ったかを誇示しました。私の働きが上達すると、兄弟姉妹からたたえられた。それを私はうれしく思い、聖霊の働きによって達成された結果を自分の功績にして、恥ずかしげもなくひけらかしました。集会での交わりでは、頻繁に自分に焦点を当て前向きな実践しか話さず、露わになった堕落した性質には一切触れなかった。それを指摘されても、ごまかすだけでした。本分に対する自分の卑しい動機を、分析も告白もしたくなかった。神は何度も兄弟姉妹を用いて私の問題に触れましたが、私は自分の地位と印象を守るため、「受け入れた」と返すだけで、実際はちっとも反省しなかったのです。交わりで話を誇張し、みんなをだましているうちに自分は、代償を払える責任ある人物だと信じるようになり教会がどんな問題や困難を抱え、兄弟姉妹がどんな状態にあっても、ひるむことなく、解決を手助けした。これらのことから、気づきました。本分において、私は真理を全く実践することも、神の旨に配慮することもなく、自分を誇示して高い評価を受けるチャンスとして利用し、名声と地位への自分の願望を満たしていたのです。そうして、兄弟姉妹を神の御前に導くことなく、彼らに自分を崇拝させた。私は人々と地位を得るために、神と争っていたのです。やっと気づきました。神に抵抗する道に足を踏み入れ、重大な過ちを犯していたことに。私は恐ろしくなって、罪の意識にさいなまれた。自分に問いかけました。どうやって知らないうちに神に抵抗する道に入ってしまった?

    そして、こんな御言葉を読みました。「サタンが人間を堕落させて以降、人間の本性はサタン的なものになりました。人はもはや人間の立場で人間として行動しておらず、むしろ人類の地位を超えてしまいました。そしてもう人間であることを望まず、より高次なものに憧れています。では、この高次のものとは何なのでしょうか。彼らは神を超え、天を超え、他のすべてのものを超えたいと願っています。人がこのようであることの根本には何があるのでしょうか。つまるところ、人間の本性は傲慢すぎるのです。……人の本性と本質が傲慢になると、人は神に背き抵抗すること、神の言葉に従わないこと、神に対する観念を生み出すこと、神に反抗すること、そして自分自身を賛美し証しすることができるようになってしまいます。自分は傲慢ではないと言っても、たとえば多くの教会を任せられ、導くことを許されたとします。そしてわたしはあなたを取り扱わず、神の家の誰もあなたを刈り込まなかったとします。導くようになってしばらくたつと、あなたは彼らを自分の足元に導き、自分に従わせるでしょう。なぜそのようなことをするのでしょうか。それはあなたの本性によるもので、自然な暴露に他なりません。わざわざそれを学ぶ必要はなく、特別に他の人に教えてもらう必要もありません。意図的にそんなことをする必要はなく、そのような状況はあなたにとって自然と起こるものなのです。あなたは人々を自分に従わせ,自分を崇拝させ、褒め称えさせ、自分について証しをさせ、あらゆることで言うことを聞かせて、あなたが認めていないことは一切させません。あなたの指導のもとでは、そうした状況が自然と生じます。そのような状況はどうやって生まれるのでしょうか。それは人間の傲慢な本性によってです」(「人間の傲慢な本性は神への反抗の根源」『キリストの言葉の記録』)。この御言葉を読み、理解しました。なぜ私が本分で神を満足させたいと思いながらも無意識に神に抵抗する道に足を踏み入れてしまったのか。その根源は、私の中に存在する傲慢なサタンの本性でした。傲慢な本性に支配されたことで、私は自らを過大に評価し、たびたび自分を誇示する行動や発言を試みて、人々からあがめられようとした。本分で問題に直面した兄弟姉妹には、彼らの真理の理解や実践の道のために真理の原則を説くのではなく、自らを良く見せるために口先だけで説教し、自分の困難の経験や働きを、自らを誇示する道具として使った。そうして兄弟姉妹は、私が真理を理解し問題を解決できる人物だとたたえ、神を頼り真理を求めるべきだと気づかずに、困難に直面するたびに私を頼るようになった。彼らの心には神がいなかった。私が教会を移ると、集会に行きたがらなくなった兄弟姉妹もいた。これで本分を尽くせたと言えるのか。悪事を犯し、神に抵抗しただけでは? そんな悪事を行えたのは、傲慢でうぬぼれていたからだ。自分の地位と印象を守り、人より優位に立ちたかっただけです。あがめられ、中心人物でありたかった。地位の祝福を得たくてたまらなかった。私には少しも、神への畏敬の念がありませんでした。傲慢な本性に生きていると、無意識に神に抵抗してしまう。本当に危険なことです。宗教界の牧師や長老を考えると、彼らは神をたたえず、証しもせず、信徒にも主の御言葉を実践させない。代わりに聖書の知識や神学理論をやみくもに説き、信徒をだますのです。そして誇示する。自分がどれだけ苦しみ、自分の伝道がどれだけ実を結び、どれだけ多くの教会を建てたかを。結果、信徒は彼らをあがめ、尊敬し、彼らの言いなりになるのです。全能神の御言葉を読み、神の御声を聞いた人もいるが、その信徒ですら、彼らに確認するのです。牧師の同意なしには、真の道だと分かっていても全能神の働きを受け入れない。牧師や長老たちは、人々を支配下に置いています。神に抵抗する反キリストの道を歩み、独立した王国をつくろうとしている! 私も本分で自分を誇示し、尊敬されようとした。その牧師や長老たちと、どこが異なるでしょう。新参者の多い教会の兄弟姉妹は、終わりの日の神の働きを受け入れたばかりで、まだ多くの真理を理解していなかった。その教会を導く本分にまで神に高められた私は、もっと神の御言葉を交わり、神の働きを証しすべきでした。彼らが真理を理解し、神への認識を得て、真の道の基盤を築くために。でも私が本分においてもたらした結果は? みんな私をあがめ、神への認識から遠ざかりました。私は兄弟姉妹に害を与え、教会の仕事を妨げていたのです。神に抵抗する反キリストの道に他なりません。考えれば考えるほど不安で動揺しました。自分がどれだけ傲慢で、神への畏敬の念に欠けていたかが分かった。私の行いはずっと神の性質に背いていました。神が兄弟姉妹を用いて私を刈り込み取り扱っていなければ私は反省していなかった。そのままでは、どれだけの悪事を犯し、神の呪いと懲罰を受けていたか分からない。恐怖感が消えず、神の御前でひざまずき、こう祈りました。「神様。私は傲慢でしたいつも本分で自分を誇示しそのせいで兄弟姉妹は私をあがめ、心にあなたがいなかった悪事を犯して抵抗した私は、懲罰に値します神様。あなたに悔い改め、ひたむきに真理を追求し、やり直したいです」。

    そのあと、神の御言葉を読みました。「人間は被造物の一つとして、自身の立場を守り、誠実に行動しなければなりません。創造主から託されたものを忠実に守りなさい。適当でないことをしたり、自分の能力を超えることや、神に嫌悪されることをしたりしてはいけません。偉大になろうとしたり、超人になろうとしたり、他の人を超えようとしたり、神になろうとしたりしてはいけません。人はこうした存在になることを望んではいけないのです。偉大になること、超人になることを追い求めるのは馬鹿げています。ましてや神になろうとするのはさらに恥ずべきことであり、不快で卑劣です。称賛に値し、被造物が他の何より守るべきことは、真の被造物となることです。それが、すべての人が追求すべき唯一の目標なのです」(「唯一無二の神自身1」『言葉は肉において現れる』)。「人間が求めるものや願うことが何であろうと、ただ創造主の前に戻り、自分がすべきことと委ねられたことを恭しく果たし完成させる者だけが、安らかな心で正しく適切に、苦しみもなく生きていけるのです。これこそが生きることの意味と価値なのです」(『キリストの言葉の記録』より引用)。御言葉を読み終えて分かりました。神は創造主であり唯一正しい、適切な存在です。人間は神をあがめ、神に従うべきです。私はほんのささいな被造物であり、堕落した人間でした。サタンの性質に満ち、傲慢な詐欺師で、利己的で卑劣だった。自分を誇示して、人々の心に私をとどめようとしていました。恥知らずにも、理知なく、傲慢に振る舞った。ますます自分を恥じました。盲目で、神を認識しない自分が嫌だった。自分のことを分かっていなかった。今日ここで本分を尽くせるのは、神の恵みと引き上げのおかげです。私は被造物として自分をわきまえ、実直であるべきです。真理を追求し、神をたたえ、神に証しをし、しっかり本分を尽くすべきだ。そうすれば、被造物として良心と理知を持てる。

    その後、実践の道を求めて、神の御言葉に入りました。こんな御言葉を読みました。「神の証しをするときは、神が人々をどのように裁き罰するか、人間を精錬してその性質を変えるためにどのような試練を用いるかを主に語るべきです。また、自分の経験においてどれだけ多くの堕落が表わされたか、自分がどれだけ耐えてきたか、最後はどのようにして神に征服されたか、神の働きに関する真の認識が自分にどれだけあるか、どのようにして神の証しをし、神の愛に報いるべきかも語るべきです。こうした言葉に中身を持たせつつ、簡潔に語りなさい。空虚な理論について話してはいけません。もっと地に足のついた話をしなさい。心から語りなさい。あなたはそのように経験しなければなりません。自分自身を誇示しようと、深遠に見えながらも空虚な理論で着飾ってはいけません。そうすることはかなり傲慢で理知に欠けるように見えます。実際かつ本当の物事を、自分の経験から、そして心からもっと語るべきです。それが他人にとって最も有益であるとともに、彼らが目にするのに最適なのです」(「真理を追い求めることでのみ、性質の変化を得られる」『キリストの言葉の記録』)。御言葉を読んで、どう本分において、神をたたえて証しをすべきか、少し理解しました。神への証しでは、どう神の働きを経験したか、どんな堕落した性質が露わになったか、どう神に反逆し抵抗したか、どう御言葉に照らして反省して自分を認識し、悔い改めたかを話すべきだ。真理を交わることで人々が、神の旨と要求、神の性質と、人を救う神の働きを理解し、神を畏れ、神に従い、被造物の本分を尽くせるよう助ける。それこそが、神への賛美であり証しなのです。兄弟姉妹との私の交わりは、私がどう苦しみ、どんな代償を払い、どう神の業を証しして神の祝福を受けたかという話ばかりだった。露わになった私の堕落した性質や、卑しい動機についてはごまかす一方で、少しも触れなかった。私の堕落を知った彼らに幻滅されるのが怖かったのです。私には、そんな詐欺師の本性があった。これらのことを認識した私は、自分を誇示して、兄弟姉妹をだました悪事をチャンさんに打ち明けました。また、私が以前に奉仕していた教会へ行って、そこの兄弟姉妹と一緒に私の振る舞いを分析し、それによってみんなの識別力を高めてくれるよう、彼に頼みました。集会では、私も彼らに自分の悪事を明かして、神の義なる性質を証しし、自分を例に挙げて私のように神に抵抗する道を歩まないよう、話をしました。

