Maxのページ

コンサートの感想などを書き連ねます。

新国「ウイリアム・テル」(11月26日)

2024年11月27日 | オペラ
開館以来27年を経た新国立劇場だが、この間に本舞台で取り上げられたロッシーニは「セビリア」と「ラ・チェネレントラ」2演目のみという寂しい状態だった。しかし3演目目にまさかこの作曲家最後の大作「ウイリアム・テル」が選ばれるとはいったい誰が想像したことだろう。まさに大野和士オペラ芸術監督の快挙である。本格舞台初演は1983年の藤沢市民オペラによる邦語訳版だったが、今回は日本舞台初演となるフランス語版である。(2010年にアルベルト・ゼッタが東フィル定期でフランス語版を抜粋の演奏会形式で演ったことはあった。先般早逝された牧野正人さんがテルを朗々と歌っていたことを懐かしく思い出す。)今回は大野監督自ら指揮する東フィルがピットに入り、演出はヤニス・コッコスである。何よりもロッシーニの音楽が凄かった。感情の機微はあまり音楽に投影されず、アジリタの技巧中心に感情を表現するという典型的なロッシーニ・スタイルを完全に過去のものとし、メロディーとハーモニーが感情を切々と表現するロマン派の領域に入った音楽にほぼ全編が貫かれているのだ。ロッシーニの後期はとりわけこのようなスタイルに移行してゆくのだが、この演目はセリアではなく圧政に苦しむ民衆が自らの意志で自由を獲得するという人間ドラマなので、顕著にそうした性格が音楽に顕われることになるのだろう。ただオーケストレーションの厚みとかハーモニーの多様性というような部分ではまだまだ完全なロマン派になり切っていないのは事実だが、時代を超越した大きな進歩が聞き取れたことは大層の驚きであった。歌手で良かったのは何と言ってもまずアルノルド役のルネ・バルベラで、最後まで驚異的と言って良いほどの充実した歌唱を聞かせた。その恋人のマティルド役のオルガ・ぺレチャッコはいささか疲れがあったのか低い音が響かなかったし、この作品唯一のアジリタ・アリアでも歯切れの良さを欠いた。テル役のゲジム・ミシュタケは終始安定的で全く不安の無い立派なタイトルロールだった。そして彼を含めてその息子の安井陽子と妻の齊藤純子の「家族トライアングル」が良くバランスした充実した歌唱と演技だった。だから民衆を代表する家族にスポットがあたりドラマに大きな説得力を与えた。悪代官役の妻屋秀和とその家来役の村上敏明も憎々しく役を演じ、テルの同士フュルスト役の須藤真悟もいつもながらに実力を発揮した。指揮の大野はほぼ過不足なく長丁場を停滞なく進めはしたが、私はRAI(イタリア放送協会)の放送終了の音楽にも使われている(いた?)第四幕のあの感動的なワーグナーを思わせるフィナーレのテンポにいささかの味気なさを感じてしまった。コッコスの舞台は美しく穏当なもので十分な説得力を持っていた。そして序曲の最中から描写的背景を舞台化することで、全体の中でしばしば違和感を禁じ得ない有名な序曲を本編と一体化して聞かせることに成功していた。ただバレエで女性蔑視的な表現が長々と繰り返されたことには、意図的だとは言え辟易とした。村人の解放を喜ぶべきフィナーレがそれだけでは終わらず、爆撃された廃墟が投影され消えていったのは、歴史は繰り返すという今でこその教訓的メッセージと受け止めた。ほぼ全曲にわたり大活躍した新国立劇場合唱団にも大きな拍手を送りたい。実はこのオペラは「オランダ人」や「ローエングリーン」や「タンホイザー」以上に合唱オペラだったのだ!ホアイエと5階情報センターで開催されていたロッシーニ研究家水谷彰良氏監修のとても充実した個人コレクションを中心とする展示は、貴重な初版楽譜や実筆書簡等の数々を閲覧できる絶好の機会を与えてくれて観劇の臨場感が大いに高まった。


