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コンサートの感想などを書き連ねます。

東京シティ・フィル第373回定期(10月3日)

2024年10月04日 | 東京シティフィル
常任指揮者高関健が振るスメタナの連作交響詩「わが祖国」全曲である。高関は2015年4月の楽団常任指揮者就任時のお披露目定期でもこの曲を取り上げ、それまでこの楽団からは聞いたこともないような密度の濃い音と音楽に大層驚いたことを鮮明に覚えている。その日のブログを私はこう結んでいる。「これまでも矢崎彦太郎のフランス音楽のシリーズや飯守泰次郎のワーグナーの演奏会形式の演奏などで数々の名演を残したこのオーケストラではあったが、今回の名演は明らかにそれらとは次元を異にした世界への飛躍を感じさせるものであった。この日オペラシティコンサートホールに溢れ出た音楽をいったい何と表現したら良いのだろうか。仮にこの演奏が「プラハの春音楽祭」のオープニングコンサートで鳴り渡ったとしても、おそらく大きな喝采を得ただろう。これからの高関+東京シティ・フィルから目を離すことはできない。」事実この10年間にこのオーケストラは高関の薫陶を得て長足の進歩を遂げ、それが今回の演奏に結実したと言って良いだろう。それほど完成度が高く感動を呼ぶ仕上がりであった。外連味を一切廃しじっくりと腰を据えてスコアに取り組む中から作曲者の本質を掘り出すという高関の基本姿勢が当に最大限に発揮された名演である。練り上げられた弦の音色、木管群の多彩な表現力とアンサンブルの妙、ホルンを始めとする金管群の迫力、切れ良くニュアンス豊かなティンパニ。それらが一体となって高関の「スメタナ愛」全開の音楽展開に最大限に寄与した。とりわけ「ヴァルダヴァ」や「シャールカ」や「ボヘミアの森と草原から」のような描写性の強い楽曲では風景が目に見えるようだったし、全般的に多用されるている舞曲調のリズムや表現のニュアンスも特筆すべきもので、それらは今回の演奏の大きな特色だったと言えるだろう。日頃のベートーヴェンやブルックナーでは作曲家のオリジナルを求めて原典主義を貫く高関なのだが、この曲に限ってはチェコ・フィルが常用するスコアを下敷きにした演奏だったという。聞き慣れない細部の音が聞こえてきて響に深みを与えていたような気もするのは、高関がスコアの意を踏まえて忠実に再現したからなのかも知れない。長い歴史の中でチェコの巨匠指揮者達がチェコのオケと共に考え抜いてきた表現こそが、作曲当時聴覚をすでに失っていたスメタナの筆を正統に補っているとの理解なのであろうから、私はそれはそれで十分見識のある取り組みだと大いに共感したい。「モルダウ」が終わるやいなや会場後方から「ブラボー」の声がかかってしまったが、誰一人としてそれを非難する聴衆は居なかったのではないか。誰だってそれに共感できたであろう、それほどの演奏だったのだ。

東響オペラシティシーリーズ第141回(9月28日)

2024年09月29日 | 東響
ドイツを中心に活躍する台湾出身のTung-Chie Chuangを指揮台に迎え、英国の若手ヴィオリストDimothy Ridoutをフューチャーした初秋のマチネである。スターターはバッハの管弦楽組曲第3番より「アリア」だ。今回はグスタフ・マーラー編曲のヴァージョンで演奏された。なのでさぞや色んな音がするのだろうと耳を澄ましたが、ほぼ原曲に忠実で、イントネーションが多少ロマンティックになっているくらいの差異しか私には聞き取れなかた。小編成で弦はノンヴィブラート奏法。なのでその清澄な音色とマーラーが加えた若干のロマンティックな味わいのミックスが不思議な雰囲気を醸し出していた。続くウォルトンのヴィオラ協奏曲はティモシー・リダウトの独壇場だった。3楽章構成で、第2楽章は短いスケルツオではあるものの、両端楽章はオーケストラの強奏とビオラを交えた繊細な部分の繰り返しで進むというような形式の聞きやすい曲だった。リダウトが名器ペレグリーノ・ディザーネットから繰り出す美音と絶妙な語り口、それとツアンが東響から引き出す俊烈な響きが曲の良さを鮮やかに印象づけた名演だったと言って良いだろう。盛大な拍手にこの曲の初演者ヒンデミットのビオラ・ソナタ第1番から超絶技巧の第4楽章とバッハの無伴奏パルティータ2番からサラバンドがソロアンコールされた。そしてメインはブラームスの交響曲第1番ハ短調作品68だったが、この演奏には私は共感し難かった。ツアンは比較的早いテンポで東響を駆り立て明るく良く鳴らすのだが、音の整理がついておらずブラームスの重層的なオーケストレーションがただ騒々しいだけになってしまっているように私には聞こえた。さらに全体的な構成感といったものも不足しているように聞いた。それでもその元気に触発されてか終演後は大きな拍手が送られていたので、これは私だけの極めて個人的な印象なのかもしれない。実は私にとってこの指揮者を聞くのは2回目だったようで、この印象記を見返したところ2018年10月に東京シティ・フィルで聞いている。そこには「ハイドンの交響曲第102番変ロ長調は、若さ溢れる溌剌とした音楽で、シティフィルの弦が爽やかに響いた。しかしウィーン古典派の様式感といったことには意が注がれておらず、落ちついた歩みと起承転結がない。結果、元気だけが目立って騒々しい印象が先立ってしまった音楽になってしまった。」とあった。結局私と反りが合わないということなのかも知れない。

