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なかなか勝てない馬がいる。今日もその馬が走る。
がんばれ、と声が出る。
まなざしは、ゴールの先を見つめている。

修羅走る関ケ原  山本兼一/著

2021年09月26日 15時24分59秒 | 読書・文学


慶長五(1600)年九月十五日。霧の中、石田三成・徳川家康は一大決戦に臨もうとしていた。未明、松尾山の小早川秀秋の陣から、主の裏切りの気配を伝える密使が来た。三成は、小早川の陣と毛利の陣へ使者を送る。一方、家康は親・豊臣の福島正則らの動向に不安を抱いていた。主家・豊臣家の為、義に生きるか。旗色の良い側に鞍替えするか。裏切りを決めた主に忠誠を尽くすのか、叛旗を翻すのか。天下を取る。友情に殉じる。生きて妻のもとに帰る。十数万の兵たちの欲が激突する、血の一日が幕を開けた。戦国時代に情熱を注ぎ続けた著者の遺作長編。

天下を二分する決戦を前に、石田三成の元に使いが来る。小早川秀秋が裏切りそうだという。三成が取った方策は──。急逝した著者が遺した、関ヶ原の一日だけを描いた、血で血を洗う戦国合戦群像劇。

太古の昔、ここ関が原で壬申(じんしん)の乱の壮絶な合戦があったという。
原の西を流れる黒血川は、その合戦のとき、将兵の血で川が黒く染まったゆえに名付けられた。
北に向かえば北国街道、
南に向かえば伊勢街道。
ここは、まさに日の本の国の十字路なのだ。

可児才蔵は、指物(さしもの)の代わりに笹竹を背負っている。
勇猛なこの男は、戦場で討ち取る首の数が多いので、とても持ち歩けない。
それで、笹の葉を口や鼻、耳に挿(お)して印にしておくのだ。

秀吉公の領国が拡大するにしたがって、ともに大名に取り立てられた。
三成は近江佐和山の20万石
吉継は越前敦賀の5万石

朝鮮の陣で、吉継と三成は、同じ船奉行として、肥前名護屋城から朝鮮へ、10万の将兵をはこぶ数百隻の船の手配をはじめ、膨大な兵糧米の搬送までを段取りした。

じつは、家康の上杉討伐にあたって、三成も従軍を申し入れていた。
三成としては、死の床にあった太閤殿下との約束違反を繰り返している家康が、上杉討伐に名を借りて、さらに勝手なふるまいに及ばぬように目付けとしてついて行くつもりだったのだろう。
ところが、家康のほうから断ってきた。
家康としては、三成を畿内に残しておけば、挙兵するはずだと読み切ってのことに違いない。

不破の関跡
東山道は、関ヶ原の西の端から狭い谷筋に入る。

三成に過ぎたるものの2つあり、島の左近と佐和山の城


愛宕権現は、勝軍(しょうぐん)地蔵がこの世に姿をあらわした軍神である。
馬から下りて、小便をしようとしたが、自分の魔羅が見つからない。
縮み上がって小さくなってしまったのだ。
縮みきった魔羅をつかんで引き伸ばし、草むらに小便をした。
小便の勢いの弱いのがまた情けない。

魔性を追い払い清めるという法螺貝の音に、おぞましい邪気がこもっているように思えてならない。

松野主馬重元

「拙者もすぐに行くと伝えてくれ。
後先はあるかもしれんが、六道(りくどう)の岐(わか)れ道のどこかで会えるであろう」






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