東京シティ・フィル第79回ティアラ江東定期(11月23日)

2024年11月23日 | 東京シティフィル
当団首席客演指揮者藤岡幸夫の指揮に上原彩子をソリスト迎え、プロコフィエフのピアノ協奏曲第3番ハ長調作品26とラフマニノフの交響曲第2番ホ短調作品27を組み合わせた熱いプログラムだ。プロコフィエフは7月に京都で同じく上原と沖澤のどかの指揮で聴いたばかりだが、上原のピアノは技巧的には一切不満はないのだが、京都の時に比較して音量が不足していささか勢いが無いように聴こえた。これは会場のせいか、あるいはオケの音とのバランスのせいなのかもしれない。一方小さな音の部分ではオケが音量を落とすので透明で繊細なピアニズムに新たな発見があった。抜群の疾走感と爽やかさに貫かれた快演といった印象。アンコールはしっとりと前奏曲op.32-5。まさに対照の妙を感じさせる心憎い選曲だ。休憩を挟んだラフマニノフはもう藤岡の独壇場だった。機能的に充実を極める今のシティ・フィルを存分に鳴らして切ってロマンティックの極致たる表現だった。とりわけジックリ濃厚に歌い切ったアダージョは圧巻だった。心をこめた弦のメロディーに心を掴まれたのは当然のことだが、木管群とホルンの美しい「密かな愛の対話」のごとき掛け合いに滲み出た深い抒情は当日のハイライトだったのではないか。終楽章は厳格なシベリウス的な音をも感じさせながら、ロマンティックな回想も挟んで圧倒的なフィナーレに至るまで、熱いけれど品格を失わない藤岡らしい充実した仕上がりだった。

藤原歌劇団「ピーア・デ・トロメイ」(11月22日)

2024年11月22日 | 藤原歌劇団
藤原歌劇団創立90周年記念公演の一環で、ドニゼッティ後期の珍しいオペラ「ピーア・デ・トロメイ」が日生劇場で上演された。マルコ・ガンディーニによるニュープロダクションという触れ込みではあるが、母体となるプロダクションは2007年と2010年に昭和音大がテアトロ・リージオの舞台にかけている。装置的にはいかにも省エネの舞台なので二幕などは空間を持て余す感があったが、衣装の色調が良く演奏も充実しているとそれなりの効果はあるものだ。演出自体は過不足のない分かりやすい穏当なものだ。作品的にはナンバーの接続に多少のギクシャク感はあるのだが、時として中期のヴェルディを先取りしたようなドラマティックな音楽があることに驚いた。そしてカンマラーノの脚本に起因するストーリー展開の早さもあるので最後まで決して退屈することはなく、何故この演目が現在ほとんど劇場にかからないのか不思議なくらいだ。初日の歌手陣はピーアに伊藤晴、その夫ネッロに井出壮志朗、ピーアに横恋慕するギーノに藤田卓也、ネッロを宿敵とするピーアの弟ロドリーゴに星由佳子が主なところ。ピットは藤原歌劇団初登場の飯森範親と新日本フィルが多少味気なさを感じさせるくらいにテキパキと端切れ良く務めた。 歌手陣はとにかく伊藤、井出、藤田の主役3人が皆絶好調で、最後までスタイルを崩さない美声を貫いた素晴らしい歌唱と説得力のある演技だった。出番こそ少なかったがギーノの家来役ウバルドを歌った琉子健太郎の美しいフォルムの美声も光った。そんなわけで声の美しさと技術によってドラマを感じるベルカントの真髄を心ゆくまで楽しむことができた。これは日本人だけの舞台では極めて稀なことではないか。中でもとりわけ伊藤の歌った二幕大詰めのカンタービレとカヴァレッタは、完璧な技術と美声に裏付けられた切々とした歌唱で、傍でなりゆきを見守るロドリーゴ役の星の秀でた演技共々とても涙なしには聞くことができなかった。演目が発表された時にはタイトルも知らないオペラだったのでほとんど期待もしていなかったのだが、こんな良い曲を発掘してくれた藤原歌劇団には敬意を評したい。そしてこの演目を是非とも今後のベルカント・オペラのレパートリーに加えてもらいたいものだと思う。