紀尾井ホール室内管第141回定期(9月20日)

2024年09月20日 | コンサート
このところオペラ畑で大活躍のフランスの指揮者ピエール・デュムソーを迎えたロシア物をフランス物2曲で挟んだプログラムだ。1曲目は珍しいアルベール・ルーセルの交響的断章〈蜘蛛の饗宴〉作品17。あまり馴染みのない作曲家なので交響曲しか聞いた事がなかったが、これはその即物的な印象とは随分に違うとても色彩的な音楽だ。ここではまず細密画のようなオーケストレーションを明快に描き分けてゆくデュムソーの手腕が見事で、初っ端から紀尾井の瑞々しい弦と秀でた木管アンサンブルからフランスの香が漂った。夜の帷(とばり)が降りる昆虫達の行き交う庭にポツンと一人落とされたような幻想的な雰囲気が醸出され、筆致の描写性も十二分に引き出された名演だった。続いて昨年2月のショスタコのコンチェルトに続いて2度目の登場になるニコラ・アルトシュテットのチェロが加り、セルゲイ・プロコフィエフの交響的協奏曲ホ短調作品125。まるでチェロが体の一部でもあるかのような極めて自然な弾き方なので、縦横無尽の運弓ながら音楽に微塵の無理も力みもなく、洞々と流れ出る音楽に身を託しているうちに全てが終わった。三楽章の単純な協奏曲形式ながら中はかなり複雑な構成だ。しかし抒情性や皮肉や激しさがないまぜになった不思議な魅力を持つ曲だ。オケの伴奏とチェロ独奏が混然一体と調和した見事な演奏がその魅力を引き出したということだろう。ソロ・アンコールはバッハの無伴奏組曲第1番よりサラバンドがシットリと奏され、熱演との落差がまた堪らなく感じられた。最後はビゼーの劇付随音楽〈アルルの女〉第1組曲&第2組曲。これは熱量の極めて多い演奏で、聞いていて思い出したのは、もう40年も前に上野で聞いたフランスの名匠ジャン=バティスト・マリと東フィルの爆演だ。燦々と降り注ぐ南フランスの夏の太陽のようなラテン的な明るさと活力に満ちたとても隈取の濃い演奏。それがドーデの悲劇を題材としたビゼーの曲にベストマッチする。もちろん当時の日本のオケと今のオケでは技量が格段に違うので、こちらはどんなに開放的にオケを鳴らしても美しさとスタイルを保って「爆演」にならないところは流石である。大歓声と大きな拍手に予定外のアンコールは再度「ファランドール」からフィナーレ。さすがに今度は一寸ハメを外し気味の演奏ではあったが、それもご愛嬌というところだろう。

東フィル第1004回オーチャード定期(9月15日)

