Malandro’s website

AD'07年9月に廃止になったgooのホームページがWeblogとして復活。昔と同様、HPのつもりで利用してみました。

チョロスナ・ニッポン

2020-12-13 21:50:32 | 旅行
前にも書いたがカメラは旅の友。そしてレンズ交換式35mmカメラは見たものを見たままに手軽に記録できた。
チョロスナこそ35mmカメラの本来の使途。  より小型軽量で高描写となったデジカメ時代は羨ましい。

昔のチョロスナ写真プリントをデジカメでチョロ撮してみると・・・
[十和田・奥入瀬]

昭和40年代前半、寝台ではない普通座席の夜行列車での旅。婦人像の彫刻がある湖畔で。 (35mmカメラ(以下同)、105mmレンズ)


約四半世紀後(平成5年頃)の十和田湖。閑静な東北の湖は約25年前と殆ど変わらない。    (105mm)


奥入瀬は、夏ゆっくり歩いて下るのに最適。疲れたらいつでも路線バスに乗れる。   (28mm)

[山陰網代港]

兵庫県・浜坂から鳥取県・岩見まで浦富海岸の遊歩道を歩いて辿り着いた網代港(昭和46年、20mm)。超ワイドレンズは
目からの距離感で見る人間と、平面対平面の距離で描写する写真との視界の相違が顕著になり、旅行にはお荷物だった。

[淡路由良]

洲本から、渦潮で有名な鳴門海峡(福良港)への途中にある由良港。  (28mm)


昭和46年頃の撮影(47年以降は車での旅が主となる)    (28mm)


本州の明石へは岩屋から、神戸、大阪、堺へは洲本から連絡船が出ていた。由良からなら対岸の和歌山か、
四国徳島まで行くのか? 明石、鳴門海峡が橋で"陸続き"となる前の時代。    (105mm)

[下北半島]

菜の花畑。国道279号線を北上していると左側に突如菜の花畑が現れた(平成5年頃)。 "むつ横浜"あたりか(不詳)。  (50mm)


仏が浦            (100~300mm)


ニホンカモシカ。遠目にも人を見れば逃げる。逃げなかったこれは老いて体力が衰えていたのか?  (105mm。フィルムスキャン)


恐山 宇曽利湖        (28mm)


関根浜への道 ・・・・・・ 道から眺める風景。 (50mm)

[安芸の宮島]   

                                        (28mm)

                                        (28mm)
[川面]

 錦帯橋から見下ろした錦川。こんな浅い川で鮎釣り出来る?  (28mm)
[函館夜景]

 展望台からの撮影。行った人なら誰もが撮っている写真。夜景は何処も綺麗だが、これまで見た中では神戸・六甲が最高。(28mm)
[鳴門の渦]

滿潮と引潮の境界で生じる渦。昔想像した海底に吸い込まれるような渦とは違って迫力は今一。 (28mm。フィルムスキャン)
[四国・大歩危小歩危]

「見し人の 松の千歳に見ましかば・・・」、高知へ向かう車中、偶々土佐日記に関する本を読んでいたら車窓から見えてきた
景観は素晴らしく、生涯でも最も"贅沢な旅"の一つであった。昔は難所であったであろう。正岡子規から痛烈に批判された
冒頭の歌も、ただ"異国の地"で幼児を失った親の心情として素直に受け取れた。写真は後日再訪した際の撮影。遊覧船も
あったが水量豊富で流れも速く、若しローレライが現れたら難破は不可避!    (28mm。フィルムスキャン)
[足摺岬]                                          (同上)


[龍串]

足摺岬の西方。巨大な生物の背骨のような岩が幾筋も沖に向かう。高い位置から撮りたいところ。 (28mm。フィルムスキャン)
[父島の沈船]

昭和50年代、先の大戦中に撃沈された貨物船の残骸が残っていた。    (105mm)
[那覇市街]

昭和50年代、布で覆われた信号機は車の左側通行に備えたものであろう。

[神戸] (これは旅行写真ではなく、日常生活でのチョロスナ )

神戸港。憧れの都市。初めて一人で暮らした街。昭和40年代後半'(’70年代前半)は、広い道路に花はあっても街路樹は少な
かったが、直ぐ背後に摩耶山が迫るので緑が少なくは感じなかった。プリントは調子悪いが、思い出の最初の頃の1コマ。
                                      (サンズーム85~210mmF4.8)。

