おじさん山伏です

修験道の修行から見た心の散歩です。
アイヌのアシリ・レラさんからの命名です。
「キムン・マタギ」になりました。

サムエル・コ-キング苑のつづきです。**タンポポ**

2021-02-21 | 日記

故鈴木大拙老師の「一日一言」から

「人を動かす力」

 至人というのは、そのひとすべての行動が

 人格から出るときに、しかいわれるのである。

 凡人でもある機会にひょうと人格的行動する

 こともある。

 その瞬間だけその人は、少時の

 至人性を帯びてくる。

サムエル・コ-キング苑のつづきです。

椿が少し咲き出しました。

 

 

 

 

 

 

 

地下室の温室です。

 

 

 

 

 

ありがとうございました。

故杉本秀太郎先生の花ごよみ「春」から蒲公英(タンポポ)

 ある年のこと、まだ幼かった娘たちを連れて、御室の仁和寺にいった。

 「花は低うても御室の桜」と昔から言うのは、「女は愛嬌、男は度胸」という

 俚言の上半分を言い替えたようなものなのだが、

 仁和寺境内の桜はすべて背丈が低く、

 しかも花の色がほんのりとした紅色の八重桜

 なのを知っていないと、「花(鼻)は低うても」とうい冗談が通じない。

 御室の桜は花どきが遅く、

 例年四月二十日前後が見頃になる。

 緋の毛凱を敷いた花の下は、飲めや歌えや、踊れ踊れの乱痴気さわぎ。

 西洋なら、フランドルの農民たちの春祭ケルメスに、

 かつて同じような情景が見られたのは、

  夕-ベンスの絵から想像がつく。

 どことなく剛直で、軸がたくましい。

 花びらも寸づまりで膨なところがない。

 これは西洋たんぽぽなのだ。

 花の襟もと、とでもいえばいいのか、

 うてなの裏を返したところに、くせのあるあごひげが生えていた。

 である。図柄に文字を配していう・

精神の産物というものは、吹く風あらばいかなる風にも敏感に応じて綿毛を

とばすたんぽぽに喩えることができる。私はいまも時どき、

学生時代に買ったぼろぼろの『プチニフぐIス辞典』を引く。

私のなかに、

私の土壌に、この古ぼけた、しかし引きやすい辞書からとんできて

芽吹いたたんぽぽの数を、私はかぞえたこともない。

花どきはいつのことか。

もう花どきはすぎたのではないか。

「ノン」と私が答えても、人よ、笑いうな。

**********

杉本先生の文章を読んでいて材木座の光明寺の桜を思い出します。

仁和寺の桜は見たことはありませんが、光明寺の桜と

同じなのかなあと思い出して心が温まります。

 

 

 

 

 

 

 

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