    そうして本分を尽くしたあと、私は控えめになり神への畏敬の念をいくらか持てました。その後、ある集会に困難に直面した新参者の兄弟がいて、私は問題解決のため、彼に御言葉を交わった。話を聞き終えた彼は、うれしそうに言った。「チェンさん、あなたの話は素晴らしい私はこの問題に長いあいだ悩まされ、解決できずにいた君は真理を理解している! もっとこの集会で交わってほしい」別の兄弟も同じことを言った。うれしくてたまらなくなったがすぐに、自分を誇示したかつての過ちを犯そうとしていることに気づいた。そこで即座に神に祈り、自分に背いたんだ。そして意識的に神への証しをして、兄弟姉妹を神の御前に導いて言った。「今日のこの集会の交わりから、私たちが学べることがあるこれはすべて聖霊の導きであり啓きなのです私たちがもっと御言葉を読み、御言葉に真理を求めれば聖霊が啓き、照らしてくださるそうして私たちは、より理解できる」そう話すと、心がとても安らぎました。私は小さな変化を経験し、本分において神をたたえ、証しを実践する方法を知った。すべて神の御言葉による裁きと刑罰のおかげです。


日々の神の御言葉「堕落した人類には受肉した神による救いの方が必要である」抜粋82

2020-11-19 17:19:17 | 日々の神の御言葉

    受肉した神の働きは最も意義深い。それは働きについての語りであり、最終的に働きを終えるのは受肉した神であって、霊ではない。神はいつか地上に来て、人間に姿を見せ、誰一人も逃さず人を一人一人試みつつ、全人類を自ら裁くと信じている人々がいる。このように考える者は、この受肉の働きの段階を知らない。神は人間を一人一人裁きはしないし、一人ずつ試みもしない。それは裁きの働きではない。堕落はすべての人間に共通しているのではないか。人間の本質は、みな同じなのではないか。裁かれるのは人間の堕落した本質、サタンのせいで堕落した人間の本質、そして人間の罪全部である。神は人間の些細で無意味な過ちを裁かない。裁きの働きは代表によるもので、特に誰かのために行うものではない。そうではなくて、この働きでは、一群の人々が人類を代表して裁きを受けるのである。受肉した神が自ら一群の人々に働きかけ、全人類に施す働きを代理的に行うと、その後、それが徐々に広まる。裁きの働きも、そのように行われる。神は特定の人や特定の人の集団を裁くのではなく、全人類の不義を裁く──例えば、神への敵対、神に対する不遜、神の働きの妨害等。裁かれるのは人間の神への敵対の本質であって、この働きは終わりの日の征服の働きである。人間が証しする受肉した神の働きと言葉は、終わりの日に大きな白い玉座の前での裁きの働きであり、これは過去に人間が考えたものである。今、受肉した神が行っている働きは、まさに、大きな白い玉座の前での裁きである。今日の受肉した神は、終わりの日にすべての人間を裁く神である。この肉体と神の働き、言葉、そしてすべての性質が神の総体である。神の肉の働きの規模は限られているし、直接全宇宙に関わるものではないが、裁きの働きの本質は、全人類への直接の裁きである。これは、中国に対してのみ行われるものではなく、少数の人々にだけ下るものでもない。受肉した神の働きの間、この働きの範囲は全宇宙に及びはしないが、全宇宙への働きを代表し、受肉した体の作業範囲の働きを終えた後、神は直ちにこの働きを全宇宙に広める。イエスの福音がそのよみがえりと昇天の後で全宇宙に広まったように。それが霊の働きであろうと、肉の働きであろうと、限られた範囲だけにおいて実行される働きであるが、全宇宙への働きを代表するものなのである。終わりの日、神は受肉した体で働くために出現する。そして、受肉した神は、大きな白い玉座の前で人間を裁く神なのである。霊でも肉体でも、裁きの働きを行うのは、終わりの日に人間を裁く神である。これは、神の働きによって規定されたものであって、神の外見やその他の要素によって決まるものではない。人間はこうしたことばについての観念をもっているが、受肉した神がすべての人間を裁き、征服することは誰も否定できない。それがどう評価されるかに関わらず、事実は、結局のところ、事実である。誰ひとり、「働きは神によるが、その肉体は神ではない」とは言えない。これは戯言だ。この働きは、受肉した神以外にはできないものだからだ。この業はすでに完了しているのだから、この働きの後で神が再び人間を裁く働きをすることはあり得ない。二度目の受肉した神はその経営(救いの)計画全体のすべての働きをすでに完成したのだから、神の働きの第四段階というものはない。裁かれるのは人間、肉の体をもち堕落した人間であり、直接裁かれるのはサタンの霊ではなく、裁きの働きは霊的世界ではなく、人間の間で行われる。

『言葉は肉において現れる』より引用


神はニネベを救われる

2020-11-15 23:09:05 | 天の国の福音

神への信仰が真実であれば、頻繁に神の労りを与えられる

 

 ニネベの人々に対する神の心の変化には、躊躇や曖昧さが一切含まれていなかった。むしろ、その変化は純粋な怒りから、純粋な寛容さへの変化であった。これが神の本質の真の明示である。神は、業に関して優柔不断であることや躊躇することが決して無い。神の業の根底にある原理と目的はすべて明白かつ明瞭であり、純粋で完璧であり、その中に策略や陰謀は一切潜んでいない。つまり、神の本質には、闇や邪悪が一切含まれていない。神はニネベの人々の悪の行いが神の目に留まったため、ニネベの人々に対して怒ったが、この時、神の怒りは神の本質に由来するものであった。しかし、神の怒りが消え、ニネベの人々に再び寛容さが与えられた時に神が明示したのも、神自身の本質であった。この変化は、すべて人間の神に対する姿勢の変化に起因するものであった。この変化の間、侵害を許さない神の性質も、神の寛容な本質も、神の愛と憐れみに満ちた本質も変わることが無かった。人々が邪悪な行動を取ったり、神を侵害したりした場合、神はその人々に神の怒りを伝える。人々が真に悔い改めた場合、神の心は変化し、神の怒りは静まる。人々が神に対して頑なに反抗を続けた場合、神の怒りは静まることが無い。神の怒りは徐々にこうした人々を侵し、最終的に人々は滅びを迎える。これが神の性質の本質である。神が示しているのが怒りであれ、憐れみと慈愛であれ、人間の心底にある神に対する行動と姿勢が、神の性質の明示により何が現されるかを左右する。神がある者に対して継続して怒っている場合、その者の心は間違い無く神に反抗している。その者は決して悔い改めず、神の前でひれ伏すこともなく、神に対して真の信仰を持つこともなかったため、その者は決して神の憐れみと寛容さを得ることはできない。ある者が神の労りや憐れみ、寛容さを頻繁に与えられている場合、その者には間違い無く神に対する真の信仰があり、その者の心は神に反抗していない。その者はしばしば神の前で正直に悔い改めるので、しばしば神の鍛錬がその者にくだったとしても、その者に神の怒りがくだることは無い。

 こうした簡潔な説明により、人々は神の心、神の本質の現実性を理解し、神の怒りと神の心の変化には理由があるという事実を理解することができるようになる。神が怒っていた時と、神が心を変えた時の際だった対比により、神の怒りと寛容さという神の本質の2つの側面には大きな隔たりや対比があると人々は考えるが、ニネベの人々の悔い改めに対する神の姿勢により、人々は、神の真の性質について、それらとは別の側面を理解することができるようになる。神の御心の変化により、人間は神の憐れみと慈愛の真実を理解し、神の本質の真の明示を理解することができる。人類は、神の憐れみと慈愛が単なる神話でも虚構でも無いということを、認める他は無い。それは、その時点での神の感情、神の心の変化は真実であり、神はまさしく憐れみと寛容さを再び人類に対して与えたからである。

 ニネベの人々は、心からの真の悔い改めにより神の憐れみを獲得し、滅びの運命が変えられた

 神の心の変化と怒りには、何かしら矛盾点があったであろうか。無論、矛盾は存在しない。それは、特にその時の神の寛容さには、理由があったからである。それは、どのような理由であろうか。その理由は、聖書に記されている。聖書には、「おのおのその悪い道およびその手にある強暴を離れよ」とある。

 この「悪い道」は、数件の悪業では無く、人々の背後にある邪悪の原因を指す。「悪い道を離れる」とは、ニネベの人々が二度とそうした行為をしない、ということである。つまり、ニネベの人々は、その後二度と悪の道で行動せず、ニネベの人々の行動の方法、原因、目的、意図、原理が、すべて変わり、ニネベの人々は、自分達の心の楽しみと幸福をもたらすためにそのような方法や原理を二度と使用しない、ということである。「その手にある強暴を離れよ」の「離れ」とは、過去を破棄し、捨て去り、完全に断ち切って、二度と戻らないことを意味する。ニネベの人々が不法を手の中から捨て去ったというのは、ニネベの人々の真の悔い改めを現しているに等しい。神はニネベの人々の外観とともに、心も観察していた。神がニネベの人々の心に、異論の余地のない真の悔い改めを確認し、またニネベの人々が悪の道を離れ、手から不法を捨て去ったことを確認した時、神は心を変えた。つまり、ニネベの人々の行動、振る舞いと行動方法、そして真の罪の告白と悔い改めが神の心、意図に変化をもたらし、神は自身の決断を撤回してニネベの人々に罰を与えず、ニネベの人々を滅ぼさないことにした。したがって、ニネベの人々は、滅びではない結末を迎えることが出来た。ニネベの人々は自分達の命を取り戻すと同時に、神の憐れみと寛容さを獲得し、この時点で、神は自身の怒りも撤回した。

『言葉は肉において現れる』より


聖霊の御言葉「神を知る者だけが、神の証人となることができる」

2020-11-15 02:32:48 | 聖霊の御言葉

 

東方閃電]全能神教会は、主イエスの再臨である終わりの日のキリスト全能神の現れと働きによって創られました。当教会は、終わりの日の全能神の働きを受け入れ、神の言葉によって征服され救われるすべての人々によって成り立っています。当教会は、全能神ご自身によって全てを創られ、全能神ご自身によって導かれ牧養されています。決して人によって創られたものではありません。キリストは道であり、真理であり、いのちなのです。神の羊は神の御声を聞きます。全能神の言葉を読めば神が現れられたのを見ることができます。


