『主の御体をわきまえず飲食する者は、自分自身への審判を飲食することである』
使徒聖パウロの、コリント人への書簡11の23~29を黙想しましょう。御聖体に対して、受ける心構えに付いてはっきりと記されていますね。御聖体の大祝日は、本来であれば先週『木曜日』なのですが、昨日は荘厳祭お祝いしました。
聖霊降臨、三位一体、御聖体、という私たちの『主』の大祝日が続いています。
御聖体も私たちの主であることを昨日のミサで思い起こした人もいらっしゃったことでしょう。御聖体の祝日を特別に祝ったけれども、毎日または毎週のミサで、主は確実においでになられていますし、ミサが無くとも赤いランプの奥の聖櫃の中にも安置されています。
真の主である御聖体に私たちはどのようにするべきでしょうか。
宝石や大切にするものに触れるとき私たちは特に気を使います。例えばBlu-rayの表面を手で触れないようにします。
パンの形をされた主ならば、とくにその付着した粉までもが主イエズスです。私たちの大部分は主を受ける直前まで手を洗う人はいるでしょうか。手で受けた場合手のひらに付くであろう粉のイエズス様に気を使う人はいるでしょうか。
伝統的に今までは、信者が大きく舌を出して受けていたのは自然と身についた信心の結果なのです。
主が世の終わりまで共にいて下さることに感謝しましょう!
祈りましょう。御聖体に祈りましょう。
使徒聖パウロの、コリント人への書簡11の23~29を黙想しましょう。御聖体に対して、受ける心構えに付いてはっきりと記されていますね。御聖体の大祝日は、本来であれば先週『木曜日』なのですが、昨日は荘厳祭お祝いしました。
聖霊降臨、三位一体、御聖体、という私たちの『主』の大祝日が続いています。
御聖体も私たちの主であることを昨日のミサで思い起こした人もいらっしゃったことでしょう。御聖体の祝日を特別に祝ったけれども、毎日または毎週のミサで、主は確実においでになられていますし、ミサが無くとも赤いランプの奥の聖櫃の中にも安置されています。
真の主である御聖体に私たちはどのようにするべきでしょうか。
宝石や大切にするものに触れるとき私たちは特に気を使います。例えばBlu-rayの表面を手で触れないようにします。
パンの形をされた主ならば、とくにその付着した粉までもが主イエズスです。私たちの大部分は主を受ける直前まで手を洗う人はいるでしょうか。手で受けた場合手のひらに付くであろう粉のイエズス様に気を使う人はいるでしょうか。
伝統的に今までは、信者が大きく舌を出して受けていたのは自然と身についた信心の結果なのです。
主が世の終わりまで共にいて下さることに感謝しましょう!
祈りましょう。御聖体に祈りましょう。
さらには、御聖体に対する崇敬も姿勢や態度に表れるのですから、跪きを原則禁止にした日本のカトリック教会は、たかが人間という分別を捨てることを選択しちゃったんでしょうかね…
従ってどのような(人間から来る)権威を持ってしても聖三位一体に捧げられる「礼拝」を止めることは出来ません。もし最たる祈りである御ミサに跪くことが禁止であれば、ローマから正式に認められるわけがありません。実際禁止ではありません。だれも禁止と言ってるわけではないのです。「禁止にしたい」のであって禁止ではありません。しかし、あのような文章が出回っている以上は、現場現場の判断が出てしまうのでしょう。普通に考えれば跪くことは禁止と読みとるのは致し方ない文章では、ありますが、跪くことは形式的な事として捉えている方は、禁止されたと思って止めるでしょうが、跪くことは、主のお望みであってそれが身にしみたものであると思う方は、むしろ主の忘恩に対する償いだと思って喜んでするでしょう。
難しい話ではありません。人間に従うか天上に従うか、だけなのです。