遅ればせながら、2月11日にNPO法人東京賢治の学校・自由ヴァルドルフシューレでおこなわれた「からだ・こえ・ことばのつながりを探るレッスン」の報告をさせていただく。昨年の秋からはじめた連続セミナー「ホリスティック(総合的)な知を育む学校・図書館をつくる」のプログラムのひとつだが、この日は、学校図書館や読書活動、ホリスティック教育などにかかわっておられる14名が参加してくださった。
プログラムは、まずシュタイナー教育を実践しておられる賢治の学校の概要を4年生担当の菅谷真理子さんに話していただくところからはじまった。1年生から12年生までの教室を順にめぐりながら、板書や掲示、生徒の作品やノート、持ち物などによって、それぞれに異なる佇まいを見せる教室に身を置いて菅谷さんのお話を聞いていると、途中から加わったわたしにも、子どもの発達とのかかわりのなかで展開される教育の流れが、おおまかにではあるがイメージできた。魂と身体、感性と理性の融合をはかるシュタイナー教育では、教科の知識や技能も芸術性や美的経験を基盤として学ばれる。その一端に触れることができたのは、わたしにとって何よりも喜びだった。
こうして東京賢治の学校に魅了されたあと、この学校で演劇とオイリュトミーを教えておられる高田豪さんのレッスンが、ゆるやかにはじまった。うごき、ふれあいながら、からだに意識を向けてゆく。助走の時間をたっぷりととってくださったおかげで、日頃、あまりからだに意識を向けていなかった人も、からだを防御している人も、最後まで抵抗なくレッスンに参加できたようだった。
わたしにとって、相手を「押す」レッスンは、とりわけ示唆に富むものだった。「オス」とはどういう動作なのか。かならずしも自明ではなかった。人を「押す」とき、押す者と押される者の「からだ」に何が起こっているのか。「おさえる」のでも「つきはなす(つきとばす)」のでもない。意外だったのは、押したあと、手を放した相手を引き戻してしまうこともあれば、そこで止まってしまうこともある。そんな両者の呼応関係を丁寧に感じていくと「押す」から「推す」へとイメージがふくらみ、広がってくる。では、「圧す」や「捺す」はどうなのだろう?
そのあとの呼びかけのレッスンでは、実際に呼びかけた人も、呼びかけられた人も、その様子を見ていた人も「伝える」「声を届ける」とはどういうことかを身をもって経験できたのではないだろうか。数日後に参加者のひとりが、こんなエピソードを寄せてくださった。レッスンの翌日、日頃からコミュニケーションが滞っていると感じていた娘さんと会ってお茶をのんだあと、本屋を覗いたときに棚に並んでいるマンガを見て娘さんが「あ、『君に届け』だ。最近、全巻読んだ」とつぶやくのを聞いて呼びかけのレッスンを思い出し、親子で同じキーワードにふれていたことに気づいたというのだ。ユングのシンクロニシティ(意味のある偶然の一致)を持ち出すまでもなく親子のように強く結ばれている人の間では起こりやすいことなのかもしれないが、ひとつの経験から次々に気づくことがあるのは、その経験の深さを物語るのではないだろうか。
わたしは久しぶりに「からだとことば」のレッスンを受けて、一夜が明けてからも爽快感に満たされていた。十分とは言えなかったかもしれないが、予定の終了時間を大きく越えておこなわれたレッスンの様子は、先の学校見学も含めて、写真とメモ、参加者の感想によってイメージしていただければ幸いである。
わたしが認識の原点としての「からだ」を意識するようになったのは、ほぼ40年前、GDM英語教授法研究会でおこなった公開授業を『ことばが劈(ひら)かれるとき』(ちくま文庫)の著者で演出家の竹内敏晴さんに見ていただいたのがきっかけであった。当時のわたしの関心は、どうすれば子どもたちが「実感(リアリティ)をもって」英語を使えるようになるか。外国語教育にありがちだった単なる日本語と英語の置きかえも、ひたすら聞いて口真似を繰り返す音声一辺倒の訓練も、定型表現の暗唱も、どれにも音声や文字とリアリティをもった意味をどうやって融合するかという視点はみつからなかった。絵や動作をもちいる指導法もあったが、その多くは条件反射的に刺激-反応のパタンを固定化する域を出るものではなかった。ことばの獲得は、もっと複雑かつダイナミックで発展的なものであるはずだ。そう考えてGDM(Graded irect Method)という方法に活路を求めたわたしは、その場の状況(環境)にじかにふれて、他者とかかわり、直接的なコミュニケーションをとおして「ことば」を獲得していくプロセスにあって、そこに介在する「からだ」のありようを意識化するために竹内さんの助言を求めたのである。
「からだ」を媒介して環境とふれあい他者と関わる中で「ことば」をはぐくむことは、外国語教育にかぎらず一般にリテラシー教育の基本でもあるはずだ。とりわけ読書力や情報リテラシーの育成が求められる今日では、それを支える豊かな「ことば」をはぐくむことが必要である。だが、それは、できるだけ誤解を少なくして情報の中身を正確に伝達できることではないはずだ。多様な解釈を許さず、疑問の余地がない表現は、分かりやすく、実用的であり、無用な摩擦を引き起こすこともない。その一方で、ことばの使い方を技術的な側面だけで訓練し、合理的な思考力だけを訓練していると、やがて「ことば」がやせ細って、豊かさも力(パワー)も損なわれるのではないだろうか。感性の裏打ちのない情報にはリアリティがない。想像力も創造力も駆り立てないし、深さも広がりも生まない。情報社会から知識社会、学習社会へと変化する中で私たちの暮らしを稔りある豊かなものにするためにも、ことばの表層だけでなく、それを支える身体感覚とむすぶことが求められるのではないか。五感のすべてをかけて日常を感覚豊かに生きることが、ことばを豊かにすることにもつながる。
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