The wORLD of the wIREwORK

針金で色々作ってます

アドレッセンス狂想曲

2010年04月19日 | 針金
針金だって作っています。両手剣につけた男性シンボルがやたら大きいんですが、デザイン的に性差のシンボル♂♀ってなんでこんな形になったんでしょうね。やはりアレか?
やだ! 私ったら男性シンボルが大きいだなんてエロいこと言っちゃった! 馬鹿か。

そういや、ネットで拾った言葉ですが、平日は仕事で休日は引きこもり、という表現がありましたが、うん、いい生活だ。今後はこれを私のキャッチフレーズにしよう。


若い人向けの言い訳の話。

真実が万人にとって受け入れられるものだとしたら、大抵の哲学や考え方は真実ではないでしょう。
そうではなくって、だいたい何人位までは真実として受け入れられるか、を考える方がまだゆるゆるで合理的です。

真実に対していちいち難癖をつけたり、別の立場を持ってきて相対的に考えると真実の真実である部分も使えなくなってしまいます。
真実の使える部分を評価すること。大体何人が真実として受け入れられるか、受け入れられない部分はどう埋めていくか、と考える方法を、真実パーセンテージという概念で実行しています。

真実パーセンテージは、よく世の中が何面対ものサイコロで出来ている、と例えられるような多面的な捉え方を、じゃあ具体的にどうすりゃいいのさ、との私の要請で考案されました。

相対主義や博愛主義は、臆断の捕囚になりやすいと思われます。決してこれらが駄目なんだという意味ではありませんし、どちらかというと私はそういう物の考え方をしますが、考えるよりも手を動かした方がいい場合だってありますし、動いているうちに時間やら何らかのファクターが加わって事態が好転する場合もあります。悪くなる場合も当然ありますが。
大切なのは、真実の潔癖症では自分が汚れていると気づいたときにやりにくいものです。
経験的に、自ら手を汚したときの方が、正しいことが真実パーセンテージで言うと高い場合が多い気がします。

さて、ヒトラーやニーチェを信望する感覚、一言でアウトサイダー志向とでもしておきましょうか、についてをこの真実パーセンテージを踏まえて考えてみたいと思います。
昨日はなんだかもやもやとして、6時位までPCかたかた打ってましたから、まとまった表現もできなかったので。頑張って考えたんだけどな。


まず、青春学徒としてニーチェの哲学で学んでおくことは、距離のパトスと言われる人心の働きです。
奴隷と貴族の違い。
奴隷は、群畜とも言い、頼るべき規範もなく、みんながやっていることのみを参照ルールとして(みんながしていることをしたい! )行動する人です。
対して貴族は、獅子のような峻厳さで、奴隷を見下し、そこから離れるような行動的で闘争心に溢れた人です。

すいません、この程度の理解ですが、青春の学徒としてはこの程度で良いんです。
私は高校生の時にニーチェに触れ、よく分からずにファッションで哲学を嗜んできました。それは偉大な先人を踏みにじる行為ですが、哲学カッコいい、というようなありふれた群畜の一例として捨て置いて下さい。

アウトサイダー志向は、一種の論理の飛躍をします。
それは、現状では自分と他人の評価が一致していないことから、では他人の見る眼が腐っているんだと考えます。
アウトサイダーの人生は、ほとんど一般的な評価を受けずに、だけど死後再評価されたりすることが多いんです。っていうか、評価されずに局所的に受けたりするからアウトサイダーっていう定義なんでしょうから、前文は何だか馬から落馬みたいな説明ですね。
アウトサイダー志向の人は、こうして評価不一致を解決するロジックを手にします。今正しくなくても正しいものはいつか明かされる、今分かっていないのはあいつらなんだ、と。

残念ながら、ニーチェもヒトラーも、ビジュアル系もサブカルも、そういう風に見えなくもないんです。あからさまに通じている場合もありますし、完全な誤解もあります。
リアルな自分がいなくて藁をもすがる思いの青春の学徒たちに、そういう判断をしろというのも酷な話ですが。

真実パーセンテージ的に言うと、青春の学徒の中では、そういう距離のパトスも超人思想も自分を肯定する意味としては、100%の真実です。
では、他人が聞いたら、というと多分話半分ってことで50%でしょう。
間を取ったら75%、話を聞きつつも受け流す位でしょうか。

25%分の真実として、他人を踏み台としてある意味でもたれ掛かっているような人は貴族でもなければ超人でもない、ということでしょうか。人を呪わば穴二つ。それを言うのではなく思うだけなんですが、そこが25%の裁量です。

他人とは違うって言っても、ルサンチマンが設えたルールには従わないって言っても、それは主観と客観の自分の足りない部分を補う応急処置に過ぎません。
いずれは諦念と達観によってリアルな自分に落ち着く、か、そういう熱情を忘れてしまいます。
しかし、彼らに必要なのはその「いずれ」訪れる時までの時間です。
今、ここで解決することが求められていることはそんなに多くはありません。一年毎に変化があるような時と生活が密接にリンクしている青春の学徒たちには理解の外でしょうが、時が解決することもあり得ます。

生き急ぐ彼らに、時よ止まれと願う私の言葉は届かないんでしょうけど。

100%の真実なんてそうないよ、と。
まあ、落ち着けよ、と。


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