「もし不承知とあらば、この家、粉もないようにする」
もしこれが神の言葉だとしたら、その言葉を発した神は酷い神ということになりますね。
要求をのまなければ危害を加えるというのは脅迫です。
家もろとも木っ端微塵にするというんです。
神が発したとすれば人間に対して戦争を起こすという意思の表明であり、宣戦布告です。
ですが人間は人智を越えた存在にたいして無力です。
戦いになりません。
もし行われたら虐殺になります。
救いを求めて祈祷する人々に対して発する言葉ではありません。
天理教においてはこの信じがたい言葉が立教にまつわるエピソードの中に含まれて語られてきました。
フラットに考えるとおかしい。
これは「教え」なんでしょうか?
それとも「神のせきこみ」?
せきこみ、つまり急いでいたとは考えられません。
というのも、この言葉の後、少なくとも十数年以上、教えが広く説かれたということはないからです。
書きものとして記されたということもありません。
この言葉が発せられたとされる神がかりの年、天保九年は西暦1838年です。
道あけと言われる『をびやゆるし』が出され始めたのが嘉永七年=1854年ですから単純に引くとその間16年。
相当な時間の経過があります。
どう考えたらいいのでしょうか。
結論は簡単です。
あれは神の言葉ではないのです。
中山みきの「意思表明」と受け取るのが妥当です。
寄加持という儀式の中で覚醒した中山みきの言葉だったのです。
神の社というのは、霊の器という風に言い換えられます。
「知覚を越えた悟りに到達するために一生を捧げる」
「本当の救済の人生を生きる」
「霊的存在の器として悟りと救済の道を自ら開く」
そうした意思を、
「みきを神の社に貰いうけたい」
という神視点の言葉として発したのです。
ですので、刺激的にすぎる「粉もないようにする」という言葉は、人間中山みきの人間救済への並々ならぬ決意の現れだと理解すると怖れずにすみます。
仮定の話ですが。
天保九年のあの時。
もし中山みきが絶対神の顕現によって『神の社』として、神の言葉を発する存在になっていたとしたら。
その後の空白とも思える十数年はなかった。
絶対神はすぐに教えを説いて救済に取り掛かったでしょう。
でもそうはならなかった。
絶対神が降臨したんではなかったんです。
『赦し』が説かれるまでの十数年は空白どころか、中山みきが悟りを深めていた貴重な時間だった。
こう理解することが本当におやさまとして敬うことです。
中山みきは神のスピーカーではないです。
そうとらえるのは冒涜というものです。
絶対時間というものは存在しない。
人はそれぞれの時間を生きています。
相対性理論が明らかにしています。
そうした理論が明らかになった世界に生きる私たちにはわかる。
量子力学がデジタルデバイスを実用化した世界に生きる私たち。
私たちはかつて理解が及ばなかったことを捉えることができるはずです。
この宇宙は相対的に存在するのです。
ですので天保九年のあの時を『旬刻限の到来』と捉えるのも宇宙の法則と合っていません。
絶対的な時間はファンタジーです。
それはあの頃の普通の人々にはわからなかった。
この仮想現実の中で自らの投影を追ったんですね。
今の私たちには正しい理解ができるはずです。
新しい理解を生きましょう。
おやさまのことを信じて大丈夫です。