前にも書いたがカメラは旅の友。そしてレンズ交換式35mmカメラは見たものを見たままに手軽に記録できた。
チョロスナこそ35mmカメラの本来の使途。 より小型軽量で高描写となったデジカメ時代は羨ましい。
昔のチョロスナ写真プリントをデジカメでチョロ撮してみると・・・
[十和田・奥入瀬]
昭和40年代前半、寝台ではない普通座席の夜行列車での旅。婦人像の彫刻がある湖畔で。 (35mmカメラ(以下同)、105mmレンズ)
約四半世紀後(平成5年頃)の十和田湖。閑静な東北の湖は約25年前と殆ど変わらない。 (105mm)
奥入瀬は、夏ゆっくり歩いて下るのに最適。疲れたらいつでも路線バスに乗れる。 (28mm)
[山陰網代港]
兵庫県・浜坂から鳥取県・岩見まで浦富海岸の遊歩道を歩いて辿り着いた網代港(昭和46年、20mm)。超ワイドレンズは
目からの距離感で見る人間と、平面対平面の距離で描写する写真との視界の相違が顕著になり、旅行にはお荷物だった。
[淡路由良]
洲本から、渦潮で有名な鳴門海峡(福良港)への途中にある由良港。 (28mm)
昭和46年頃の撮影(47年以降は車での旅が主となる) (28mm)
本州の明石へは岩屋から、神戸、大阪、堺へは洲本から連絡船が出ていた。由良からなら対岸の和歌山か、
四国徳島まで行くのか? 明石、鳴門海峡が橋で"陸続き"となる前の時代。 (105mm)
[下北半島]
菜の花畑。国道279号線を北上していると左側に突如菜の花畑が現れた(平成5年頃)。 "むつ横浜"あたりか(不詳)。 (50mm)
仏が浦 (100~300mm)
ニホンカモシカ。遠目にも人を見れば逃げる。逃げなかったこれは老いて体力が衰えていたのか? (105mm。フィルムスキャン)
恐山 宇曽利湖 (28mm)
関根浜への道 ・・・・・・ 道から眺める風景。 (50mm)
[安芸の宮島]
(28mm)
(28mm)
[川面]
錦帯橋から見下ろした錦川。こんな浅い川で鮎釣り出来る? (28mm)
[函館夜景]
展望台からの撮影。行った人なら誰もが撮っている写真。夜景は何処も綺麗だが、これまで見た中では神戸・六甲が最高。(28mm)
[鳴門の渦]
滿潮と引潮の境界で生じる渦。昔想像した海底に吸い込まれるような渦とは違って迫力は今一。 (28mm。フィルムスキャン)
[四国・大歩危小歩危]
「見し人の 松の千歳に見ましかば・・・」、高知へ向かう車中、偶々土佐日記に関する本を読んでいたら車窓から見えてきた
景観は素晴らしく、生涯でも最も"贅沢な旅"の一つであった。昔は難所であったであろう。正岡子規から痛烈に批判された
冒頭の歌も、ただ"異国の地"で幼児を失った親の心情として素直に受け取れた。写真は後日再訪した際の撮影。遊覧船も
あったが水量豊富で流れも速く、若しローレライが現れたら難破は不可避! (28mm。フィルムスキャン)
[足摺岬] (同上)
[龍串]
足摺岬の西方。巨大な生物の背骨のような岩が幾筋も沖に向かう。高い位置から撮りたいところ。 (28mm。フィルムスキャン)
[父島の沈船]
昭和50年代、先の大戦中に撃沈された貨物船の残骸が残っていた。 (105mm)
[那覇市街]
昭和50年代、布で覆われた信号機は車の左側通行に備えたものであろう。
[神戸] (これは旅行写真ではなく、日常生活でのチョロスナ )
神戸港。憧れの都市。初めて一人で暮らした街。昭和40年代後半'(’70年代前半)は、広い道路に花はあっても街路樹は少な
かったが、直ぐ背後に摩耶山が迫るので緑が少なくは感じなかった。プリントは調子悪いが、思い出の最初の頃の1コマ。
(サンズーム85~210mmF4.8)。
篭池通りの住居の庭に実ったグミ。しかし良い住環境では全くない。数軒の2Kバラック住宅に単身者二人を入居させている
のだが、入った家は同僚が最も汚い家だろうと心配していた。部屋に入ると、2~3匹の掌大の蜘蛛が飛び跳ねて隙間に逃げ
込む。クレゾール石鹸液で畳や押入れを拭いたが、石鹸液を何回換えても、拭く度に雑巾が地面を擦るように汚れた。最初
の晩は寝具を敷く気になれず、押入れに敷くための包装紙を敷いてその上に寝具を延べた。そんな住居に耐えられたのは若
かったから。そして市街は洗練され、人々は大らかだったから。
1年後に神戸市中央のトアロードを上りきったあたり、摩耶山登山口にも近い寮に転居出来たのは幸運だった。
神戸の人:喫茶店のママさん。未だ少年っぽいグループが、店内で"ザ・タイガース"を真似てギターを鳴らし唄うのを許し、呆
れて吹きだす客を尻目に、励ますように笑って見て(聴いて)いた肝っ玉母さん、いや"姐さん"。こちらが見せた写真の気に入っ
たものに、その裏面に好きな唄の歌詞をさらさらと書き込んでくれた。その後、ダンスホールのような広い床面積の洋酒酒場
の経営に転身して暫くは繁盛したようだが、阪神淡路大震災の後は音信不通となった。
この歌詞が書かれた写真は、冒頭の十和田湖畔の写真。