篭池通りの住居の庭に実ったグミ。しかし良い住環境では全くない。数軒の2Kバラック住宅に単身者二人を入居させている
のだが、入った家は同僚が最も汚い家だろうと心配していた。部屋に入ると、2~3匹の掌大の蜘蛛が飛び跳ねて隙間に逃げ
込む。クレゾール石鹸液で畳や押入れを拭いたが、石鹸液を何回換えても、拭く度に雑巾が地面を擦るように汚れた。最初
の晩は寝具を敷く気になれず、押入れに敷くための包装紙を敷いてその上に寝具を延べた。そんな住居に耐えられたのは若
かったから。そして市街は洗練され、人々は大らかだったから。
1年後に神戸市中央のトアロードを上りきったあたり、摩耶山登山口にも近い寮に転居出来たのは幸運だった。


神戸の人:喫茶店のママさん。未だ少年っぽいグループが、店内で"ザ・タイガース"を真似てギターを鳴らし唄うのを許し、呆
れて吹きだす客を尻目に、励ますように笑って見て(聴いて)いた肝っ玉母さん、いや"姐さん"。こちらが見せた写真の気に入っ
たものに、その裏面に好きな唄の歌詞をさらさらと書き込んでくれた。その後、ダンスホールのような広い床面積の洋酒酒場
の経営に転身して暫くは繁盛したようだが、阪神淡路大震災の後は音信不通となった。

この歌詞が書かれた写真は、冒頭の十和田湖畔の写真。
[「チョロスナ日本」(AD.2019年4月に始め、2020年12月まで写真追加)終了]
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Jardin Japones - Buenos Aires - Argentina

2020-08-17 23:51:55 | 旅行













偶然見つけた日本庭園。日本の大使館が手入れしているのであろう、入場無料で、思いのほか多くの市民が静かに散策していた。
アルゼンチンらしく、ゴミなども全く落ちていない。
昭和50年代末、丁度日本人移民75周年に当たる年だったのだが、ここで小さな"事件"が現地の日本字紙で報じられた。日系人協会が
記念行事の名誉総裁を大統領に依頼し、大統領は快く応じたのだが、日本の大使館が「日系人の団体は日系人協会ではなく日拓であり、
大統領は間違った選択をした」との広告を現地主要紙に掲載したとのこと。会員数でも日系人協会は数十万人、日拓は数千人規模だっ
たか、大使館の主張は疑問なのだが数の問題ではない。そう主張したいなら、直接政府関係者に伝えるべきであり、突然新聞で批判
するのは大統領に対してもアルゼンチン国民に対しても失礼と誰しも感じよう。日本では読売新聞が紙面を大きく割いて報道し、外
務省は苦慮しているとも聞いた。大使館は面と向かって政府に伝えるよりも穏便と考えたのかもしれないが、日本の外交センスに不
審を感じる一例であった。ただ、少なくともこの庭園に来ていた人々はそんなことには無関心で知りもしないようであったのは救い。
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Seattle&Panama (写真の無い都市)

2018-06-03 21:23:06 | 旅行
米国西岸ワシントン州の州都シアトルは、初めて訪れた米大陸の都市であり、近代的なビルが立ち並ぶ素晴らしい景観の洗練された
都市との印象であった。次いで訪れたパナマ市も、美しいリゾートに近代的ビルが林立する、やはり素晴らしい景観に目をみはった。
両市とも、今度また必ず自由な旅で訪れ、街を歩きたいと思ったが、その機会は遂になく、そして両市とも最初に感動した景色の写真
も無い。
「風景を写す必要は無い。絵葉書を買う方が良い」とはよく言われ、その通りなのだが、感動した風景を自分で切取った写真がなけれ
ば、その景色を思い出すことは難しいものなのか。

シアトル港の夕景

シアトルの唯一の写真。多分離陸した機内から撮影したもの。 (NikomatFTn 28mm)

中南米に出張の際、関係者や職場の配慮と好意でシアトルのボーイング社工場を見学できたのは幸運であった。しかし、ビジネス
スーツに旅行鞄の身なりでの訪問、カメラなどをぶら下げて行くことは当然ながら慎んだ。熱帯のパナマも同じこと、”勤務時間中”
にカメラなどでの周囲の撮影などは憚られた。
パナマで最も撮りたかったのは、美しい景観よりも、ラッシュ時の広い道路で、信号待ちの米国製大型乗用車の群れの中を、無数
の黒い肌の少年たちが走り回って運転席の硝子を拭いて駄賃を求めたり新聞を売ったりしている様子であったが、これも後日、い
つの日にか再訪して撮ろうとの気であった。
人生に繰返しは無く、現在の刻一刻は二度と来ないとはその後20年、30年かけて気付いて行くが、当時は漠然とながらも可能と信
じていた(分かっていたとしても撮影などしなかったが)。

