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コンサートの感想などを書き連ねます。

東響オペラシティシリーズ第140回(7月7日)

2024年07月07日 | 東響
名誉客演指揮者の大友直人を迎えてバルトークとエルガーの不思議な組み合わせのマチネーだ。音楽的には何ら共通点はない二曲だが、今回はそれぞれがとても良い演奏だった。まずはバルトークのピアノ協奏曲第2番Sz.95だが、この演奏の成功は何よりもピアノ独奏のフセイン・セルメットの技量と音楽性に資するものだったと言って良いだろう。それは打楽器のような強靭な打鍵からからとろけるようなロマンティックな響まで、それはもうピアノを操ってあらゆることが可能だと思わせる程の見事さだった。東響もそれに呼応し濃厚にしてエネルギッシュな好演。とりわけティンパニとトランペットのアクセントに胸が高鳴った。割れるような盛大な拍手にアンコールはうって変わってショパンの練習曲作品25-7で、セルメットはバルトークとは正反対の静謐な世界をも見事に描いた。休憩を挟んで後半は大友が大得意とするイギリス音楽、それもエルガーの交響曲第1番変長調作品55だ。プログラムによると大友が東響とこの曲を演奏するのは26年振りだと言う。さらに第2番は昨年演奏されて実況CDも出ている。つまりスペシャリストによるエルガーの佳作の演奏だ。そんなわけでこれが悪い訳がない。「ノビルメンテ」というにはいささか刺激的過ぎる音色だったと個人的には感じたが、それは東響の機能性が十二分に発揮されていたということなのかも知れない。大友特有のスマした音楽なので決して情熱的にならない。しかし青白い炎にような熱量が十分感じられる内的に激しい演奏だった。フィナーレで一楽章の主題が戻ってきて高々と奏された時には胸が熱くなった。

東響オペラシティシリーズ第139回(6月1日)

2024年06月02日 | 東響
沼尻竜典指揮によるポーランドの音楽を並べたマチネーだ。メインは懐かしいヘンリク・ミコワイ・グレツキの交響曲第3番作品36「悲歌のシンフォニー」である。それにエリック・ルーを迎えてフレデリック・ショパンのピアノ協奏曲第2番ヘ短調作品21。前者は30数年前に英国のヒットチャートを飾って大ブレークし、その音盤が大売れしたという極めて珍しい「現代音楽」だ。何と1994年に日本初演を担ったのは、今回の指揮者沼尻と彼が当時常任指揮者を務めていた新星日響だったということだ。(私は当時このオケの定期会員だったが、その初演は特別演奏会だったので聞いた記憶はない)今回配布されていたチラシを観て、「悲歌」で終わるのは何とも気が重いので、ショパンを後に演奏してほしいなと思っていたのだが、残念ながら当日の順番はショパンが先だった。最初のエリックのショパンは実に楚々としたもので、余計な思い入れを排して美音で気品高く美しく音を連ねてゆく。沼尻が実に丁寧にそれに付けてゆくのでオケとの一体感が生まれた心地よさは十分にあった。しかし私としては今一つ物足りない印象だった。アンコールは「雨だれ」として知られる前奏曲集からの一曲。こちらは一音一音の響を大切にする繊細さが曲の持ち味を引き立ててなかなか聞かせた。休憩後はグレツキで、ここでソプラノの砂川涼子が加わったが、全身黒の喪服のような彼女の装束が今回この曲が選ばれた意味を多く語っていたのではないか。そもそもホローコストの犠牲者追悼のために1976年に生まれた曲であるが、ここでグレツキは決して声を荒げるのではなく、全てを心の中に押し込めて瞑想的な音楽の中で犠牲者を弔っている。楽章毎に添えられた三種の詞は子を失った母の哀れかつ悲壮な心情に貫かれていて、世界戦争の無い長い時代が明け何やらキナ臭さが漂う昨今、そこに居合わせる者が聞き、今一度向かい合っている世界を問い直すのに一番相応しい曲であることは確かである。砂川は静謐な音楽に乗せて切々と母の心を訴え、沼尻は一貫した流れの中でその心をいやがうえにも押し上げた。現代音楽としての音楽的価値はともかくとして、独特な手法により強烈なメッセージを感じさせる曲であることは確かであるし、それが音楽の価値であることも確かである。ヒットした時代とは世界の様相が変わってきた今、当時とは別の意味で我々の心に突き刺さるものを感じながら聞いた。

東響オペラシティシリーズ第138回(5月17日)

