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なかなか勝てない馬がいる。今日もその馬が走る。
がんばれ、と声が出る。
まなざしは、ゴールの先を見つめている。

実録太平洋戦争 5 硫黄島血戦から沖縄玉砕まで

2021年03月10日 11時56分25秒 | 読書・戦争兵器
出版社名 中央公論社

出版年月 1960年

税込価格 385円

~~硫黄島玉砕~~
地熱が高く、洞窟内の温度は48℃にも達する。
この島へやってきたとき、無人島の探検に上陸したような錯覚におちいったものだ。
いたるところに硫黄の臭気を漂わせているこの島には、水が極めて乏しかった。
雨水が足りないので、井戸にわきたまる水を飲むのがやっと。それも白く濁って塩分を含んだ硫黄くさい水だった。

硫黄まじりの水で炊く飯は下痢患者を続出さえ、多かれ少なかれ下痢患でない者はない、という悪い状態になってしまった。そのうえ輸送船の足は次第に遠のいて、主食も日一日と減量されてしまった。乾燥野菜とワカメの入った、あの硫黄臭い汁の味はいまでも忘れることができない。

私たちを苦しめたのは、坑道の熱気や臭気ばかりではなかった。
一日半リットルに制限された水は、いかに喉が焼けつくように渇こうとも、絶対にそれ以上は与えられないのだ。
西海岸にある井戸水は、この島で得られる唯一の湧き水だったが、それでさえ海水まじりの硫黄臭い水で、おまけに地熱のため、汲み上げたときは湯気が立っているという有様だった。
スコールがくると、ありとあらゆる容器を動員して、一滴をも惜しんで集めるのだった。

摺鉢山の要塞砲は敵上陸用舟艇群に対して用意されていたもので、敵艦船への攻撃は固く禁じられていたのだ。高級参謀たちが、「なんということをしてくれたんだ!」と口々に叫びながら、壁を叩いていた。集中砲撃を受けたのは、摺鉢山の陣地だけでなく、海岸線の水際陣地も飛行場も、徹底的に叩かれてしまった。

補給の輸送機が飛来したので、われわれは決死隊を募って、補給弾薬の回収に深夜出発した。
島の不時着基地に落下傘をもって投下されてあったのだ。梱包箱を解いたとき、目にはいったのはわずかな雷管と竹槍だけだった。
竹槍で米軍を追い返せというのだ。もはや竹槍しか送ることができない内地の窮迫した状況を考えて、胸のつまる思いがした。

「楠の木」「桜」の合言葉

黄燐弾の苦しさはちょっと言葉にならない。手で土をかき分けて、そこに顔を埋めて、辛うじて呼吸をする始末だった。


昼間破甲爆雷を抱いてM4シャーマン戦車に肉迫するのは特攻隊と変わりはない。

P38ga急降下してきた。
戦車の横に土まみれの生首が転がっている。
「胴体はあそこだ」首のところがまだかすかに動いている。

「敵は勇敢にくるね、感心だ。M4をやっつける砲がほしい」

自ら刺突爆雷をもってM4の正面に体当たりを敢行し、ダーンと一瞬にして敵戦車と運命を共にした。まさに肉弾の特攻である。

そののち、モヒを6本も注射し、どこから探してきたのか、新しい日の丸の旗をすっぽり頭からかぶり、両手を組み合わせて、それに珠数をかけ、誰も知らないうちに死んでいた。
泣いて遺髪をとり、みんな涙も涸れ果てた思いだった、兵隊さんの一人が死んだら1週間で白骨だアと言った。私たちはいままでに、こんな怖い厭な言葉を聞いたことがなかった。

わたしたちはもうこれ以上は痩せられないところまで痩せた。
捕虜になるんだと聞かされ、戦争は終わっていても若い女だから、そのままではすまないぞ、と脅かされた。
どうして女がいたことを知ったのか。
米軍でも、一番えらい大佐が来ているとのことで、安心した。
大きな身体の大佐が来て、いったい山の中で君たちは何をしていたのか、何を食べていたのか、と聞かれ、木の芽や雑草を食べていたというと、両手を広げて、道理で顔の色が草と同じ色をしていると面白そうに笑ったが、ふと、君たちは非戦闘員だから少しも逃げる必要なないのだ、とまじめな顔でみんなを見た。私たちは開いた口が塞がらないほど驚いた。

