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松本さんの絵  第187◎昭和9年4月3日、前穂高北尾根第三峰で、暗くなり露営します

2013年01月04日 16時07分41秒 | 日記

 


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図300      加藤文太郎編 その2

 原文をよむと、昭和3年、4年のころにの登山事情が少しわかったような気がします。若くして冬の槍が岳、北鎌尾根で遭難しますが、加藤氏自身の遭難記録はないので、遭難後に発見された当時の状況をもとに、吉田氏と二人の最期の足取りを谷甲州が、解き明かしています。

谷甲州のアラインゲンガーは、読みごたえがありました。加藤氏の原文では、実直な人柄がよくわかります。冬から初春のもっとも厳しい日本アルプスに魅了されますが、父の死を境に、前穂高北尾根、槍北鎌尾根で区切りをつけたかったように感じました。そして、これまでの単独行にこだわらず、前穂高からは吉田氏と二人で冬山に挑みます。以下は記録に残る末期の山行きです。昭和9年4月3日、前穂高北尾根第三峰で、暗くなり露営します。雪崩を警戒して、チムニーの雪をかきだして、穴に入り、一夜を明かします。

 

原文から

 

岩と雪の斜面を登ろうとしたが、雪がひどく降り出して。。。。。とうとう諦めて、このチムニーの雪の孔へ 引き返したのである。チムニーの中に掘ったトンネルは傾斜が急なので、別に水平の孔をチムニーの出口のところへ堀り、やっと二人横になれるほどの大きさに広げ二組のワカンを敷きザイルを広げて床を作った。早速コッヘルを使用して食事をとる。吉田君の持ってきた豆の煮たのをコッヘルであたためて食べたが、これがとてもうまかった。いろいろな物をコッヘルであたためては鱈腹(たらふく)たべたので、持ってきたものを全部着た上、足は靴をはいたままルックザックの中にいれ、頭を奧にして二人は互いに押し合いながら横になった。夜の更けるに従って吹雪はますます勢いをまし、北尾根に当る風の音が物凄く唸り出してきた。

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松本さんの絵  第188◎先に進むつもりが、暗くなり、チムニーの穴に戻って一夜を過ごします。

2013年01月04日 14時35分44秒 | 日記

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図301    加藤文太郎編  その3

             前穂高北尾根第三峰


加藤文太郎とパートナーの吉田は、チムニーの中の雪を掘り出して雪庇の上に出て、先に進むつもりが、暗くなり、チムニーの穴に戻って一夜を過ごします。



 以下原文から


第三峰のチムニーの下へきたときには予想外に、時を経ていた。ここで取り付きやすい左のチムニーに入ったが、これには全部雪が詰まっていて上の方に雪庇さえ懸かっていた。その雪庇を落とすために二、三度努力してみたけれど、ピッケルが思うようにとどかぬので、諦めてその下を斜めに掘り始めた。このトンネル作業はピッケル以外に適当な道具がなかったため実に労が多く、三時間ほどもかかってやっと抜け出すことができた。しかしもうそのときは夕闇がせまり、その上雪まで降り出してきた。そこからしばらく右へ雪の斜面を登ると本尾根へ出ることができた。本尾根は大きな岩のリッジになっているので、少しく右へ下り気味に涸沢側を巻き、そこより真上に岩と雪の斜面を登ろうとしたが、雪がひどく降り出して懐中電灯の光ではコースがよくわからず、とうとう諦めてこのチムニーの雪の孔へ引き返したのである。

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松本さんの絵  第193◎おすましの味がいいです。名物のゆでた卵は、あじわって食べました。

2013年01月04日 14時27分15秒 | 日記

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 図310      2011年04月23日(土)

                       瓢亭


 きょうは岡崎の瓢亭にて、食事の集いです。京都の老舗料理めぐりはまだ続きます。そもそも、このような企画をするのは思いつきではありません。一人では料亭に入りずらいし、楽しめないです。また高ければそれなりに納得してゆくので安心です。いま最高の店にいかなければ、もはや

機会はありません。現役の頃に、高い地位に就いていれば接待や宴会で赤坂の料亭、祇園、南禅寺のお茶屋にいったかもしれません。残念ながら、私の知人にはそんなひとはいませんでした。

