その1
▽僕は本が好きで笑いが好きである。
本好きのルーツは前回の記事で書いた通り。
(只今ブログ開始後初の試みとして連載物の投稿に挑戦しています。この記事自体は単体で読んでも大丈夫なように書いていますが前回の記事が読みたい方は冒頭の「その1」をクリックしてください)
笑い好きに関しても何度かブログで触れたかもしれない。
しかしせっかく前回一冊の絵本をきっかけに自分のルーツを探る旅(という名の回想)に出たので、今の自分を支えている「笑い」についてもここで触れておこうかと思う。
▽「笑い」であって「お笑い」と書かないのは、僕の好きな「笑い」が芸能としての「お笑い」に関することにとどまらないためである。
日常会話の中で微笑むのも「笑い」であるし、読書中にふきだしてしまうのも「笑い」である。
僕の中には「笑い」の中の一つのコンテンツとして「お笑い」があるわけだ。
とはいえ最初に意識して面白いと感じた「笑い」が「お笑い」であったこともまた書いておかなければと思う。
▽幼いころは・・・こう書くといつが「幼い」ころとそうでないころの堺なのか、お前はもう幼くないのか、とも思ってしまうが、
現在の自分から見て幼稚であったころは、ザ・ドリフターズが5人そろってテレビに現れる事が減ってきた、グループの晩年とも言えるころであった。
「8時だヨ!全員集合!」はリアルタイムで見た覚えがない。
幼心に楽しみにしていた特別番組の「ドリフ大爆笑」も新作コントではなく旧作に字幕をつけて編集し直したものにすぎなかったと思う。
それがわかったのはつい最近になってからで、もちろん当時はそんなこと思いもよらなかった。
自分の見ているテレビ放送は常に最新のものだと思っていた。
だからディズニーの白雪姫も自分の生まれる55年も前の作品と知った時は驚愕したものである。
驚愕は言いすぎか。そこまで白雪姫が自分の人生に大きな影響を与えていたものとも思わないし。
もとい、それほど前の作品と知って驚いたものである。
「志村けんのバカ殿様」には、田代まさしが出ていた。
自分にとって「お笑い」とはドタバタしているもので、それが面白いと思っていた(今も思っているけれど)。
▽ドタバタしていないお笑いを面白いと感じるようになったのは小学校6年の時。
ラーメンズを見てからである。
彼らは単に面白い動き、面白い言葉ではなく、笑うためにはちょっと考えなければならない脚本に力を入れた芸人である。
彼らの言を借りるなら「日常の中の非日常ではなく非日常の中の日常」の世界観にはまった。はまっている。
彼らのビデオだかDVDだかは、兄か姉が友達から借りてきたものを一緒に見せてもらっていた。
見せてもらった、というか勝手にテレビのある部屋に入って見ていたわけだが。
彼らに出会った(ここで言う「出会った」はお互いに存在を確認し合ったという意味ではない。こちらが一方的に知ったのを強調する意味で用いる)おかげで今の自分の笑いに関する「笑いは知識」という考え方が芽生えたのだと思う。
▽知識は「共通認識」と言い換えてもいいかもしれない。
ただ、「笑いは共通認識」と言うより「笑いは知識」の方がなんとなく語呂がいいからこっちをよく使う。
発信するものと受信するものが同じような考え方、ものの捉え方をしていないと、笑いは誕生しない。
昔話(絵本になるような昔話ではなく例えば小学校時代の思い出を語り合う時の昔話だ)が楽しいのも同じ時間に同じ経験をした者の共通認識を基にしているからだと思う。
僕たちがアメリカンジョークをよく解さないのは、彼らとは世界の認識の仕方、捉え方が違うからだろう。
「お笑い」も共通認識として存在する「(日常生活で)普通はやらないこと」をやり、「(会話の流れの中で)普通は言わないこと」を言うから笑えるのだと思っている。
つまり、手前味噌ながら僕自身は自分のブログでの文章が面白いと思って書いているが、読者数から言って世間に対して僕と同じ(または似たような)認識を持っている人は少ないのかもしれない。
▽最近になって再び本が好きになっていったのもその「笑いにつながりうる知識」をより多く集める中でであった。
もちろんその本の内容がどのようであったかということを他の読んだことのある人と話すだけで笑いにつながる可能性もあるし、
本にはその本の内容を知らなくても他人が笑えるような多くの出来事が書いてあり、多くの言葉が書いてある。
そして物語には色々な性格の人の考え方、認識の仕方が(たとえ著者の想像に過ぎないかもしれないにしても)書いてある。
少し話は変わるが、ものに対するこだわり方や笑いの感覚を見るに僕はどうやら色々な面において少数派の人間のようである。そう感じている。
