一カトリック信者(ジュゼッペ)の日々想い

聖ヨゼフを愛する一カトリック信者の日々を綴ったブログです。

悪魔の手2

2018-09-22 18:26:42 | カトリック
以下のニュースが出てきましたが、海外では比較的大きく取り上げられています。
バチカン、9月中にも中国へ代表団 司教任命権問題を協議: 日本経済新聞

これを読むとあたかも地下教会の信者と愛国教会の信者のための合意だと思われるでしょうが、中国のカトリック教会に詳しい友人に聞くと、今回愛国教会(共産党が創立した教会)の7人はもちろん違法叙階された司教なのですがバチカンは彼らを認める方針なのだそうです。そしてこの愛国教会の司教のうち数人は愛人がいてさらに子供までいるそうです!
これこそ茶番です。1950年代から伝統を守ってきた地下教会の信者はまたもや見捨てられる可能性が出てきました。香港のサレジオ会の枢機卿は戦っておられますが、私たちもローマと悪魔が手を結ばないようにお祈りしましょう。ロザリオ持って戦いましょう!

以前の記事
悪魔の手
です。


福者エンメリックの予言
私はあらゆる種類の異端派が街(ローマ)に集まっているのを見ました。聖職者の絶えず増え続ける衰弱が見えました。暗闇の輪が広がりました。そして今、ビジョンはより広がりました。私はあらゆる場所でカトリック者が圧迫され、悩まされ、制限され、自由を奪われ、教会は閉鎖され、戦争と流血でどこでも大きな悲惨さが勝ったのを見た。

聖なるカトリック典礼3

2018-09-18 07:45:12 | カトリック
500年前にルターが自分の教会を作りました。それからというものの現代では何万ものプロテスタント教会が存在すると言われています。同じ様に今から半世紀前に起こった典礼改革で沢山のミサが生まれました。
以前の典礼では全て司祭によって司式されていましたが、今では朗読のために一般信徒が祭壇内に入ってしまいました。
当初は男性限定を守っていた教会も今はどうでしょうか。内陣で女性も朗読するようになりました。以前のトリエント典礼の荘厳さと伝統を残そうと努力をしても結局はなし崩しに様々な事が行われたのは周知の通りです。女性侍者や聖体奉仕者などは最初は衝撃を持って迎えられましたが、今となってはどうでしょうか。「見慣れた風景」になっています。手での聖体拝領や跪かないミサなどは、もはや当たり前のように行われています。シスタールチアがいう「悪魔的方向感覚の喪失」の影響のもと、おかしいと思うのは少数派になっていきます。そして少数派でさえ居なくなってしまう勢いなのです。荘厳であるはずのミサの中に見られる人工的な動きである、お互いにする平和の挨拶や共同祈願、奉納など、いけにえの儀式よりもまるで祈祷集会のような雰囲気を醸し出しています。
女性侍者や聖体奉仕者、女性朗読の導入などは、もともとの典礼改革の原理や精神がそれを許している土台にあったことを考えると、それを否定するということは、新しいミサそのものを否定することになるのです。それをしたくないから多くの人は行き場が無いということになります。
つづく

聖なるカトリック典礼2

2018-09-14 07:54:15 | カトリック
教皇聖ピオ5世は、1570年7月に大勅令『クオー・プリームム(Quo Primum Tempore)』を出しました。これは、ローマ・ミサ典書を永久に有効なミサ聖祭として義務化しました。これがいわゆるみなさんの存じ上げてる「トリエント・ミサ」です。
しかし、実はこの聖ピオ5世の時に「トリエントミサ」が生まれたわけではありませんでした。長い歴史の中の一段階として聖ピオ5世が改訂したに過ぎなかったのです。ですからよくトリエントミサの歴史を500年と言う人がおられますが、「古代教会の聖体秘跡書以来、何世紀も綿々と続いてきたミサ典書」というのが正式な名称と言えます。

詳しくは色々なブログがありますが、以下のトリエントミサしか行わない聖ピオ10世会の小野田神父の論文が非常に分かりやすいので是非お読みください。

聖伝のミサについて黙考 --- 教会のため私たちに何が出来るでしょうか - Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた


最後に聖ピオ5世は大勅令の中で不可謬権を行使してこのように記しています。

『(トリエントミサに対して)絶対に誰一人として、余のこの許可、規定、命令、勅令、決定、認可、許可、宣言、意志、政令及び禁止のページに背反し、或いはそれに大胆にも背く事のないように。 もしも、誰かがそれを企てようと敢えてするとしたら、全能の天主、及び使徒聖ペトロとパウロの憤激をかうと言う事を覚えよ。』

