四旬節中の黙想の中でイエズス様が私たちを愛しに愛し尽くされたというのを感じます。
十字架の道行きからカルワリオの丘まで主は苦しまれました。苦しむ必要も無い方は私たちのために苦しまれました。その苦しみも多様です。体中の痛みはもちろん精神的な苦しみも受けておられます。全てはちっぽけな私たちのためです。主は与え主でもあります。私たちに大切な御一人子をお与えになる程愛されたのです!
以前映画を観たことを思い出しました。あるお婆さんは大切な一人息子を病気で失ってからというもの、覇気が無くなり生きる喜びを失っておりました。ミサにも行かなくなりました。そこで地元の司祭がお婆さんを訪問しました。彼女は辛うじて自殺を思いとどまっている状態とのことでした。彼女は「神が息子を奪った」と言うのです。それからというものの神様を呪っているのでした。しかし司祭は、その息子を与えられたのは神様のおかげであること。神様は天の国でその息子を養いお母さんの為に祈り待ってることを諭すのでした。しかし彼女の心は頑なでした。
さて、あるブログを読んだらこれと同じことを書いている方がありました。自分が病気なのも、家庭が持てないのも、孤独なのも、不遇な扱いをされるのも、苦しいのも、人間関係がうまくいかないのも、「神様が奪った」というのです。なんと恐ろしい考えなのでしょうか。自分に責任は無いのでしょうか。
人間は原罪を持って生まれて非常に弱い存在です。さらに私たちが生まれてきたこの世は神様の属する場所ではない獣の住処です。天国と違って不快なことだらけです。正義も行われていません。うまく行くことは少ないです。人間には自由意志があります。献身的な人もいれば利己的な人もいます。この世ではこういう人間関係で過ごすのです。ですから対立も融和もあるのです。神様のせいでは無いのです。むしろ神様は私たちにお与えになります。私たちが気が付かないだけなのです。
以下どこかで読んだことある小話(ジョーク)ではありますが、感慨深いものがあります。
『 ある科学者がついに自分は神に同等になったことを喜びました。なんとアダムをお造りになった神様と同じく塵から人間をつくることに成功したのです。そこで博士は神様と対等であることを宣言しました。そして神様に向かって
「神よ!俺はついに塵から人間をつくれるようになったぞ!見てみろ」
そこで神様は
「いやいやだめだ、それは私の造った塵だ」 』
このように私たちにはただただ神様から与えられたものしか存在しません。アダムとエバは神の恩寵のもとで創造されました。しかし悪魔の誘惑と自らの傲慢で恩寵を失い、その結果を私たちも相続しました。しかしそれでも私たちを愛された主は、聖母マリア様を与えられイエズス様さえも私たちにさしだされたのです。ですから再び私たちが、洗礼を受けて原罪が赦されこの世での償いが終われば再び天国に行けるのです。
この世は救いが無いように見えても、主イエズスは御聖体に隠れておいでになります。そして私たちは主をミサで受けています。主が不幸にするために私たちから何かを奪うという気持ちにはならないはずです。
カトリック聖歌集に「秘跡にこもりて」という聖歌があります。
秘跡にこもりて われらのうちに
さかえのみ神は とどまりますよ
ぬかずきまつれば ああ心なごむ
奇しきやすけさ
とわになつかしき なぐさめぬしよ
淋しき日の友 心の糧よ
君ともにまさば 世におそれあらず
奇しきやすけさ
"ひせきにこもりて" YouTube