「織田信長は鉄砲の性能を重視し、戦国時代の軍の
進め方を飛躍的に進歩させた」ということになって
いますが、本当にそうでしょうか?
永禄元年(1558)7月、信長は岩倉城の伊勢守織田家
(信賢)を攻めるため浮野に陣を構えます。そのとき
の話、信長方橋本一巴(鉄炮)と岩倉勢林弥七郎(弓)
の一騎打ちの場面が出てきます。林はあいか(?)の
4寸の矢じりの矢を番え、橋本は二つだまで鉄炮を放ち
ます。もし1543年に、教科書どおり鉄炮伝来している
ならば、15年で『二つだま』による攻撃まで開発された
ことになり、武器の工夫開発はすごい勢いで進んだこと
になります。ちなみに、この『二つだま』というのは、
当時の鉄炮撃ちたちが、「鉄炮はすぐかやくを詰める
部分が加熱するため、連発できない」と熟知して開発
した方法と思われます。
また逆に従来の武器『弓矢』も、『4寸のやじり』と
いうと『12cmのやじり』ということになりますから、
小さな包丁が飛んでいるようなすごい武器に変化して
います。
つぎに諸書から鉄砲に関わる記述を羅列してみます。
*1543年 鉄砲伝来
*1544年 足利12代将軍義晴が流浪先の近江国
国友村の鍛冶に種子島銃の製造を命じ新造の銃二挺
を献上させる
*1552年 信長が斎藤道三と面会するときに「弓・鉄炮
500挺」の記事あり
*1554年 近江朽木にいた将軍足利義輝に大友宗麟
が「南蛮鉄放」を献上
*1554年 信長村木取手攻めで、実戦で初めて鉄炮
を撃つ
*1554年 薩摩岩剣城攻めで、日本で初めて(おそらく
世界ではじめて)鉄砲隊による攻撃が行なわれる
*1556年ごろ 信長が鉄炮の稽古をしていると尾張の
僧天沢が武田信玄に語る
*1556年 斎藤道三救援が失敗し退却するとき信長
が鉄炮を打つと敵が近づいてこず退却できたとある
*1556年 山科言継、駿河で義元から鉄炮で撃った
鳥を送られる
*1558年 浮野の合戦での林弥七郎の弓と橋本一巴
の鉄炮の一騎打ち
*1559年 大友宗麟、将軍義輝に鉄炮を進上する→
うち一挺は上洛した長尾景虎に下賜される
*1559年 信長岩倉攻めで2~3ヶ月火矢・鉄炮を撃ち
こむ。これがおそらく信長が集団で鉄炮を使った最初
の例
*1560年 将軍足利義輝に大友宗麟が「石火矢」と
「種子島筒」を献上
*1560年 桶狭間では、信長軍には鉄炮の記載がなく、
今川軍のほうに鉄炮の記載がある
その後の信長のいくさでは全く鉄炮の記述が見られず、
1569年の伊勢平定戦で「鉄炮衆」の語が初めて出て
きます。若者の頃練習していたわりには、戦略的に
鉄砲を使用するまでにかなり時間がかかっていると
いうことです。
【備考】上記の鉄砲に関する記述は
①角川ソフィア 信長公記
②学研歴史群像シリーズ⑫ 戦国九州軍記
③鈴木眞哉/洋泉社 鉄砲と日本人
から引用しました
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