ペテロの経験──刑罰と裁きに関するペテロの認識

2020-11-13 22:35:06 | 書籍

ペテロの経験──刑罰と裁きに関するペテロの認識


 ペテロが神により罰せられた時、ペテロは祈って言った。「神よ、わたしの肉は不従順で、あなたはわたしを罰し、裁かれます。わたしはあなたの刑罰と裁きの中で喜び、たとえあなたがわたしを求められなくとも、わたしはあなたの裁きの中に、あなたの聖なる義のご性質を目の当たりにします。あなたの裁きの中に他の人たちがあなたの義なるご性質を目にすることができるように、あなたがわたしを裁かれる時、わたしは満足です。あなたのご性質が示され、あらゆる創造物があなたの義なるご性質を見ることができるようになり、わたしがもっと純粋にあなたを愛することができるようになり、義なる者の姿に達することができたなら、あなたの裁きは良いものであり、あなたの恵み深い御心によるものです。自分には未だに反抗的な部分が多く、わたしはあなたの御前に出るに相応しくないことを知っています。過酷な環境や大いなる患難を通して、あなたがわたしを一層裁かれることを望みます。あなたが何をなさろうとも、わたしにとってそれは貴いものです。あなたの愛は非常に深遠なので、わたしは一切不平を言わずに進んで自らをあなたの憐れみに委ねます」。これは、神の働きを経験した後のペテロの認識であり、神に対するペテロの愛の証しでもある。現在、あなたがたは既に征服されているが、この征服は、あなたがたの中でどのようにして表されているであろうか。ある人たちは言う。「わたしが征服されたことは、神からの至高の恵みであり、引き上げである。人生は空虚であり、何の意味もないものであることが、今になってやっと分かった。人間は人生を多忙にして過ごし、何世代にもわたって子どもを産み育てるが、結局人間には何も残らない。現在、神により征服されて初めて、わたしはこのように生きることが無価値であることを知った。それは本当に無意味な人生だ。そのような人生を死んで終わらせた方がよい」。神により征服されたこのような人々は、神のものとされるだろうか。彼らは型となり模範となれるだろうか。このような人々は否定的な実例であり、全く熱意を持たず、向上しようと努力しない。彼らは征服された者の中に含まれるが、このように消極的な人間は完全にされることが不可能である。晩年ペテロは、完全にされた後、「神よ、もしわたしの余命があと数年であるならば、あなたへの一層清く深い愛を達成することを望みます」と述べた。ペテロは、十字架に釘付けにされる直前に、心の中でこう祈った。「神よ、ついにあなたの時が来ました。あなたがわたしのために用意された時が来ました。わたしはあなたのために十字架に架けられ、この証しをしなければなりません。わたしの愛があなたの要求を満たし、一層清くなることを願います。今日あなたのために死ねること、あなたのために十字架に架けられることは、わたしにとって慰めとなり、励みとなります。なぜなら、あなたのために十字架に釘付けにされ、あなたの望みを満たし、自らをあなたに捧げ、わたしの命をあなたに捧げることができることはこの上ない喜びだからです。神よ、あなたはほんとうに愛しいお方です。もしわたしが生きることをあなたが許されるならば、わたしは一層あなたを愛することを望むでしょう。生きている限り、わたしはあなたを愛するでしょう。わたしは、あなたを一層深く愛することを望みます。あなたはわたしを裁かれ、刑罰を与えられ、わたしを試されます。なぜならわたしが不義であり、罪を犯したからです。そして、あなたの義なるご性質がわたしには一層明らかになります。それはわたしにとって祝福です。なぜなら、わたしはあなたを一層深く愛することができ、あなたがわたしを愛されなかったとしても、わたしはあなたをこうして愛することを望むからです。わたしはあなたの義なるご性質を見ることを望みます。なぜなら、そうすることにより、わたしは有意義な人生を実際に生きることができるようになるからです。わたしの人生は今より有意義であると感じます。なぜなら、わたしがあなたのために十字架に架けられ、あなたのために死ぬことは意味のあることだからです。しかしながら、わたしはまだ満足していません。なぜなら、わたしはあなたのことをほとんどほんの少ししか知らず、わたしはあなたの望みを完全に満たせず、あなたにほとんどほんの僅かしか報いなかったからです。わたしは人生においてわたしのすべてをあなたに報いることができずにおり、それには遠く及びません。今、振り返ってみると、わたしはあなたに大きな負債があり、自分のすべての過ちと、わたしがあなたに報いなかった全ての愛を償うために、わたしにはこの瞬間しかありません」。

 人間は意味のある人生を実際に生きることを追い求めるべきであり、現状に満足していてはならない。ペテロの模範を実際に生きるためには、人間はペテロの認識と経験を備えていなければならない。人間は、より高く、より深淵なことを追求しなければならない。人間は、神に対する一層深く純粋な愛と、価値と意義のある人生を追い求めなければならない。唯一これが人生であり、そうしてはじめて、人はペテロと同じようになれるのだ。あなたは、肯定的側面へ入ることに対して積極的になることに重点を置くべきであり、また一時的快楽のために、さらに深淵で、具体的で、実践的な真理を無視しつつ、追従的に後退することを許してはならない。あなたの愛は実践的でなければならず、あなたは、獣同然の堕落した気楽な生活から抜け出す方法を見出すべきである。あなたは意味のある人生、価値のある人生を実際に生きるべきであり、自分をごまかしたり、自分の人生を玩具のように弄んだりしてはならない。神を愛することを目指す全ての者にとって、獲得することのできない真理はなく、揺るぎなく立つことができない正義はない。あなたは、どのようにして自分の人生を生きるべきだろうか。あなたは、どのように神を愛し、その愛を用いて神の願いを満足させるべきであろうか。あなたの人生において、これより重要なことはない。あなたは、何よりもそうした大志と根気を持っていなければならず、骨抜きの弱虫のようであってはならない。あなたは有意義な人生を経験する方法を知り、有意義な真理を経験しなければならず、自分自身をそのようにいいかげんに扱ってはならない。あなたの人生は、気付かぬうちに過ぎてゆく。その後、あなたには神を愛する機会がもう一度あるだろうか。人は、死後に神を愛することができるだろうか。あなたは、ペテロと同様の熱意と良心を持っていなければならない。あなたの人生は有意義であるべきで、あなたは自分を弄んではならない。人間として、また神を追い求める者として、あなたは自分の人生をどのように扱うか、どのようにして自らを神に捧げるべきか、どのようにしてもっと有意義な神への信仰を持つべきか、そして、あなたは神を愛しているので、どのようにして一層清く、一層美しく、一層好ましく神を愛するべきかを慎重に考慮することができなければならない。現在、あなたは自分がどのようにして征服されたかにだけ満足していてはならず、将来歩んで行く道についても考慮しなければならない。あなたは完全にされることへの熱意と勇気を持たなければならず、自分は無能だと常に思うべきではない。真理は人を選り好みするだろうか。真理は故意に人間に反対できるだろうか。あなたが真理を追求するなら、真理はあなたを圧倒できるだろうか。あなたが正義のために固く立つなら、正義はあなたを打ち倒すであろうか。いのちを追求することが本当にあなたの願望であれば、いのちはあなたから逃れることができるだろうか。あなたに真理がないのであれば、それは真理があなたを無視するからではなく、あなたが真理から遠ざかるからである。あなたが正義のために揺るぎなく立つことができないのであれば、それは正義に問題があるからではなく、あなたが正義は事実に一致しないと思っているからである。あなたが何年いのちを追求しても、いのちを得られずにいるのは、いのちがあなたに対して良心を持っていないからではなく、あなたがいのちに対して良心を持っておらず、いのちを追い払ったからである。あなたが光の中で生活しつつも、光を得ることができないのであれば、それは光があなたを照らせないからではなく、あなたが光の存在に注意を払わなかったので、光が静かにあなたから去ったからである。あなたが追求しないのであれば、あなたは価値の無い屑であり、自分の人生において全く勇気がなく、暗闇の勢力に対抗する霊がないと言う他ない。あなたは弱過ぎるのである。あなたは、自分を包囲するサタンの勢力から逃れられず、このような安全で平穏な生活を送り、無知のまま死ぬことのみを望んでいる。あなたが追求すべき事は、征服されることであり、それがあなたに課された本分である。自分が征服されたことに満足しているなら、あなたは光の存在を追い払うことになる。あなたは真理のために苦難を受け、真理に自分を捧げ、真理のために恥辱を忍ばねばならず、より多くの真理を得るためには、より多くの苦難を受けなければならない。これこそがあなたの為すべきことである。あなたは平穏な家庭生活のために真理を投げ捨ててはならず、一時的な享楽のために、あなたの一生の尊厳や品位を失ってはならない。あなたは、すべての美しく良いこと、また一層有意義な人生の道を追求すべきである。あなたがこのような俗悪な生活を送り、何の目的も追求しなかったならば、あなたは人生を無駄にすることになるのではないか。そのような人生から何が得られるであろうか。あなたは、真理のために肉の享楽をすべて捨て去るべきであり、僅かばかりの享楽のために全ての真理を投げ捨ててはならない。このような人々には、品位も尊厳もなく、彼らの存在には何の意味もない。

