リリース:1979年
何故か何故かすべてが空しい
人間ぎらい むら雲の空 自分をもてあます
心もとないまま夏の一日
心ここにあらず夏の黄昏」
「心の奥底ゆらいでしびれて
未知のあこがれ焦がれては消える」
今週も当ブログを訪問いただき、ありがとうございます。
この曲は1979年リリースなので、当ブログの趣旨から若干はずれるとは思いますが、ご容赦ください。
また、歌い手である太田裕美さんのファンからは、なぜ松本隆さんじゃないのよ、という声も聞こえてきそうですが、作詞を来生えつこさん、作曲を浜田金吾さんに一新し、夏をイメージしたアルバム『Feelin' Summer』の名曲でもあるので、どうぞご理解ください。
この「河口にて」という曲の歌詞を理解するには、あるキーワードに注意を注ぐ必要があるかな、と思います。
そのキーワードとはズバリ「人間ぎらい」、なんて断言しちゃったりしてね…。
人間ぎらいの詳しい意味についてはネットで調べてもらえればある程度のことはわかるかなと思いますが、そのようなことを前提に、まずはサビの部分を3カ所見てみましょう。
1
うつ向きかげんの思い出をなぞると
そぞろ寂しいすきま風招いて何故か何故かすべてが空しい
人間ぎらい むら雲の空 自分をもてあます
2
おぼつかない夢の道草のような
そぞろ悲しいメランコリーおそって
とてもとても果てないむなしさ
人間ぎらい むら雲の空 自分をもてあます
そぞろ悲しいメランコリーおそって
とてもとても果てないむなしさ
人間ぎらい むら雲の空 自分をもてあます
3
おぼつかない夢の道草のような
そぞろ悲しいメランコリーおそって
いまはやはり愛が欲しいわ
優柔不断きまぐれすぎる 自分をもてあます
そぞろ悲しいメランコリーおそって
いまはやはり愛が欲しいわ
優柔不断きまぐれすぎる 自分をもてあます
歌詞の1番では、
「うたたねからさめた後のだるさ
まぶたこすり夢路たどる窓辺
もどかしい夏のゆるい風
なまぬるい空気じっとまつわりついてる心もとないまま夏の一日
心ここにあらず夏の黄昏」
と主人公の女性がおかれている風景や情景が綴られています。
かく言う私めも人間ぎらいの傾向があると思っているので察しがつくのですが、夏の一日が心もとないまま過ぎ去ってしまい、心ここにあらずの状態で黄昏時を迎えてしまっている状況というのは、尋常ではないものを感じますね。
何か、精神安定剤とかでも服用してたのかな、なんてうがった見方もあながち外れてなさそう。
私もね、時々人間関係がわずらわしくなったりするんだけど、自然と触れたり、草花を愛でたりしてる方が気楽だと感じる場合があるのよ。
そういう意味では、素敵な花たちをご紹介してくださっているgooブロガーの皆様にはホント感謝してます。
歌詞に話を戻しますが、1番ではこの後心象風景が以下のように語られサビの部分へとつながっています。
「心の奥底眺めて探して
愛という字がまのびしてかすむ」
「愛という字がまのびしてかすむ」や「そぞろ寂しいすきま風」、「むら雲の空」という言葉が、空しさの原因さえはっきりしないもどかしさを表現していると思います。
なぜはっきりしないのか、と問われても、「人間ぎらい」だから、それ以上の答えは導き出せないでしょう。でも意外と「人間ぎらい」の人は多くの事を考えすぎているはず…。
なぜはっきりしないのか、と問われても、「人間ぎらい」だから、それ以上の答えは導き出せないでしょう。でも意外と「人間ぎらい」の人は多くの事を考えすぎているはず…。
そして2番の歌詞では注意が河を下るカヌーへと向けられます。
「ゆるやかに河をすべるカヌー
蜂蜜色の肌を持つ青年が二人
しなやかな手つきであやつるオール
私に目もくれず流れの中へ」
「ゆるやかに河をすべるカヌー
蜂蜜色の肌を持つ青年が二人
しなやかな手つきであやつるオール
私に目もくれず流れの中へ」
私に目もくれなかったのは、カヌーを操る青年たちに問題があったのではなくて、この主人公の女性が「ヤッホー」とか「頑張ってねえ」とか声をかけた雰囲気がなく、ただ「私に気付いて」ほしかっただけで、何もアクションを起こさなかったからだろうと思います。
ところが、このカヌーの登場によって主人公の女性の心象風景にわずかながら変化が起きます。
「心の奥底ゆらいでしびれて
未知のあこがれ焦がれては消える」
それはカヌーを操る青年たちへの愛と言うよりも、未知のあこがれが少しは生じて、しびれているということでしょうか?
だけど、むら雲のように晴れていたと思っていた空が急に集まった雲に隠されるように安定はしてません。
それでも3のサビにあるように「いまはやはり愛が欲しい」と、かすかな人間関係回復への希望さえ感じとれるのです。
とまあ、ここまで色々と書いてきましたが、私の仮説もあやしいもので、そんな考え方もあるんだなあ、ぐらいに受け取っていただけたらと思います。
ただ、人間ぎらいについてはネット上でも書籍でも解説したものがありふれていますが、もっとフェアな視点で考えて欲しいなあ、とつくづく思いました。
「人間ぎらい」というカテゴリーに類型化して、診断とか治療とか、それでホントに問題解決になっているのかな?と疑問がわいちゃうんですよ。
「人間ぎらい」になるのには、そこに行き着くまでの対人関係だったり社会との関係性だったりが当然あるわけで、「人間ぎらい」の人を治療や研究の対象にするような態度で接するのではなく、会話なんていらないから配慮のある態度で接するのがいいはずだよなあ、なんて素人考えですが思っちゃいました。
最後になりましたが、この『河口にて』はボサノヴァ調の旋律で、太田裕美さんの歌唱力と相まって素敵な作品に仕上がっていますので、ぜひCDの方も聞いてみてください。
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