2024年09月16日 | オペラ
東フィルの定期演奏会には毎年名誉音楽監督チョン・ミョンフン指揮するオペラが組み込まれるのがこのところの定番となっている。今年はヴェルディの「マクベス」(1865年パリ改定版)である。「ファルスタッフ」、「オテロ」とここ二年程連続でヴェルディのシェークスピア物をやっていて今年がその最後の年ということになる。結果として一番若書きのこの作品が最後になったが、シェイクスピアを熱愛したヴェルディが満を辞して世に問うたこの力作の音楽史的意味は、「トリ」を努めても良い程に大きいであろう。声楽陣はマクベスにセバスティアン・カターナ、マクベス夫人にヴィットリア・イェオ、バンクオーにアルベルト・ベーゼンドルファー、カウダフにステファノ・セッコ、マルコムに小原啓楼、侍女に但馬由香、それに新国合唱団という十分な布陣。毎度のことだが、全体として厳しい集中力で遺憾無くドラマを紡ぎ出すミョンフン独特の運びが、歴史上の命題である権力欲の結果の陰惨な結末をヴェルディの音楽から見事に描き出した。それは露骨な権力欲が世界戦争への発展を予感させるようなこの時代にはとりわけ強く聴衆の心に響いたはずだ。演奏会形式ではあったが歌手達は舞台の下手から上手までを使って縦横に動き回って視覚的なドラマ性も十分に担保され、むしろ凡庸な演出の舞台を見るよりも余程説得力があった。ただミョンフンの運びについて言えば、第二幕のアンサンブル・フィナーレのような所では、音楽があまりにもサクサクと前へ進んで行ってしまうものだから、重層的なスケール感のようなものがいささか乏しくなってしまった気もした。歌手達は適材適所の布陣で皆良かったが、あえて言えばイェオには明らかに低音の響きが不足していた。声楽的に中々難しい声域なので高音と低音の両立は難しいであろうが、激しい高い声だけの勝負では中々この役には辛いところがある。セッコの4幕のアリアは良かった。この歌は新々の若手が歌うケースも良くあるが、さすがベテランが歌うと名曲が一段と輝く。

東京シティ・フィル第372定期(9月6日)

2024年09月07日 | 東京シティフィル
東京シティ・フィル秋のシーズンの開幕は、常任指揮者高関健の振るブルックナーの交響曲第8番ハ短調だ。このオケは2020年8月にこの組み合わせで第2稿ハース版を使用した立派な名演を残したばかりで、それはCDにも記録されている。しかし今回は生誕200周年ということで、最新の第1稿ホークショウ校訂譜を使用した演奏だ。 この第1稿の特色は、指揮者レヴィに「演奏不能」と突き返され、弟子に促されて改定を施す際に切り捨てた部分を復活させたり、また改変したオーケストレーションを元に戻したりし、この曲が最初に生まれた無垢な形を復元したことにある。私は今回初めてこの初稿が実音となったのを生で聞いたわけだが、これまで長年聴き親しんできた第2稿が随分効果を狙い、メリハリたっぷりに、その意味では合理的(?)に書き換えられていて、実はその一方で極めて内気で繊細でこの作曲家らしい貴重な瞬間を多く失っていたのだということに気づいた。部分復活を果たした結果演奏時間は90分近い長丁場ではあったのたが、そこに冗長さを感じるよりも、むしろインスピレーションに富んだ新たに聞くメロディに目から鱗が落ち胸が時めいた。高関は自ら10年間に作り上げたシティ・フィルの機能を十全に開花させ、極めて丁寧に瞬間瞬間を紡いでいった。その結果一部の隙もない揺るぎのない、しかし決して硬直的でない”たおやかな構成感”とでも言えるものが獲得され、実に稀にしか聞きえない立派な音楽が鳴り響いた。それはこの作曲者の記念イヤーに誠にふさわしい大演奏だった。

第44回草津夏期国際音楽アカデミー&フェスティバル (8月28日〜30日)