つづく

聖なるカトリック典礼

2018-09-13 07:46:58 | カトリック
私は小さい頃から昔通常に行われていたミサは『ラテン語ミサ』だということを認識していました。それは両親や伯母や叔父がそのミサに与っていたことがあって、時々部分的に家族の会話を聞いていたからです。実際知識の無い私は今の形のミサがそのままラテン語で行われるだけだと想像しました。
しかし、聖人伝や昔の司祭の写真、ミサ関連の御絵を見るとどうでしょうか。私が与っているミサと大分違うのをなんとなく感じました。祭壇、司祭服はもちろん、司祭が向く方向だとか、このような場面見たことが無いという内容のものでありました。どうやら少しずつですが、昔のミサは廃止されたということを耳にするようになりました。
月日は経ち、高校生になると、私の周りでは私がカトリック信者だと知ると色々とキリスト教について興味本位で聞いてくる友人が増えました。今思えば彼らのイメージは1960年代までのカトリックのイメージでした。
仲の良くなった友人をカトリック教会に連れて行ったとき、今の典礼がすごく幼稚に感じる衝撃的な言葉をもらったとき、私はふらふらしたのを覚えています。私はただただ「昔は良かったんだよ」ということしか言えませんでした。なぜその言葉が出たかというと、教会の老信者たちがよく教えてくれたからです。
そしてネットが普及し始めると旧典礼と新典礼の問題を知ることが出来ました。いくらかラテン語とグレゴリオ聖歌は根強い人気だとかで、そして現代のカトリック教会の危機を耳にするようになったのです。
つづく

重要なのは中身

2018-09-11 07:47:08 | カトリック
聖福音書に、神殿で祈るファリサイ人と自分の罪を良く悟り改心を祈る徴税人の例えがイエズス様から語られています。もちろん神様から義とされたのは、徴税人の方でした。
確かにこの場合「祈る」というカテゴリーでは、この二人は同じことをしています。しかし重要なのは『想い』そしてそれに伴った『中身』だったのです。
最近この時期に来るとあちこちで「ラテン語」だとか「グレゴリオ聖歌」という声が聞こえます。私は一度も東京のカテドラルで行われる一年に一回のラテン語ミサに与ったことがありません。「伝統的なラテン語ミサ」と謳ってはいますが、現行の新しいミサのラテン語です。40年程の歴史の伝統なのだそうです。
確かにラテン語は尊い言葉です。なぜならば聖トマスによると、天国の言葉はラテン語だろうということです。しかし、言葉もメロディーもあくまでも手段でしかありません。
グレゴリオ聖歌もその内容故にあのようなメロディーが生まれたのです。
少なくとも残された文章だけでも5世紀まで遡ることが出来るというトリエントミサも現行のラテン語ミサも確かに同じ「ラテン語ミサ」というカテゴリーです。
しかし、以下の比較表を見たときに同じミサだ、同じ信仰だ、と言えるでしょうか。
中身を大切にしなければ、ただのミーハーに成り下がり、雰囲気だけ大切にして、全ては形骸化します。

新旧ミサ典礼の比較







キリストの御体

2018-08-30 18:40:37 | カトリック
ホスチアが司祭の手と教会の意向を通して「汝等受けて之を食せよ、これ汝等のために(死に)わたす我が体なり」と唱えられる時、まさにその瞬間にキリストの体に変化(聖変化)します。見た目はそのままですが、それはキリストの体なのです。そこにはイエズス様の体と霊魂があります。
イエズス様は三位一体の天主であり、全宇宙の王です。私たちの主であるので当然最大限の敬意と礼拝が必要なのですが、所詮は私たちは被造物ですので、どんなに敬意と礼拝を尽くしても足らないのです。洗者聖ヨハネにして、「靴ひもを解く値打ちも無い」のです。
色々なブログを見てみますと舌か手かの聖体拝領問題は善良な信者の心をかき乱しています。しかし、もし上記のようにイエズス様を理解しているならば答はもう出ています。イエズス様はユダヤ人やピラトの前でも真理を行うのに死をも恐れませんでした。
手での聖体拝領で気をつけなくてはならないのは、ホスチアの粉です。例えどんなに気をつけてもホスチアの粉は手に付着することがあります。
以前の舌での聖体拝領が主流の時代の時でさえ、何回か一回に聖体受けにホスチアの粉が付着します。写真をご覧ください。

このように気をつけても聖体受けにホスチアの粉が落ちることがあるのです。
手での聖体拝領をする方の中には口に聖体を入れたあとすぐに自分の服に触る人もいます。席に戻って聖歌集をさわる人もいます。まじまじ手を見る人はいません。
海外のサイトに手での聖体拝領の危険性を視覚的に絵にしたものがありますので、是非ご覧下さい。
これを見てどう思いますか?私なら恐ろしくてすぐに手での聖体拝領を止めたくなります!

