ある日のmacchan

ワイン&グルメ、旅の記録

義仲館

2018年08月16日 | 開田高原
「寝覚の床」を出て、国道19号線「木曽大橋」を左折すると目的地の開田高原へ行けますが、「義仲館」に寄るためまっすぐ行きました。

ところが上松トンネル前で通行止めになっていて、旧道に誘導されました。

おかげで上松町の中心部を通ることになりましたが、あちらこちらの商店には「祝 優勝 御嶽海!」

今年7月の名古屋場所で初優勝した御嶽海関は上松町の出身でした。上松町のヒーロー!

さて、国道19号線に戻り、そこから先はナビに従って行きました。最寄り駅は中央本線「宮ノ越」

駐車場は資料館の向かいにありますが、雨が強くびしょ濡れになってしまいました。


木曽義仲と巴御前の像


資料館に入るとちょうど義仲と日義村(現木曽町日義)に関するビデオが上映されていました。かなり前のものでしたが、義仲とこの町について分かりやすく解説されていました。

一昨日(8月14日)は「木曽義仲旗揚げまつり」だったようです。

館内では絵やジオラマを通して義仲の生涯が学べます。倶利伽羅峠の戦いの絵図はなかなかのものです。

(木曽義仲の生涯 パンフレットより)
木曽義仲公は久寿元年(1154)源義賢(よしたか)の二男として武蔵国大蔵館で生まれ、幼名を駒王丸と呼ばれた。久寿2年(1155)伯父義朝の長子義平に父義賢が攻め滅ぼされた時2歳であった。駒王丸は畠山重能と斉藤実盛の温情により信濃の国、木曽に逃れ、木曽中三権守 中原兼遠の養育を受けた。仁安元年(1166)元服木曽次郎義仲と名乗った。治承4年後白河法皇第二皇子以仁王の平家追討の令旨を奉じ旗揚げをし、寿永2年(1183)北陸に進撃した。義仲は倶利伽羅峠で牛の角に松明をつけて平家の大軍に追い込み撃滅させたことは特に有名である。この年入京した義仲は征夷大将軍に任ぜられたが、元暦元年(1184)後白河法皇の策略によって鎌倉軍に敗れ、粟津ヶ原で討死した。義仲31歳 の短い生涯であった。

資料館付近には徳音寺や巴淵など義仲ゆかりの史跡がありハイキングも楽しめるようですが、この雨では散策も出来ないので開田高原の宿に向かいました。

資料館に来る時通行止めだった国道19号線の区間は通れましたが、パトカーの先導を受けたトレーラーに積載された大型車の事故車とすれ違いました。前が大きくつぶれていました。上松第2トンネル付近で事故があったようで、トンネル区間が通行止めになっていたようです。

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