今回歩いた道にひろがってたであろう昔の風景を想像しながら、地図でたどっていきます。
一度にはムリですので、広尾駅から古川まで、今回は川などの地形の履歴なども見ていきたいと思います。
※グーグルアースに東京地形地図を重ねたものです。
地図の中ほど、東西に深い溝のようにみえるのが、古川です。
この川は、渋谷を通過する間は、渋谷川、下流は順番に古川、赤羽川、新堀川、金杉川と名を変えて
金杉橋の先で江戸湾(東京湾)にそそいでいました。
その古川に天現寺橋で合流したのが、笄川(こうがいがわ)。
青山墓地の丘の両側から流れてきたふた筋の川が霞町で合し、本町城の中央を南下して古川に入っていました。
今は埋め立てられ、天現寺橋の下に雨水の排水溝がみえるのが、わずかに川の名残りといえるところだそうです。
(「江戸の川あるき」栗田彰著)
川のことが分かった所で、今回のルートを標高グラフで見ることができる、LatLongLabのルートラボを使ってみてみました。
グラフに底が3つありますが、いずれも川跡もしくは川沿いを歩いた部分です。
最初のグラフの底は、笄川跡です。広尾駅から堀田坂手前まで、地図を見るとわかるのですが、渋谷区と港区の区界を
歩いています。まさに笄川跡を歩いたことになります。
もうひとつは、広尾橋交差点辺り。ここは笄川にかかっていた橋となります。
最後は、四の橋を渡り、古川沿いの道を歩いた部分です。
このルートラボですが、坂のどのあたりが急だったか・・など後でみても、ビジュアルでわかりやすく便利です。
「国立公文書館デジタルアーカイブ」に笄川が描かれている絵図がありましたので、関連個所を切り取ってみました。
※目黒筋御場絵図(めぐろすじごじょうえず)→http://www.digital.archives.go.jp/gallery/view/detail/detailArchives/0000000316
文化2年(1805)作成された、江戸近郊に設定された幕府の御鷹場の地図です。
原図サイズ:東西255cm×南北187cm(国立公文書館デジタルアーカイブより引用)
現在もそこにある寺社など入れて、このあたりを歩いたのではなかろううかと推察してみました。
天現寺から今回歩いた個所を含め、道が描かれていません。江戸東京重ね地図も参照してみましたが、道はなかったようです。
ただ現在の堀田坂と川の位置関係が、わかりにくいので、切絵図なども含め、絵図古地図を次回見ていきたいと思います。
麻布は、少し調べるだけで、いろいろと面白い歴史がでてきて、あれもこれもだと、話があちこちいきそうです。
ということで、特に気になることのみ、覚書で書いておきます。
・麻布の中心は、善福寺。柳の井戸
・古代以前の起源をもつ本村集落だが、町屋が発展しなかった。(特定の街道の通過がなかったから)
・江戸時代、他地から町民が移され(竜土町今井谷村など)、寺社・武家屋敷の間に町屋という町づくり政策として幕府がした。
・どんなポテンシャルでまちつくり?
・古川工事
地図をみてるうちに、いろいろあちこち興味が広がってしまってる感じが、ありありですね(^^;)
ぼちぼち学習していきます。
参考引用文献:「江戸の川あるき」栗田彰著
「港区史跡散歩」俵 元昭著
「広重の大江戸名所百景散歩」人文社
参照ソフト:江戸東京重ね絵図
ズ~と考えているのですが日赤通りには何が有るのでしょうか?
私の散歩道からはどうしても外れてしまう。
以前「東京ウォーキングマップ」で渡辺美佐子さんが「私の街・霞町・笄町」というのを遣っていました。
私的には地図を眺めてみても霞町周辺以南ですと、笄川・南部坂が中心になってしまいます。
p.s.
日赤通りを渋谷川まで行ったなら「果匠 正庵(和菓子)」の「あんず大福」もお勧めです。
別料金はかかりますが、竹の籠に入れてもらうと洒落ていてお遣い物になります。
あの辺りはいまは地図で御覧のとおり・・・閑静なたたずまいの通りでした。
江戸時代の堀田氏の屋敷の西側の通りはほぼ等高線上を歩いており、
その道の西側は百姓地が続いており、しかもかなりの斜度・・なんてことも
さまざま地図を覗いているとわかります。^^
見晴らしもよく気持ちよい風景が眼下に広がっていたのでは?と想像するのも面白いです。
あんずだいふく美味しそうですね。
今度は女友達とスイーツツアーします!(^^