2024年09月02日 | コンサート
毎夏の恒例になった草津の音楽祭に今年もやってきた。ノロノロ台風10号の来襲で生憎の天気ではあったがその分涼しい草津は酷暑に疲れた体には大層楽であった。今年のテーマは”モーツアルト〜愛され続ける天才”だ。28日は”ショロモ・ミンツが奏くモーツアルトの協奏曲”と題されたコンサート。一曲目にモーツアルトのアダージョとフーガハ短調K.546、二曲目はこの昨年9月に惜しくも逝去した前音楽監督の西村朗を引き継いで音楽顧問に就任した吉松隆の「鳥は静かに・・・」。それは朋友西村との死別に寄せる悲歌にも聞こえた。続いたバイオリン協奏曲第4番ニ長調K.218でのミンツの歩みは、通常の闊達なモーツアルトとは一味も二味も違うジックリと丁寧に噛んで含めるような独特なスタイル。そして打って変わってアンコールはH.W.エルンストの「無伴奏ヴァイオリンの為の重音双方の6つの練習曲」から第4番。これはもう超絶技巧満載で、ミンツの腕にかかると練習曲も立派なアンコールピースになってしまう。最後は交響曲第41番ハ長調K.551「ジュピター」。指揮の飯森範親は得意のピリオド奏法を導入して群馬交響楽団を操ったが、全体的なスタイルは中道的で、スコア細部の音の綾も明快に響かせてつつ重厚さも兼ね備えた成熟した音楽を聴かせた。翌29日は”ピアノと室内楽/モーツアルトからベートーヴェンへ”と題されたコンサート。ここではハイドンの弦楽四重奏曲第78番変ロ長調作品76-4「日の出」とモーツアルトの弦楽四重奏曲題19番ハ長調K.465「不協和音」、そしてモーツアルトのピアノと木管のための五重奏曲変ホ長調K.452とベートーヴェンのピアノと管楽のための五重奏曲変ホ長調作品16という同時代の同種の楽曲の聴き比べが楽しかた。それは3人の作曲家の個性、音楽書法の進展の様子を耳で確かめる絶好の機会となった。演奏はクアルテット・エクセルシオ、クリストファー・ヒンターフーバー(ピアノ)、トマス・インデアミューレ(オーボエ)、四戸世紀(クラリネット)、水谷上総(ファゴット)、西條貴人(ホルン)という熟達の面々。最終日は午前中にアカデミーの優秀者によるステューデント・コンサートがあった。これから世界に羽ばたくであろう若い才能を見聞きできるのは本当に楽しい。今回とりで登場しサンサーンスの「序奏とロンドカプリチオーソ」を披露したバイオリンの星野花さん(指導ショロモ・ミンツ)は、最近イローナ・フェへール国際ヴァイオリン・コンクールで第二位を受賞したこの2022年以来のアカデミーの常連。こうした大向こうを唸らせる演奏も良いのだが、冒頭に登場した石井愛理さん(指導クラウディオ・プリッツ)によるチェンバロの自然な呼吸が誘う極めて流れの良いヘンデルの組曲ニ短調も心に残った。そしてその午後の”グラン・パルティータ〜トーマス・インデアミューレ”と題されたクロージングコンサートが今年の音楽祭の最後を飾った。ハイドンのディベルティメントニ長調、モーツアルトのディベルティメントヘ長調K.253、同じくセレナード変ホ長調K.375が前半でトマス・インデアミューレ、若木麻有(オーボエ)、水谷上総、佐藤由起(ファゴット)、西條貴人、松原秀人(ホルン)という演奏陣。後半はモーツアルトのセレナード第10番変ロ長調K.361「グラン・パルティータ」なのだが、これがアントニー・シピリのピアノ、トマス・インディアミューレのオーボエ、カリーン・アダムのバイオリン、般若佳子のヴィオラ、チェロのエンリコ・ブロンツイによる五重奏版で演奏された。編曲者はC.F.G.シュヴェンケという人だが、これが中々と良く書けた佳作で、小編成とは言え名人達の演奏のせいもあってか大層楽しく、この音楽祭のトリに相応しく盛り上がった。




ロッシーニ・オペラ・フェスティバル2024(8月17日〜21日)

