echo garden

基本的に読書感想文です。

ローマから日本が見える 2

2006-01-31 23:59:22 | Weblog
 ロムルス ローマのはじまり
 
 欧米では、正しいことを言っているのに信じてもらえない人のことを「カッサンドラ」というそうです。
 カッサンドラはトロイの王女です。
 木馬はアカイアの罠だと気づいたのに、アポロンにかけられた呪いによって誰にも信じて貰えず、彼女はなす術もなく滅亡を見守るしかなかった。
 紀元前12世紀中ごろのことです。
 時代が下って紀元前8世紀、イタリア半島の中部を流れるティヴェレ川の上流にアルバロンガという都市国家=ポリスがあった。
 その王族の血統をたどっていくとトロイの王族につく、という伝説をもっていました。
 ローマの始祖、ロムルスはその王女の息子です。しかし王子ではありません。
 それどころか単なる邪魔者であって、弟のレスともども籠にいれて川にながされてしまいました。
 母親は牢獄入りです。
 なぜなら、現国王は母親の父から王座をうばった、叔父だったからです。正当な王位継承者がいては困るのです。
 川に流されたロムルス達は下流で雌狼にひろわれ、乳をもらい育てられました。
 そのうちに土地の羊飼いにひろわれ、羊飼いとして成長しました。
 長ずると2人とも人に抜きん出るようになり、周辺の羊飼い連中のリーダー的存在になりました。
 その過程で、自分たちの出生の秘密を知り、仲間の羊飼いを引き連れて、アルバロンガに攻め入りました。
 国王を殺して復讐は遂げたものの、母親はすでに獄死していました。
 その後、2人はそこにとどまらず、ティヴェレ川下流の本拠地に戻り、仲間と共に新しい都市を建設しました。
 しばらくの間、兄弟は分割して統治してたが、あるときレスが分割線をこえて侵入してきた事から戦争になり、最終的にロムレスが勝ち、ただ1人の王になった。
 彼の名から、その町はローマと呼ばれるようになった。
 これが建国の伝説です。
 そうとう怪しいですが、街が紀元前8世紀に作られたこと、建国者たちのルーツがアルバロンガにあることなどは確かなようです。
 アルバロンガはトロイの末裔かどうかは別として、イタリア中部にいたラテン人の本拠地でした。
 いまや世界中に広がったラテン人ですが、当時は北方のエトルリア人、南方のギリシャ人にはさまれて、イタリアのなかでも劣勢な人々でした。
 ところで、ギリシャ人はあのアテネやスパルタのギリシャ人ですがエトルリア人はよく分らない人々です。しかし、早くから鉄器の利用をしっていたらしく、イタリア北部にうつってきたのも、鉄鉱山が目的だったといわれています。
 また、高度な建築技術をもっていて、後にローマの代名詞になる、水道橋や、石畳の舗装道路なども、彼らから吸収したものです。
 このころ12のポリスがあり、ラテン人よりはるかに進んだ文明を持っていたにもかかわらず、(ローマ人にとってはエトルリア人はみな国王に見えた、といいます)主導的なポリスがなく、同調した行動がとれなかったために、後には完全にローマに飲み込まれます。
 今ではトスカーナ地方という地名(エトルリア人の土地)に名残を記すのみです。
 ロムルスたちについてより真実に近いことは、彼ら、建国者たちは約3000名いたらしいですが、アルバロンガはじめ、周辺のラテン人のポリスや村からのあぶれ者、食い詰め者の集団だったらしいのです。
 そして、女性はほとんどいなく、荒くれの男ばかりだったらしい。
 というようなことは、建国早々に起きたある事件から推測できるのです。
 それは「サビーニの女たちの強奪」事件・・・
 
  

ローマから日本が見える 1

2006-01-31 00:28:35 | Weblog
 塩野七生さんが去年6月に集英社から発行した本です。
 イタリア半島中部の寒村に過ぎなかったローマがアフリカからヨーロッパに及ぶ世界帝国にまで発展した過程を観察することによって、現代の日本が抱える問題に対する解決のヒントを得よう、と言うコンセプトの下に書かれています。
 また、結果的に塩野さんのライフワークである<ローマ人の物語>シリーズのダイジェスト版にもなっています。

 ここでローマ人っぽく、演説をかまします。
 歴史とは、ほこりの積もった古文書の山ではありません!
 過去の人々が回転する車輪のごとく懸命に生きた、血と汗と涙の物語です。
 そしてまたファンタジーの母体でもあります。
 例えば、「遠い昔、シーザ-という若い将軍がいました・・・」と語りはじめれば、そのまま物語りですし、より面白くするために少しだけフィクションを加えて、「・・・断崖に追い詰められたシーザーに、ガリア人の投げた斧が突き刺さろうとした、正にその瞬間、上空に白いドラゴンが現れ・・・」と言えばもうファンタジーです。
 そんな歴史が面白くないはずありません!
 にも関わらず、歴史という言葉からはカビの匂いがしています。
 それは何故か?
 年号のせいです。
 学校のテストで悩まされた1192つくろう、とか1333とかの年号のトラウマに呪われているのです。
 つまり我々の頭の中で歴史と年号を憶えることの苦痛が結びついています。  
 鎌倉幕府ができるまでのいきさつ、その過程での葛藤、後の影響など、どこをカットしても素晴らしいドラマに満ちています。また人々の生き様から、勇気や教訓を貰うことができます。
 しかし年号は単なる結果に過ぎません。それは歴史の表面に貼り付けられた単なるシールです。
 だから、もうそんな過去のトラウマは捨てて人間のドラマとして歴史を眺めなおしてみようじゃありませんか!

 塩野さんの経歴を紹介します(カバーに書いてあったままですが)。
 1937年7月7日 東京生まれ。
 学習院大学文学部哲学科卒業
 1963から1968年にかけてイタリアで遊びつつ、学ぶ。
 1968年より執筆活動を開始。
 主な著書に<ルネサンスの女たち>
 <チェザーレ・ボルジア あるいは優雅なる冷酷>毎日出版文化賞。
 <海の都の物語>サントリー学芸賞。などなど
 1992年より、ローマの1000年以上にわたる興亡を描く<ローマ人の物語>を1年1作のペースで書きつづけている。2006年完結の予定。
 1970年よりイタリアに在住。

 7日生まれだから七生さん・・・
 それはともかく、内容の方に行きたいのですが、その前にエクスキューズさせて下さい。
 これから書くことは<ローマから日本が見える>からの情報がほとんどですが、ウィキペディアや司馬遼太郎など別のも混ざっています。
 それは僕の関心がこの本ではなく、ローマの歴史そのものにあるので、平行して雑多なものを読んだからです。
また、この本でかなりのウェイトを占める日本の政治に対する言及、例えば55年体制自民党と共和制ローマの元老院との比較とかも関心外なので全部パスしてあります。それと章の分け方も自分独自のものです。
 だから、<ローマから日本が見える>の紹介としては良くありません。
 では行きます。