『いいかよく聞け、五郎左よ!』 -もう一つの信長公記-

『信長公記』と『源平盛衰記』の関連は?信長の忠臣“丹羽五郎左衛門長秀”と京童代表“細川藤孝”の働きは?

小山田昌行(をやまだまさゆき)

2020-04-28 00:00:00 | 信長公記の蔵:人物篇
小山田昌行(をやまだまさゆき)

<現代仮名遣い>おやまだまさゆき


備中守。石田の小山田氏。仁科盛信の脇大将と

ある。

1582年3月高遠城の軍で、信忠の軍と戦い討死に。


 ※以上で「信長公記の蔵:人物篇」の記事

  入力完了
です。あ行を赤川景弘でスタ

  ートしたのが2015年1月ですから、5年

  4か月かかりましたね。次は「源平盛衰記

  の蔵:人物篇」の続き
に取り掛かりますが、

  その前に「連続読み物『いいかよく聞け、

  五郎左よ!』」を再掲
してみます。よろし

  くどうぞ!

  
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小山田昌貞(をやまだまささだ)

2020-04-27 00:00:00 | 信長公記の蔵:人物篇
小山田昌貞(をやまだまささだ)

<現代仮名遣い>おやまだまささだ


大学。小山田昌行の弟。

1582年3月高遠城の軍で、信忠の軍と戦い討死に。

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小山田信茂(をやまだのぶしげ)

2020-04-26 00:00:00 | 信長公記の蔵:人物篇
小山田信茂(をやまだのぶしげ)

<現代仮名遣い>おやまだのぶしげ

※下線部は信長公記以外の記事によります。


武田氏に仕えた甲斐国都留郡谷村城主。譜代

家老衆二百五十騎持。父は左兵衛尉信有。信玄

に従い、武蔵国八王子の戦いに戦功があった。

1582年3月武田勝頼は新府の館に火をかけ人質

    を焼き殺した後、正室・高畠のおあひ・伯

    母大方・お松・信玄京上臈の女らを連れ

    て勝沼から駒飼の山家に逃れる。がしか

    し、頼りにしていた小山田信茂から受け

    入れを拒否され、田子の平屋敷に入る。

結局信茂は、信長に討ち取られる。


 ※武田勝頼滅亡の一因を担ったのに

  信長公から誅伐される・・いったい

  なにがあったんでしょう・・
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小山田出羽守(をやまだでわのかみ)

2020-04-25 00:00:00 | 信長公記の蔵:人物篇
小山田出羽守(をやまだでわのかみ)

<現代仮名遣い>おやまだでわのかみ


不詳。

1582年3月甲府に入った織田信忠に、探し出され

    誅される。

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尾張衆(をはりしゅう)

2020-04-24 00:00:00 | 信長公記の蔵:人物篇
尾張衆(をはりしゅう)

<現代仮名遣い>おわりしゅう


1581年2月京都の馬揃えで、一門衆として馬乗り

    80騎・美濃衆・尾張衆を率いて馬場入り。

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小原丹後守(をばらたんごのかみ)

2020-04-23 00:00:00 | 信長公記の蔵:人物篇
小原丹後守(をばらたんごのかみ)

<現代仮名遣い>おばらたんごのかみ


忠継。甲斐武田氏の臣。栗原筋小原郷領主。

1562年武田勝頼が伊那郡代として信濃高遠城

    に入ったとき、つき従った八人の侍大将

    の一人。奉行・代官などを歴任。

1582年3月田子の館の軍で討ち死に。

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小原下総介(をばらしもうさのすけ)

2020-04-22 00:00:00 | 信長公記の蔵:人物篇
小原下総介(をばらしもうさのすけ)

<現代仮名遣い>おばらしもうさのすけ


不詳。

1582年3月田子の館の軍で討ち死に。


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小原鎮実(をばらしげざね)

2020-04-21 00:00:00 | 信長公記の蔵:人物篇
小原鎮実(をばらしげざね)

<現代仮名遣い>おばらしげざね


肥前守。はじめ三河吉田城を守備したが、1564年

松平家康の攻撃を受けて開場退去。信長公記では

花沢城にこもり、武田信玄の取りかけを撃退したと

ある。

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小幡信真(をばたのぶざね)

2020-04-20 00:00:00 | 信長公記の蔵:人物篇
小幡信真(をばたのぶざね)

<現代仮名遣い>おばたのぶざね


上野嶺城主。信長公記注では「信貞・信真父子」

であるが、人名事典では「重貞・信貞父子」とな

っている。

1582年3月織田信忠が織田勝長・団忠直・森長可

    を上野方面へおくると、小幡信真が人質

    を進上してくる。

1582年3月小幡信真は、甲府の織田信忠の陣に

    参上。滝川一益の同行により、帰参のお

    礼を申上し、暇を下され帰国する。


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小幡信貞(をばたのぶさだ)

2020-04-19 00:00:00 | 信長公記の蔵:人物篇
小幡信貞(をばたのぶさだ)

<現代仮名遣い>おばたのぶさだ


西上野の小幡。信長公記注では「信貞・信真父子」

であるが、戦国人名事典では「重貞・信貞父子」と

なっている。

1575年5月長篠の合戦に武田方として参戦。三番

    手として赤武者のそなえで信長方に攻め

    込むも、鉄砲隊に打ち立てられ退却。退却

    中に討ち取られる。


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