リリース:1981年
今回は、来生たかおさんが歌う『夢の途中』を取り上げたいと思います。
作曲は来生たかおさんですが、作詞は姉の来生えつこさんです。
そして、歌詞は一部異なりますが、薬師丸ひろ子さんが歌った映画『セーラー服と機関銃』の同名主題歌と同じ来生たかおさんの作曲によるものでもあります。
このあたりのいきさつについては、あまり深く立ち入ることはしませんが、主題歌の歌い手を替えられただけでなく、曲名まで替えさせられることになった来生たかおさんにしてみれば、『夢の途中』がヒットしていなかったら、さぞかし悔しい思いをしただろうな、ということは想像できます。
それではまず1番の歌詞から見ていきましょう。
「さよならは別れの言葉じゃなくて
再び逢うまでの遠い約束
現在(いま)を嘆いても
胸を痛めても
ほんの夢の途中
このまま何時間でも
抱いていたいけど
ただこのまま冷たい頬を
暖めたいけど」
いきなり「何々ではなくて何々」という連語から始まりますが、ここに主題が集中しているような気もします。
ただ、その連語の後段の部分だけを強調したいだけでもなく、前段のものではないということも強調しているようにも私には思えます。
そこで前段の「さよなら」について考えてみたいと思うのですが、「さよなら」は同じような言葉として、「さようなら」「さらば」「それでは」「そうしたら」「したら」「したっけ」(そんな言葉ある?)などと同じ接続詞です。
それが別れの言葉を意味するようになったのは、古くは『竹取物語』や『源氏物語』の別れの場面に「さらば」が登場するので、由来は決して新しくないのです。
このあたりのことは「さようなら」の意味を解説しているウェブサイトがたくさんありますので詳しくは踏み込みませんが、接続詞「さようなら」に続く言葉を言わずとも、相手の心を思いやって忖度する文化が日本語にはあるということです。
歌詞に目を戻して見ますと、「このまま何時間でも抱いていたいけど」「このまま冷たい頬を暖めたいけど」どうしたいのか書いていませんね。これも歌詞を味わう側に忖度して解釈する余地があるということでもあるのです。
この歌詞の主人公の男性は女性と別れなければならない事情があり、女性のことをあきらめる理由としてこの恋は「夢の途中」だからという、すっぱい葡萄とでもいいましょうか、合理化のような言い訳あるいは防衛機制といったものが働いているのだと私は思います。
続いて2番の歌詞を見てみましょう。
「都会は秒刻みのあわただしさ
恋もコンクリートの籠の中
君がめぐり逢う
恋に疲れたら
きっともどっておいで
愛した男たちを想い出に替えて
いつの日にか僕のことを
想い出すがいい
ただ心の片隅にでも
小さくメモして」
ここでは男性の密かな期待「きっともどってくる」しかも愛した男たちを想い出に替えて、という願望が語られます。
その時まで自分を忘れてほしくなくて心の片隅に小さくメモしておいてほしい。
恋に疲れるかどうかなんて女性の側の都合とは別に、男性の夢は続くのです。
夢の途中だから。
引き続き3番の歌詞を見てみましょう。
「スーツケース
いっぱいにつめこんだ
希望という名の重い荷物を
君は軽々と
きっと持ち上げて
笑顔見せるだろう
愛した男たちをかがやきに替えて
いつの日にか僕のことを
想い出すがいい
ただ心の片隅にでも
小さくメモして」
確かにスーツケースいっぱいにつめこんだら見た目で重たく感じるかもしれませんが、希望という名の荷物が女性にとって本当に重いかどうかなんていうこととは別に、ここでも「想い出すがいい」と男性の願望が語られます。
翻って見れば「再び逢うまでの遠い約束」というのも願望でしかありません。
誰だって別れはつらいから、その現実から目を背けたくなるし、「これはまだ夢の途中だから」と理由をつけて否認したくもなります。防衛機制を備えた人間ですから。
ですから、別れの情景を文学的な美として語り継いできた歴史もあり、この『夢の途中』もそういった意味ではすぐれた作品と言えるでしょう。
「さようなら」は接続詞、その言葉に続く相手に対する思いやりの心を私は大切にしたいと思います。
今回も最後までお読みくださりありがとうございました。
次回はいつ投稿できるか体調との相談になりますが、読者の皆様にも健康にはご留意くださいね。したっけ(本当にこんな言葉あるの?)。
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