信仰と疑い

2018-06-20 07:43:32 | カトリック
私が学生の頃とある堅信式で小教区に司教様が招かれて司式が行われました。当時はヨハネ・パウロ2世の御時世でその教皇様が、信仰と疑念(ダウト)は相反する事ではないという発言がカトリック教会で物議を醸していました。
その影響かどうかは分かりませんがその司教様は「信仰とは疑いがあって始めて成り立つものであり、『信じます』の中には100%(信じますが)無くてもいい」とか「あるシスターが聖堂で座っていたからシスターに何を祈ったの?と聞いたら『夕飯の献立を考えていました』」と笑いを誘うようなお説教をなさっていました。
お説教のあとの使徒信経の「信じます」がすごく空虚になり、ばつの悪さを感じたのを覚えています。
その後伝統の教えを調べてみますと真のカトリックの教えは非常に反対であることが分かりました。以下にまとめると
1.信仰を理解するのは難しいことではありません。
2.疑いは神様の信仰と相容れないものです 。
3.疑いと信仰は互いに排他的です。
4.疑う人は、必ずしも神が明らかにしたことをしっかりと信じていません。
 そして聖なるカトリック教会は以下のようにまとめています。
「信仰はすべての疑念だけでなく、実証のためのすべての欲求を排除しなければならない」ということです。
このようなことは聖福音の中でもイエズス様がよく信仰薄き人を諭されていることにも根拠があります。とくに使徒聖トマのやりとりも有名ですが、昔の公教要理には『信仰とは、目の前にあるものを見るように信じることを信仰という』とあります。
現代のカトリック信者の信仰がマリア様泣かせである原因がここにあるように思えてなりません。信仰があれば私達は全宇宙の王である御聖体に対して不敬を行うことも無いはずなのです。
今一度信仰とは何かを、このイエズス様の聖心の月に黙想することに致しましょう。

来月の海の日のマーチフォーライフでお会いしましょう!

単純かつ確実な方法

2018-05-31 05:44:35 | カトリック
聖母月もいよいよ最終日となりました。5月は主要な祝日が多かったのですが、実は365日全てが重要です。なぜならばマリア様は私たちに毎日ロザリオをおすすめされてるからです。私たちの究極の目的は天国に帰ることです。非常に残念なことに人祖アダムの罪によって私たちは生まれながらして堕落しています。天国のパスポートは失われています。しかし読者の多くはカトリック信者だと思うのですが、恩寵によって洗礼を受けて原罪は赦されています。赦されるだけであればマリア様は涙を流す必要はありません。自由意志がある以上善人にも悪人にもなれてしまう私たちには、教会を通して信仰を深め維持しなくてはなりません。そしてイエズス様の花嫁である聖なるカトリック教会を通して救われるのです。聖母マリア様に従順なカトリック教会も私たちにロザリオをすすめています。救いのためにロザリオは最も単純かつ確実な方法です。以前
『ロザリオの月 』←クリック
という記事で取り上げましたが、ロザリオにはマリア様の約束があります。母親を愛する子供は母親に従順なはずです。そして母親の良い勧めに耳を傾けるはずです。ですからマリア様を愛するならばロザリオを祈りましょう。続けましょう。祈れる限り時間の許す限り祈り続けましょう。
あわせて胎児のために!

