先月は聖母月でしたが、今月はイエズス様の聖心の月です。
イエズス様の祝日が続きます。6月7日に三位一体の主日がお祝いされ、来る11日は聖体の祝日、14日は御聖体の荘厳祭、19日はイエズス・キリストの至聖なる聖心の大祝日を迎えることになります。さてイエズス様とは、どんなお方なのでしょうか。宗教を問わず多くの人が人としての模範として2000年以上の長きに渡って敬意が払われてきました。最高の人間として敬われてきたことは間違いがありません。犠牲と忍耐の人そして優しさの人であったり、正義の人であったり、徳のある人であったり、罪の無い完璧な人として、または奇跡を行う人として信じられてきました。キリスト教はイエズス様を天主として拝んでいます。それは三位一体の第二位のペルソナが聖母を通して人間になったお姿がイエズス・キリストなのです。つまり、私たちが本来『神様』『天主様』と言うときそれはイエズス・キリスト御自身なのです。
さてそのイエズス・キリストは今どこにおられるのでしょうか。それは教会の中央に位置する最も聖なる場所、祭壇の上、つまり聖櫃の中におられます。
コロナ禍の状況で、現在カトリック信者の主流となっている『手での聖体拝領』が海外では高位聖職者と多くのカトリック信者を巻き込んで話題になっています。コロナウィルスの感染経路において私たちが手で触れるものに付着することが分かってきました。ミサに与る私たちは手を合わせるだけではありません。中には本を持つ人もいます。そして献金などをするときにオカネなどに触れることあるのです。顔や髪の毛、衣服やご自分の子供などです。特にカネは多くの人の手の間で行き来するものです。司祭は聖変化する前に、特別な手ではありますが、手をまた水で清めます。しかし多くの信者はそこまで配慮をする人は皆無に等しいのです。科学的な詳細はここで割愛しますが先月イタリアのカトリック医師会会長から、「手による聖体拝領は口での聖体拝領よりも危険です」という声明が出たそうです。手での聖体拝領の仕方は伝染性が非常に強く、そしてさらに跪いての聖体拝領は拝領の仕方では最も安全だといいます。
コロナ禍の中で、手での聖体拝領はあくまでも例外であって本来の正しい伝統的な受け方は口で受ける聖体拝領だ、ということに改めて気が付いた信者が増えてきました。
しかしここはコロナ禍における環境下よりも信仰として、聖体の祝日を前に今一度聖体とは何かを黙想する必要があるように思われます。
このブログで繰り返し聖体については何度も取り上げて書いてきました。私たちの大切な信仰には、キリストの復活同様に絶対信じなければならない教義にはこの『聖体』があります。聖体こそ、真のイエズス様です。ホスチア(パン)の形をして何もお言葉を発せられなくてもそれ自身がイエズス様全てなのです。そしてイエズス様が住まわれるからと、カトリック教会は立派な建物をイエズス様のために建ててきました。そして聖体であられるイエズス様を安置するために立派な聖櫃と祭壇が用意されたのです。それは私たちの信仰と敬意の表れなのです。大切な人の写真を飾るのに床に置いたりは私たちはしません。立派な額を用意したり花を用意したりするものです。お墓もそうです。大切な人だから立派な物を用意したいと思うのが人間の心理では無いでしょうか。しかし、ここは生きておられる聖体の話をしています。聖体はイエズス様です。イエズス様は救世主です。天主です。天主の御言葉です。聖母マリア様からお生まれになった方です。三位一体の主です。創造主です!
しかし悲しいかな、イエズス様が安置されている多くの教会をご覧下さい。なぜ昔建築された教会の方がイエズス様が住むに相応しい形をしているのでしょうか。単純に皆様比較してみて下さい。
私たちは宝石など高価なものや大切な物に触れるとき手の指紋が付かないように気を使ったり触れた後布で拭いたりします。しかし、それと比較にも出来ない程の聖体をなぜ、オカネを触ったり本を触ったり、顔や髪の毛、衣服を触ったりする手で簡単に触れることが出来るのでしょうか。
今より恐ろしい疫病が流行った時代にもカトリック司祭は恐れずに教会の子らのために秘跡を授けたのです。私たちも恐れずに正しい信仰を持って主に近づくべき時が来ています。
悪魔は聖体をあらゆる方法で攻撃するでしょう。ロザリオで私たちの主をお守りしましょう。そして善い心で聖体の祝日をお迎えしましょう。