自分が少数派であると同時に、(数の多い方を一般と見做す民主主義の)この社会で少数派は幸せになれないのではないかと考えていた時期がある。
というか今もちょっと思っている。
しかし少数派であることがまた自分の独自性であるような気もしているので、多数派に合わせるという努力はほとんどしていない。
「色々な考えを持った人間がいたら面白いじゃん」というのがその言い訳である。
少数派では幸せになれない、しかし多数派では自分が自分でおれない。
青春の板挟みである。
アイデンティティクライシスである。
世間はなんとも世知辛いと思ったものである。
現実が辛いものなのであればせめて物語くらいはハッピーエンドであってほしい、空想の世界でくらい人生は楽しいものであってほしい。
そういう思いで本を読むにしてもホラー系や推理物、バッドエンドのものでなくコメディであったりハッピーエンドの物語であったりを中心に読んでいる。
読書が好きでありながら笑いが好きな僕は読後にすっきりと笑っていたいのだ。
▽実はこのブログに書く記事もそのような「どうせ書くなら楽しいことを」という思いが強い。
「どうせブログを書くなら、そして自分以外の人に(その数は少ないながらも)自分の書いたものを読んでもらうのであれば、楽しくて笑えるものを書きたい」という考えがこのブログの記事を作っていく根幹にはある。
時にはネガティブなことを書いてみたりすることもあるが、それは自虐的なものに笑いを求めて、ということが強かったりする。
未来の自分なら笑えるだろうということを書く。
本当に辛い時はブログの更新なんてしない。
この一年か二年ブログの更新を怠ったのは面倒臭さのせいだけではなかったと思う。
もちろん面倒臭さのせいもある。
その一年か二年の中でたまに更新するのは楽しいことが起こった、楽しいことを起こした直後が多い。
気分が明るくなると自然と文章も明るくなるし、生活していて遭遇する「面白いこと」の出現率も上がる。
だからこのブログの更新頻度が低いとき、このブログの数少ない読者の皆様には、僕になにか辛いことだったり悩み事だったり煩わしい事があったのだと察していただきたいものである。
察するだけでなく心配してもらってもいいかもしれない。
こちらもできることなら毎日更新できるような人生を望んでいる。
▽僕は本が好きで笑いが好きである。
本好きのルーツは前回の記事で書いた通り。
(只今ブログ開始後初の試みとして連載物の投稿に挑戦しています。この記事自体は単体で読んでも大丈夫なように書いていますが前回の記事が読みたい方は冒頭の「その1」をクリックしてください)
笑い好きに関しても何度かブログで触れたかもしれない。
しかしせっかく前回一冊の絵本をきっかけに自分のルーツを探る旅(という名の回想)に出たので、今の自分を支えている「笑い」についてもここで触れておこうかと思う。
▽「笑い」であって「お笑い」と書かないのは、僕の好きな「笑い」が芸能としての「お笑い」に関することにとどまらないためである。
日常会話の中で微笑むのも「笑い」であるし、読書中にふきだしてしまうのも「笑い」である。
僕の中には「笑い」の中の一つのコンテンツとして「お笑い」があるわけだ。
とはいえ最初に意識して面白いと感じた「笑い」が「お笑い」であったこともまた書いておかなければと思う。
▽幼いころは・・・こう書くといつが「幼い」ころとそうでないころの堺なのか、お前はもう幼くないのか、とも思ってしまうが、
現在の自分から見て幼稚であったころは、ザ・ドリフターズが5人そろってテレビに現れる事が減ってきた、グループの晩年とも言えるころであった。
「8時だヨ!全員集合!」はリアルタイムで見た覚えがない。
幼心に楽しみにしていた特別番組の「ドリフ大爆笑」も新作コントではなく旧作に字幕をつけて編集し直したものにすぎなかったと思う。
それがわかったのはつい最近になってからで、もちろん当時はそんなこと思いもよらなかった。
自分の見ているテレビ放送は常に最新のものだと思っていた。
だからディズニーの白雪姫も自分の生まれる55年も前の作品と知った時は驚愕したものである。
驚愕は言いすぎか。そこまで白雪姫が自分の人生に大きな影響を与えていたものとも思わないし。
もとい、それほど前の作品と知って驚いたものである。
「志村けんのバカ殿様」には、田代まさしが出ていた。
自分にとって「お笑い」とはドタバタしているもので、それが面白いと思っていた(今も思っているけれど)。
▽ドタバタしていないお笑いを面白いと感じるようになったのは小学校6年の時。
ラーメンズを見てからである。
彼らは単に面白い動き、面白い言葉ではなく、笑うためにはちょっと考えなければならない脚本に力を入れた芸人である。