なお、渡米は一日が36時間、昼間が24時間あるようなもの。そしてシアトルからパナマへの夜行便は、米国国内空港の数カ所に離
発着する国内便での移動で、疲労は最高潮に達していた。それでも、パナマ駐在の日本人の「折角来たのだから、是非見学して行
きなさい」と強制的ともいえる調子でのパナマ運河見学への誘いは立派な見識であったと信じる(そうして我々は育てられた)。

パナマ運河太平洋側の”頂上” (拡幅工事前)

1隻通すのに琵琶湖の水量と同量の水を要すると聞いたが、そんな水源があるのか不思議(現在は水を戻している)。 (F、105mm)

昭和50年代前半、丁度船を曳航する電気機関車の更新時期で、マラリヤ特効薬を日本人が発明した故にパナマ運河が完成したと
の理由で日本のメーカーにのみ発注するとのことであった(川崎重工が受注した筈)。パナマ運河建設は、当然ながら米国の貢献が
最も大である。
マラリヤ云々は単に屁理屈で、米国の覇権への反発があろうが、米国でなく日本というのは、日米が対抗している訳ではなく、現地
で活躍する日本企業の技術力や誠意が評価されたのであろうと思われた。その後の運河拡幅や改修にも日本が主力となっている
ようである。
なお、運河見学に誘ってくれた日本企業は建設会社で、その後日本は急速な円高で外貨準備高も石油購買力も増大し、そして突入
したバブル景気と共に同社も更に高度成長したようであったが、バブル崩壊とともに倒産したことをニュースで知った。企業経営につ
いては全くの門外漢だが、当時の広い視野を持った誠実な現地の代表者や、責任感旺盛な社員たちは、倒産の原因にはもとより無
関係で、なんとも気の毒と感じるものである。
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サイパンの陽 (Saipan Island ー Commonwealth of the Northern Mariana Islands)

2017-05-07 16:20:03 | 旅行

サイパンは、第一次世界大戦後に国連(国際連盟)が日本に統治委任した島で、日本はサトーキビ生産や簡便鉄道の整備など、
同島の開発にも寄与しようとした。それ故、日本の一般市民も暮らしていたために、国民巻き添えの最初の玉砕島になったのだ
ろうか。

マッピー山頂から見た西岸(対岸はテニアン島)


マッピー山頂から見たススペ地区(中央はススペ湖)


その右側のガラパン地区(左端側)と軍艦島


反対側(北東部)を望む


黒木大隊の15糎砲

空襲にも艦砲射撃にも全く応射せずに耐え忍び、上陸した敵兵に全ての榴弾を浴びせて殲滅し、その後の集中砲火を待つまでも
なく自決した将兵もいたという。この戦法が硫黄島に引き継がれたのか。負け覚悟の日本兵も悲惨なら、攻める敵兵もまた悲惨。

黒木大隊顕彰の碑


バンザイクリフ

自殺の場所としては、山中にあるスーイサイド・クリフも知られているが、日本の一般市民が大勢飛び降りた
この海に面した断崖がバンザイクリフとして最も知られている。

日本兵が"南洋桜"と呼んだ"火炎樹"の花


楡と火炎樹の並木


木陰で寛ぐ家族連れ(ママ友たち?)


海岸で遊ぶ子供たち


同島で最も湧き水がある洞窟の入り口のマリア像


以上、平成6年(AD.1994年)に玉砕50周年慰霊ツアーに合わせて行ったときの写真。周辺海域を封鎖されれば、水や食料の
自給さえおぼつかないこんな小さな島に多くの兵士を送り込んで、日本はどういう結果を想定したのか?(マリアナ海戦での
殆ど全空母と艦載機の喪失は大本営も政治中枢も本当に知らなかったのか)
後智慧批判をする気はないが、しかし戦争はしないとの憲法を持つ日本、世界の安全にも貢献するべきは当然であるが、ど
う取り組むのか。憲法の制約があることは諸外国も知っている。多分世界が羨む平和憲法のもと、最善の道を探って欲しい
ものである。(FE2、28mmF3.5、135mmF2.8、KX)

戦前のサイパンの製糖工場(ネット画像より)


戦前のサイパンの鉄道(ネット画像より)。戦後はもうない。
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Isla de Pascua - Chile