さて瓢亭は朝がゆが有名なので、食べたいのですが、そんなに朝早く、

集まれるわけもなく、昼の食事です。400年の歴史のある店ですが、別館ができ、利用しやすくなりました。義姉が誘ってくれたときは本店のみで座敷しかなかったので、座っての食事はしんどいと思います。そのときは、都合で行けなかったのですが、いまは亡き姉にもらった食事代で、約束を果たすことが出来ました。ちなみに料理は、おすましの味がいいです。名物のゆでた卵は、あじわって食べました。

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松本さんの絵  第191◎避難小屋のかわりに横尾谷の岩小屋で寝泊まりできたころの話です。

2013年01月04日 14時25分47秒 | 日記


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図305 2011年04月17日(日)

      加藤文太郎編 その1 

         旦夕って?


 穂高の屏風岩を登る人や、避難小屋のかわりに横尾谷の岩小屋で寝泊まりできたころの話です。私が10代の頃は、その岩小屋に泊まれましたが、いまは土砂で埋まっています。加藤文太郎は、昭和8年前後に、岩小屋を何度か利用したようです。単独行から雪と岩に魅せられたころで、吹雪のなかを前穂高の北尾根に登り、チムニーで夜を明かして、仲間(吉田)が凍傷にかかります。その後、再び訪れた岩小屋で、知人から 旦夕(たんせき) という言葉を耳にします。その数年後に槍ヶ岳北鎌尾根で、仲間と共に、雪の中を千丈谷に転落、旦夕の予言どおりになってしまいます。


以下は原文から


昨年の三月私は横尾谷にある松商の岩小屋をおとずれたことがある。ちょうどその年の一月屏風岩を登った中村氏らがいて非常に歓待してくれた。

そのとき私は入り口においてある大きな白樺の木へ腰をおろして焚き火にあたっていた。ところが中村氏は私にむかって「君の生命は旦夕にせまっている」というのである。それはどうしてだと聞いてみると、実は去年の今ごろ、今は亡き神戸の三谷氏が友達と二人で君と同じように飄然とここへやってきたが、そのとき三谷氏は現在君のいるところへ全く同じようにそこへ腰をかけていたし、また同じく神戸の金光氏および有明の案内塚田君もやっぱり同じようにそこへ腰をかけていたのだ。だから君ももう長くはないというのである.

cf.参考図書 単独行 加藤文太郎 昭和15年6版 (京都府立図書館)

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松本さんの絵 第206◎ハードはいいけれど、ソフトの登山技術や訓練に比重をかけるべきと思うのです

2013年01月04日 14時22分02秒 | 日記
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図317  2011年07月31日(日)  

       ハードはいいけど


 娘は、8月初めに富士登山に挑戦するのだそうです。銀閣寺の裏山の大文字山に2回ほど登った経験しかないですが、リーダーについてグループ登山をするそうです。7月下旬までにハードの準備はできたようで、リュックに全装備を詰めて部屋の中で歩く練習をしています。

私は、富士山は結構しんどいと思い、まだ登ったことはありませんでした。高峰といえば日本で二位になる南アルプス北岳や、3000米を越す穂高や剣岳などは登っています。しかし富士のように五合目から登れる山はまずありません。若さがあるので、大丈夫とはおもうのですが心配です。

いまはやりの熱中症、低体温とか、落石事故に巻き込まれないように、リーダーの指示をしっかり聞いて、時には助けてもらうこともひつようです。もしもリーダーが転落しても、助けなくてもいいよ、と言ってあります。まず自分の安全を優先して救助要請に下山することです。リーダーは自力で生きていける力を持っている必要があります。リーダーは自分を犠牲にしても、全員の救助を優先する立場です。私の場合は単独行ですが、もしもリーダーをひきうけるなら、そういう覚悟をします。

リュックの重量は5キロから6キロ程度にするように練習しています。靴を入れると9キロくらいになるかもしれません。とにかく訓練なしで、3700米の富士に挑戦するのは、疑問ですが、いま富士登山は人気らしく、そういうひとも結構登っているのかもしれません。ハードはいいけれど、ソフトの登山技術や訓練に比重をかけるべきと思うのです。