教会誕生

2018-05-21 07:48:58 | カトリック
聖霊降臨の大祝日おめでとうございます。

かつてある司教様の説教を思い出しました。

『神様からのお恵みは現実的かつ超自然的なのです。超自然的なものとは神様のみから来るものです。恩寵は私たちよりもさらに上から与えられなくてはなりません。私たちは恩寵が無い状態で死ねば地獄に行くことになります。私たち人間は天国に行くに値するような特性や性質を持っていません。
新しい教えによって私たちは支配されています。この新しい教えは僅か数十年の間によって私たちを支配しています。その教えでは、私たちの本質というものは天国に行くのが当たり前とされています。人間であれば天国に行くのに値する存在なのだそうです。しかしこれは排斥されている教えです。私たちは原罪によって堕落していることを忘れてはいけないのです。もし人間が洗礼によって原罪が赦されなければ地獄に行きます。私たちの主は十字架の上で死にました。それは恐ろしい死でした。私たち人類の罪を贖うためでした。真の教えと真の教会を得るためです。
真のカトリック教会は何かのジョーク的なものでもオプションや何かしらの他の物ではありません。それは天国に行くための必須なものです。しかし今日多くの人々はカトリック教会が天国へ行くのに必ずしも必要なものではないと考えています。
カトリック教会は天国に行くのに欠かせないものです。決してカトリック教会の教え無しに天国に行くことは出来ません。神様は教会の周りで働きかけることは出来ますが教会を通して天国に行くことが基本であり最良なのです。もちろん教会の外から天国へ行く人は居ますがそれはかなり少数です。全世界がカトリック教会を忘れさられているのは驚愕的なことです。現在のカトリック教会の破壊は神様のお許しによるものです。もちろん神様はその破壊を望んではおられませんが、しかしそれを許されたのです。私たち人間には自由意志があります。もし私たちが地獄へ行くのでしたら神様はお止めになりません。もし私たちが教会を破壊するならばそれと同じくお止めにならないのです。しかし神様は世の終わりまでご自分の教会をお救いになります。私たちは世の終わりに近づいています。ですから教会は非常に小さいのです。余りに多くの霊魂はこの世の快楽を求めています。イエズス様は仰いました。あなたがたはこの世または天国の両方を求めることは出来ません。殉教者は天国を選びました。そしてこの世で命を失いました。彼らは正しかったのです。彼らは天国にいます。彼らはこの世で生きなかったのですが天国で生きています。カトリック教会は常に天国のことを考えなくてはなりません。それが私たちがカトリックである所以なのです。天国へ行くために、他の理由はありません。神様の栄光のために。霊魂の救いのために。人の霊魂を救うためにはまず自分の霊魂を救わなくてはなりません。』
つづく

ファティマの聖母

2018-05-14 07:43:27 | カトリック
昨日は5月13日はファティマの聖母の祝日でした。
マリア様がポルトガルのファティマで御出現されてから101年目に当たります。丁度今から101年前の大きな奇跡で世界中で大回心がありました。この1917年は教皇聖ピオ10世の近代主義を排斥した「パッシェンディ」から10年目でもありました。この時代の背景から推察すると二百年前から始まった新しい教えと教会が戦っている真っ只でもありました。ですから聖母マリア様のメッセージは、罪人の回心のための祈りと犠牲を私たちに訴えておられるというわけです。
とりわけ聖母マリア様のメッセージは教会の教えと全く同じであり特に注目されたのは予言でした。特に第三の秘密と言われたものは、1960年までに公開する約束でしたが、この年まで何もありませんでした。これがおそらく現代のカトリック教会に暗い陰を落としているのかもしれません。なぜならばカトリック教会の聖職者は聖母マリア様の約束を守らなかったからです。
そしてさらにこの10年以上後にマリア様は秋田で、次のように仰います。
『ロザリオの祈りをもって、司教、司祭のために祈ってください。 
悪魔の働きが、教会の中まで入り込み、枢機卿は枢機卿、司教は司教に対立するでしょう。私を敬う司祭は同僚から軽蔑され、攻撃されるでしょう。祭壇、教会が荒らされて、教会は妥協する者で一杯になり、悪魔によって、多くの司祭、修道者がやめるでしょう。特に、悪魔は、御子に捧げられた霊魂に働きかけております。たくさんの霊魂が失われることが私の悲しみです。これ以上罪が続くなら、罪のゆるしはなくなるでしょう。』
ですからファティマのマリア様と秋田は繋がっている御出現と言われる所以なのだそうです。日本に御出現されたことも本来注目したいところです。多くの人がこのマリア様の発言を実感されていることと思います。
そしてファティマのマリア様は沢山のカトリック教会の信者の霊魂が地獄に落とされていくのを見せてくださいました。実に沢山の霊魂でした。
これは非常に恐ろしい事です。マリア様は私たちを愛してるからこそ警告を与えておられることを忘れてはいけません。私たちが愛する子供を育てるのと同じです。気をつけなさい!と言うのと同じです。愛してるからです。どうでも良い人のことにそこまで言いません。
祈りましょう。