東響オペラシティシリーズ第142回(11月15日)

2024年11月15日 | 東響
音楽監督ジョナサン・ノットならではの、お馴染みリゲティを加えた何とも不思議なプログラムの演奏会だ。まずはこのホールの専属オルガニスト大木麻里の独奏によるリゲティの「ヴォルミーナ」。これがまるで大きな電気掃除機の中に頭を突っ込んでしまったのではないかと思われるような大音響で始まった。その後はオルガン的であったり、そうでなかったり。健康診断の聴音検査と思うような音も聞こえたり。比較的素朴で単純なトーンクラスターが定期的に変化してゆく。しかしどの音もどの響きもシンセサイザーのようでありながら決して無機質でなく、不思議と人間的な温もりを感じるところがオルガンを使った魅力だ。私は決して嫌ではなかった。どこまでが作曲者で、どこまでが演奏者で、どこまでが楽器なのかまったく区別はつかないが、とにかくハチャメチャでありながら奏者の体温を感じさせる興味尽きない15分だった。なるほど大木はノットが信頼するだけあるオルガニストだ。ノットのリゲティと言えば、これまで深く印象に残っているのは2015年11月の「ポエム・サンフォニック」だった。これは舞台に100台のそれぞれ異なる同期のメトロノームを並べただけの曲なのだが、その音響的なズレや重なりが独特の偶発的効果を生むという趣向だっだ。今回の曲は私の中ではそれに比肩する衝撃的な曲だった。続いては当団首席チェロ奏者の伊藤文嗣をソリストに迎えてヨーゼフ・ハイドンのチェロ協奏曲第1番ハ長調。弦楽器群はノンビブラードでスッキリと響き、そこに優雅で柔らかな伊藤のチェロが彩りを加える。オケ首席の独奏らしく自己を主張するというよりもオケの引き立て役を買って出たという趣で、良い意味で和気藹々の仕上がりだった。アンコールはバッハの無伴奏3番から珍しくクーラント。そして休憩を挟んでこの日のトリが何とモーツアルトのピアノ協奏曲第9番変ホ長調K.271「ジェノム」とは誠に珍しい。ソリストは若手人気ピアニスト務川彗悟。務川はペダルを極力控えめにして響きを抑えたフォルテ・ピアノ的な音色でモーツアルトを紡いだ。だからちょっと鄙びた味わいをも感じさせつつ、しかし繊細で軽やかなタッチから生み出されるニュアンス豊かな響き、そしてフレーズ間の絶妙な間合いに務川のセンスが光る珠玉のような演奏だった。お互いに高め合って行くノット+東響との一体感(静かな高揚感)も並大抵のものではなく、まったく夢のような時間を体感した。盛大な拍手に意外にもブラームスの間奏曲Op.117-1がアンコールされた。決して重厚ではなく透明感に満ち、しかしながら、しっとりと豊かな響きを際立たせモーツアルトの響きとの対照を心地よく聞かた。ブルックナーやマーラーの大曲で重々しく終わらないこんな爽やかなコンサートもたまには良いものだ。

NISSAY OPERA 「連隊の娘」(11月10日)

