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人間を越え、覚りに到達する人のブログ

救いのために必要なこと

それは罪悪感からの脱却。

私たち人間に罪はないのです。

キリスト教における『原罪』の思想などは教えが歪んでしまっています。

日本をはじめ東アジア一帯では儒教思想によって人々には罪の意識が深く刻まれています。

私たちの心の奥には罪悪感が存在する。

そしてそれは幻だと気がつくということ。

それが本当に意義あるこの世での生を過ごすための必要条件になっています。

罪悪感があらゆる苦しみのもとにあります。

罪悪感とは。

「人を病にいざなう心の毒であり」

「妬ましい心の根源であり」

「いじめの元であり」

「無責任がはびこる心理の奥にあり」

「自分だけがたすかりたい、または自分ひとりいなくても何も変わりはしないと思い込ませる幻想であり」

「恥辱の根であり」

「人を無知にとどまらせる言い訳であり」

「無知を正当化する理由づけであり」

「精神の自由を奪う思考であり」

「他人を牽制する感情であり」

「奴隷精神にとってのプライドであり」

「人間にふりそそぐエネルギーを遮断する覆いであり」

「心を腐らせる菌であり」

「生きる道をむなしくさせ力を奪うもの」

です。

なぜこのようなものが私たちの心の奥底にあるのか。

それを受け入れてしまうのか。

それは人間がこの世に生まれて来た理由を思い出せないからです。

罪悪感はこの世での生きる意味についての叡智を得られない苦しみそのものです。

この世。

この物質世界。

私たちの身体を知覚する三次元世界。

この世界では『深層心理』が現実化します。

最先端の物理学でも解明されない精神のエネルギーが宇宙の本質だからです。

私たちの本体は精神生命であり、それそのもがエネルギーを持っています。

この世界での経験のため、私たちは身体という設定を持っています。

それがこの世に生きるということです。

劇にたとえれば、物語があり、配役があり、役者がいる。

そのようなもの。

それがこの世。

つまり私たちは役を与えられ演技している役者のようなもの。

般若心経では『色即是空、空即是色』

法華経では『無生法忍』

と説かれている真理です。

この世に生きる意味は、経験を通して精神を拡張すること。

だから人間は罪を背負っているわけではない。

この理解がとても大事です。

イエス・キリストの教えにもあるはずですが現在のキリスト教の教えは「人間は罪深く、その罪をイエスが背負って十字架にかけられた」という具合になっていますね。

本質がわからない人たちが勝手な解釈をしてしまったわけです。

天理教の教祖中山みきは「神は共に楽しみたいと思われ、人間を創造した」と生きる意味を説き、『人間の身体は神から借りた物』という喩えでこの世の空性を教えました。

これに気がつくのが救いです。

そこから人間は精神生命として本来の力が発揮されます。

罪悪感を直視し、解放しなければ苦しみにつかまります。

今、楽しく生きている人も間違いなくそうなります。

なぜかと言えばこの世界は常に変化する、実体のないもので、

どのような状態も永続しない不安定なところだからです。

この世は仮の世界であり、精神の世界が実体なのです。

救いはそれを理解するところから始まります。

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