70年前の8月6日広島に原爆が投下されそして終戦
私は樺太で生まれ終戦の3年後に父母・兄妹と共に旭川に引き揚げてきた
小学校へあがる齢だったが忙しい母に代わり
妹の康子をおぶり母のねんねこを引きずってお守りしていた記憶がある
康子は引き揚げてきた年の9月に
樺太の収容所で風邪をひき肺炎であっけなく亡くなった
生後9か月の可愛い盛りだった
身を寄せていた祖母の家で葬儀を行い いざ出棺という時
母と私は
“やっこを連れて行かないで“とお棺にすがりついて号泣したことを思い出す
母は康子が亡くなった後もお乳が張るらしく
裏の常盤公園の木に搾った乳をかけ 根元で声を殺して泣いていた
母の気持ちを思うと 切なくて切なくて悲しかった
形の違う戦争犠牲者がいて 未だに傷口をなめなめ生きていることを
戦争を知らない為政者は肝に銘じてほしい
写真が趣味だった父が撮って暗室で焼いた康子の遺影
色が白く目がパッチリして可愛かった妹 風呂上がりの裸のモノクロ写真しか残っていない
康子妹さんのこと、お母さまやmariさまの悲しみの文を読み、愛くるしい利発そうなお写真を拝見して、涙が溢れて止まりません。
コメント入力のキーボードも、涙でかすんできます。
アメリカの妹も1歳の時、肺炎から膿胸になり、死にかけたことがありました。
違いはあっても、ほとんどの国民が、戦争の犠牲になりました。
7つ違いで言葉を交わす事もなかった妹ですが、私のお守りでも泣くこともなく
手のかからないよい子でした。
お棺の中の白装束の康子は天使のようでした。
思い出すたびに今でも涙が滲んできます。ほとんど母親のような感覚だったのでしょうね。
医者は肺炎をはしかと誤診して冷やさなければならないのに温めるよう指示しました。無念です。