2024年11月10日 | オペラ
この秋は私にとってベルカントオペラ満載の嬉しいシーズン開幕だ。新国の「夢遊病の女」に続いて、今日は日生劇場のドニゼッティ「連隊の娘」である。今回の粟國淳演出、イタロ・グラッシ美術、武田久美子衣装のプロダクションは、まるでおもちゃ箱をヒックリ返して出てきた人形達によって繰り広げられるファンタジーのような思いっきりキュートでポップなもの。世界各所で戦火が絶えないこの時代、リアルな軍隊や制服を一切登場させないこのアイデアは観る者に優しく、同時にとても効果的だったと思う。これにより連隊の中で一人の娘が兵士達によって育てられるといういささか現実離れした筋書きもすんなりと受け入れられる夢の中の物語と化し、観衆はストーリーに内在するほのかなペーソスと喜びを素直に受け入れられたのではないか。そうした一見ドニゼッティの古典的な音楽には場違いに感じられた設も、躍動感に満ちた舞台を観ているうちに何故か目に馴染んできたのは見事に仕組まれた粟國マジックだったのだろう。原田慶太郎+読売日響のピットは最初はいささか力み過ぎで、まるで交響曲を聞くように響きブッファの楽しさとは程遠いものがあったが、歌手たちの良い歌につられて次第に軽快で心楽しいものになっていった。今回がオペラデビューだというマリー役熊木夕茉の綺麗に良く伸びて繊細さも併せ持つ爽やか歌唱と演技や、トニオ役の小堀勇介の無理なく美しく伸びる高音は素晴らしかったし、シェルピス役町英和と侯爵夫人役鳥木弥生の性格的歌唱も良いアクセントとして光っていた。そして忘れてはならなのは兵士役のカレッジ・シンガースで、彼らも歌役者としても大活躍して舞台を大いに盛り上げた。今回あえてオペラ・コミックスタイルのフランス語上演にしたのは誠に快挙だったと言って良いであろう。しかし台詞の多い舞台は日本人歌手にとってはかなり過酷だったと思う。決して本場と比べることは出来ないが皆健闘していた。その中では小堀が流麗さでは群を抜いていた。小堀は一幕最後の有名なアリアでハイCを見事に輝かしく連発し会場を大いに沸かした。そしてこの日は指揮者に促されてアンコールのサービスまであったのには驚いた。一方聞かせどころの終幕のしっとりとしたロマンスではいささか安定を欠いてしまったのはとても残念だった。(アンコールで喉を消耗してしまったのではないかな)とは言えそんなことは些細なことで、全体として心楽しくちょっとしみじみした大人のファンタジーとしても良く纏まった秀逸な舞台だったと言えるだろう。この舞台は同時に「日生劇場オペラ教室」として中高生達にも公開されるのだが、こんな上質な舞台でオペラの初体験をすることができる生徒達は幸せである。彼らのうちの一人でも多くが「劇場」を支える将来のオペラファンになってくれることを期待したい。

八ヶ岳高原サロンコンサート(11月1日)

2024年11月03日 | リサイタル
スヴャトスラフ・リヒテルや武満徹が開設に多く関与した八ヶ岳高原音楽堂で開催された仲道郁代の「ショパンの時代に想いを馳せて」と題されたソロリサイタルにはるばる出かけた。曲目は「幻想即興曲作品66」「練習曲”革命”」「練習曲”別れの曲”」「バラード第1番」「アンダンテ・スピアナートと華麗なる大ポロネーズ」までが前半、そして「練習曲”エオリアン・ハープ”」「前奏曲”雨だれ”」「バラード第3番」「夜想曲第20番」「ポロネーズ”英雄”」が後半。仲道は2007年にNHKの番組収録の折りにショパンが愛用したことで知られるプレイエル社製の楽器を偶然にも試奏する機会を得、一瞬にしてその響きに惚れ込み、以来プレイエルを使ったショパンの演奏法を追求し続けている。今回はその成果を楽器に相応しい小空間で披露する絶好のチャンスになったといえるだろう。当日は秋らしい爽やかな陽気が午後から小雨混じりの曇天となったが、そんな晩秋の高原の憂いを含んだ風景を大きなガラス越しに眺めながらのコンサートは、むしろプレイエルのショパンに寄り添うためには絶好の雰囲気を作り出していたかも知れない。ピアノという楽器は工業技術の発展と共に機能的進展を遂げ、演奏様式もそれと共に大きく変化してきたという。だから今日一般に演奏される(聞かれる)パワフルで華麗なピアニズムに満ちたショパンは作曲家の生きた時代に聞かていたものとは異なってきて当然だ。だから我々が抱き続けてきたショパンのイメージはそうした演奏によって出来上がったものであるに違いない。そんなイメージを根底から覆してくれたのが、今回この音楽堂に仲道自らの愛器プレイエル(1842年製)を運び込んで奏でられたショパンであった。仲道はプレトークで今回はとても”スペシャル”なコンサートであると述べていたが、まさに最適の小空間に広がる素朴で内気で繊細な上に多くの含みを持ったその響から立ち昇る音楽は、計り知れない発見一杯の”スペシャル”なものであった。仲道はそんな響きを駆使して儚く華奢で陰影に富んだ極めて親密なショパンを紡いで我々に差し出してくれた。そこに聞かれた決して大仰でない人懐っこい音楽をいったいどう表現したら良いだろう。私はそれに大きく感動した。そしてそれはそこに集った聴衆にとっても掛け替えのない贈り物になったことだろうと思う。最後にアンコールとして「別れのワルツ」が静かに奏でられ、それは誠にこの会に相応しい御開きとなった。