2015-12-09 21:49:14 | 旅行
英名イースター島。海を見下ろす草原にモアイと呼ばれる石を彫った巨人の半身像、という写真は多分殆どの日本人が目にした
ことがあろう。チリの首都・サンチャゴの西方約3,000km、ハワイからなら南南東約7~8,000kmくらいか。モアイは外敵の
侵入を防ぐ目的で巨人が住む島を装ったものであろう程度の想像で、特に関心はなかったが、機会があったので立ち寄ってみた。
[砂に描いたモアイ像]


ホテルに着くと地元の旅行会社が島内ツアーの勧誘に来る。乗り合わせた人は、ニュージーランドのご婦人にフランスとアル
ゼンチンからの娘さんの計5人(車もワゴン車)。ガイドの説明は西語と英語。観光客同士は自分は母国語で話し、相手の言語を
聞くという、国際間のペンフレンドやメル友間交信の(深い内容と正しい表現を学ぶための)理想的なパターン。
それでも欧米言語圏の人々は、グリムの法則など教わらなくとも自然に聞き知っているのであろう、お互いに何割かは通じて
いるようである。翻って語彙力が極端に乏しく、現地に関する下調べもせずに来た自分などは何を聞いてもチンプンカンプン。
しかし彼女らは陽気で屈託ない。気に入った海岸があれば島内巡りの予定などお構いなし、バスタオルに身を包んで着替え、
海に飛び込み、砂にモアイ像を作って遊ぶ。貴方も海に入ったらと勧めるが、幾らマランドロとはいえ素っ裸で参加するほど
恥知らずではない。

丁度このとき、日本の旅行社の添乗員に率いられた日本人観光客数人のグループが島内を回っていた。そして何処で我々を見た
のか、ホテルで「あなた本当に幸せそうですね」と言われたがとんでもない。外国語が聞け、話せなければ、乗合での旅の楽し
みなどは半減、苦痛は倍増。海外旅行を楽しみたければ、ネット普及黎明期の数多い名メルマガの一つの題名にあった通り、や
はり"決め手はボキャブラリー"。
[イースター島のモアイ]
(Nikomat FTN 28mmF3.5 KX。プリントからのスキャン)
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アッシー君

2015-06-22 20:16:29 | 旅行
日本の経済協力で海外の開発途上国に魚の冷凍工場などが建設されたのは領海内での漁業操業権との引替えか、互恵関係と
しては良い事業であったと信じる。
しかし、当時冷凍工場で雇う工員は女性ばかり。男は職にありつけず、自転車で働く妻を送り迎えするアッシー君ばかり。
通勤時間帯の冷凍工場の近くは渋谷、新宿の人混みのような二人乗り自転車の洪水で、壮観であった。

写真はガイアナ郊外で車のリアウインドウ越しに撮った1枚。 (F、105mm、KX)
彼の地も、その後は工場の機器類メンテや漁業操業等の現地化も進み、多くの男たちも広く職を得ているであろうと想像している。

一方では、熱帯雨林に長期滞在して港や冷凍工場を建設した技術者たちや、現地乗員と共に沿岸漁業に従事し、言葉も不自由な
ままに"万国共通の手先信号"で沿岸底引網漁から操船技術まで教えた漁師たち、この、我が国の高度成長期に厳しい環境の外
地で活躍した日本人たちはその後どうしていることか、その活躍に見合った平和な余生を送っているか気になるところ。
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Göethe? ・・・ Frankfurt am Main-Deutschland

2014-11-14 21:08:30 | 旅行
“ギョエテとは 俺のことかとゲーテ問い”
川柳にもなっているのに、昭和30年代後半に購入したドイツ語入門書の発音に従えばどうしても”ギョエテ”になってしまう。
謎のままであった。
フランクフルトに立ち寄った機会に、街で出会った青年とゲーテハウスの監視員とに紙に書いて読みを訊ねると、二人とも
”ゲーテ”。 念のため、”ギョエテ”ではないかと尋ねてみても笑って”ゲーテ”。もう間違いないとやっと得心。
街の景観はロンドンやウイーン、ハンブルク程には感動しなかったが、幼いのに懸命にボートを漕ぐ少女(左側)の知的で意
志の強そうな顔と逞しそうな腕をドイツ的と感じたのは誤った先入観か。 (Nikon F、105mm、KX)