2024年08月26日 | オペラ
昨年に続いて今年もアドリア海に面したイタリアのリゾート地Pesaroで毎年開催されているロッシーニ・オペラ・フェスティバルにやってきた。今年は滞在期間中にオペラ5演目とリサイタル1つを大いに楽しんだ。まず到着の翌日8月17日の午後は、昨年「パルミラのアウレリアーノ」で素晴らしい歌唱を披露してくれたスペイン出身のメゾ・ソプラノSara Blanchのリサイタルだった。曲目はロッシーニ、ベルリーニ、ドニゼッティの歌曲とオペラ・アリアで構成されていた。その自然体で流麗な歌唱は甘美な香りを会場一杯に漂わせ聴衆を魅了した。最後に置かれた「イタリアのトルコ人」からのフィオリッラのアリアは来年のこの役での登場を予想させるものだった。(考え過ぎか?)続いてこの日の夜は、後年の傑作「エルミオーネ」の新プロダクションだった。A.バルトリ(エルミオーネ)、V.ヤロヴァヤ(アンドローマカ)、E.スカーラ(ピッロ)、J.D.フローレンス(オレステ)等の名歌手による声の饗宴は正に夢の様。M.マリオッティの指揮するRAI(トリノ)のオケの間然とするところのない伴奏に導かれ、ヴェルディの「オテロ」をも先取りしたような天才ロッシーニの筆致が舞台に響いた。J.アラースの演出には多少解りにくいところもあったが、この名演の前ではそんなことはどうでも良かった。翌18日は名匠P.L.ピッツィによる2018年のプロダクションによる美しくスタイリッシュな「セビリアの理髪師」の再演である。J.スワンソン(伯爵)、A.フロンチク(フィガロ)、C.レポーロ(バルトロ)、M.ペルトゥージ(バジーリオ)等による若く活気に満ちた舞台は動きが溌剌としていてとても楽しかったし、ピッツィの舞台の隙のない美しさにはイタリア美学の粋を感じた。しかしロジーナ役のM.カタエヴァの歌唱が私にはスタイルを外しているように聞こえたし演技にはいささか品が無かった。それにL.パッセリーニの指揮のOrchestra Sinfonica G.Rossiniが余りにもガサツな伴奏ぶりでとても残念だった。翌19日の午前中は恒例のアカデミーの生徒17人による「ランスへの旅」だった。2001年以来続いているE.Sagiによる衣装も装置も真っ白な舞台は、これから様々な色を獲得して世界に羽ばたくであろう未来ある生徒たちを象徴するのだろう。この日は二回ある公演の二日目で、同じ生徒達が役を変えて登場する仕組みなのだ。生徒達は皆若々しく活き活きと良い歌を唄っていた。中にKilara IshidaそしてNanami Yonedaという二人の日本人と思しき名前がクレジットされていた。そしてこの日の夜は待望の我が脇園彩がファッリエッロ役でロールデビューする「ビアンカとファッリエーロ」だった。これはJ.L.グリンダによる美しく周到に考えられた新プロダクションである。名匠R.アッバード指揮するRAIのオーケストラがピットに入り、J.プラット(ビアンカ)、D.コルチャック(コンタレーノ)、G.マノシュヴァリ(カッペリオ)という布陣は全く文句のない秀でた歌唱と演技。彼らの美声による見事なアジリタの応酬を聞かされると、そのロッシーニ独特のスタイルに強い説得力を感じることが出来た。そんな中で脇園は良く健闘したと言って良いだろう。他の名歌手に比較してしまうと多少声の突き抜けには不足したとはいえ、余裕を持ってアジリタを展開し、そのずば抜けた技術力と堂々たる舞台姿は感動的であった。このロッシーニの本場に集ったロッシーニ好きの聴衆からの大喝采の中に一緒に身を置き、日本人としてこちらの胸も熱くなるのを感じた。そして21日に最後に観たのは2019年にROFプリミエの若書きの作品「ひどい誤解」の再演だった。前回はVitrifrigo Areneという体育館に仮設された横長大舞台で上演されたのだが、今年はこじんまりとTeatro Rossiniでの上演になり、ぐっと凝縮された舞台は楽しく観ることが出来るものだった。エルネスティーナにM.バラコヴァ、ガンベロットにN.アライモ、ブラリッキオにC.パチョン、エルマンノにP.アダイーニと配役に人を得、M.スポッティ指揮のFilarmonica G.Rossiniのピットも秀で、M.レイザーとP.コリエのいささか下品で卑猥な脚本をきれいにリファインした気の利いた演出ともどもブッファの真髄を感じさせる秀でた舞台となっていた。こうして今回もあっと言う間に夢のような五日間が過ぎ去って行って、明るく軽やかでキラやかな響きだけが心と耳に残っている。来年のオペラは「ツェルミーラ」(新作)、「アルジェのイタリア女」(新作)「イタリアのトルコ人」の3演目だそうだ。今から待ち遠しい。




読響フェスタサマーミューザKAWASAKI 2024公演(7月31日)