びわ湖ホール声楽アンサンブル第15回東京公演(10月14日)

2024年10月14日 | コンサート
このびわ湖ホール座付きのアンサンブルは決して合唱団ではない。彼らはオペラ歌手・ソリストであると同時に合唱アンサンブルにも対応できるように日々研鑽を積んでいる歌手達であり、そうした意味では日本では他に類を見ない団体だと言って良いだろう。事実彼らは大ホールの本舞台での脇役として名を連ねるのみならず、彼らを主体とする中ホールでのオペラ公演も年に幾度かは開催されている。そうしたメンバーが本拠地びわ湖ホールで自主リサイタルを開催し、それと同時に東京でも同じ演目でリサイタルを開催した。今回はそうした定期的な公演の15回目ということになる。「4人の作曲家たち〜フォーレ、ドビュッシー、ラヴェル、プーランク」と題された今回のコンサートは、フランスを代表する4人の作曲家の合唱曲と歌曲を折り混ぜた滅多に聞くことにできないような興味深い内容であった。フランス・オペラのオーソリティである佐藤正浩の指揮によるフォーレの”ラシーヌ雅歌”で始まったコンサートは、メンバー14名と客演2名それぞれのソロによる歌曲と全員による合唱曲を織り交ぜながら、アンコールの”ラシーヌ雅歌”でしっとりと静かに幕を下ろした。単なる合唱団のメンバーではない彼ら一人一人の切々とした歌声を聞いて心から感動した。不慣れであろうフランス音楽を若干の差異はあるものの皆見事に自分のものにしていた。団員のそれぞれが極め高い技術と音楽性と訴える力持っていることは驚くべきことであり、こうしたメンバーが育ってゆくことはこれからの日本のオペラ界にとってどんなに心強いことだろう。佐藤正浩と共にピアノ伴奏を努めた下村景の伴奏者として秀でた音楽性も光っていた。今回の演奏曲目は、フォーレ:ラシーヌ雅歌、月明かり、マンドリン、夢のあと、マドリガル。ドビュッシー:星の夜、美しき夕べ、マンドリン、海な伽藍よりも、シャルル・ドルレアンの3つの詩。ラヴェル:3つの歌、ヴォカリーズ、花嫁の歌、ロマネスクな歌、夢。プーランク:美とそれに似たもの、マリー、王様の小さなお姫様、ヴァイオリン、パリへの旅、ホテル、愛の小径、平和への祈り。美しい秋の上野の杜で、フランスのエスプリ溢れる音楽と詩の世界を堪能した時間はかけがえの無いものだった。

東響第97回川崎定期(10月13日)