 神が人間を罰して裁くのは、そうすることが神の働きには必要であり、またさらに人間にとって必要だからである。人間は刑罰と裁きを受ける必要があり、人間はその時初めて神への愛に達することができる。現在、あなたがたは完全に確信しているが、小さな挫折に直面するだけで、あなたがたは窮地に陥ってしまう。あなたがたの霊的背丈はまだ小さすぎるので、一層深い認識を得るために、そうした刑罰と裁きをもっと経験しなければならない。現在、あなたがたはある程度神を敬い、神を畏れており、神が真の神であることを知っているが、神に対する大きな愛はなく、まして純粋な愛に達することなどない。あなたがたの認識は浅過ぎて、あなたがたの霊的背丈はまだ不十分である。ある環境にほんとうに直面する時、あなたがたはいまだに証しに立つことがなく、あなたがたの積極的な成長は極めて少なく、実践する方法を全く知らない。ほとんどの人々が消極的かつ不活発である。彼らは心の中で密かに神を愛するだけで、実践する術がなく、自分達の目標が何であるかを明瞭に理解していない。完全にされた者は正常な人間性だけではなく、良心の尺度を超え、良心的基準よりも高い真理も備えている。彼は自分の良心で神の愛に報いるのみならず、なにより、神を知り、神が愛しいこと、神は人間の愛を受けるに相応しいこと、また神には愛すべきことが非常に沢山あるので、人は神を愛さずにはいられないことを知っている。完全にされた者の神への愛は、自分の個人的願望を満たすためのものである。彼の愛は自発的な愛であり、見返りを求めない愛であり、それは取引ではない。彼が神を愛する理由は、神に関する彼の認識の他にない。このような人は神が自分に恵みを与えるかどうかを気にすることはなく、神を満足させること以外に彼を満足させることはない。彼は神と取引することがなく、「あなたに与えられたから、それに応じてあなたを愛する。あなたが与えないのであれば、わたしはそれに応じて与えるものが何もない」というように、神への愛を自分の良心で測ることもない。完全にされた者は常に信じている。「神は創造主であり、わたしたちに対して働きを行なっている。わたしには完全にされる機会と状況、そして資格があるのだから、意味のある人生を送ることを追求し、神を満足させるべきである」と。それはまさにペテロが経験したことと同様である。つまり、ペテロは、自分が最も弱かった時、神に祈って言った。「神よ、時間や場所に関わらず、わたしが常にあなたのことを覚えていることを、あなたは知っておられます。時間や場所に関わらず、わたしがあなたを愛したいことを、あなたは知っておられます。しかし、わたしの霊的背丈は小さすぎて、わたしは弱く無力過ぎるので、わたしの愛は余りにも限られていて、あなたに対するわたしの誠実さは乏し過ぎます。あなたの愛に比べると、わたしはまったく生きることに不適です。わたしがただ望むのは、わたしの人生が無駄にならないこと、そしてあなたの愛に報いるだけでなく、さらには、自分にあるものをすべてあなたに捧げられることです。わたしがあなたを満足させることができるなら、創造物としてわたしは心安らぎ、それ以上何も求めないでしょう。今のわたしは弱く無力ですが、あなたの訓戒と愛を忘れることはないでしょう。今、わたしはただあなたの愛に報いること以外に何もしていません。おお、神よ、わたしは惨めに感じます。どうすれば、わたしの心にある、あなたへの愛をあなたに報い、自分のできる限りを尽くし、あなたの望みを満たし、自分が持っている全てをあなたに捧げることができるでしょうか。あなたは人間の弱さを知っておられます。どうすれば、わたしはあなたの愛を受けるに相応しい者となれるでしょうか。神よ、あなたは、わたしの霊的背丈が小さいこと、わたしの愛が乏し過ぎる事をご存じです。わたしはこのような環境の中で、どうすれば最善を尽くせるでしょうか。わたしは、自分があなたの愛に報いるべきであること、自分の持っている全てをあなたに捧げるべきことは知っていますが、現在のわたしの霊的背丈は小さすぎます。わたしがあなたに捧げるための清い愛を一層備えることができ、自分の持っている全てをもっとあなたに捧げられるように、あなたがわたしに強さと確信を与えられるよう願います。そうすれば、わたしはあなたの愛に報いることができるだけでなく、あなたの刑罰、裁き、試練、そして一層厳しい呪いをもっと経験することができるでしょう。あなたは、わたしがあなたの愛を見ることを許されたので、わたしはあなたを愛さずにはいられません。また現在、わたしは弱く無力ですが、どうしてあなたのことを忘れることができましょうか。あなたの愛、刑罰、そして裁き、これらのすべてによって、わたしはあなたのことを知るようになりましたが、それでもなおわたしはあなたの愛に応えることができないと感じています。なぜなら、あなたは極めて偉大であられるからです。わたしは、どうすれば自分の持てる全てを創造主に捧げられるでしょうか」。それがペテロの願いであったが、それでもペテロの霊的背丈は不十分すぎた。この時、ペテロは、あたかも自分の心がナイフでえぐられているかのような苦痛を感じた。そうした状態では、ペテロはどうすればよいか分からなかった。しかし、ペテロは祈り続けて言った。「神よ、人間は霊的背丈が幼く、人間の良心は弱く、わたしが達成できるのは、あなたの愛に報いることだけです。現在、どのようにしてあなたの心を満足させればよいのかわたしには分りません。だからわたしが唯一願うのは、自分のできる限りを行い、自分の持てる全てをあなたに捧げ、自分の持てる全てをあなたのために費やすことです。あなたの裁きや刑罰に関わらず、あなたがわたしに授けられること、わたしから奪われることに関わらず、あなたに対する不平がわたしに一切ありませんように。あなたがわたしを罰し、裁かれた時、わたしは愚痴をこぼし、清さを実現することも、あなたの願いを果たすこともできないことが、何度もありました。あなたの愛にわたしが報いようとしたのは、強制によって生まれたものであり、その時、わたしは自分を一層憎みました」。ペテロがこのように祈ったのは、彼が神への一層純粋な愛を求めていたからである。ペテロは求め、懇願し、更には自らを非難し、自らの罪を神に告白した。ペテロは神に対して負債があると感じ、自己嫌悪を覚えつつ、幾分悲しみも感じ、消極的であった。彼は常にこのように神の心に対して自分が不十分であり、最善を尽くせないと感じていた。そうした状況において、ペテロはまだヨブの信仰を追い求めていた。彼はヨブの信仰がどれほど偉大であったかを見た。なぜなら、ヨブは自分の物は全て神から授けられたものであり、神がその全てを自分から奪うのは当然であること、また神は、誰であれ神が望む者に対して与えること――それが神の義なる性質であることを理解していたからである。ヨブは一言も不満を言わず、なおも神を讃美することができた。ペテロもまた自分を知っていたので、心の中でこう祈った。「今日、わたしは、自分の良心であなたの愛に報いること、また、わたしがあなたにお返しする愛の多さに満足するべきではありません。なぜなら、わたしの思いは堕落し過ぎており、あなたを創造主として見ることができないからです。わたしはいまだにあなたを愛するに不適であるため、わたしは自分の持っている全てを、自ら進んであなたに捧げる能力を実現しなければなりません。あなたがわたしを通して大いなる栄光を得られるように、わたしは、あなたが行なった全てのことを知るべきであり、わたしには選択の余地はなく、またあなたの愛を見て、あなたを讃美することを話し、あなたの聖なる御名を讃えることができるようにならなければなりません。わたしはあなたのために、喜んでこの証しに堅く立ちます。神よ、あなたの愛は極めて貴く、美しいものです。どうしてわたしが悪い者の手の中で生きることを望むことが出来ましょうか。わたしはあなたに造られたのではありませんか。どうしてわたしがサタンの領域下で生きられるでしょうか。わたしは、自分の全存在があなたの刑罰の中で生きる方がよいと思います。わたしは悪い者の領域下で生きることを望みません。わたしが清くされて、自らの全てをあなたに捧げることが可能であるならば、わたしは進んで自分の身体と心を、全てあなたの裁きと刑罰に捧げます。なぜなら、わたしはサタンを忌み嫌い、サタンの領域下で生きることを望まないからです。わたしに対する裁きを通して、あなたはご自身の義なる性質を示されます。わたしは幸せであり、不満は一切ありません。わたしが創造物としての本分を尽くせるのであれば、わたしの全人生にあなたの裁きが伴うことを喜びます。それを通して、わたしはあなたの義なるご性質を知り、悪い者の影響から脱することができるでしょう」。ペテロは常にこのように祈り、そのように求め、比較的高い領域へと達した。彼は神の愛に報いることができたばかりでなく、もっと重要な事として、創造物としての自分の本分も尽くしたのである。彼は自分の良心の呵責に苛まれなかっただけでなく、良心の基準を超越することができた。彼の祈りは神の前に立ち昇り続き、彼の志しはさらに高くなり、彼の神への愛はさらに大きくなった。彼は激しい苦痛を受けつつも、神を愛することを忘れず、神の心を理解する能力を獲得することを求め続けた。彼の祈りの中に次のような言葉が述べられている。「わたしは、あなたの愛に報いること以外に何も成し遂げていません。わたしはサタンの前であなたを証ししておらず、自らをサタンの影響下から解放しておらず、依然として肉の中で生きています。わたしは自らの愛でサタンを打ち破り、辱め、それによってあなたの心を満足させることを望みます。わたしは自らの全てをあなたに捧げ、自分のうちのほんの僅かでもサタンに捧げないことを望みます。なぜなら、サタンはあなたの敵だからです」。ペテロがこのように追求すればするほど、彼は一層感動し、そうしたことに関する認識が一層高まっていった。彼は、自分をサタンの影響から解放し、完全に神に戻すべきであることを、無意識のうちに知るようになった。それこそが彼が到達した領域であった。彼はサタンの影響を超越し、肉の快楽と悦楽から脱し、進んで神の刑罰と裁きの両方を一層深く経験した。ペテロは言った。「わたしはあなたの刑罰と裁きのただ中で生きていますが、それに伴う苦難に関わらず、わたしはサタンの領域下で生き、サタンの策略に陥ることを望みません。わたしはあなたの呪いの中で生きることを喜び、サタンの祝福の中で生きることに痛みを感じます。わたしは、あなたの裁きの中で生きている時、あなたを愛し、それが自分に大いなる喜びをもたらします。あなたの刑罰と裁きは義であり、聖なるものです。それらはわたしを清め、またそれ以上に、わたしを救うためのものです。わたしは生涯をあなたの裁きの中で過ごし、あなたに見守られた方が良いと思います。わたしは一瞬たりともサタンの支配の下で生きることを望みません。わたしはあなたによって清められることを望み、たとえ苦難を受けるとしても、サタンに利用され、欺かれることは望みません。被造物であるわたしは、あなたにより用いられ、所有され、裁かれ、刑罰を与えられるべきです。わたしは、あなたにより呪われるべきでさえあります。あなたがわたしを祝福することを望むとき、わたしの心は喜びます。なぜなら、わたしはあなたの愛を見たからです。あなたは創造主であられ、わたしは被造物です。わたしはあなたを裏切ってサタンの領域で生きるべきでも、サタンに利用されるべきでもありません。わたしは、サタンのために生きるよりも、あなたの馬となり、牛となるべきです。わたしはむしろ物質的な悦楽なしに、あなたの刑罰の中で生きることの方が良く、たとえあなたからの恵みを失ったとしても、そうして生きることがわたしに喜びをもたらすでしょう。たとえあなたの恵みがなくても、わたしはあなたの刑罰と裁きを受けることを喜びます。それは、あなたの最高の祝福であり、最大の恵みです。あなたはわたしに対して常に威厳があり、怒りに満ちておられますが、それでもなおわたしはあなたから去ることができず、あなたをどれほど愛しても愛しきることができません。わたしはあなたの家に住み、あなたに呪われ、刑罰を受け、打たれることを望み、サタンの領域下で暮らすことも、ただ肉のために忙しく奔走することも望まず、ましてや肉のために生きることなど望みません」。ペテロの愛は純粋な愛であった。これこそが完全にされる経験であり、完全にされることの最高の領域であり、これ以上に有意義な人生はない。ペテロは神の刑罰と裁きを受け入れ、神の義なる性質を大切にし、ペテロに関することで、それ以上貴いことはなかった。彼は言った。「サタンはわたしに物質的な享楽を与えるが、わたしはそれを貴ばない。神の刑罰と裁きがわたしの上に臨むこと――わたしはそこから恵みを受け、喜びを見出し、祝福される。神の裁きがなかったとしたら、わたしは決して神を愛さず、依然としてサタンの領域で暮らし、サタンに支配され、命令されていることだろう。そうした場合、わたしは決して真の人間とはなれないだろう。なぜなら、わたしは神を満足させることができず、わたしの全てを神に捧げることもなかったはずであるからだ。たとえ神がわたしを祝福されず、あたかもわたしの中で火が燃えているように、心に慰めがないままになって、平安も喜びもなく、また神の刑罰と訓練が決してわたしから離れなくとも、神の刑罰と裁きの中から、わたしは神の義なるご性質を見ることができる。わたしはそれに喜びを感じる。人生において、それ以上に貴いことも有意義なこともない。神の守りと慈しみが容赦のない刑罰と裁き、呪いと打ちのめしとなったが、わたしはそれでもなおこれらの事を嬉しく思う。なぜなら、そうしたことはわたしを一層清め変化させることができ、わたしを神に近づかせ、わたしが一層神を愛し、神へのわたしの愛を一層清くすることができるからである。これにより、わたしは創造物としての自分の本分を尽くすことができるようになり、わたしは神の御前へと導かれ、サタンの影響から遠ざけられるので、もはやわたしはサタンに仕えない。わたしがサタンの領域で生活しておらず、何も躊躇せずに自分の持てる全てと、できることの全てを神に捧げることができる時、それはわたしが完全に満足する時であろう。わたしを救ったのは神の刑罰と裁きであり、わたしの一生は神の刑罰と裁きとは不可分である。地におけるわたしの生活はサタンの支配下にあるので、神の刑罰と裁きによる慈しみと守りがなかったとしたら、わたしは常にサタンの領域下で生活していたであろうし、なにより、有意義な人生を実際に生きる機会も術もなかっただろう。神の刑罰と裁きが決してわたしから去らない場合にのみ、わたしが神により清くされることが可能となるであろう。神の厳しい御言葉と義なるご性質、そして神の威厳ある裁きによってのみ、わたしは最高の守りを得て、光の中で生き、神の祝福を得たのだ。清くされ、自らをサタンから解放し、神の支配下で生きることができること――それこそが現在におけるわたしの人生の最大の祝福である」。これがペテロが経験した最高の領域である。

