陽気ぐらしとは何か。
それは霊的目覚めのことに他なりません。
霊的目覚めに沿った生き方をおこなう。
そして互いに助け合う。
人々が霊的目覚めに沿った生き方になればこの世での生に執着することがなくなり、この世での争いはなくなっていく。
そのような世界観で語られる教え。
これが陽気ぐらしです。
そうした人生をたゆまず歩むことを『道』に喩えて教祖は教えました。
ですが、現在の天理教の立場ある人たちはそれを教えることはできないでしょう。
というのはその霊的に目覚めた人たちを『異端』と罵り厳しく取り締まって、
外に放り出した過去があるからです。
明治末期〜大正時代〜昭和初期までのことです。
特に明治四十年の飯降本席の死去以降、天理教の中には混乱がありました。
おさしづを受けられなくなったからです。
天理教の中には『天啓』への待望論が渦巻きました。
失われた『扇の伺い』による神からのメッセージへの待望。
本部に在籍する人たちにも濃厚にあった。
当時の『みちのとも』にも記されています。
そしてそれに呼応するように天理教の中から様々な人が現れ、独自の言葉を語るようになりました。
天理教本部は組織の力で押さえ込み、弾圧しました。
激しい攻撃でした。
早い話が権力闘争として扱ったのです。
結果、教祖の教えにつながる人々は分断にされるに至りました。
何が正しいのか。
誰が正しいのか。
それは属する立場によって解釈は変わるでしょう。
本来なら霊的な対話を行う必要があったはずです。
ですが行われませんでした。
そもそも本部には対等な対話をする気はなかったのです。
教義の正当性は本部が定めるものあり、それに外れるものは認めないとしたわけなのです。
独自の霊的目覚めを得た人たちに対して行った対応が弾圧でした。
そして打ち出したのが『天啓の終了』という、見解です。
いや見解とかいう優しいものではありません。
これは本部の公式な立場です。
『飯降本席の出直しで天啓は終わった』
『神の意思は示し尽くされた』
ということが天理教の教義に含まれることになったのです。
つまり現在の天理教本部にとって、神様からの新しいメッセージというものはないわけです。
人間が知恵を絞って考えるだけです。
明治四十年までに語られた『おさしづ』の中身で人間は悟るべきだと。
そういうわけです。
神からのメッセージを認めないのですから霊的な目覚めなどというものは語れないのです。
霊的な目覚めこそが教祖の教えの根幹であるのに。
天理教に関わる人に神が見えないわけです。
そりゃそうだという話です。
そもそも天理教公式にとっての陽気ぐらしとは何なのでしょうか。
人間が集まってワイワイすることなのでしょうか。
困っている人に手を差し伸べて優しい社会を実現することなのでしょうか。
そうではありません。
それを越えたものです。
それを包括するものです。
『陽気ぐらし』はこの物質世界の話ではなく、それを越えた視点から語られる世界の話です。
もし人が集まって仲良くするとか、その延長で人を助けるとかいうことについて語るのなら、教祖は私財を投げ打つ必要はなかった。
家を毀って家族を露頭に迷わすようなことをしなくても良かった。
そう、まるで意味が通りません。
『霊的な世界は、この物質世界より上位にある』
ということを知らしめるために財産を捨てて見せることが必要だったのです。
霊的な目覚めを促すためにやったのです。
単なる親切を説くなら『神のせきこみ』だと、当時の社会権力と戦う必要もなかったのです。
なぜ激しく権威や権力と戦ったのか。
霊的平等を語り、人々の価値観を物質世界中心から精神世界中心へと変えるためにやったのです。
それを伝えたかったんです。
この事実に対する理解は絶望的なまでに得られませんでした。
『ひながた』と称して教祖の生活の表面的なところだけを真似して家族を放り出す人が続出した事実がそれをあらわしています。
教祖はそのような生活を人々に強要したわけではなかった。
『楽しめ、楽しめ』
と説いていたんですから、苦労させる必要はない。
『末の頼もしい道』とは、霊的世界に目覚めた社会が充実していくことについてのことです。
私たちは自分の楽しいことを追っていいんです。
その中に霊的世界に通じる道があります。
この世界に生きる私たちはまず自分自身を見つめなければならない。
そして自分というセンサーを通して人間として満たされる道を探さなければならない。
それは無闇な苦労を背負う生き方ではないのです。
教祖に対して罪悪感を持つ必要はまったくない。
それどころかそのような想いを持つということは教祖の願いではありません。
教祖の願いは霊的な目覚め。
それをこの世で実現し、生きること。
自己の充足と他人の充足とは本来ひとつです。
信仰と称して自分の身を捨てるだけならまだしも、家族を巻き込んだり子供を巻き込んだりして苦しめたのは行きすぎでした。
それは教祖の本意ではなかったのです。
いくらこの世界が仮想のものだとはいえ、子供を巻き込んだことは罪が重いです。
精神の目覚めによる赦しが必要です。
しかし、その前に怒りが来るかもしれません。