1米ドル300円の時代、1英ポンド900円、1独マルクは90円ほどだったか、欧米通貨に対して円は安かったが、レストランでの食
事代は日本より寧ろ安く感じた(かって日本の飲食費は(大衆店を除き)高過ぎだった)。
ゲーテハウスの監視員に僅か1マルク硬貨を気持ばかりのチップとして渡すと、意外なほどに喜び、ゲーテの椅子に座れ、写真
を撮ってやると言ってきかない。暗い室内でF3.5のレンズでは絶対無理と思っていたが案外撮れていた。 (F、28mm、KX)
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New York ー USA

2014-09-08 10:52:28 | 旅行

多くの日本人が、海外旅行の途次には立ち寄りたくなる都市の筆頭は多分NYであろう。初めて行ったのはAD'78年(昭和53年)。
治安が最も悪い頃で、地下鉄には乗るな、セントラルパークも一人歩きするなと言われていた。しかし何のことはない、そのセン
トラルパークで幼い少女が二人だけで遊び続けていた。やはりこの地球上の代表的オアシス。
2001年の悲惨なテロアタックでツインタワーはもう無い。下2枚の撮影場所、エンパイアステートビルでなかったのはせめてもの
救いか。                                             (Nikon F、105mmF2.5、KX、 3コマ共 )




("F"のシャッター速度"T"(タイム露出)は夜景に便利だった)
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Cataratas do Iguaçu - Brasil

2014-07-05 05:36:57 | 旅行

世界三大瀑布の一つ、イグアスの滝(カタラタス・ド・イグアス)。
写真はネット上に溢れている。これは普通の観光客が遊歩道から見るままの景色。
滝は、イグアス川が右岸(ブラジル)の近くから両岸の下流に向けて徐々に崩落して行く非常に幅の広い滝で、落差
約80mを2段に落下する(左岸はアルゼンチン)。崩落の開始点は80mを一気に落下し、悪魔の喉と呼ばれている。
上の写真はブラジル側遊歩道の入り口近く。          (Nikomat FTN、Nikon F、28mm、50mm、105mm、KX)


(ブラジル側から)


(ブラジル側)


(アルゼンチン側)


崩落開始点の悪魔の喉上面(アルゼンチン側より)

[フォズ・ド・イグアス]
現地日本人学校の運動会での人間ピラミッドに、「世界最大の滝、フォズドイグアス」というのがあった。
そこで、滝をフォズと言うのだろうと思ったが、フォズ(foz)を辞書(葡和)で調べると「河口」としか載って
いない。滝を和葡で調べるとcachoeira、queda d’aguaのみでfozはない(実はCatarataもない)。
ブラジルの国語辞典でfozを調べると”ternimo do rio(河の終点)”となっている。世界地図帳で見る滝
のある辺りには◎印にfoz do Iguaçuと書かれている。
現地に行ってホテルに置いてある詳細な地図を見ると直ぐに納得する。滝は"cataratas do iguaçu"と
呼ぶ。その下流でイグアス川はパラナ川に合流する。そのイグアス川の終着点にある町の名が"foz
do iguaçu(イグアス(川)の終点)"であった(catarataは葡和辞典に"滝"と載っている)。
日本人学校がフォズの意味を取り違えていたからといって恥じる必要など全く無い。現地(南部ポルト
アレグレ市)で話しかけてきた親子連れの男の子にフォズドイグアスを知っているか尋ねると、見てない
が大きな滝のことだろうと言っていた(親は男児に正しい説明をしていた)。
誤用でもっと面白い言葉に”サウージ”がある。機内でくしゃみをすると、他の乗客が笑いながら”サウー
ジ”という。辞書を引くと”健康”となっているので、「ご健康に!」と言っているのであろうと直ぐ察しが
ついたが、ある駐在日本人がクシャミのことをサウージと言うんだろうと言ったのは可笑しかった。しかし
ブラジルの子供も、クシャミが止まらない時に”エストウ・コン・サウージ”(英語に直訳すれば” I’m with
サウージ”)と言うことがよくあるとのことである。
我々大人の日本人だって、日本語を誤用している例など多分無数にあろう。疑問を抱いたときに調べる
より仕方ない。
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São Luis ― Maranhão ― Brasil

2014-05-03 20:59:18 | 旅行

ブラジル東北部は、貧しく治安も悪いと言われている。その北端に位置する中都市サンルイス。 (Nikomat FTN、 28mm)


石造りの、移民時代そのままかと思われる町は不思議な郷愁を誘う。 (105mm)

治安が悪いと言われるが、町では露店で少女が一人で果物を売っていた。 (28mm)

AD2,010年代の現在はこんな船はもうない?(今もあると信じる) (105mm)