[「チョロスナ日本」(AD.2019年4月に始め、2020年12月まで写真追加)終了]
チョロスナこそ35mmカメラの本来の使途。 より小型軽量で高描写となったデジカメ時代は羨ましい。
昔のチョロスナ写真プリントをデジカメでチョロ撮してみると・・・
[十和田・奥入瀬]
昭和40年代前半、寝台ではない普通座席の夜行列車での旅。婦人像の彫刻がある湖畔で。 (35mmカメラ(以下同)、105mmレンズ)
約四半世紀後(平成5年頃)の十和田湖。閑静な東北の湖は約25年前と殆ど変わらない。 (105mm)
奥入瀬は、夏ゆっくり歩いて下るのに最適。疲れたらいつでも路線バスに乗れる。 (28mm)
[山陰網代港]
兵庫県・浜坂から鳥取県・岩見まで浦富海岸の遊歩道を歩いて辿り着いた網代港(昭和46年、20mm)。超ワイドレンズは
目からの距離感で見る人間と、平面対平面の距離で描写する写真との視界の相違が顕著になり、旅行にはお荷物だった。
[淡路由良]
洲本から、渦潮で有名な鳴門海峡(福良港)への途中にある由良港。 (28mm)
昭和46年頃の撮影(47年以降は車での旅が主となる) (28mm)
本州の明石へは岩屋から、神戸、大阪、堺へは洲本から連絡船が出ていた。由良からなら対岸の和歌山か、
四国徳島まで行くのか? 明石、鳴門海峡が橋で"陸続き"となる前の時代。 (105mm)
[下北半島]
菜の花畑。国道279号線を北上していると左側に突如菜の花畑が現れた(平成5年頃)。 "むつ横浜"あたりか(不詳)。 (50mm)
仏が浦 (100~300mm)
ニホンカモシカ。遠目にも人を見れば逃げる。逃げなかったこれは老いて体力が衰えていたのか? (105mm。フィルムスキャン)
恐山 宇曽利湖 (28mm)
関根浜への道 ・・・・・・ 道から眺める風景。 (50mm)
[安芸の宮島]
(28mm)
(28mm)
[川面]
錦帯橋から見下ろした錦川。こんな浅い川で鮎釣り出来る? (28mm)
[函館夜景]
展望台からの撮影。行った人なら誰もが撮っている写真。夜景は何処も綺麗だが、これまで見た中では神戸・六甲が最高。(28mm)
[鳴門の渦]
滿潮と引潮の境界で生じる渦。昔想像した海底に吸い込まれるような渦とは違って迫力は今一。 (28mm。フィルムスキャン)
[四国・大歩危小歩危]
「見し人の 松の千歳に見ましかば・・・」、高知へ向かう車中、偶々土佐日記に関する本を読んでいたら車窓から見えてきた
景観は素晴らしく、生涯でも最も"贅沢な旅"の一つであった。昔は難所であったであろう。正岡子規から痛烈に批判された
冒頭の歌も、ただ"異国の地"で幼児を失った親の心情として素直に受け取れた。写真は後日再訪した際の撮影。遊覧船も
あったが水量豊富で流れも速く、若しローレライが現れたら難破は不可避! (28mm。フィルムスキャン)
[足摺岬] (同上)
[龍串]
足摺岬の西方。巨大な生物の背骨のような岩が幾筋も沖に向かう。高い位置から撮りたいところ。 (28mm。フィルムスキャン)
[父島の沈船]
昭和50年代、先の大戦中に撃沈された貨物船の残骸が残っていた。 (105mm)
[那覇市街]
昭和50年代、布で覆われた信号機は車の左側通行に備えたものであろう。
[神戸] (これは旅行写真ではなく、日常生活でのチョロスナ )
神戸港。憧れの都市。初めて一人で暮らした街。昭和40年代後半'(’70年代前半)は、広い道路に花はあっても街路樹は少な
かったが、直ぐ背後に摩耶山が迫るので緑が少なくは感じなかった。プリントは調子悪いが、思い出の最初の頃の1コマ。
(サンズーム85~210mmF4.8)。
篭池通りの住居の庭に実ったグミ。しかし良い住環境では全くない。数軒の2Kバラック住宅に単身者二人を入居させている
のだが、入った家は同僚が最も汚い家だろうと心配していた。部屋に入ると、2~3匹の掌大の蜘蛛が飛び跳ねて隙間に逃げ
込む。クレゾール石鹸液で畳や押入れを拭いたが、石鹸液を何回換えても、拭く度に雑巾が地面を擦るように汚れた。最初
の晩は寝具を敷く気になれず、押入れに敷くための包装紙を敷いてその上に寝具を延べた。そんな住居に耐えられたのは若
かったから。そして市街は洗練され、人々は大らかだったから。
1年後に神戸市中央のトアロードを上りきったあたり、摩耶山登山口にも近い寮に転居出来たのは幸運だった。
神戸の人:喫茶店のママさん。未だ少年っぽいグループが、店内で"ザ・タイガース"を真似てギターを鳴らし唄うのを許し、呆
れて吹きだす客を尻目に、励ますように笑って見て(聴いて)いた肝っ玉母さん、いや"姐さん"。こちらが見せた写真の気に入っ
たものに、その裏面に好きな唄の歌詞をさらさらと書き込んでくれた。その後、ダンスホールのような広い床面積の洋酒酒場
の経営に転身して暫くは繁盛したようだが、阪神淡路大震災の後は音信不通となった。
この歌詞が書かれた写真は、冒頭の十和田湖畔の写真。
[「チョロスナ日本」(AD.2019年4月に始め、2020年12月まで写真追加)終了]