▽久しぶりにblog編集画面を開いたら、
いつの間にかgooblogとFacebookの連携が終わっていました。
▽投稿するたびに毎回毎回久しぶりって言ってるなこいつ。
▽今日は仕事終わりにチョイ飲みに。
の、はずだったのだけれど結局1時過ぎに帰宅。
▽先輩の愚痴を聞いていました。
▽愚痴を聞くのはできるのだけれど、
相談に乗るのは苦手。
▽共感性が強い性格なので、
相手の言い分がよくわかる。
その通りだと思ってしまう。
そんな心境だと反対意見はなかなかでないから、
相手にとっても安心して愚痴を言える相手たり得る。
自分で言うのもな話だけれど。
▽多少自分と合わないなとか、おかしいな、と思っても
その人がその発言の後にどんなことを言おうとしているかはその段階ではわからないので
何もつっこまず適当な相槌を打って後を聞いてしまう。
その人の持っていきたい結論までは聞いてみよう、という感じ。
聞いてたら気づくと2時間くらいたっちゃってて自分の意見は言わないまま終わる。
別に言いたいことは無いことが多いのだけれど。
そうなんだ。そういう考え方もあるんだね。と思って終わってしまう。
自分が違う意見を持っていても別に相手に理解してほしいわけではなく、
理解してほしいわけではないから言わない。
結果として「愚痴の目的は言いたいだけ、誰かに聞いてほしいだけ」という仕組みと相まって、
なんとなくその場は円満に終わる。
と、今までは自分は「自分のことを理解されなくていいと考えている人間なんだ」と思って生きてきたけれど、それは違うかもしれないな、と今日思った。
▽自分の発言で相手が行動を変えてしまう可能性がある、ということが常に考えの中につきまとってるんじゃないかな。とふと思った。
自分が自分の意見を発言してしまうことで、その人が考えを変えて、行動を変えてしまうかもしれない。
そしてその行動がもとで後悔することがあると、「あいつとは合わない」とか「あいつに話すんじゃなかった」とか思われるかもしれない。
ぜんぶ「かもしれない」の話だけれど、それがもとで嫌われるんじゃないかという危惧が、頭のどっかにある。
嫌われたくないという思いがあって、ただ聞くだけの役に回っている。臆病な自分がいる。
ような気がする。
▽だから、「どうしたらいい?」って聞かれるのが苦手。
たぶん「知らんがな。」って言いたいんじゃないかな。俺。
「どうせどの選択肢を選ぼうがなにかしらの後悔はするんだろうからその後悔に俺を巻き込まないでくれ」とか心の片隅で思ってそう。
話を聞いているときはそんなことが頭の片隅にあるとは全く感じずに、真剣にその人のことを考えて、その人はどうするのがいいか考えてる気がするんだけど。
後になって「なぜ明確な返答ができなかったのか」とか考えると、そういう思いがある。
んじゃないかと思う。
▽相談事を受けた時の桑谷の返答は
「でも○○するのは嫌なんだよね?」とか「○○になるのも困っちゃうもんね」とか、うまい事逃げたもの。
自分で言うのもな話だけど。
「こうしたらいい、という結論出すのは嫌だからなんとなく君がしなさそうなこととか世間的に選びにくそうな選択肢を言うね。」
っていうもの。
▽あと、「こうしたらいい」って言っちゃうと、そのあとその人が本当にそうしたときに全面的に協力しなきゃいけなくなるのが怖い。
ありがたくもその人が自分の進言を受け入れ、その人がそう行動してくれる限り自分は相手を応援し続ける理解者でなくてはいけない。
無責任な人にならないためには。
信用を無くさないためには。
嫌われないためには。
ずっとその人の味方で居られるかはわからないから、「決めたのはあなたですよ、全責任はあなたにありますよ。」そう思っちゃってるから、
明確なアドバイスができない。
▽それでも結構、自分に愚痴をもらしたり相談に来てくれる人はいるので、前述の話の聞き方は間違った行動ではない気がする。
右か左かを俺は選ばないし選べないけれども、君が右か左かをできるだけ公平に、メリットもデメリットも考えたうえで決断できるような立ち位置に来れるくらいまでなら相談に乗るし意見もしますよ、っていうスタンスになってる。
おしつけない感じが相手の相談しやすさにつながってる
んじゃないかなぁ。
自分で言うのもな話だけど。
▽ちなみに俺が相談を持ちかけるときは誰かに決断してもらってほしいときなので、
自分みたいなやつには絶対に相談しない。
決断して失敗したら心の中で相談に乗ってもらったその人のせいにしたい。
屑かよ。
いつの間にかgooblogとFacebookの連携が終わっていました。