 完全にされた後に人間が到達すべき状態は、そのようである。そこまで達することができないならば、有意義な人生を送ることはできない。人は肉の中に生きるが、それは人間地獄の中で生きることであり、神の裁きと刑罰なくしては、人間はサタンと同様にけがれている。どうして人間が聖くなれようか。ペテロは、神の刑罰と裁きは人間のための最高の守りであり、最も素晴らしい恵みであると信じていた。人間が目を覚まし、肉を憎み、サタンを憎むことができるのは、神の刑罰と裁きによる他ない。神の厳しい鍛錬は、人間をサタンの影響から解放し、自分の狭い世界から解放し、神の顔の光の中で生きることができるようにする。刑罰と裁きよりも優れた救いはない。ペテロはこう祈った。「神よ、あなたがわたしを罰し、裁かれる限り、わたしはあなたがわたしを見捨てていないことを知るでしょう。たとえあなたがわたしに喜びや平安を与えられず、わたしを苦しみの中で生活させ、わたしに無数の懲らしめを科せられたとしても、あなたがわたしを見捨てない限り、わたしの心は安らぐでしょう。現在、あなたの刑罰と裁きはわたしにとって最高の守りであり、最も素晴らしい祝福となっています。あなたがわたしに与えられる恵みがわたしを守っています。現在あなたがわたしに授けられる恵みは、あなたの義なるご性質の表れであり、刑罰と裁きです。さらに、それは試練であり、なによりもそれは、苦難の生活です」。彼は肉の喜びを脇へ置き、一層深い愛と一層大きな守りを求めることができた。なぜなら、彼は神の刑罰と裁きから、極めて大きな恵みを得たからである。人生において、人が清められ、性質の変化を実現することを望み、有意義な人生を生き抜き、被造物としての自分の本分を尽くすことを望むのであれば、その人は神の刑罰と裁きを受け入れるべきであり、神の鍛錬と打ちのめしが自分から離れないようにし、そうすることで、サタンによる操りと影響から逃れて神の光の中で生きられるようにしなければならない。神の刑罰と裁きは光であり、人間の救いの光であり、人間にとって、それ以上の祝福と恵みと守りはないということを知らなければならない。人間はサタンの影響下で生活し、肉の中に存在する。人間が清められず、神の守りを受けないのであれば、人間は一層堕落するであろう。人間が神を愛することを望むのであれば、人間は清められ、救われなければならない。彼は祈って言った。「神よ、あなたがわたしを優しく扱われる時、わたしは喜び、安らぎを感じます。あなたがわたしに刑罰を与えられる時、わたしはそれにも増して喜びと安らぎを感じます。わたしは弱く、予期せぬ苦しみを受け、多くの涙と悲しみがありますが、この悲しみは、わたしの不従順さと弱さの故であることを、あなたは知っておられます。わたしが泣くのは、自分があなたの望みを満足させられないからであり、わたしが悲しみと後悔を感じるのは、自分があなたの要求に満たないからです。しかしわたしは進んでその領域に到達しようとし、あなたを満足させるためにできること全てを喜んで行います。あなたの刑罰はわたしに守りをもたらし、わたしに最高の救いを与えてくれました。あなたの裁きはあなたの寛容さと忍耐にまさります。あなたの刑罰と裁きがなければ、わたしはあなたの憐れみと慈愛を享受することはできないでしょう。現在、わたしはあなたの愛が天を超越し、あらゆるものを凌いだことを、一層理解しています。あなたの愛は憐れみと慈愛だけではなく、それ以上に、刑罰と裁きです。あなたの刑罰と裁きにより、わたしは多くのことを与えられました。あなたの刑罰と裁きなくしては誰一人として、清められることも、創造主の愛を経験できることもないでしょう。わたしは数百回の試練と患難を受け、死に瀕したことさえありましたが、それらによってあなたを真に知り、最高の救いを得ることができました。もしあなたの刑罰と裁き、そして鍛錬がわたしからなくなったら、わたしは闇の中、サタンの領域で生きることになるでしょう。人間の肉にどんな益があるでしょうか。あなたの刑罰と裁きがわたしからなくなるなら、それはあなたの御霊がわたしを見捨て、もはやあなたがわたしと共におられないようなものでしょう。そうであるとしたら、どうやってわたしは生きてゆけましょうか。あなたがわたしに病を与えられ、わたしの自由を奪われても、わたしは生き続けることが出来ますが、あなたの刑罰や裁きがなくなったならば、わたしは決して生きてゆくことはできないでしょう。わたしにあなたの刑罰と裁きがなかったとしたら、わたしには言葉にできないほど深いあなたの愛を、わたしは失うでしょう。あなたの愛がなければ、わたしはサタンの領域下で生活することになり、あなたの栄光の御顔を見ることはできないでしょう。わたしはどうして生き続けられるでしょうか。そのような闇や生活は、わたしには耐えられないでしょう。わたしがあなたと共におられることは、あなたにお目にかかることと同様ですから、どうしてわたしがあなたから去ることができましょうか。わたしはあなたに対し、たとえそれが短い励ましの御言葉であったとしても、わたしの最大の慰めを奪わないよう懇願し、願います。わたしは従前あなたの愛を享受し、今はあなたから離れることができません。どうしてわたしがあなたを愛せないでしょうか。わたしは、あなたの愛のために、多くの悲しみの涙を流しましたが、そうした生活は一層有意義であり、もっとわたしを豊かにし、さらにわたしを変化させ、被造物が持つべき真理をわたしが一層得られるようにすることができると、常に感じて来ました」。

 人間はサタンの支配下において全生涯を過ごし、自分でサタンの影響から逃れられる者は一人もいない。人間はみなけがれた世界で、堕落と空虚の中、少しの意味も価値もないままに生きている。彼らは、肉や欲望のため、そしてサタンのために、そうした気楽な生活を送る。彼らの存在には何の価値もない。人間は自分をサタンの影響から解放する真理を見出すことができない。人間は神を信じ、聖書を読むにもかかわらず、サタンの影響による支配からどうやって自分を解放すればよいのか分からない。何時の時代も、この秘密を発見してそれを理解した者は稀である。それ故人間はサタンを憎み、肉を忌み嫌っているが、罠のようなサタンの影響から逃れる方法を知らない。現在、あなたがたは依然としてサタンの支配下にいるのではなかろうか。あなたがたは自分の不従順な行為を後悔せず、まして自分がけがれており、反抗的であると感じることなどはない。神に反抗した後、あなたがたは安心し、大いに落ち着くことさえある。あなたの落ち着きは、自分が堕落していることが原因ではなかろうか。こうした安心は、あなたの不従順から来るのではなかろうか。人は、人間地獄の中で生き、サタンの闇の影響下で生きている。全地で幽霊が人間と共に住み、人間の肉を侵害している。地上では、あなたは美しいパラダイスに住んでいるのではない。あなたが住む場所は悪魔の領域であり、人間地獄であり、冥府である。清められなければ、人はけがれた者である。人が神によって守られておらず、神に顧みられていないのであれば、その人は依然としてサタンの虜である。その人がもし裁きや刑罰を受けていないのであれば、その人にはサタンによる闇の影響の弾圧から逃れる術はないであろう。あなたが依然としてサタンの領域下で生活していることを証明するには、あなたが露わにする堕落した性質と、あなたが生きる不従順な振る舞いだけで十分である。あなたの心や思いが清められておらず、あなたの性質が裁きと刑罰を受けていないのであれば、あなたの全存在がいまだにサタンの領域に支配されており、あなたの心はサタンに支配され、思いはサタンに操られ、あなたの存在全てがサタンの手により支配されているのだ。あなたは、自分がペテロの基準から一体どれほどかけ離れているか知っているであろうか。あなたにはそのような素質があるだろうか。あなたは、現在の刑罰と裁きについて、どの程度知っているだろうか。あなたは、ペテロが知ったことをどの程度自分のものにしているだろうか。現在において、あなたが知ることができないのであれば、将来その認識を獲得することができるであろうか。あなたのように怠惰で臆病な者が刑罰と裁きを知ることは、まったく不可能である。あなたが肉の平安と享楽を追求するのであれば、あなたには清められる術が全くなく、あなたは最後にはサタンのところへ戻されるであろう。なぜなら、あなたが実際に生きているのは、サタンと肉だからである。物事の現状として、多くの人々がいのちを追求していないが、それは、彼らが清められることにも、一層深いいのちの経験の中に入ることにも注意していないことを意味する。そんなことでは、どうして彼らが完全にされることがあろうか。いのちを追求しない者には、完全にされる機会が全くなく、神に関する認識や自分の性質の変化を追求しない者は、サタンの闇の影響から逃れられない。宗教のみを信じるものや、儀式に従い定期的な礼拝に参加するだけの者と同様に、彼らは、神に関する自分の認識や、自分の性質の変化への成長に関して真剣に考えていない。これは、時間の無駄ではないだろうか。人が、神への信仰の中で、いのちに関する問題を真剣に考えず、真理に入ることを求めず、自分の性質の変化を追求せず、ましてや神の働きに関する認識など追求しない、というのであれば、その人は完全にされることがない。あなたは、自分が完全とされることを望むのであれば、神の働きを理解しなければならない。特に、神の刑罰と裁きの意義と、この働きが人間に対して行われる理由を理解しなければならない。あなたは、これを受け入れることができるであろうか。この種の刑罰において、あなたはペテロと同等の経験と認識に達することができるだろうか。あなたが、神の認識と聖霊の働きに関する認識を追求し、自分の性質の変化を追求するのであれば、あなたには完全にされる機会がある。