2024年05月17日 | 東響
音楽監督ジョナサン・ノットが指揮する二つのヴィオラ協奏曲を重ねた極めて珍しいプログラムだ。まずは当団主席ヴィオリストの青木篤子をソリストに迎えてベルリオーズの交響曲「イタリアのハロルド」作品16だ。颯爽たるノットの指揮に触発された東響がまるでフランスのオケのように鮮やかに鳴り切った。泡立つリズム、鮮やかな色彩、しなやかなメロディ線、一発触発の切れ、それらが一体となった眩いばかりの音楽に聴衆は釘付けになり、終了後は大きな拍手と歓声がタケミツ・メモリアルホールに響いた。青木も精一杯のニュアンスで見事に弾き切った。それを支えるノットはバランスに苦慮したが、やはり何と言ってもベルリオーズの絢爛たるオーケストレーションの下ではソロが隠れがちになってしまうのは致し方なかろう。青木の美点はむしろオケの独奏楽器との掛け合いで、そこではメンバーとしての強みを多いに発揮していた。ここで休憩を挟んで二曲目はもう一人のヴィオリストであるサオ・スレーズ・ラリヴィエールを迎えて酒井健治(1977-)のヴィオラ協奏曲「ヒストリア」(2019年初演)である。現代曲でありながらメロディや音色やリズムに親和性があり、古典的な音楽語法にもある程度準拠した斬新ながら聴きやすく美しい曲である。これをラリヴィエールは飛びっきりの美音と技量で見事に弾き切った。決してメロディ豊かという訳ではない現代曲でありながら、わざわざ時間を費やして聞くべき音楽としての価値が十分にある傑出したヴィオラ・ピースだと言えるだろう。それゆえ現代曲でありながら終わった後は拍手と歓声で会場はまたもや沸いた。大きな拍手にヒンデミットの無伴奏ヴィオラ・ソナタからの楽章が無窮動の超絶技巧でアンコールされた。これはもう唖然たる技量だった!そして最後に置かれたのはイベールの交響組曲「寄港地」である。第一曲「ローマーパレルモ」、第二曲「チュニスーネフタ」、第三曲「バレンシア」の三曲から成る短い組曲だが、そこに展開する光満ちたラテン的でありつつ異国情緒に満ちた独特の雰囲気を、ノットはここでも一曲目同様の切れ味と颯爽たるドライブ感で見事に描いた。真ん中の酒井作品は例外であるが、今回のコンサートに於ける両端二曲の演奏は実にヨーロッパ的(騎馬民族的)な香りに包まれた仕上がりで、とてもほとんどが農耕民族の血を引く我が国のオケの演奏は思えないものだったのには驚嘆した。そんな演奏を東響が成し遂げられたのも、いまや蜜月を迎えた音楽監督ジョナサン・ノットとの10年間の絆あればこそなのであろう。残された2年でこの両者の間に更にどんな化学変化が起こるかを楽しみにしたい。

東響第720回定期(5月12日)

2024年05月12日 | 東響
今回の指揮者ジョナサン・ノットはこれまでも幾度か武満徹作品をプログラムに含めたことがあった。音楽監督就任の2014年にマーラー9番と「セレモニアル」を、2016年にドビュッシーの「海」+ブラームスの1番と「弦楽のためのレクイエム」を組み合わせた。他にもあるかも知れないが記憶にあるのはこれだけだ。どちらの演奏も私としては曲想との親和性を感じて興味深く聴いた記憶がある。今回一曲目の武満徹作曲「鳥は星形の庭に降りる」も、しなやかなで繊細な進行と透明な音感が曲想に合致していてとても心地よく聴いた。二曲目はソプラノの高橋絵里を加えてベルクの演奏会用アリア「ぶどう酒」。こちらはボードレイルの詩のドイツ語訳三篇に曲をつけたものだが、どうも多彩なテクストの内容に比較して曲調が変化乏しくノッペリと出来ていてあまり面白く聴けなかった。残念ながら高橋の歌唱もそんな曲調を反映していて単調に聞こえてしまった。休憩を挟んでテナーのベンヤミン・ブルンズとメゾ・ソプラノのドロティア・ラングを迎えてマーラーの「大地の歌」だ。こちらはかなりの名演だった。ブルンズの声質は明朗闊達で、I「酒興の歌」、Ⅲ「若さについて」Ⅴ「春に酔った者たち」にピタリと合っていたし、一方ラングの柔らかく温かい声質はⅡ「秋、孤独な男」、Ⅳ「美しいものについて」、Ⅵ「別れ」を包容力を持って描いた。つまり何よりノットの歌手選びの妙が功を奏したということだ。ノット率いる東響の音量的なバランスは実に見事で歌がかき消されることは無かった。(サントリー一階L側後部)そしてノットは繊細な感性で柔軟に東響を牽引し、どちらかと言うと室内楽的な密度の高い品格漂う演奏だった。それに貢献した東響の精度の高い弦楽、ニュアンス豊かな木管・金管セクションは正に会心の出来だったのではないか。ラングからより深い歌が聞ければなと、これは無い物ネダリで、十二分に感動したマチネだった。

びわ湖ホール「ばらの騎士」(3月2日)