戦争は本当に終わっていた。平和の光が輝いていた。
もうあの苦しかった逃避行も、せずにすむのだ。そう思ったらいままですっかり失われていた生理が、とつぜん始まった。私は大きな感動に打たれ、女だったことを改めてかみしめた。

~~伊号58潜水艦帰投せり~~
平生(ひらお)は特攻隊の基地である。
敵機、敵艦の所在を電波探知機と水中聴音器で十分探索したのち浮上した。
呉軍港を出て以来、もう野菜はなくなり、ジャガイモと玉ねぎが少し残っているだけだ。
毎日朝から晩まで缶詰ばかり。缶詰野菜はあるが三つ葉のほかは誰も食べない。とくに里芋の缶詰にいたっては、砂か灰のようにまずいことおびただしい。

大型水防望遠鏡4つと対空、対水上用の電探とによる見張りには絶対の自信があった。
必ず敵よりさきに発見できると確信していた。
「精密聴音異常なし」と報告する。
精密聴音とは水中聴音の妨害になる雑音、即ち3つの舵はもちろん、艦内の通風機ポンプ類全部、ときには推進機も止めて、特別に念を入れて周囲を聴音するのである。

魚雷を射って命中させるためには、目標の針路、速力、距離が正確であることが必要だ。
これらを正確に機械的に算出するのは困難で、主として艦長が潜望鏡で観測して決定する。
距離は探信儀といって、水中で超音波を出しその反響を捕らえて測る機械もあるが、これを使えば発射前に敵に存在を知られるという致命的な欠点があるので、使用時期がむつかしい。
速力も聴音機で敵の推進機の回転数を計って出す方法もあるが、これはあらかじめその艦種がわかっていなければならない。しかし大体の参考にはなる。
大きな誤りがない限り確実に命中させるためには、6本の魚雷を扇形に発射する必要がある。
特に針路と距離は変わるし、夜間では特にむつかしい。

まさかこれが数日後、広島、長崎を一瞬にして壊滅された世紀の新兵器原爆をテニアン島へ揚げた、米重巡インディアナポリス号とは、神ならぬ身の知るよしもばかった。
翌日、昼食は一同の好きな赤飯の缶詰に、うなぎの蒲焼の缶詰やコンビーフの缶詰で、前日の戦果を祝った。

昭和19年3月ごろ、田中館愛博士が、議会ではじめて原爆が存在し得ることを発表して以来、「戦勢挽回の威力を有するものはこの原爆1つ、早く出来ればよいがなあ」とわれわれも日夜夢みていた。

原爆は、運搬中は部分品としてばらばらのもので、大部分は飛行機で運び、重量の大きいものだけをインディアナポリスで運んだもので、決して1個の完成した原爆としては運搬していない。

④は海軍の水中特別攻撃艇で震洋艇と呼ばれ、⑥は回天と呼ばれた。
震洋艇④は水上特攻兵器として採用された唯一のものであり、原理的には小型で高速のモーターボートの艇首に爆薬を積んで敵の上陸地点まで進出させておき、ときいたらば敵艦船に突撃して体当たり攻撃をおこなう。ベニア合板製

○レ・艇というのは、陸軍が製作した水上肉迫攻撃艇で、長さ4.5mのベニヤ板製の高速舟艇。
両側に2個の爆薬を装置し、奇襲的に夜間敵艦船に肉迫して爆薬を投下爆発させる。

手兵わずか30機!
「それには、零戦に250㌔の爆弾を抱かせて体当たりをやるほかに、確実な攻撃法がないと思うが・・・どんなものだろう?」大西中将長官がいう。
「いったい、飛行機に250キロぐらいの爆弾を搭載して体当たり攻撃をやって、どれほどの効果があるものだろう?」
「高高度から落とした速力の速い爆弾に比較すれば効果は少ないだろうが、航空母艦の甲板を破壊して、一時使用を停止されるくらいのことはできると思う」