▽投稿するたびに毎回毎回久しぶりって言ってるなこいつ。
▽今日は仕事終わりにチョイ飲みに。
の、はずだったのだけれど結局1時過ぎに帰宅。
▽先輩の愚痴を聞いていました。
▽愚痴を聞くのはできるのだけれど、
相談に乗るのは苦手。
▽共感性が強い性格なので、
相手の言い分がよくわかる。
その通りだと思ってしまう。
そんな心境だと反対意見はなかなかでないから、
相手にとっても安心して愚痴を言える相手たり得る。
自分で言うのもな話だけれど。
▽多少自分と合わないなとか、おかしいな、と思っても
その人がその発言の後にどんなことを言おうとしているかはその段階ではわからないので
何もつっこまず適当な相槌を打って後を聞いてしまう。
その人の持っていきたい結論までは聞いてみよう、という感じ。
聞いてたら気づくと2時間くらいたっちゃってて自分の意見は言わないまま終わる。
別に言いたいことは無いことが多いのだけれど。
そうなんだ。そういう考え方もあるんだね。と思って終わってしまう。
自分が違う意見を持っていても別に相手に理解してほしいわけではなく、
理解してほしいわけではないから言わない。
結果として「愚痴の目的は言いたいだけ、誰かに聞いてほしいだけ」という仕組みと相まって、
なんとなくその場は円満に終わる。
と、今までは自分は「自分のことを理解されなくていいと考えている人間なんだ」と思って生きてきたけれど、それは違うかもしれないな、と今日思った。
▽自分の発言で相手が行動を変えてしまう可能性がある、ということが常に考えの中につきまとってるんじゃないかな。とふと思った。
自分が自分の意見を発言してしまうことで、その人が考えを変えて、行動を変えてしまうかもしれない。
そしてその行動がもとで後悔することがあると、「あいつとは合わない」とか「あいつに話すんじゃなかった」とか思われるかもしれない。
ぜんぶ「かもしれない」の話だけれど、それがもとで嫌われるんじゃないかという危惧が、頭のどっかにある。
嫌われたくないという思いがあって、ただ聞くだけの役に回っている。臆病な自分がいる。
ような気がする。
▽だから、「どうしたらいい?」って聞かれるのが苦手。
たぶん「知らんがな。」って言いたいんじゃないかな。俺。
「どうせどの選択肢を選ぼうがなにかしらの後悔はするんだろうからその後悔に俺を巻き込まないでくれ」とか心の片隅で思ってそう。
話を聞いているときはそんなことが頭の片隅にあるとは全く感じずに、真剣にその人のことを考えて、その人はどうするのがいいか考えてる気がするんだけど。
後になって「なぜ明確な返答ができなかったのか」とか考えると、そういう思いがある。
んじゃないかと思う。
▽相談事を受けた時の桑谷の返答は
「でも○○するのは嫌なんだよね?」とか「○○になるのも困っちゃうもんね」とか、うまい事逃げたもの。
自分で言うのもな話だけど。
「こうしたらいい、という結論出すのは嫌だからなんとなく君がしなさそうなこととか世間的に選びにくそうな選択肢を言うね。」
っていうもの。
▽あと、「こうしたらいい」って言っちゃうと、そのあとその人が本当にそうしたときに全面的に協力しなきゃいけなくなるのが怖い。
ありがたくもその人が自分の進言を受け入れ、その人がそう行動してくれる限り自分は相手を応援し続ける理解者でなくてはいけない。
無責任な人にならないためには。
信用を無くさないためには。
嫌われないためには。
ずっとその人の味方で居られるかはわからないから、「決めたのはあなたですよ、全責任はあなたにありますよ。」そう思っちゃってるから、
明確なアドバイスができない。
▽それでも結構、自分に愚痴をもらしたり相談に来てくれる人はいるので、前述の話の聞き方は間違った行動ではない気がする。
右か左かを俺は選ばないし選べないけれども、君が右か左かをできるだけ公平に、メリットもデメリットも考えたうえで決断できるような立ち位置に来れるくらいまでなら相談に乗るし意見もしますよ、っていうスタンスになってる。
おしつけない感じが相手の相談しやすさにつながってる
んじゃないかなぁ。
自分で言うのもな話だけど。
▽ちなみに俺が相談を持ちかけるときは誰かに決断してもらってほしいときなので、
自分みたいなやつには絶対に相談しない。
決断して失敗したら心の中で相談に乗ってもらったその人のせいにしたい。
屑かよ。
ちなおれは愚痴を聞いているはずがいつのまにかおれの愚痴になっていることが多々ある。
1愚痴聞いたら10愚痴返すみたいな。
相手の愚痴を聞いてあげられる人、スゲーと思う。