1月17日の夜明け前、神戸の街は、深い祈りに包まれていました。それは、14年前に起きた阪神淡路大震災で犠牲になられた方々の霊を慰めるとともに、今後またいつ起きるともかぎらない災害に備えて2度と同じような被害を出さないという私たちの決意を新たにし、生き残った一人一人が自分自身の生き方を見直すための祈りでもありました。
震災の日の朝、我が家の建物には被害がありましたが家族の身は無事だったこともあって、私は、職場に向かうべく、5時46分の地震発生から1時間後にミニバイクで家を飛び出しました。いたるところで寸断され、余震に揺れる道路を、山際へ海岸へと大きく迂回しながら、自宅のある神戸市の西端から東の端を越えて4時間近くかかって職場のある芦屋市まで駆け抜けました。その途中で目に映った神戸の街は、一瞬にして50年前へとタイムスリップしてしまったかのようでした。それは、終戦直前の大阪大空襲で焦土と化した(当時住んでいた)尼崎の町と重なって、その後に続く戦後の記憶をも包み込んだ「懐かしい」光景でした。その光景が私の人生の原点だといってもいいでしょう。私の心を覆っていたのは、あの時と同じ、どうにもやりきれないこの世の無常であり儚さでした。しかし、それがこの世のありようそのものであり、その現実を受け入れることによって、新たに生きる力が湧き出してくるということを、私は幸いにも50年のうちに多少なりとも学んでいました。事実、震災直後の混乱から復興にいたるまでの何年かは、私の人生でもっとも精神的な高揚感をもって仕事ができた期間でもありました。破壊は痛みと犠牲をともない耐えがたいことではあるけれども、それは同時に創造の原動力にもなりうるという事実に望みを託すほかないでしょう。
1995年1月17日は、私が学校図書館に本格的にかかわるようになる契機となった日でもあります。それまでも何らかの関心を持っていたし、1年前には図書課長の職にもつきました。しかし、今から思えば、確たるビジョンもなく、批判こそすれ本気で学校図書館をつくりかえようという気持ちがあったわけではありません。以下に、震災を経験したあとの私と学校図書館とのかかわりについて、これまで私がブログにつづった文章を挙げておきます。
◆ 生きている限り
◆ 災害と図書館
◆ シンポジウム「災害復興に役立つ情報活動とは」
◆ つながりを活かす学校図書館(震災復興を契機として学校図書館の再生をめざす)
◆ 1.17 阪神淡路大震災を契機として学校図書館をどう再生したか
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