《9期飛行練習生の搭乗員から選ぼう》
「集合を命じて、戦局と長官の決心を説明したところ、喜びの感激に興奮して、全員双手をあげての賛成である。彼らは若い。彼らはその心のすべてを私の前では言い得なかった様子であるが、キラキラと眼を光らせて立派な決意を示していた顔つきは、いまでも私の眼底に残って忘れられない。そのとき集合した搭乗員は23名であった。これは若い血潮に燃える彼らに自ずから湧き上がった烈しい決意だったのである」

「これは特別のことだから、隊に名前をつけて貰おうじゃないか!」
「神風(しんぷう)隊というのはどうだろう?」
「それはいい。これで神風(かみかぜ)をおこさなくちゃならんからなあ」

編制 指揮官 海軍大尉 関行男
各隊名称を、敷島隊、大和隊、朝日隊、山桜隊とす。
この隊命は、本居宣長の歌
「敷島の大和心を人間わば朝日に匂う山桜花」
からとったものである。

太田少尉案の特攻機は本居宣長の歌にちなんで「桜花」と命名された。
この桜花は、頭部に1,800キロの炸薬を充填した一人乗りの小型木製滑空機で、母機たる一式陸巧の腹の下に抱かれて目標の2万m付近にまで進み、ここで母機と縁を切って猛烈な速力で滑空突撃してゆく特攻機である。
母機と縁を切って落下させれば2、3分後には目標に命中し、絶対に帰ってこない特攻機であるから、母機の搭乗員がこの離脱装置のハンドルを引くときは、おのずから襟を正す気持ちに打たれるという。

桜花の滑空距離は高度6,000mで3万m飛べるのである。

志願とは形式のみで、実は命令に近い志願によって特攻隊員となった者もあったらしく、したがって特攻隊員の気持ちも以前とは違ってくるのが当然だった。
心理は入った当座は、正への執着とそれを乗り越える無我の心とが葛藤して、一時的にはかなり動揺するようである。しかし時間の長短はあれ、やがてはそれを克服して心に或るものを把握し、常態にもどってくる。こうやると、何事に対してもニコニコと微笑む温顔と、きれいに澄んだ中にもどことなく底光りする眼光が身に備わるようになる。

この天久(あまく)高地の争奪戦こそは、沖縄における米軍最大の苦戦といわれている。
そして軍司令部は、東南部海岸にそそり立つ奇岩、魔文仁(まぶに)の洞窟に移った。

「俺は俺たちの運命を知っている。俺達の運命は1つの悲劇であった。然し、俺達に対してそれほども悲観もしていない俺達の寂しさは祖国に向けられた寂しさだ。たとえどの様に見苦しくあがいても、俺達は宿命を離れることはできない。・・・俺はその日の幸福を祈っている。本当に幸福な日を迎えてくれ。再びいう、俺達は冷酷な1つの意志に支配されて運命の彼岸へ到着する日を待たねばならない。俺はそして最後の誇りを失わない。実に燃え上がる情熱と希望と夢とを最後まで失わない。」

「身にあびる歓呼の中に母一人
旗をも振らず涙ぬぐい居り

人混みに笑みつつ送る妻よ子よ
切なさすぎて吾も笑みつつ

面たれて涙かくせる吾が妻の
心くみてぞいざたち征かん

帰らじと思う心の強ければ
いよいよなつかし故郷の山

武夫の妻にしあれば夕空の
鳥が渡れば恋しきものを

人前に吾見せざりし涙なれば
夜は思うままに泣きて明かしぬ」

待機中、指揮所にて
「諸共と思えばいとし此のしらみ
体当たりさぞ痛かろうと友は征き
死ぬ事に馴れて特攻苦にならず
アメリカと戦う奴がジャズを聞き
ジャズ恋し早く平和が来れば良い
一人前成った処で特攻機」

