東日本で起きた地震とそれに伴う被害は、私たちが神戸で経験したものとは比べものにならないくらい大きく、広範囲に及ぶものであった。まさに、想像を絶する状況であり、何もかもが想定外だった。現実が私たちの想定を超えることは日常生活でよく経験することで、私たちは、そのことをある程度まで想定して生きている。だが、人命にかかわる災害となると、そんな達観など無用である。過去の経験と現状を的確に分析し、それにもとづいて最悪の事態を想定した対策を立てておくべきだし、そのように努力してきたことも事実であろう。だが、今回は、その努力さえ裏切られた。人智を尽くしても、なお、それを上回る想定外のことが起こりうるということを覚悟して私たちは生きなくてなならないのだろうか。想定外の出来事にたいしては基準もマニュアルも準備されていない。その場で起こっている状況をいち早く感知し、それに応じた判断と行動ができるかどうか。はなはだ心もとないかぎりだが、一瞬の判断と行動が明暗を分けることもある。そのためには、少なくとも想定外のことが起こったらどんなことになるのかという想像力くらいは持ち合わせておくべきだろう。足元が突然揺れたら、波が防波堤を越えてきたら、ライフラインが途絶えたら、交通機関や通信網がマヒしたら・・・
では、原子力発電所の安全装置が機能しなくなったら、どうなるか? 原発を引き受けた地域の人たちは、いま起こっていることを想像できただろうか。チェルノブイリのときとはちがって福島第一原発の場合は安全装置が働いて原子炉の運転は無事に停止したという。だが、冷却装置が働かなったために高熱を発して炉心溶融(メルトダウン)の可能性が高まっているらしい。原発を推進し研究してきた人たちは、当然そのことを想像できたはずだが、それが地元の人たちに共有され、万が一の覚悟を決めておられるのだろうか? もちろん、いたずらに人々の不安をあおることは慎むべきだし、私たちも正確な知識と情報にもとづいて冷静に判断し、行動することが求められる。その一方で、安心ばかりでなく、いま起こりつつ状況にたいして相応の危機感をもって備えておくことも必要だろう。だからこそ、政府や専門家、電力会社から一方向的に提供されるコントロールされた情報だけでなく、私たちが本当に知りたい情報が得られることが大切なのである。だが、テレビで報じられる専門家の説明が、抑制的で技術的側面に終始し、弁明にしか聞こえないことに苛立ちを覚えることも多い。人類の生存にもかかわる大問題を憂慮し、科学者・専門家としての責任をふまえて、私たちの安全を第一に考えた発言を望みたい。
原子炉にたいする操作が思うようにはかどらず、メルトダウンの危険さえはらんだ現場で身を挺して苦闘しておられる作業員の皆さんのことを想うと心が痛む。ひとまず、いま起こっていることへの対応と経過を注視しながら、これ以上の大事に至らないことを祈るばかりである。
いま福島第一原発で起こっているメルトダウンンの危機は、かつてアメリカのスリーマイル島で起こった原発事故と類似している。スリーマイル島で起こったことについては、京都精華大学で環境ジャーナリズムを教えておられる中尾ハジメさんが自ら調査して書かれた『スリーマイル島』(新泉社、1981)は秀逸である。もちろん原発を巡る現在の状況は多くの点で当時のスリーマイル島とは異なるだろう。だが、原発事故が何をもたらし、私たちは何を知る必要があり、メディアをどのように受け止め、どのように行動すべきか、といったことについて考えさせられることが多い。その内容は、ご自身の中尾ハジメ・ウェブサイトで読むことができる。
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