ディキシーランドジャズのスタンダードナンバーとして定着しているこの曲は古い黒人霊歌で、しばしば彼らの葬儀の行進に演奏されたようです。
奴隷階級にあった彼らの葬儀は、黒人教会でミサを行ったあと棺を担ぎ墓地のある丘に行列で向かいます。
「彼はいい奴だった」「彼はこんな善行を行った」などと悲しみながら個人の功徳や功績を歌って丘を登りますが、埋葬が終わった途端に調子が変わり「彼は天国にいっちまっただ」「そうだ、天国に行ったのだ」「よかった、よかった」「そうだ、これでよかったのだ」と賑やかに歌いながら丘を下ってくるのです。そのようなときに演奏された曲のひとつが、この When the saints go march’n inなのです。
日本での曲名は「聖者来たりなば」とか「聖者が街にやってくる」とされていましたが、最近では「聖者の行進」となっていることが多いようです。
しかし、黒人系大統領が誕生する今の時代となって、黒人霊歌の本当の意味は本場アメリカでも失われようとしており、まして日本ではブードゥー教的なトランス状態ばかりが強調された紛い物のゴスペルが流行り、その真意はほとんど理解されておりません。おそらく「伝道者(聖者?)と信者たちの行列が賑やかに街に入ってくる様子を歌ったもの」としか理解されていないでしょう。
この曲は一見楽しい行進曲ではありますが、実は内容に黒人霊歌としてもっと深い意味が歌われているのです。
当時のプロテスタントでセインツというのは、カトリックのように厳密な意味での聖人ではなく、神によって救われた信者全てをセインツと呼んだようです。ですから、何も偉い師がやってきたことを歌っているのではありません。
もうひとつ、Go Marching inの行き先は「街」ではなく実は「天国」なのです。セインツは殉教した信者達ですが、殉教者ということは既に死者になっているわけで、この行進は死んで聖者となった殉教者達が天国に向かう行列なのです。ですからsaints は複数形で歌われます。
また、彼らの歌はほとんどが旧約聖書に拠っており、天国は抽象的なものではなく、ワーグナーのニーベルングの指輪の神々の国のように城壁に囲まれた国、そういう具体的な天国を想像していたのでしょう。神に導かれてその城に行列で入ってゆく、その光景をgo marching inと歌っているのです。
歌詞は文盲の多かった彼らによって口伝えで伝えられてきたため、かなり支離滅裂になっている部分もありますが、古い様式を多く残したゴールデンゲイトカルテットの歌詞にそのオリジナルの姿を伺うことができます。その歌詞を訳してみると
「(天国に向かう)聖者(殉教者)たちの行進がやってきたら私もその一人に加わわろう、私には愛する父も母も居た、しかし彼らはもう天国に行ってしまった、だから私もあとについて行こう、今その行進に加われば父や母に天国で会うことができるのだ、神は今、私に殉教することをお許しになる・・・・・・」
その意味からでしょうか、今では普通に Whenの前に Oh を付けて歌われていますが、ゴールデンゲイトはWhenの前にNowを付けて歌っています。
マーチにもかかわらず彼らがシャゥツ(叫び)も最小限に抑え、賑やかさも抑えて淡々と歌っているのは、当然ながらこの曲の意味を知っていたからでしょう。
このように、When the saints go marching inは単なるお祭り騒ぎの行進曲ではないのです。
最近では米国でも go marching inでは意味が分らないとして、曲名を When the saints come marching inと変えることもあるようで、時代とともにオリジナルの姿が失われてゆくのは歴史の常でしょうか。 (DoteraOyaji)
奴隷階級にあった彼らの葬儀は、黒人教会でミサを行ったあと棺を担ぎ墓地のある丘に行列で向かいます。
「彼はいい奴だった」「彼はこんな善行を行った」などと悲しみながら個人の功徳や功績を歌って丘を登りますが、埋葬が終わった途端に調子が変わり「彼は天国にいっちまっただ」「そうだ、天国に行ったのだ」「よかった、よかった」「そうだ、これでよかったのだ」と賑やかに歌いながら丘を下ってくるのです。そのようなときに演奏された曲のひとつが、この When the saints go march’n inなのです。
日本での曲名は「聖者来たりなば」とか「聖者が街にやってくる」とされていましたが、最近では「聖者の行進」となっていることが多いようです。
