『いいかよく聞け、五郎左よ!』 -もう一つの信長公記-

『信長公記』と『源平盛衰記』の関連は?信長の忠臣“丹羽五郎左衛門長秀”と京童代表“細川藤孝”の働きは?

巻一の四 松平次郎三郎元康のこと

2025-01-26 00:00:00 | 連続読物『いいかよく聞け、五郎左よ!』
<初出:2007年の再掲です。>

巻一の四 松平次郎三郎元康のこと

 三河と尾張の境界争いについては、実はかなり深

い因縁がある。応仁元年(一四六七)の応仁の乱発

生の頃は、斯波氏が越前・尾張・遠江の三国守護を

兼任していた。がしかし、文明四年(一四七一)五

月、応仁の乱の最中、朝倉敏景(孝景)が西軍から

東軍に寝返り将軍義政から越前守護に補任され、ま

ず越前を失う。次に文明七年(一四七五)斯波義廉

(西軍)が尾張の織田敏弘(西軍)を頼り尾張に下

向したが、この後は名目上尾張守護だが実質上尾張

は織田家が支配することとなる。最後に永正十四年

(一五一七)管領家斯波義達が遠江引馬城(現在の

浜松城)に籠城し今川氏親(義元の父)の攻撃に敗

れ遠江を失う。といった次第で斯波家は三国を失い、

三河地区は尾張織田方も駿河今川方も「自領である」

と主張するようになる。信長の父信秀の時代には、

「主君斯波氏の失った遠江まで取り戻す」という大

義名分が立ち、比較的三河・遠江には進出しやすか

ったこともあり、天文九年(一五四0)には三河安

祥城を攻陥し、信長の異母兄織田三郎五郎信広を城

主においている。その三河の地付きであった松平氏

は、元康の祖父松平清康・父広忠ともに不慮の死を

遂げたために、元康の時代には『駿河・遠江今川家

の三河地区駐在人』という立場となっていた。その

元康にせよ、子供の頃今川家への人質として駿河へ

向かう途中親族(父広忠の舅戸田康光)の裏切りに

あい尾張熱田社で織田家に保護されるという悲惨な

経験を持つ。

 そういった中、父信秀の死後信長は三河で駿河方

と小競り合いを行なってきたが、美濃の家内争いが

本格化して三河に手を入れられなくなったため、弘

治二年(一五五六)信長は長秀を通じて駿河方と申

し合わせ、斯波義銀(織田信長お伴)と三河の吉良

義昭(駿河方お伴)を三河上野原で参会させた。こ

れは互いに「しばらく天白川と境川の間の件では動

かないようにしよう」という一時停戦の意味があっ

た。ところが何を考えたか松平次郎三郎元康は、二

年前の永禄元年(一五五八)、駿河方が確保してい

た大高城に兵粮入れをしたところまでは良かったが、

勢いで寺部城(織田方鈴木重辰)を攻撃して帰って

しまったのである。これは完全な停戦違反であり、

丹羽長秀も織田家の取次ぎ衆として駿河今川方に猛

抗議した。今川方も、もし「智謀神の如し」と称さ

れた太原雪斎が存命であれば、すばやく侘びを入れ

ただろうが、有象無象の集まりとなっていた当時の

今川家は、織田家に何の返答もよこさなかった。洋

の東西を問わず、政治や軍事で問題が起きた時は、

基本的に道理に基づきたてまえ論で対応することに

なっており、織田方もたてまえ上やる必要のない軍

(尾張東部の品野城城主松平家次攻め)をやる羽目

になってしまった。勝つ気のない軍であるから当然

織田方の敗戦で終了。今川方も領地内の松平氏が攻

められたのだから、たてまえ上織田方に対して何か

行動しなければならない。それが今回の今川義元の

進軍につながっている。

「あれだけ熱田社でかわいがってやったのに、何で

このようなわけのわからない行動を取るのか!恩を

仇で返す気か竹千代は!」

考えるだけで五郎左衛門の頭の血は沸き胃はむせ返

る。

 清洲まではあと半時(一時間)だが、今のところ

『飛び馬』からは異常が伝えられていない。愛馬

『二寸殿(にきどの)』の腹帯あたりを軽くかかと

でつつき、清洲への歩みをはやめる。

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