彼らの言を借りるなら「日常の中の非日常ではなく非日常の中の日常」の世界観にはまった。はまっている。
彼らのビデオだかDVDだかは、兄か姉が友達から借りてきたものを一緒に見せてもらっていた。
見せてもらった、というか勝手にテレビのある部屋に入って見ていたわけだが。
彼らに出会った(ここで言う「出会った」はお互いに存在を確認し合ったという意味ではない。こちらが一方的に知ったのを強調する意味で用いる)おかげで今の自分の笑いに関する「笑いは知識」という考え方が芽生えたのだと思う。
▽知識は「共通認識」と言い換えてもいいかもしれない。
ただ、「笑いは共通認識」と言うより「笑いは知識」の方がなんとなく語呂がいいからこっちをよく使う。
発信するものと受信するものが同じような考え方、ものの捉え方をしていないと、笑いは誕生しない。
昔話(絵本になるような昔話ではなく例えば小学校時代の思い出を語り合う時の昔話だ)が楽しいのも同じ時間に同じ経験をした者の共通認識を基にしているからだと思う。
僕たちがアメリカンジョークをよく解さないのは、彼らとは世界の認識の仕方、捉え方が違うからだろう。
「お笑い」も共通認識として存在する「(日常生活で)普通はやらないこと」をやり、「(会話の流れの中で)普通は言わないこと」を言うから笑えるのだと思っている。
つまり、手前味噌ながら僕自身は自分のブログでの文章が面白いと思って書いているが、読者数から言って世間に対して僕と同じ(または似たような)認識を持っている人は少ないのかもしれない。
▽最近になって再び本が好きになっていったのもその「笑いにつながりうる知識」をより多く集める中でであった。
もちろんその本の内容がどのようであったかということを他の読んだことのある人と話すだけで笑いにつながる可能性もあるし、
本にはその本の内容を知らなくても他人が笑えるような多くの出来事が書いてあり、多くの言葉が書いてある。
そして物語には色々な性格の人の考え方、認識の仕方が(たとえ著者の想像に過ぎないかもしれないにしても)書いてある。
少し話は変わるが、ものに対するこだわり方や笑いの感覚を見るに僕はどうやら色々な面において少数派の人間のようである。そう感じている。
自分が少数派であると同時に、(数の多い方を一般と見做す民主主義の)この社会で少数派は幸せになれないのではないかと考えていた時期がある。
というか今もちょっと思っている。
しかし少数派であることがまた自分の独自性であるような気もしているので、多数派に合わせるという努力はほとんどしていない。
「色々な考えを持った人間がいたら面白いじゃん」というのがその言い訳である。
少数派では幸せになれない、しかし多数派では自分が自分でおれない。
青春の板挟みである。
アイデンティティクライシスである。
世間はなんとも世知辛いと思ったものである。
現実が辛いものなのであればせめて物語くらいはハッピーエンドであってほしい、空想の世界でくらい人生は楽しいものであってほしい。
そういう思いで本を読むにしてもホラー系や推理物、バッドエンドのものでなくコメディであったりハッピーエンドの物語であったりを中心に読んでいる。
読書が好きでありながら笑いが好きな僕は読後にすっきりと笑っていたいのだ。
▽実はこのブログに書く記事もそのような「どうせ書くなら楽しいことを」という思いが強い。
「どうせブログを書くなら、そして自分以外の人に(その数は少ないながらも)自分の書いたものを読んでもらうのであれば、楽しくて笑えるものを書きたい」という考えがこのブログの記事を作っていく根幹にはある。
時にはネガティブなことを書いてみたりすることもあるが、それは自虐的なものに笑いを求めて、ということが強かったりする。
未来の自分なら笑えるだろうということを書く。
本当に辛い時はブログの更新なんてしない。
この一年か二年ブログの更新を怠ったのは面倒臭さのせいだけではなかったと思う。
もちろん面倒臭さのせいもある。
その一年か二年の中でたまに更新するのは楽しいことが起こった、楽しいことを起こした直後が多い。
気分が明るくなると自然と文章も明るくなるし、生活していて遭遇する「面白いこと」の出現率も上がる。
だからこのブログの更新頻度が低いとき、このブログの数少ない読者の皆様には、僕になにか辛いことだったり悩み事だったり煩わしい事があったのだと察していただきたいものである。
察するだけでなく心配してもらってもいいかもしれない。
こちらもできることなら毎日更新できるような人生を望んでいる。
ダウンタウンのごっつええ感じ
とか。
ウリナリはギリセーフだったらしいw
ブリトラはくわちゃんに聴かせない方向だった。
明るい話題、わかるわ(´Д` )くらい日記わざわざ読みに来ないねん