2024年08月01日 | コンサート
毎夏恒例フェスタサマーミューザKAWASAKI 2024に、いまや引っ張りだこの沖澤のどかが登場、さらに共演が人気ピアニスト阪田知樹だというから会場は満員御礼だ。まずはR.シュトラウスの交響詩「ドン・ファン」作品20で颯爽と開始された。沖澤の振りには迷いやブレが一切なく、オケが確信を伴って響くのでそれが実に快い。そしてダイナミックも大きくとられ読響の機動力に富んだ馬力が物を言う快演であった。続いて阪田が真っ黒な僧服のような出立で登場した。それはまるでフランツ・リストが写真帳から出てきたよう。演奏の方も強靭なフォルテと羽毛のような繊細で軽やかなピアニッシモを駆使していとも楽々とこの難曲を弾き切り、リストもかくやと思わせた。チェロの遠藤真理のソロも聞き映えがした。割れんばかりの盛大な喝采にアンコールは自ら編曲したフォーレの「ネル」。リストで聞かせた以上の繊細なピアニズムに心打たれた。最後はこのホールのオルガニスト大木麻里を迎えてサンサーンスの交響曲第3番ハ短調作品78「オルガン付き」。沖澤はドイツ物もフランス物もそれぞれに的確なスタイルで聞かせる秀でた手腕をもはや完全に身につけている。繊細さもあるがいざという時の強烈なフォルテも潔い。この4月に東響から移籍して来たオーボエの荒木奏子のリードする木管アンサンブルをはじめとしたこのオケの上手さを全面に押し出した、シャープな推進力を持ったサンサーンスに会場は大沸きだった。三日の間を開けて京都と川崎でこの沖澤のどかを聞いたが、この人は稀に見る逸材だと言って良いと思う。

京都市響第691回定期(7月27日)

2024年07月30日 | バレエ
直前に2029年迄の任期延長が報じられた常任指揮者沖澤のどかとチャイコフスキーコンクールの覇者上原彩子の二人が登場した真夏の定期だ。京都コンサートホールはほぼ満員の入りでこの二人の人気の程がうかがわれた。一曲目はプロコフィエフ作曲のピアノ協奏曲第3番ハ長調作品26。上原はまるでアスレチック選手のような身体能力を存分に発揮して難所を鮮やかに弾き切った一方、プロコフィエフ独特の冷たく澄んだ叙情をも見事に表出させ、その技量の幅広さを存分聴かせてくれた。寸分の狂いもない沖澤の挑戦的な合わせも完璧で見事の一語に尽きる共演だった。盛大な拍手にアンコールはドビュッシーの「ゴリウオークのケークウオーク」。音色の対比が実にチャーミングで素敵だった。休憩を挟んでストラヴィンスキー作曲のバレエ組曲「ペトルーシュカ」(1947年版)。ロマン主義と新古典主義の折衷的な様式を持つこの曲を、沖澤は見事に振り分けて料理した。その指揮振りは一言で「鮮やか」に尽きる。無駄のない判り易い指揮が京都市響からにニュアンスと色彩感に富んだ音を次から次へと引き出してゆくその爽快感は只事ではなかった。これは相思相愛の組み合わせならではの音楽作りのように聞いた。二曲とも酷暑を払いのけるような快演で会場は大沸きに沸いたのは良いのだが、近くの席で発せられる罵声のような「ブラボー!」には耳が耐え難く早々に席を後にした。

東京二期会「蝶々夫人」(7月21日)

2024年07月21日 | オペラ
この宮本亜門のプロダクションは、残されたピンカートンの息子が、父であるピンカートンの重篤な病床で、それまでの蝶々さんとの顛末を記した手紙を遺書として渡されるところから始まるのだが、そのプロダクションの2019年のワールド・プリミエが余りにも素晴らしかったので、その感動をもう一度という思いで出かけた。ドレスデン、サンフランシスコの舞台を経て、それなりに進化した舞台は納得できるものだった。しかし今回は歌手の力不足が目立った。東京文化会館の2階右で聞く限り、全員声量が全く不足しているのが極めて残念だった。蝶々夫人の高橋絵里は演技はとても良いのだが、声は張り上げると聞こえるがそうでないと力が急に減衰してほとんど聞こえない。何より声に響きがないのが致命的だ。ピンカートンの古橋郷平は常に非力で歌唱も演技も精彩に欠ける。(終幕の松葉杖の使い方などは論外。誰か指導しなかったのだろうか。)そしてピンカートンの与那城敬は重厚感に欠けるので、シャープレスの重要な役割が欠損するという具合なのだ。更にスズキの小泉詠子も説得力に乏しい歌唱。このように歌唱的・演技的にそれぞれの役割がきちんと果たせていないので、オペラとしてのドラマがなかなか成立しない結果になった。だからエッティンガー+東フィルの感情豊かな伴奏だけが虚しく響く誠に残念な公演となった。若手の実力を聞きたくてあえて裏キャストを選んだのだが、こんな仕上がりを許すことで東京二期会は大丈夫なのだろうか。