中山みきは「天理教」という教団を始めた人ではありません。
天理教は中山みきのフォロワーによって創設されました。
教団というものは組織です。
人が集まれば組織ができます。
組織とは場のこと。
場が生じると政治が生まれます。
人は三人よれば政治が生じるといいます。
政治とは利害関係の調整です。
場によって設定されるのが「立場」です。
そのようなものは心の救済とは関係がありません。
なぜなら心は目に見えず、科学的に証明することもできない。
真の救済は知覚される世界を取り扱いません。
知覚される世界を取り扱う救済に似たものを「現世利益」といいます。
組織化された宗教は「現世利益」を追うしかなくなります。
「年祭までに○○名の修養科生をご守護いただこう」
などというスローガンがそうです。
真の救済とは関係ありません。
真の救済は心の救済。
組織は維持、強化されることを望みます。
そのようなことに意識が向くということは救済とは逆方向に向くことを意味します。
救済は意味をなさなくなります。
そのことに中山みきは気がついていたので、組織化を許可しませんでした。
飯降本席は折衷路線だったと解釈できます。
こうしたことをフラットな視点で見つめる必要があります。
考えてみれば『教祖』という呼び方も教団側からの呼び方です。
あたりまえだと信じてきたことが本当にあたりまえなのか考えてみなければなりません。
教団は有史以来ずっと存在していたわけでなく、集まった人々の心が反映し形成されてきたものだからです。
天理教の教団は江戸時代ごろから日本社会に浸透していた儒教的価値観で組織が成り立っています。
教会本部
↓
大教会
↓
分教会
↓
分教会
と、続く縦社会なのは広く知られるところです。
中山みきは「人間は皆平等」だと、縦の人間関係を否定した教えを説きました。
ですが、そのフォロワーが形成した教団組織は縦の社会になっています。
これは妥当だとは言えません。
真の救済から人々を遠ざけるからです。
現在の教団や教会組織はコミュニティになっている側面があります。
ですので無理に破壊することはありません。
安心をもたらしたり、心のよりどころになっているのであれば大事にするのが良いと思います。
ですが、人がいないのに頑張って維持することもありません。
元の教えに照らせばはっきりすることです。
教会を維持しないことによって因果応報による不利益はおこりません。
天罰が下ることも、病気になることも、不幸になることもありません。
そもそも組織化を中山みきは許可しなかったのですから。
中山みきの元の教えは辿りにくいです。
個人的な投影が入り乱れてノイズが多いからです。
先進的な教えすぎて当時から今にいたるまで理解する人が少ないためだと考えられます。
ですが、理解を進めることは不可能ではありません。
この世界での本当の生き方に焦点を定めれば、中山みきが正しい教えを説いていたことがわかります。
生き方はひとりひとりにかかっています。
精神の目覚め。
それに気がつくのが人生を有意義にすごすために必要なことです。