出撃の命令下る
「夕食は貴様にたると友は征き
特攻へ新聞記者の美辞麗句
特攻隊神よ神よとおだてられ
特攻のまずい時世を記者はほめ
神様が野糞たれたり手鼻かみ
不精者死際までも垢だらけ
いざさらば小さな借りを思い出し
万歳が此の世の声の出しおさめ
必勝論、必敗論と手を握り
勝敗はわれらの知った事でなし
慌て者小便したいままで征き
父母恋し彼女恋しと雲に告げ
あの野郎、行きやがったと眼に涙
童貞のままで行ったか損な奴


及川肇;盛岡高校、20年4月6日、南西諸島で戦死、23歳
遠山善雄:米沢高校、20年4月6日、南西諸島で戦死、23歳
福知貴;東京薬専、島根県、20年4月11日、南西諸島で戦死、23歳
伊熊二郎;日本大学、静岡県、20年4月11日、南西諸島で戦死、23歳
川柳合作
昭和20年3月25日、静岡県碧海郡明治基地に於いて神風特攻隊第3御楯隊として編成される。
同3月30日、沖縄県攻撃菊水一号作戦の為、鹿児島県出水基地へ進出。
沖縄県国分基地に集結、4月20日まで3回の出撃あり、
全機消滅の為解散、その当時前記4名にて合作せしもの。

「防波堤」の本来の意味は「崩れない」のことである。

「一機をもって一艦を屠る以外に勝機なし」
「死を命令する戦法」
かくて、レイテ戦終了までに、海軍の特攻は106回、機数436、
陸軍のそれは62回、出撃機数は400機を算したのである。
白いマフラーを襟に巻いた若人だちが、永別の機翼を振りながら死の戦場へと飛び立って行く悲壮感極まりない姿を、吾々はレイテ決戦の朝夕に見たのであった。

沖縄戦では、10万の日本軍は9万3千人が戦死し、アメリカ軍も18万人を注入して5万の死傷者を出した。特に日本は航空戦において「特攻」を準公式に採用し、2,393機が敵の艦船に体当たり攻撃を敢行し、36隻を沈め、368を傷つけた。
アメリカがこの一戦に動員した海軍力は実に1,025隻という史上未曾有の大量を数え、渾身の力を絞って攻略戦を支援した。

連合艦隊司令部は、神奈川県日吉の慶大校舎とその地下壕にあり・・・

山本、古賀の両元帥、伊藤第二艦隊長官、南雲、西村、山口等の提督・・・
元帥2、大将5、中将56、少将252、その合計315名のアドミラルが戦場の露と消えた。
提督にして既に然り、大佐以下将兵の戦死が夥しい数に上ることは想像に難くない。
31万2,613名という数字は、読者の想像を遥かに超越するものであろう。
更に海軍軍属となって戦死した人の数は9万6,533名に及ぶので、海軍の戦死者合計は、驚くべし、40万9,146人を算するのである。

ただ戦争になった以上は国を護ろうとして身命を擲ったのである。
一に愛国の赤誠に身を挺したのだ。日本人はこの尊い歴史を忘れないであろう。そうしてそれを忘れないことの結論は、日本人は日本を護る義務がある一事を記憶することであろう。

「菊水特攻攻撃」
この戦いで、約4,000機の日本機が撃墜されたが、その中で約1,900機は特攻機であった。
ただし、日本海軍の記録によると、沖縄作戦に使用した海軍機は延べ5,366機、消耗1,876機、うち特攻1,022機となっている。

日本軍はこの沖縄での作戦で、島民の義勇兵を含めて約9万人が玉砕し、島民、非戦闘員の犠牲は15万人に上った。

■米軍の損害
陸上:戦死・行方不明者7,213名、負傷者31,081名
海上;戦死・行方不明者4,907名、負傷4,824
飛行機喪失 763機

▲日本軍の損害
戦死約13万1,000名
捕虜7,400名
飛行機喪失 7,800機以上





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