500年前にルターが自分の教会を作りました。それからというものの現代では何万ものプロテスタント教会が存在すると言われています。同じ様に今から半世紀前に起こった典礼改革で沢山のミサが生まれました。
以前の典礼では全て司祭によって司式されていましたが、今では朗読のために一般信徒が祭壇内に入ってしまいました。
当初は男性限定を守っていた教会も今はどうでしょうか。内陣で女性も朗読するようになりました。以前のトリエント典礼の荘厳さと伝統を残そうと努力をしても結局はなし崩しに様々な事が行われたのは周知の通りです。女性侍者や聖体奉仕者などは最初は衝撃を持って迎えられましたが、今となってはどうでしょうか。「見慣れた風景」になっています。手での聖体拝領や跪かないミサなどは、もはや当たり前のように行われています。シスタールチアがいう「悪魔的方向感覚の喪失」の影響のもと、おかしいと思うのは少数派になっていきます。そして少数派でさえ居なくなってしまう勢いなのです。荘厳であるはずのミサの中に見られる人工的な動きである、お互いにする平和の挨拶や共同祈願、奉納など、いけにえの儀式よりもまるで祈祷集会のような雰囲気を醸し出しています。
女性侍者や聖体奉仕者、女性朗読の導入などは、もともとの典礼改革の原理や精神がそれを許している土台にあったことを考えると、それを否定するということは、新しいミサそのものを否定することになるのです。それをしたくないから多くの人は行き場が無いということになります。
つづく
以前の典礼では全て司祭によって司式されていましたが、今では朗読のために一般信徒が祭壇内に入ってしまいました。
当初は男性限定を守っていた教会も今はどうでしょうか。内陣で女性も朗読するようになりました。以前のトリエント典礼の荘厳さと伝統を残そうと努力をしても結局はなし崩しに様々な事が行われたのは周知の通りです。女性侍者や聖体奉仕者などは最初は衝撃を持って迎えられましたが、今となってはどうでしょうか。「見慣れた風景」になっています。手での聖体拝領や跪かないミサなどは、もはや当たり前のように行われています。シスタールチアがいう「悪魔的方向感覚の喪失」の影響のもと、おかしいと思うのは少数派になっていきます。そして少数派でさえ居なくなってしまう勢いなのです。荘厳であるはずのミサの中に見られる人工的な動きである、お互いにする平和の挨拶や共同祈願、奉納など、いけにえの儀式よりもまるで祈祷集会のような雰囲気を醸し出しています。
女性侍者や聖体奉仕者、女性朗読の導入などは、もともとの典礼改革の原理や精神がそれを許している土台にあったことを考えると、それを否定するということは、新しいミサそのものを否定することになるのです。それをしたくないから多くの人は行き場が無いということになります。
つづく