2024年10月14日 | 東響
クシシュトフ・ウルバンスキを迎えてメインはショスタコヴィッチの交響曲第6番ロ短調。その前にデヤン・ラツィックのピアノ独奏でラフマニノフのピアノ協奏曲第2番ハ短調が置かれた全部で70分程度の比較的短いマチネだった。まずラフマニノフではラツィックの爽やかであると同時に繊細極まるピアニズムが聴く者を虜にした。一方でウルバンスキーは冒頭から怒涛のようなロマンティックな流れを作るものだから、1楽章ではテンポ的にも音響バランス的にも表現的にも、どうもシックリといかない居心地の悪い時間が続いた。しかし1楽章の最後の弦の音を引き延ばして続いて演奏された2楽章になり、独奏と木管を中心とするオケとの静謐な絡みが始まると雰囲気が一転した。ピアノとオケの距離がグット縮まり、そこで奏でられたえも言われぬ親密な音楽はこの日の白眉だったのではないか。フィナーレはオケとの息もピタリを合って、ロマンティックながら決して情に溺れないスタイリッシュなラフマニノフとなった。盛大な拍手にショスタコヴィッチの幻想的舞曲からの一曲が弾かれて後半への橋渡しとなった。ショスタコヴィッチは1楽章ラルゴではあまり重暗さを感じさせないちょっと湿り気を帯びた進行が興味深かった。ここでは緊張感を絶やさず音の綾を表現し続けたオケは見事だった。続く2楽章アレグロを経てフィナーレのプレストはまさにウルバンスキの独壇場で、狂気の乱痴気騒ぎの切れ味は彼ならではのパーフォーマンスだったであろ。それにしても作者自身がこの曲を「春、喜び、若さ」の雰囲気と語ったというが、私には作者の「屈折した心」以外のものは聞こえてこなかった。

新国「夢遊病の女」(10月9日)

2024年10月09日 | オペラ
開場以来27年を経た新国立劇場の本舞台についにベッリーニが初登場した。これは驚くべきことで、日本のオペラ界がモーツアルトとヴェルディとワーグナー一辺倒でいかに「ベル・カント・オペラ」を軽視してきたかという証だと言って良いだろう。しかし一方で藤原歌劇団は1979年以来3回も「夢遊病」を上演し続け、その時々での最良の舞台を届けてくれているという事実もある。だからこれは、「日本のオペラ界」ではなく「新国立劇場」と言い直した方が良いかもしれない。しかし大野和士オペラ芸術監督の下でこうした日を迎えたからには、今後は毎シーズンに1演目くらいはベルカント物を組み入れてもらいたいと願うばかりである。(参考までにこれまで新国の本舞台にはドニゼッティは「愛の妙薬」(4シーズン)、「ルチア」(3シーズン)、「ドン・バスクアーレ」(2シーズン)の3演目、ロッシーニは「セビリアの理髪師」(8シーズン)、「ラ・チェネレントラ」(2シーズン)の2演目しかかかっていない)さて今回の待望の「夢遊病の女」だが、バーバラ・リュック演出のプロダクションでマドリードのレアル劇場、バルセロナのリセウ劇場、パレルモのマッシモ劇場との共同制作である。今回の演出上の特色は主人公アミーナの「夢遊病」発病の原因に立ち返り、ストーリーに病理学的観点を組み入れたことであろう。彼女はその孤児という出自から常に村人から阻害されて育った人間として描かれる。そして本来そんな境遇の慰めとなるべき愛人のエルヴィーノからも一度は捨てられて自暴自棄になりそれらが原因で夢遊病を患うという設定なのだと考えられよう。つまりスイス・アルプスの麓の山村におけるハッピーエンドのたわいないお話という単純な仕立てとは全く違う、極めて深刻な社会問題がそこに提示されるのである。常にアミーナにつきまとう舞踏集団の怪しげな動きは彼女の心の内面を表すのだろうし、常に鉄仮面を被ったような無表情で威圧的な村人達の存在(合唱団)は阻害の象徴だろう。そして普通ならば村人達から祝福されて終わる華やかな大団円ではついに自死の結末が暗示されることになる。代役の若手クラウディア・ムスキオはまさにアミーナに相応しい優しく繊細で美しく伸びやかな歌唱で聴衆の心を掴んだ。ベテランのアントニーノ・シラクーザは還暦を迎えたとはとても信じられない美声で見事な高音を聞かせた。お馴染み妻屋秀和も朗々たる伸びやかな美声で外国勢に立派に対峙した。伊藤晴のリーザはちょっと力が入り過ぎて伸びやかさに欠けたが、それは役作りのせいだったのかも知れない。谷口睦美のテレーザは役どころを締め、アレッシオの近藤圭もスタイリッシュな美声できめた。ベルカント・オペラのベテランであるマウリツイオ・ベニーニのピットは東フィルから繊細極まる表現を引き出し職人的な手腕で歌手達を支えた。出番の多かった新国合唱団はあえて無表情な唄を歌うという困難を見事にやり遂げた。そんな意味で音楽的にはとても満足できる仕上がりではあったのだが、2幕フィナーレの喜びの絶頂を歌うアミーナによるカヴァレッタの鮮やかな装飾音が暗澹たる舞台に虚しく響き渡るのを聞くのは大層辛かった。ストーリーを深堀りするも結構だが、私にはベッリーニの珠玉のような音楽が置き去りにされてしまっているように思えた。