 完全にされる者については、征服される働きのこの段階は不可欠である。人間は、征服されて初めて、完全にされる働きを経験できる。征服される役割をただ演じることには大きな価値はなく、それによって、あなたが神に使われるに相応しいとみなされることはないであろう。あなたには、福音を宣べ伝える役割を果たす手段はないであろう。なぜなら、あなたはいのちを追い求めることがなく、自分を変えることや一新することを追求しておらず、そのため、あなたにはいのちの実経験がないからである。この段階的な働きにおいて、あなたは効力者や引き立て役としての役割を果たしたことがあるが、最終的にペテロのようになることを追求せず、あなたの追求が、ペテロが完全にされた道によって追求しないのであれば、当然、あなたは自分の性質の変化を経験しないであろう。あなたが完全にされることを追求する者であるならば、あなたは証ししてこう言うであろう。「この神による段階ごとの御働きにおいて、わたしは神の刑罰と裁きの御働きを受け入れた。またわたしは大いなる苦しみに耐えてきたが、神がどのようにして人間を完全にされるのかを知り、神が行われた御働きと神の義に関する認識を得て、神の刑罰により救われた。彼の義なるご性質がわたしの上に臨み、祝福と恵みをもたらした。わたしを守り、わたしを清めたのは神の裁きと刑罰である。もしわたしが神による刑罰と裁きを受けておらず、神の厳しい御言葉がわたしの上に臨んでいなかったとしたら、わたしは神を知らず、救われることがなかったであろう。現在、わたしは被造物として、創造主が造った万物を享受するだけでなく、それ以上に重要なことには、神のご性質は人間が享受するに値するので、あらゆる被造物は神の義なる性質を享受し、神の義なる裁きを享受しなければならない、ということを理解している。サタンに堕落させられた被造物として、神の義なるご性質を享受すべきである。神の義なるご性質には、刑罰と裁きがある他、それ以上に、大いなる愛がある。現在、わたしは神の愛を完全に得ることはできないが、それを見る幸運に恵まれており、そのことにおいて、わたしは祝福されている」。これこそが、完全にされた者の歩んだ道であり、彼らが語る認識である。そうした者はペテロと同じであり、ペテロと同様の経験がある。このような人々は、いのちを得た者でもあり、また真理を持っている者である。彼らが、最後まで経験する時、神の裁きの時に、必ずサタンの影響を自分から取り除き、神のものとされるであろう。

 彼らには征服された後も、鳴り響くような証しがない。彼らは、単にサタンを辱めただけであり、神の言葉の現実を実際に生きていない。あなたは未だに第二の救いを得ていない。あなたは、単に罪のための捧げものを得たにすぎず、まだ完全にはされてはいない――これは大きな損失である。あなたがたは、自分が入るべき事、実際に生きる事を理解し、それらの中に入らなければならない。最終的に、あなたが完全にされることを達成せず、真の人間ではないなら、あなたは後悔の念に満たされるであろう。最初に神により造られたアダムとエバは、聖なる人間であった。すなわちエデンの園にいた間、彼らは聖く、けがれがなかった。また彼らはヤーウェに忠実であって、ヤーウェを裏切ることなど一切知らなかった。なぜなら、彼らはサタンの影響による妨害を全く受けず、サタンに毒されておらず、全人類の中で最も純粋だったからである。彼らはエデンの園に住み、一切けがれにけがされることなく、肉に囚われることなく、ヤーウェを畏れ敬っていた。その後、彼らがサタンに誘惑された時、彼らはへびの毒に見舞われ、ヤーウェを裏切ることを望み、サタンの影響の下で生きた。最初、彼らは聖なるものであり、ヤーウェを敬っていた。そうすることだけが、彼らを人間としていた。その後、彼らがサタンに誘惑された後、彼らは、善悪を知る木の実を食べて、サタンの影響の下で生きた。彼らは、サタンにより次第に堕落させられ、本来の人間の姿を失っていった。最初、人間にはヤーウェの息吹があり、不従順であることは一切なく、心には悪が一切なかった。この時、人間は本当の意味で人間であった。人間は、サタンにより堕落させられた後、獣となった。人間の考えは悪とけがれで満たされ、善や聖さはなかった。それはサタンではなかろうか。あなたは神の働きの多くを経験したが、変化しておらず、清められてもいない。あなたは依然としてサタンの領域で暮らし、いまだに神に服従しない。これは既に征服されてはいるが、まだ完全にされていない者である。それでは、こういう人が、まだ完全にされていない者であると言われるのは何故だろうか。それは、その人がいのちも、神の働きに関する認識も求めず、肉の快楽や束の間の慰めをむやみに欲するからである。その結果、彼らのいのちの性質は全く変化せず、神に造られた時の、人間の本来の姿を取り戻していない。このような人々は生ける屍であり、霊のない死人である。霊の事柄に関する認識を追求しない者、聖さを追求しない者、真理を実際に生きることを追求しない者、否定的な側面で征服されることにのみ満足している者、そして神の言葉によって生き、聖なる人になることができない者――このような者たちは皆救われていない人々である。なぜなら、人間に真理がない場合、人間は神の試練の時に揺るぎなく立つことができないからである。神の試練の中で揺るぎなく立つことができる者のみが、救われた者である。わたしが望むのは、完全にされることを求めるペテロのような人々である。現在の真理は、真理を切望し、求める者たちに与えられている。この救いは、神により救われることを切望する者たちに授けられており、あなたがたが得るためだけのものではなく、あなたがたが神によって得られるためでもある。神によって得られるために、あなたがたは神を得るのだ。今日、わたしはあなたがたにこの話をし、あなたがたはそれを聞いたので、あなたがたはこの言葉に従って実践すべきである。最終的に、あなたがたがこれらの言葉を実践する時こそ、わたしがこの言葉によりあなたがたを得る時である。それと同時に、あなたがたはこれらの言葉を得る、すなわち、あなたがたはこの至高の救いを得るであろう。あなたがたが清められる時こそ、あなたがたは真の人間となるであろう。もし、あなたが真理を実際に生きること、あるいは完全にされた者の姿を実際に生きることができないなら、あなたは人間ではなく、生ける屍であり、獣であると言えるであろう。なぜなら、あなたには真理がなく、言ってみれば、あなたにはヤーウェの息吹がなく、したがってあなたは霊のない死人だからである。征服された後に証しすることは可能であるが、あなたが得るのは多少の救いだけであり、あなたは霊を持った生けるものとはなってはいない。あなたは刑罰と裁きを経験したが、その結果自分の性質が一新されることも変化することもない。あなたは依然として古い人のままであり、いまだにサタンに属しており、あなたは清められた者ではない。完全にされた者のみに価値があり、このような人々だけが真の人生を得たのである。いつの日か、誰かがあなたにこう言うであろう。「あなたは神の御働きを経験したのだから、神の御働きがどのようなものか、少し話してくれないか。ダビデは神の御働きを経験し、ヤーウェの御業を目の当たりにし、モーセもまたヤーウェの御業を目の当たりにしたので、両者ともヤーウェの御業を説明し、その奇しさについて話すことができた。終わりの日に、あなたがたは受肉の神の御働きを目の当たりにした。あなたは神の知恵について話せるだろうか。神の御働きの奇しさについて話せるだろうか。神はあなたがたに何を要求され、あなたがたはそれをどのように経験しただろうか。あなたがたは終わりの日に神の御働きを経験した。あなたがたの最も大いなるビジョンは何であろうか。そのことについて話せるであろうか。神の義なるご性質について話せるであろうか」。あなたは、このように質問された時、どう答えるであろうか。あなたが、「神は義であり、人間に刑罰と裁きを与えられ、わたしたちを容赦なく暴露される。神のご性質は、人間による侵害を決して容赦しない。神の御働きを経験した後、わたしは自分の獣のような側面を知り、神の義なるご性質を真に目の当たりにした」と言うなら、その人は続けて、「その他にあなたは神について何を知っているのだろうか。人はどのようにしていのちの中へ入るだろうか。あなたには、個人的な熱意があるだろうか」と尋ねるであろう。あなたは、「サタンに堕落させられた後、神の被造物は獣となって、ロバ同然であった。現在、わたしは神の御手の中で生活しているので、創造主の願いを満足させ、創造主の教えることには何でも従わなければならない。わたしには、そうするほか選択がない」と答えるであろう。あなたがこのように一般的な話をするだけならば、その人はあなたが言っていることを理解しないであろう。彼らが、あなたには神の働きに関してどのような認識があるのか、と尋ねる時、彼らはあなた自身の経験のことを指して言っているのだ。彼らは、あなたが神の刑罰や裁きを経験した後、その刑罰や裁きについてどのような認識があるか、と尋ねているのであり、それはあなた自身の経験のことを言っているのであり、真理に関するあなたの認識について話をするよう彼らは求めているのだ。あなたが、そうしたことについて話せなかったならば、それはあなたが現在の働きについて何も知らない証拠である。あなたはいつも、もっともらしい言葉、あるいは一般に知られている言葉を語る。あなたには具体的な経験がなく、いわんやあなたの認識には内容がなく、真の証しも全くないので、他の者たちはあなたによって説得されない。受動的に神に従う者となってはならず、自分の好奇心をそそることを追求してはならない。あなたは冷たくも熱くもないので、あなたは自分を滅ぼし、いのちの成長を遅れさせるだろう。あなたは、真理を得て、それを実際に生きることができるように、このような消極性と不活発を取り除き、肯定的なことの追求と自分の弱さを克服することに熟達しなければならない。あなたの弱みについて、恐れることは一切なく、あなたの欠点はあなたの最大の問題ではない。あなたの最大の問題であり、最大の欠点であるのは、あなたが冷たくも熱くもなく、真理を追求する願望に欠けていることである。あなたがたすべての最大の問題は、臆病な精神によりことの現状に満足し、受動的に待っていることである。それがあなたがたにとって最大の障害であり、あなたがたが真理を追求することにおける最強の敵である。ただわたしの話す言葉が極めて深遠である故に、あなたが従うのであれば、あなたは真に認識を持っておらず、真理を大切にしてもいない。あなたにあるような従順さは、証しではないので、わたしはそうした従順さを認めない。誰かがあなたに、「あなたの神は、正確に言うとどこから来るのだろうか。あなたの神の本質は何であろうか」と尋ねるかも知れない。あなたは、「神の本質は、刑罰と裁きである」と答えるであろう。するとその人は「神は人間に対して思いやりがあり、愛情があるのではなかろうか。あなたは、それについて知っているであろうか」と続けて言うだろう。あなたは、「それは他の者たちの神である。それは宗教心のある人々が信じている神であって、わたしたちの神ではない」と言うであろう。あなたのような人々が福音を広める時、真の道はあなたによって歪められる。それでは、あなたは何の役にたつというのか。どうして他の人たちがあなたから真の道を得ることができようか。あなたに真理はなく、真理について何も話すことができず、まして真理を実際に生きることなどできない。どうしてあなたに神の前で生きる資格があろうか。あなたが他の人に福音を広め、真理について交わり、神を証しする時あなたが他の人を説得できなければ、彼らはあなたの言葉を論破するであろう。あなたは場所を取っているだけではないか。あなたは神の働きを非常にたくさん経験してきたが、真理について話をすると、意味不明である。あなたは全くの役立たずではなかろうか。あなたは何の役に立つというのか。あなたがたは、神の働きの多くを経験しながら、よくもまだ神に関して少しも認識がないままでいられるものだ。神に関してあなたがどんな真の認識を持っているのか他の人が尋ねると、あなたは言葉を失うか、あるいは――神には大いなる力があり、あなたが授かった大きな祝福は、真に神により高められることであり、その目で神を見ることができること以上の特権はない――などと関係のないことを答える。こんなことを言って、何の価値があるであろうか。それは役に立たない空虚な言葉である。神の働きを非常にたくさん経験してきたにもかかわらず、あなたが知っているのは、神に高められることが真理であるということだけなのか。あなたは、神の働きを知るべきであり、そうして初めて本当に神を証しするようになるであろう。真理を得ていない者が、どうして神を証しできようか。

