The wORLD of the wIREwORK

針金で色々作ってます

青春時代のもやもやしたもの(不確定名)

2010年04月18日 | 針金
寒いですねえ。
毎回言ってますが、冷え性なんでこんなに寒いと家から出る気がなくなりますよ。
春は未だ来たらず。されど桜は散りゆく也。
なんかそれっぽいけどそのまんまですね。それっぽくもないか。

ニーチェ、ワーグナー、ヒトラーの伝記を最近読みました。
最後の人は別として、ニーチェ、ワーグナー二人とも好人物とは言えないのに、奇妙に人気がありますね。
その偉大な作品がなければ、ニーチェは偏屈爺さんでワーグナーは自分大好きって印象を受けました。
どうでもいいですけど、最近ディズニーの番組で、シンデレラ城のモデルになったノイシュヴァンシュタイン城を夢のお城と言ってましたけど、言いえて妙だな、と思いました。本人はそんな気がないんでしょうけど。

なんとなく、中学生でヒトラー、高校生でニーチェ、大学生でワーグナーな感じがしますけど、どうでしょうか。
あのアウトサイダーっぷりが斜に構えた若人の憧れを集めるのでしょう。
かく言う私も憧れている口で、現在進行形なのが未だやばい訳で。
そういうものがリアルな自分である為の哲学であった年頃の、そういう話です。

さて、ヒトラーに興味を持つ心理を、単純に若い頃にありがち、と言って片付けるのは、少し言いたいことが残るので、思春期を思い出し赤面しながら考えてみたいと思います。
ヒトラーは、例えば大不況の時に再軍備などの公共事業で雇用を調整したり、今の日本に比べたら全うな政治をやりつつも、世界史の中でも特に愚かな虐殺を指示した、両極端なところがあります。

自国民を配慮した結果の、善意からでた行動があのような結末に至ったのだとしたら、悪人だから我々とは違っている、我々はこんなことはしない、とわが身の内なる独裁者の可能性を考慮しないで彼を切り離すことは割りと危険なことでしょう。
そもそも虐殺は公的な文書では表記されていないのですから。もちろん敗戦濃厚の時に燃やしてしまったんでしょうけど、多くの人が自主的に虐殺に加担した、この空気を読んだ感はどこの誰にだってあるはずです。

それに似て、若いうちはありがち、確かにそうなんですが、そうではない。私が歩んできた道の、それは恥ずかしい失敗例として危険表示の標識みたいなものを、これから歩む人や今歩いている自分のために考えておきたいのです。
身から出た錆でも反面教師として役に立つこともあるでしょう。

つってな。若いうちにありがち、とは言いましたが、よく聞くビジュアル系の人たちがヒトラーについて歌っていたり、漫画なんかでナチスをモチーフにしていることが多い、って感じるだけなんですけどね。

しかし、そういう若いひと達が触れるものに、ヒトラーやナチスに関連したものが多いのは偶然ではないでしょう。朝日新聞的な感覚ではなく、彼らはそういうものを必要としている、と思うのです。かつて必要としていた当事者として。

ヒトラーの施策のように両極端ながらも表裏一体という複雑な構造は、青春の構造にそっくりです。
青春とは、高過ぎる自意識、それにふさわしくない評価と常に対峙しないといけないストレスフルでちぐはぐな状況です。
努力を厭うこの自称天才は、マイノリティに共感することで他と異なることを証明しようと言うのです。

そうすれば、誰にも分かりはしない、隠しているこの牙の渇望感も満たせよう。

そう言って虎になっちゃった人もいましたね。
大槻ケンヂの小説によく出てくる描写ですが、不必要に美化された自分と一体化するためにはとても大きな飛躍が必要です。
すぐ到達する着地点としての、独自の美意識で突っ走った彼ら、ということでしょうか。

昔見た「ゴールデンボーイ」という映画は、ナチスに憧れる少年のお話でした。
少年と元ナチスの軍人の老人が出会い、だんだん歯車が狂ったように日常が逸脱していく過程が非常に興味深かったんですが、向こうでも事情は似たようなものなんでしょうか。

考えて見れば、漫画やJPOPなんてサブカルのメインターゲットはそういうメンタリティの人たちですからね。
その意味では、必要としている人たちに正しく届けられている訳です。

倫理的に振舞って、それらの供給に一定のルールを求めることも必要でしょうが、彼らは歴史的な視点から、とかそういう風に見ているわけではありますまい。
大人が口はばかるナチスという案件でも、自分を着飾るファッションに過ぎない。
同じものを見ていて、別のことを考えている、そういう落差もあり得ます。見落とさないように努めることも、大人の振る舞いでしょう。


そして、あの頃の私は、今と地続きになっていることを否定したいあの頃、客観的に見ることがどういうことか分からないどころか存在さえも知りませんでした。
主観100%の世界を、他人の目に委ねるスペースを用意していくことが大人になることでしょう。
また、人の眼は、面白い働きをすることもあって、写したくないものを見えなくしたり、見たいものを大きく写したりもします。
そういうことを踏まえた上で、再度ヒトラーやナチスに触れても遅くはないでしょう。

だから、昔かぶれていたことを恥と思う必要はなく、今思い出してじたばたする必要もありません。粛々とそういう過去を受け入れて、手を取り合って歩いていけば、自分を振り返った時の復元ポイントとして立ち返った時に、また違った発見も見つけられるかもしれないよ、と。

まあ、無理すんな、と言うことでもあります。


あ、今気づいたけど、三人ともドイツの人だ。

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