東京シティ・フィル第373回定期(10月3日)

2024年10月04日 | 東京シティフィル
常任指揮者高関健が振るスメタナの連作交響詩「わが祖国」全曲である。高関は2015年4月の楽団常任指揮者就任時のお披露目定期でもこの曲を取り上げ、それまでこの楽団からは聞いたこともないような密度の濃い音と音楽に大層驚いたことを鮮明に覚えている。その日のブログを私はこう結んでいる。「これまでも矢崎彦太郎のフランス音楽のシリーズや飯守泰次郎のワーグナーの演奏会形式の演奏などで数々の名演を残したこのオーケストラではあったが、今回の名演は明らかにそれらとは次元を異にした世界への飛躍を感じさせるものであった。この日オペラシティコンサートホールに溢れ出た音楽をいったい何と表現したら良いのだろうか。仮にこの演奏が「プラハの春音楽祭」のオープニングコンサートで鳴り渡ったとしても、おそらく大きな喝采を得ただろう。これからの高関+東京シティ・フィルから目を離すことはできない。」事実この10年間にこのオーケストラは高関の薫陶を得て長足の進歩を遂げ、それが今回の演奏に結実したと言って良いだろう。それほど完成度が高く感動を呼ぶ仕上がりであった。外連味を一切廃しじっくりと腰を据えてスコアに取り組む中から作曲者の本質を掘り出すという高関の基本姿勢が当に最大限に発揮された名演である。練り上げられた弦の音色、木管群の多彩な表現力とアンサンブルの妙、ホルンを始めとする金管群の迫力、切れ良くニュアンス豊かなティンパニ。それらが一体となって高関の「スメタナ愛」全開の音楽展開に最大限に寄与した。とりわけ「ヴァルダヴァ」や「シャールカ」や「ボヘミアの森と草原から」のような描写性の強い楽曲では風景が目に見えるようだったし、全般的に多用されるている舞曲調のリズムや表現のニュアンスも特筆すべきもので、それらは今回の演奏の大きな特色だったと言えるだろう。日頃のベートーヴェンやブルックナーでは作曲家のオリジナルを求めて原典主義を貫く高関なのだが、この曲に限ってはチェコ・フィルが常用するスコアを下敷きにした演奏だったという。聞き慣れない細部の音が聞こえてきて響に深みを与えていたような気もするのは、高関がスコアの意を踏まえて忠実に再現したからなのかも知れない。長い歴史の中でチェコの巨匠指揮者達がチェコのオケと共に考え抜いてきた表現こそが、作曲当時聴覚をすでに失っていたスメタナの筆を正統に補っているとの理解なのであろうから、私はそれはそれで十分見識のある取り組みだと大いに共感したい。「モルダウ」が終わるやいなや会場後方から「ブラボー」の声がかかってしまったが、誰一人としてそれを非難する聴衆は居なかったのではないか。誰だってそれに共感できたであろう、それほどの演奏だったのだ。