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松本さんの絵 第40 ◎ 金網の破れ目を利用して物々交換をしている市民を見ていた父

2013年01月21日 20時16分10秒 | 日記
 
 
 
   図84       2009年09月03日(木)

  大原の先を安曇川にそって一時間ほど車で走ると、朽木村のキャンプ場があります。ここまで来ると、京都市内よりも涼しく、テントのなかでワインを飲んで、すっかりリラックスしました。夏の夕暮れで、まだ明るくシートを出して寝ころがっていました。いい風が吹いて心地よく、川の音もなかなか良いものです。空を見ていると、チクッと左の耳たぶが痛みます。かゆいので爪でかきました。手が汚れていてばい菌が入ったようで、しばらくすると赤く腫れて、首筋が熱っぽくなった。 毒虫に刺されたらしく気味が悪いので、ここでのキャンプは中止して、テントを撤収しました。帰宅して風邪薬の残りの抗生剤を飲み、氷で耳を冷やし、塗り薬をつけました。その日は腫れが引いたので、安心して寝ましたが、翌朝、妙に頭が熱っぽくなりました。首筋と耳の付近が痛み急ぎ休日診療の病院に行くことにしました。

泉涌寺の第一日本赤十字病院に電話したら、いつでも来てくださいとのことで、救急外来に行きました。待合いでは、交通事故でかなりの出血した負傷者や、切迫流産を心配するひと、豚インフルエンザの疑いのありそうな人で、混雑しています。耳たぶが腫れて痛みますが、こんな程度の傷で救急外来に来てしまい、すこし肩身がせまくなりました。しかし豚インフルエンザが発生中なので心配になり、100円でマスクを購入しました。自宅近くの病院ですが、いままで診察を受けたことがありません。長いすに座って待っている間に、眠くなり、夢うつつで亡き父の話を思い出した。(第1話 ) 戦後の1950年代、病院は進駐軍が宿舎として利用していました。父は仕事の帰りに泉涌寺で市電を下りると、日赤病院前で市電を降りて帰宅していました。そのとき金網越しに進駐軍の兵隊と英語で話をしていたようです。戦後は食料不足だった。金網の破れ目を利用して物々交換をしている市民を見て、骨董品やら、役立たないものを持っていって食べものと交換したそうです。しばらくしてビクター君と仲良くなったと、聞いています。(第2話 )、いまの病院は増築してあるけれど、当時の建物と、外観はあまり変わりません。赤十字病院は、当時は金網があり、中は緑の芝生があり、白人の看護婦兵とカーキ色の軍服の若者が病院から出て、付近でデートしていました。病院の裏に月輪寺(歴代天皇の菩提寺)があり、その参道で、よく見かけました。彼らは三角巾を折った様な帽子をかぶっていました。マクドナルドの従業員が頭にのせている飾りと同じような帽子でした。