 これほど多くの働きや言葉が、あなたには全く効果がないのであれば、神の働きを広める時が来ると、あなたは自分の本分を尽くすことができずに辱められ、屈辱を感じるであろう。この時、あなたは神に対して多大な負い目があり、神に関する自分の認識が極めて表面的であると感じるであろう。神が働きを行なっている間に、現在あなたが神に関する認識を求めないのであれば、後では手遅れとなるであろう。最終的に、あなたには話すべき認識がなくなるだろう――あなたには何もなく、空虚なままとなるであろう。あなたは何を用いて神に申し開きをするであろうか。あなたは厚かましくも神を見上げるであろうか。あなたは最終的に自分がペテロのように、神の刑罰と裁きがいかに有益であるかを知り、神の刑罰と裁きがなければ、人間は救われることがなく、けがれた地の汚泥の中に一層深く沈むしかないということを知るために、今この時に懸命に追求しなければならない。人間はサタンにより堕落させられ、互いに陰謀を企て合い、互いを踏みつけ、神に対する畏れを失っており、彼らの不従順はひど過ぎ、人間の観念は多過ぎ、皆サタンに属している。神の刑罰と裁きなくしては、人間の堕落した性質を清めることはできず、人間は救われることがない。受肉の神の働きにより肉の中に表されたことは、まさに霊により表されたことであり、神が行う働きは霊により行われたことに従って行われる。現在、この働きに関する認識が、あなたにないのであれば、あなたは極めて愚かであり、たいへん多くを失ったのである。あなたが神の救いを得ていないのであれば、あなたの信仰は宗教的信仰であり、あなたは宗教によるクリスチャンである。あなたは死んだ教義に固執しているので、聖霊の新たな働きを失った。神への愛を追求する他の者たちは、真理といのちを得ることができるが、一方あなたの信仰は神の承認を得ることができない。その代わりに、あなたは悪を行う者となり、破滅的で忌むべき行動を取る者となり、サタンの悪戯の標的となり、サタンの虜となってしまった。神は、人間が信じるべき存在ではなく、人間が愛し、求め、礼拝すべき存在である。今日、あなたが追い求めないならば、いつかあなたがこう言う日が来るであろう。「わたしはあの時どうして神に適切に従い、ちゃんと神を満足させなかったのだろう。自分のいのちの性質の変化を追求しなかったのだろう。あの時、神に服従することができなかった事、神の御言葉に関する認識を追求しなかった事を、わたしはどれほど後悔していることか。あの時、神は多くの事を言われた。わたしはなぜ追求できなかったのだろうか。わたしはほんとうに愚かだった」。あなたは、ある程度自己嫌悪に陥るであろう。現在、あなたはわたしが語る言葉を信じず、わたしの言葉を全く気にかけない。この働きが広まる日が来て、あなたがその全てを目にする時、あなたは後悔し、唖然とするであろう。祝福はあるが、あなたはそれを享受することを知らない。また真理はあるが、あなたはそれを追い求めない。あなたは、自分自身を侮辱しているのではなかろうか。現在、神の働きの次の段階はまだ始まっていないが、あなたに対する要求や、あなたが実際に生きるよう求められている事には、何も例外的な事はない。極めて多くの働きと多くの真理があるのだが、それらには、あなたに知られる価値があるのではなかろうか。神の刑罰と裁きは、あなたの霊を目覚めさせることができないのであろうか。神の刑罰と裁きは、あなたに自分を憎ませることができないのであろうか。あなたは、サタンの影響の下で、平安と悦楽と、少しばかりの肉の享楽と共に暮らすことに満足しているのであろうか。あなたは全ての人々のうちで最も卑しい者ではなかろうか。救いをその目で見たことがあるが、それを得るよう追求しない者よりも愚かな者はいない。そのような者は、肉を貪り食い、サタンを堪能する人々である。あなたは、神への自分の信仰が、どんな困難や患難も、あるいは僅かの苦難も招かないことを望む。あなたは、常にそれらの価値の無いものを追い求め、いのちの価値を全く認めず、自分の途方もない考えを真理よりも優先している。あなたには何の価値も無い。あなたは豚のように生きている――あなたと、豚と犬の間には、何か相違があるだろうか。真理を追求せずに肉を愛する者たちは皆、獣ではなかろうか。霊のない死んだ者たちは皆、生ける屍ではなかろうか。あなたがたの間で語られた言葉は、一体いくつあるであろうか。あなたがたの間で行われた働きは、ほんの少しだろうか。わたしは、あなたがたの間で、どれくらい与えたであろうか。それなのに、あなたがそれを得ていないのは何故だろうか。あなたが不平を言うべきことは、何かあるだろうか。あなたが肉を愛しすぎているので、何も得られなかったということではなかろうか。また、その原因は、あなたの考えが突飛すぎるからではなかろうか。また、それはあなたが愚か過ぎるからではないか。あなたは、これらの祝福を得られない場合、自分が救われなかったことを、神のせいにするのか。あなたが追い求めているのは、神を信じた後に平和を得ることができるようになること――つまり、自分の子が病気にかからないこと、自分の夫が良い職に就くこと、自分の息子が良い妻を見つけること、自分の娘がしっかりした夫を見つけること、自分の牛や馬がうまく土地を耕すこと、一年間、作物に適した気候となることなどである。これが、あなたの求めることである。あなたの追求は、ただ快適に暮らすためであり、自分の家族に事故が起こらないこと、風が自分に当たらないこと、顔に砂がかからないこと、家族の作物が洪水に遭わないこと、自分が災害を受けないこと、神に抱かれて生きること、居心地の良い住処で生活することである。常に肉を求める、あなたのような臆病者には、心や霊があるだろうか。あなたは獣ではなかろうか。わたしは何も見返りを求めずに、真の道を与えるが、あなたは追い求めない。あなたは神を信じる者たちのひとりであろうか。わたしは真の人生をあなたに授けるが、あなたは追い求めない。あなたは豚や犬と違わないのではないか。豚は人生も清められることも追求せず、人生とは何かを理解しない。毎日、食べたいだけ食べた後、ただ寝るだけである。わたしは、あなたに真の道を与えたが、あなたは未だにそれを得ていない。あなたは手ぶらである。あなたは、このような生活、つまり豚の生活を続けることを望んでいるのであろうか。このような人々が生きていることの意味は何であろうか。あなたの生活は軽蔑すべきものであり、恥ずべきものであり、あなたはけがれと放蕩の中で暮らし、何も目指す目標がない。あなたの人生は、最も下劣ではなかろうか。あなたは、厚かましくも神を見上げるのであろうか。あなたは、このような経験を続けるならば、得る物は何もないのではないか。真の道はあなたに与えられているが、最終的にあなたがそれを得られるかどうかは、あなた個人の追求によって決まる。人々は、神は義なる神であり、人間が最後まで神に従う限り、神は最も正しいから、人間に対して不公平なことは決してしないと言う。人間が最後まで神に従ったならば、神は人間を見捨てられるであろうか。わたしは全ての人間に対して公平であり、全ての人間をわたしの義なる性質によって裁くが、人間に対する要求には適切な条件があるので、全ての人間は、わたしの要求することを達成しなければならない。わたしは、あなたの資格がどれほど幅広いか、立派であるかということには気を留めず、あなたがわたしの道を歩んでいるか、真理を愛し渇望しているかどうかだけを考慮する。あなたに真理が欠けており、あなたがわたしの名を辱め、わたしの道に従って行動せず、注意や配慮なく、ただついて来るだけであれば、わたしはその時あなたの悪のためにあなたを打ち倒し、罰するであろう。その時、あなたは何と言うであろうか。あなたは、神は義ではないと言えるであろうか。現在、あなたがわたしが語った言葉に従うならば、あなたはわたしが認めるような人である。あなたは、神に従う最中常に苦しみ、どんなに道が険しくとも神に従い、良い時も悪い時も神とともにしてきたと言うが、あなたは神によって語られた言葉を実際に生きておらず、毎日神のために奔り回ることだけを望み、有意義な人生を生きることについて考えたことがない。またあなたはこう言う。「とにかくわたしは神が義であると信じている。わたしは神のために苦しみ、神のために奔走し、自分を神に捧げ、承認を受けないにもかかわらず懸命に労してきたのだ。――神は必ずわたしのことを覚えているはずだ」。神は義であるというのはほんとうだが、その義はいかなる不純物にもけがされていない。その義には人間の意志が一切含まれておらず、肉や人間の取引にもけがされてはいない。反抗的で敵対し、神の道を遵守しない者は皆、罰され、誰も赦されず、誰も容赦されないであろう。「今日、わたしはあなたのために走り回っていますが、終わりが来たとき、あなたはわたしに少しばかりの祝福を与えて下さるでしょうか」と言う人たちもいる。そこで、わたしはあなたに尋ねる。「あなたはわたしの言葉に従ったであろうか」。あなたの言う義は、取引に基づいている。あなたは、わたしが義であり、全ての者に公平であり、最後までわたしに従う者は、確実に救われてわたしの祝福を得るとただ考えている。「最後までわたしに従う者は、確実に救われる」というわたしの言葉には内なる意味がある。つまり、最後までわたしに従う者は、完全にわたしのものとなる人たちであり、わたしに征服された後に真理を求め、完全にされた者である。あなたが満たした条件とは何であろうか。あなたが満たしたのは、最後までわたしに従うことのみであるが、その他に何があるだろうか。あなたはわたしの言葉に従っただろうか。あなたは、五つあるわたしの要求のうち、一つを満たしたが、残り四つを満たすつもりは全くない。あなたは、単に最も簡単で容易な道を見いだし、それを追求しつつ、自分が幸運だと思っている。あなたのような者に対するわたしの義なる性質は、刑罰と裁きであり、それは義なる報いであり、悪を行う者全員への義なる罰である。わたしの道を歩まない者は、たとえ最後まで従ったとしても、みな必ず懲罰を受けるであろう。これこそが神の義である。この義なる性質が人間の罰において表される時、人間は唖然とし、神に従いつつも神の道を歩まなかったことを悔いるだろう。「その時、わたしは神に従いつつ少しだけ苦しんだが、神の道を歩まなかった。そこでどのような言い訳ができるだろうか。刑罰を受ける以外選択はない」。しかし、その人は心の中でこう考えるだろう。「いずれにせよわたしは最後まで従ったのだから、あなたがわたしに刑罰を与えられたとしても、それは厳しすぎる刑罰ではあり得ないでしょう。そしてその刑罰を与えた後も、あなたはわたしを欲されるでしょう。わたしは、あなたが義であられ、わたしを永遠にそのようには扱われないことは知っています。結局、わたしは一掃されるような者ではありません。一掃される者は厳罰を受けますが、わたしの刑罰はそれよりも軽いでしょう」。神の義なる性質は、あなたの言うようなものではない。自分の罪を告白することが上手な者が寛容に取り扱われるということはない。義とは聖さであり、人間の侵害を容赦しない性質であり、したがってけがれたことや変化していないことはすべて、神の嫌悪の対象となる。神の義なる性質は、法ではなく、行政命令である。それは神の国の中の行政命令であり、その行政命令は、真理を持っておらず、変化していない全ての者への義なる罰であり、そこには救いの余地はない。人間がひとりずつ種類ごとに分類される時、善良な者は報酬を受け、邪悪な者は罰を受ける。この時、人間の終着点が明確にされ、救いの働きが終わり、人間を救う働きはそれ以後行われず、悪を行なった者全てに報復がもたらされる。ある人たちは言う。「神は、自身の傍らにいつもいる者を皆覚えている。神はわたしたちをひとりとして忘れることはない。わたしたちは神により完全にされることを保証されている。下にいる者達のことを、神は覚えておらず、彼らのうちで完全にされる者の数は、いつも神と顔を合わせているわたしたちよりも少ないことが保証されている。わたしたちのうち、神が忘れられた者は一人もおらず、全員が神に認められており、神により完全にされると保証されている」。あなたがたには皆そのような観念がある。これは義であろうか。あなたは、真理を実行に移したであろうか、それともしなかったであろうか。実のところ、あなたはそのような噂を広め、何も恥じることがない。