しかし、黒人系大統領が誕生する今の時代となって、黒人霊歌の本当の意味は本場アメリカでも失われようとしており、まして日本ではブードゥー教的なトランス状態ばかりが強調された紛い物のゴスペルが流行り、その真意はほとんど理解されておりません。おそらく「伝道者(聖者?)と信者たちの行列が賑やかに街に入ってくる様子を歌ったもの」としか理解されていないでしょう。
この曲は一見楽しい行進曲ではありますが、実は内容に黒人霊歌としてもっと深い意味が歌われているのです。
当時のプロテスタントでセインツというのは、カトリックのように厳密な意味での聖人ではなく、神によって救われた信者全てをセインツと呼んだようです。ですから、何も偉い師がやってきたことを歌っているのではありません。
もうひとつ、Go Marching inの行き先は「街」ではなく実は「天国」なのです。セインツは殉教した信者達ですが、殉教者ということは既に死者になっているわけで、この行進は死んで聖者となった殉教者達が天国に向かう行列なのです。ですからsaints は複数形で歌われます。
また、彼らの歌はほとんどが旧約聖書に拠っており、天国は抽象的なものではなく、ワーグナーのニーベルングの指輪の神々の国のように城壁に囲まれた国、そういう具体的な天国を想像していたのでしょう。神に導かれてその城に行列で入ってゆく、その光景をgo marching inと歌っているのです。
歌詞は文盲の多かった彼らによって口伝えで伝えられてきたため、かなり支離滅裂になっている部分もありますが、古い様式を多く残したゴールデンゲイトカルテットの歌詞にそのオリジナルの姿を伺うことができます。その歌詞を訳してみると
「(天国に向かう)聖者(殉教者)たちの行進がやってきたら私もその一人に加わわろう、私には愛する父も母も居た、しかし彼らはもう天国に行ってしまった、だから私もあとについて行こう、今その行進に加われば父や母に天国で会うことができるのだ、神は今、私に殉教することをお許しになる・・・・・・」
その意味からでしょうか、今では普通に Whenの前に Oh を付けて歌われていますが、ゴールデンゲイトはWhenの前にNowを付けて歌っています。
マーチにもかかわらず彼らがシャゥツ(叫び)も最小限に抑え、賑やかさも抑えて淡々と歌っているのは、当然ながらこの曲の意味を知っていたからでしょう。
このように、When the saints go marching inは単なるお祭り騒ぎの行進曲ではないのです。
最近では米国でも go marching inでは意味が分らないとして、曲名を When the saints come marching inと変えることもあるようで、時代とともにオリジナルの姿が失われてゆくのは歴史の常でしょうか。 (DoteraOyaji)
キリスト者となってしばらくしてからこの曲の英語の歌詞がふと頭に浮かび、「ちょっと待てよ、もしかしてこれは」となり、良く良く反芻してみると「なるほど、そういうことだったのか」とやっと腑に落ちたという経験をしました。
Malandroさんが書かれている通り、saintsというのはカトリックのいわゆる「聖人」ではなく、義と認められた信徒一般であり、聖書では「聖徒」と記述されているものです。つまり、この曲のタイトルの邦訳は「聖徒たちが(天の御国に)凱旋する時」とでもすべきものですね。「街にやって来る」って、いやはや...(^_^;)
黒人霊歌については日本に伝えられる以前から米国において既に意味が取り違えられているものが多く、むかし合唱界の重鎮であった津川主一氏も「揺れるよ幌馬車」についてひどい誤訳であると書いておられます。
最近ではベトナム戦争時の反戦歌となった元黒人霊歌 Down by the River side の例もあります。
時代と共に変わってゆくものに目くじら立てても仕方ありませんが、時々「本当の意味が解っているのかな」と思ったり・・・・
預言者エリヤがそれに乗って天に登って行ったという、旧約聖書に出てくる「火の戦車」が下敷きになっていることを理解するには聖書のバックグラウンドが無いと難しいと思います。
昔洋画の字幕を見ていてそういう関係のセリフに関してはたまに誤訳を見かけることがありました。(それでも戸田奈津子さんの字幕はさすがに的確でした。)
楽しい真面目なコメントを有難うございます。
ただ1点、記事もコメントも署名者(DoteraOyajiさん等)の意見であることをお伝え致します。
Malandro以外の署名の本文中の記事は、e-mailで受け、意見交換もし、了解のもとで掲載したものです。