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なかなか勝てない馬がいる。今日もその馬が走る。
がんばれ、と声が出る。
まなざしは、ゴールの先を見つめている。

余命一年、男をかう  吉川トリコ/著

2021年10月03日 16時53分28秒 | 読書・文学


片倉唯、40歳。趣味は節約とキルト作り。がん検診を気まぐれで受けてみたら、進行している子宮がんだと宣告される。もう頑張って生きなくていい―。ショックを受けるかと思いきや妙な安堵感に包まれつつ、病院の待合室で待っていた唯の前に、ピンク頭のスーツの男が現れ、声をかけられる。―「いきなりで悪いんだけど、お金持ってない?」感動必至の男女逆転版『プリティ・ウーマン!』

「私にだって楽しみぐらいありますよ。
一日の終わりに資産管理アプリで資産総額を確認することです。」
「は?なにそれ?」
「銀行口座とか証券口座とかクレジットカードとか各種ポイントカードとかを紐づけて、一目で把握できるようになっているんです。見ているだけでも何杯でもお茶飲めますね」

恋愛はコスパが悪いからしたくない。
結婚も出産も同様の理由でパス。
他人と生きるということは、不確実性が増すということだ。
そんな危険な投資に時間や労力を注ぎ込みたくない。
ローリスクローリターンが信条。
どうせ手を出すなら国債にかぎる。

祝儀を払いたくないからと結婚式に出席するのを断ったら、私の行き方にまで口を出してきたのでそれきり連絡していない。向こうからもない。金の切れ目が縁の切れ目とはよくいったものだ。

会費の元を取るために飲み放題メニューの酒を端から順に呷っていたら、ペース配分をまちがえたようで、飲み会が終わるころには足元が覚束ないほどべろべろに酔っ払ってしまった。


「酸いも甘いもかみわけた大人になってから相手を選べるんだもんね。
私、結婚早かったじゃん?右も左もなんにもわかっていない小娘の頃につきあっていた男で手を打っちゃったからもう最悪よ。まあ、子供も早く欲しかったしさ、あのとき結婚しない選択肢はなかったんだけど、それにしてもちょっと早まったかな。いまとなっちゃ、旦那の顔なんてマジで見たくないもん。毎秒ごとに離婚したいと思っている。自粛期間中ずっと家で顔つきあわせてたじゃん?あと1週間、いや一日でも長引いていたら刺し殺してたとこだったよ」

老後の面倒を見てもらうために子供を産むという発想のおぞましさにはただただ愕然とするばかりだ。人生を損得勘定でとらえたら、シンプルなほうが私には合っている。
私の人生の目標はただ一つ、だれに頼ることなく一人で生きていけるだけのお金を稼いで、収支トントンで終えること。

がんになったら死のうと思っていた。
進行状況にかかわらず治療はしない。
抗がん剤治療や放射線治療を受けて副作用に苦しめられるぐらいなら、それまでどおりの生活を続けながら緩和ケアだけ受けてゆるやかに最期を迎えたい。ホスピスには相当なお金がかかるみたいだけど、どうせ死ぬんだし最期ぐらい贅沢したってばちは当たらないだろう。

「手術しなかったら、どうなりますか?」
「死ぬよ」
ストレートの超剛速球に私は絶句した。
「放っておいたらあとは死ぬだけ。それでもいいの?」
ほとんど脅かすような口調だった。
「治療しない」という選択肢など最初から存在しないみたいな。
患者がーー自分より若い女の患者が少しでも口答えするのが許せないのかもしれない。
「あなた、独身でしょ?」
こんな時まで独身かどうかが関係してくるなんて、とうんざりしながら私はうなずいた。
「子宮摘出に抵抗をおぼえるのはわからんでもないけど、いま40歳・・・再来月で41歳か。どのみち出産は厳しいでしょ」
「---」
その日、二度目の絶句だった。話にならない。
子宮を温存したいなんて言ってないのに。まして子供のことなんて一言も。

「冷凍食品ぐらいで贅沢って言わないでよ・・・」
そうは言うけど、私にできる贅沢なんてせいぜいそれぐらいだ。
きっかり1年で死ぬとわかっていたら思うままに散財もできるが、2年だか3年だかのいらぬボーナスステージが用意されているかもしれないと考えると、どうしても二の足を踏んでしまう。

「返済期限、令和5年になっているけど・・・」
いざとなったら家を売りに出してでも金作るから、せめて3年待ってもらえたらー」
「死んでる」
「え?」
「3年後には死んでる」
今度は彼が驚く番だった。まばたきをするのも忘れてしまったみたいに、すべての動きを止めて絶句している。

「唯とは別れたくないけど、これまでみたいにはもう会えないと思う」
質のいい精子を採取するために射精まで妻に管理されることになった、と課長が報告してきたのはそれから間もなくしてのことだった。病院でだされる数値を見れば、前回からどれだけの回数の射精をしたのか、だいたいわかると妻に言われたそうだ。
うなだれる課長を前に、私は笑いを堪えるのに必死だった。
どこまでバカなんだろう、この人は。

「本気で迷惑なんで、もう私のことはほっといてください。
金輪際どっちかが死ぬまでソーシャルディスタンス厳守でお願いします!」

コロナのおかげで無駄口を叩く上司も減り、お愛想で相槌を打つ必要もなくなった。

万が一、孤独死したときのために暖房機器の類はタイマーで切れるように設定してあった。
それとは逆に、真夏の就寝時には切タイマーと入タイマーの2段使いが必須である。
そうすれば遺体が腐るのを多少遅らせることができる。


「困ったときはおたがいさま」なんて言葉は私の辞書には存在しない。
自分のことは死んでも自分で面倒をみる。

末期に備え、すでにいくつかホスピスの資料を取り寄せてある。
これで少なくとも孤独死の心配はなくなったと考えていいだろう。
お金さえ払えば看取ってもらえる。
決して安くはない金額だが、それだけの価値はじゅうぶんあるように思えた。

オキシトシン。
そう、すべてはオキシトシンのせいだ。
一時的に急上昇したオキシトシンが、再び急降下しだしたのでホルモンバランスが乱れておかしくなっているだけなのだ。セックスした相手に執着し、愛情を感じるのはオキシトシンの作用の1つにすぎない。

「専業主婦は家政婦であり売春婦である」
家庭科の授業中に、女性教師がなんの前触れもなく言い出した言葉だ。

なるほど、よくよく考えてみれば家事も性処理も出産も介護もそれぞれアウトソーシングするより、結婚という名目で女を1人囲ってしまったほうがずっとコスパがいい。家事や育児や介護の合間にパートに出して、稼ぎ手にすることだってできる。ーーそこまで考えたところで、ようやく私は家庭科教師の言っていたことを思い出したのだった。

そうか、あのとき先生は女生徒たちに種を植え付けたのだ。
それが20年近くの時を経て、たったいま時限爆弾のように花を開かせたー。

「好きな4文字熟語は〝経常黒字〟だし」

「がん患者はみんな必死になって病気と闘わなくちゃだめなの?
治療もしないなんて、生きようとしてる人に失礼だとでも言いたいの?
病への処し方なんて人それぞれでしょ。強要しないでよ」

自分からホテルに行こうと誘っておきながらなんにも楽しそうじゃなくて、行為のあいだずっと、ほう、なるほどそこでそうしましか、おや、今度はこうきましたか、と俺の動きを逐一観察するみたいな反応を見せるから、何度もへこたれそうになった。

その涙スワロフスキーより輝いている



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