人気の本の著者が各地の学校を訪問して子どもたちにじかに語りかける読書推進プロジェクト「オーサー・ビジット」を進めている朝日新聞の2月16日付朝刊に、関西学院中学部で図書部の生徒を対象に行われた亀山郁夫さんの授業が紹介されている。亀山さんは、『カラマーゾフの兄弟』の翻訳やドストエフスキーに関する著作でよく知られている方だが、そのメッセージは、中学生にどのように受けとめられるのだろうか。
亀山さんは、14歳の時に『罪と罰』を読んで、自分が殺人を犯したかのような強い衝撃を受けたが、いまの中学生には、それほどの衝撃はないだろう、という。当時は、情報が足りないぶん、想像が感受性を育んだが、いまは、既視感(いつか、どこかで体験したことがあるような感覚)に満ちていて、「驚く」という体験が減っている。また、ニュースで殺人事件を知っても、だれも犯人と友達になりたいとは思わないのに、『罪と罰』の読者のほとんどが、罪を犯した主人公を応援したくなるのはなぜか。亀山さんの問いかけに中学生たちは黙りこんでしまう。亀山さんは、『罪と罰』には、「善か悪か」に二分しがたい、人間の心の奥底が描かれていると説明する。
意見や質問は少なかったそうだ。中学生が、『罪と罰』で提起されているような重い課題をつきつけられて、即座にすらすらと意見を言えるほうが、むしろ不自然かもしれない。紋切り型の応答よりも、想像を膨らませ、思考を深めるための沈黙を大切にしたい。亀山さんが中学性の心に播いた種が、芽を出し、育つまでには、どれくらいの時間がかかるだろう。いつまでたっても芽が出ないかもしれないし、人生の終盤になって、はじめて実を結ぶということだってあるかもしれない。いまの中学生に必要なのは、未知にたいして開かれた心をもち、既成の枠組みで整理できないものも受け入れて、自らの課題としてもちつづけることではないか。複雑な問題を考え抜く知的忍耐。(リチャード・ポールのクリティカルシンキング)は、公正な思考を行うために求められる資質の一つでもある
ちなみに、関西学院中学部の司書教諭日記には、今回の亀山郁夫さんによるオーサー・ビジットに結びつくドストエフスキーに関する記述がある。
ところで、亀山さんによるドストエフスキーの翻訳や論考は現代社会においてどんな意味をもつのであろうか。半世紀前に、ドストエフスキーの芸術的特徴を「ポリフォニー」(「対話」)、「カーニバル」(「広場」)といったキーワードで読み解いたミハイル・バフチンが注目を集めていることとも無縁ではないだろう。
ドストエフスキー―謎とちから (文春新書)
亀山 郁夫
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ドストエフスキーの詩学 (ちくま学芸文庫) ミハイル・バフチン,望月 哲男,鈴木 淳一,Mikhail Mikhailovich Bakhtin 筑摩書房 このアイテムの詳細を見る |
中学生相手に亀山さんが講義を行ったんですか・・・・・。私も講義を受けてみたいです。
同級生に「罪と罰」を薦めたいといつも思うのですが、誰も真剣に受け止めてはくれず私は残念な気持ちでいっぱいになったことがあります。同級生と私は全く合わなくてつくづく困ります。私はロシア文学が好きで、クラシック音楽、絵画などが好きなんですが、皆は違って最近の事、物が好きなんです。私は全く最近の物事に興味がないので、皆の話題にものれません。
確かに最近の中学生は感受性が無いように思われます(中学生の私が言うのも変ですが)。例えば、トンボなどの動物を殺しても可愛そうと思わないんです。本当に変な人たちですよね・・・・!!
コメントをくださって、ありがとうございまいた。自分が大切だと思うことを身近な人に伝えようと思っても関心を持ってもらえないことって、ぼくもよくあります。そんなとき、きっと相手も自分が考えていることがこの人に伝わらないのだろうって苛立っているかもしれません。それでも、ほかの面では気が合うこともあるので仲たがいすることはありません。まだ出会っていない圧倒的に多くの人のなかには、自分と同じ感性をもった人もいるかもしれないし、同級生と限らず世代を越えてみれば、その数はもっと多くなるにちがいありません。今この時代を共に生きてこの世界を形成しているまだ見ぬ人たちともつながっている・・・そんな感覚があるので、これからどんな出会いがあるのだろうと楽しみだし、自分の考えと違う身近な人を嘆いたり責めたりすることなく、安心して自分なりの生き方ができているのだと思います。