 現在、神に用いられることを追求する人々もいるが、彼らは、征服された後に直接用いられることはない。現在において語られている言葉については、神が人々を用いる時、あなたがそうした言葉をいまだに達成することができなければ、あなたは完全にされていないのだ。言い換えると、人間が神に排除されるか、用いられるかは、人間が完全にされる期間の終わる時に決められる。征服された者たちは消極性と否定性の実例に過ぎない。彼らは見本であり模範であるが、一つの対比に過ぎない。人のいのちの性質が変化し、その人が内面にも外面にも変化を達成した時に初めて、その人は完全に完成されたことになる。現在、あなたは、征服されることと、完全にされることのうち、どちらを求めるであろうか。どちらを達成したいのであろうか。あなたは完全にされるための条件を満たしたのか。あなたにまだ欠けているのは、どれであろうか。あなたは、どのように自分を装備し、不足を補うべきであろうか。あなたは、完全にされる道に、どのように入るべきであろうか。あなたは、どのようにして完全に服従すべきであろうか。あなたは完全にされることを求めているが、それなら、あなたは聖さを追求しているであろうか。あなたは、神に清めてもらうために、刑罰と裁きを経験することを求めている人であろうか。あなたが清められることを追求しているならば、あなたは刑罰と裁きを喜んで受け入れるであろうか。あなたは神を知ることを求めているが、あなたには神の刑罰と裁きに関する認識があるだろうか。現在、神があなたに対して行う働きのほとんどは刑罰と裁きである。あなたに対して行われたこの働きに関するあなたの認識はどのようであろうか。あなたが経験した刑罰と裁きにより、あなたは清められたであろうか。あなたは、それにより変化したであろうか。それにより何か効果があっただろうか。あなたは、呪い、裁き、暴露などの、現在の多くの働きに疲れはてているであろうか。それとも、そうした働きはあなたにとって大きな恩恵であると感じているであろうか。あなたは神を愛しているが、その理由は何だろうか。あなたが神を愛しているのは、自分が多少の恵みを受けたからであろうか。それとも平安と喜びを得た後に、神を愛しているであろうか。あるいは、神の刑罰と裁きによって清められた後に、神を愛しているのであろうか。あなたが神を愛する正確な理由は何であろうか。ペテロが完全にされるために満たした条件とは、何であろうか。ペテロが完全にされた後、そのことが表現された要となる状態は、何であっただろうか。ペテロが主イエスを愛していたのは、ペテロが主を切望したからであろうか。それとも彼が主に会えなかったからであろうか、あるいはペテロが責められたからであろうか。それとも、ペテロは、患難の苦しみを受け入れ、自分のけがれと不服従を知り、主の聖さを知るようになったから、主イエスを一層愛したのであろうか。神に対するペテロの愛が一層清くなったのは、神の刑罰と裁きの故であろうか、それとも別の理由のためであろうか。それはどちらであろうか。あなたが神を愛するのは、神の恵みの故であり、現在あなたに神が僅かばかりの祝福を与えたからである。これが真の愛であろうか。あなたは、どのように神を愛するべきか。神の刑罰と裁きを受け入れ、神の義なる性質を目の当たりにした後、完全に確信して神についての認識を有するようになるほど、真に神を愛せるようになるべきか。ペテロのように、神をどれほど愛しても十分ではないと言えるだろうか。あなたが追求するのは、刑罰と裁きの後に征服されることであろうか、それとも、刑罰と裁きの後に清められ、守られ、世話されることであろうか。あなたが追求しているのは、どちらであろうか。あなたの人生は有意義なものであろうか、それとも意味も価値もないものであろうか。あなたが欲するのは、肉であろうか、それとも真理であろうか。あなたが望むのは、裁きであろうか、快楽であろうか。神の働きを非常にたくさん経験し、神の聖さと義を目の当たりにしてきたあなたは、どのように追求すべきであろうか。あなたは、どのようにしてこの道を歩むべきであろうか。神への愛を、どのように実践すべきであろうか。神の刑罰と裁きは、あなたの中で何らかの効果を達成したであろうか。あなたに神の刑罰や裁きに関する認識があるかどうかは、あなたが何を実際に生き、どの程度神を愛しているかに拠る。あなたの唇は、神を愛していると言うが、実際に生きていることは、古い堕落した性質である。あなたには神への畏れがなく、いわんや良心などない。そのような人々は、神を愛しているであろうか。そのような人々は、神に対して忠実であろうか。彼らは、神の刑罰や裁きを受け入れる者であろうか。あなたは神を愛し、信じていると言うが、自分の観念を捨てない。あなたの働き、成長、あなたが述べる言葉や生活において、神へのあなたの愛は全く表されておらず、神への畏敬が全くない。これが刑罰と裁きを得た者であろうか。このような者がペテロのようになれるであろうか。ペテロのような者たちが、認識を持っているだけで、それを実際に生きないということがあろうか。現在、人間が真の人生を生きるために要求される条件は何であろうか。ペテロの祈りは、単にペテロの口から出ただけのものであっただろうか。それは、ペテロの心の奥底から出た言葉ではなかっただろうか。ペテロは祈るだけで、真理を実践しなかったであろうか。あなたの追求は、誰のためであろうか。神の刑罰と裁きの期間に、あなたはどのようにして守りを得て、清められるべきであろうか。神の刑罰と裁きは、人間にとって全く無益なものであろうか。全ての裁きは懲罰であろうか。人間のいのちに有益なのは、平安と喜び、物質的な祝福、一時的な快楽だけであろうか。人間が快適で楽な環境で、裁きの生活なしに生きるのであれば、その人は清められるであろうか。変化することと清められることを望むなら、人は、完全にされることを、どのように受け入れるべきであろうか。現在、あなたはどちらの道を選ぶべきであろうか。