(馬車も、今もありそう) (105mm)
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Cabo Frio―Rio de Janeiro―Brasil

2014-03-03 12:26:37 | 旅行


リオ市中心部から真東、約120kmにあるカーボフリオ(寒い岬)の砂は本当に白い。
砂丘というよりも塩田、それも精製された食卓塩の大塩田かと見紛うばかり。


[カーボフリオへの道]
途中は殆ど長閑な牧場。ここはほぼ中間点。偶々立ち寄った牧場の主はニテロイ市内に住
む元空軍の退役軍人。偶々在宅していたので中に入れた。





(Nikon F、105mmF2.5、KX (4コマ共))
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Asuncion-Paraguay

2013-11-03 13:13:08 | 旅行




南米で唯一、ドイツ系白人が政界を占めるためか、比較的最近までナチ残党が隠遁していたとの報道があった。しかし言語は
周辺諸国と同様の西語。
原住民は勇猛果敢とされたグァラニー族だか、かって周辺3カ国から攻められて国土は大幅に減少した。
スペインが支配した南米諸国の中では白人と原住民が最も融和している国とも言われ、通貨単位もグァラニー。貧しいが治安
は非常に良く、貧民窟を一人歩きしてもカメラや現金の盗難の心配は全くない。貧民窟には至る所に公共の水道があり、住民
が行儀良く並んで水浴や洗濯をしていた。
土産物としてのお薦めは赤を基調にした大きなレース編み。向こうでは壁飾りか?日本の家屋でならテーブルクロスとして最適。
但し色落ちするため洗濯は出来ないので、上に厚手の透明ビニールカバーを掛けると綺麗な食卓となる。
(写真:Nikomat FTn、105mmF2.5、KX )
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Mar del Plata - ARGENTINA

2013-09-07 15:13:13 | 旅行










 アルゼンチン東端のマールデルプラータは、瀟洒な別荘の前に海水浴場が広がる綺麗な小都市である。砂浜には、
シンガポールの獅子像のような大きなアザラシの石像が鎮座していたが、その辺にはアザラシの姿は見えない。

 漁港に行けば見られると聞いたので、バスで僅か10分ほどだったか、南方の漁港に着くと見られるどころではない。
係留岸壁を歩くと突然物陰からアザラシに吠え掛かられて先ず仰天する。すると犬が跳び走って来て、アザラシに吠
え掛かる。 見れば海面も防波堤もアザラシだらけ。小型漁船にも上がり込んで昼寝している。犬達は"人を守るのが
天命"とばかり果敢に係留岸壁から追い落とそうとするが、相手は数倍ありそうな巨体、咬まれたらひとたまりもなか
ろう、海に落ちたら食い裂かれようと心配。この犬達がいなければ、散歩はともかく、写真撮影など危なくて出来っこ
なかった。因みに「アザラシ」はスペイン語で「海のオオカミ」(ローボデマール)。

アルゼンチンらしい洗練された町並みに、アルゼンチンらしい荒々しい自然が隣接する都市。
                          (Nikon F 105mm、Nikomat FTn 28mm、KX)
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PARAMARIBOーSURINAM

2013-07-07 12:02:37 | 旅行








木造3階建ての家屋が立ち並ぶ元蘭領スリナムの首都パラマリボは、対岸(?)のジャズの町ニューオーリンズにも似た、
何故か昔見慣れた町を見るような不思議なノスタルジアを誘う町であった(ニューオーリンズの"対岸"はカルタヘナ辺りか)。
郊外も清潔に整備された美しい風景だったが、そこに憩う母子に近づくと何故か母親は涙を流し続けていた。
南米で唯一のオランダ語国。AD'80年代のクーデターによる共産国化以前の写真。
                                 (Nikomat FTn、28mmF3.5、105mmF2.5、KX)
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Cartagena―Colombia

2013-05-08 23:41:11 | 旅行








日本では麻薬マフィアによる政治家暗殺のニュース程度しか流れないコロンビアであるが、一般旅行者にとって
治安は問題なく、特にここカルタヘナは軍港であるためか治安は特に良いと言われ、近代的なホテルと高級住宅
の間を黒人女性が果物を売り歩く。
城壁の外側(内側?-山の手側)、キオスクほどの小さな店が乱立する迷路のような小路の旧市街の散策も全く
問題ない。
カリブ海に面した南米諸国の都市の中でも、最も美しいリゾート地であろう。異国情緒溢れる南の国!
(Nikomat FTn、28mmF3.5、105mmF2.5、KX)
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