2024年03月03日 | 東響
新型コロナの影響で2018年以来途絶えていた「びわ湖ホール・プロデュースオペラ」の本格舞台上演が、新音楽監督阪哲朗の指揮の下で5年ぶりに復活を果たした。今回の演目はR.シュトラウスの「ばらの騎士」である。結論から言って、それはこの日本の地で、すべて日本人の手で作り上げられた舞台とは到底思えぬほどの驚異的な仕上がりだった。その一番の要因はもちろん歌手達の歌唱と演技の完成度なのだが、それを導き出したのはまったくむらの無い敵材適所の配役だったような気もする。元帥婦人の華やかさと威厳と哀愁を見事に表現した森谷真理、美声と軽妙な演技で独特の存在感を発揮したオックス男爵の妻屋秀和、ズボン役でありながら女性の変装をするという複雑な立ち位置を歌唱・演技の両面でピタリと決めたオクタビアンの八木寿子、出会いのときめき、そしてその後の失望と喜びを鮮やかに歌い分けたゾフィーの石橋栄美など、その他端役の方々に至るまで、一人一人が最高の実力を発揮できた舞台だったように聞いた。そしてそれらを音楽の面で、流麗に繊細に陶酔のうちにまとめ上げた阪哲朗の手腕と京都市響の実力は並々ならぬものだったと称賛して良いだろう。中村敬一の演出は音楽を引き立てる全く無理のない自然なもので、安心してシュトラウスの円熟した筆致に身を任せることができ、それが全体的な感動に結びついたことは言うまでもない。舞台作りは今どき珍しいくらいに確りと具体的に作り込まれた美しいもの。とりわけ終幕の元帥夫人&オクタビアン&ゾフィーの三重唱からオクタビアン&ゾフィーの二重唱に移ってゆく場面の心を映すプロジェクトマッピングによる色合いの変化の美しさが印象に残った。久方ぶりにこうした装置で舞台を観ることで、あらためてオペラの醍醐味を実感することができた。そしてほぼ満席の会場が、幕を追うごとに熱気を帯びてゆく中に身を置きつつ、舞台芸術を一生の友として生きてきた幸せを心から感じた時間だった。

東響第717回定期(12月16日)

2023年12月18日 | 東響
桂冠指揮者ユーベル・スダーンが久しぶりに登場し、ドイツの編曲物を集めた興味深いプログラムだ。まず最初はぐグスタフ・マーラーが編曲を施したシューマン作曲交響曲第1番変ロ長調作品38「春」である。稚拙と云われているシューマンのオーケストレーションの弱い部分に手を入れた基本的に原曲に忠実な編曲なのだが、この曲のトレードマークでもある春を告げるかのような冒頭のファンファーレは聞き慣れたメロディではない。なんでもこれがシューマンが最初に構想したメロディだそうだが、いささか違和感があると同時にそこに華やいだ春の喜びは感じられない。まあそれはともかく全体の印象としてマーラーの筆を尽くして手入れのために大層密度の濃い響きになっている。そしてそれをスダーンは輪をかけて緻密に、そして力感豊かに響かせるので、ロマンティックというよりも、黒光りする鋼のような隙のない堅固な、とても立派なシューマンが出来上がった。続いてはアーノルド・シェーンベルクが大オーケストラ用に編曲したブラームスのピアノ四重奏曲第1番ト短調作品25だ。編曲の基本路線は弦楽部分は弦楽、ピアノ部分が管楽器ということなのだが、決して其れだけに留まらないアイデア満載の華やかな曲に仕上がっている。圧巻は作曲家自身が「ジプシー風ロンド」と名付けた終楽章で、様々な打楽器が醸し出すジプシー風音楽の熱狂はシェーンベルクの独壇場だ。スダーンはそうした曲に真正面から真面目に対峙し、まるで聳え立つ大伽藍のような立派な音楽に仕上げた。

東響第93回川崎定期(10月14日)

2023年10月15日 | 東響
音楽監督ジョナサン・ノットが登場して、自らドビュッシーのオペラから編曲した交響的組曲「ペレアスとメリザンド」とヤナーチェクの「グレゴル・ミサ」を並べたプログラム。一曲目はこのオペラのペレアス、メリザンド、ゴローの3人の登場場面に焦点を絞った15曲で構成された40分を超える大組曲だ。聞く前は曲柄もあるのでさぞ冗長になるのではと懸念されたが、幸いなことにそれは全くの杞憂だった。それは選曲の妙、演奏の妙だ。曖昧模糊とした基調にドラマチックな場面も適宜織り交ぜながら極めて柔軟に作曲者の持つ独特な色合いを描いたノットも素晴らしいし、東響の惚れ惚れするような木管群(竹山・荒木・吉野)のニュアンスと鮮やかな弦にも感心した。続いてのヤナーチェクはノットの気迫に貫かれた演奏だったと言って良いだろう。とは言いつつ決して固くならないところがノット流だ。今回の特筆すべきはWingfieldのユニヴァーサル版を使ったことで、これにより3拍子と5拍子と7拍子が入り乱れる第二曲(序奏)がとりわけ効果を聞かせることになったはずだ。私自身は一般に流通している版さえ良く知らない状態なのでお恥ずかしながら違いを実感できなかったのが残念だ。今回も東響コーラスは古代スラブ語を全曲暗譜で純度高く熱唱した。部分的にはよりコントラストが欲しかった気もしたがそれはノットの指示だったのだろう。とにかく天を突き刺さんばかりの気迫に満ちた歌声がミューザ川崎に響き渡った。第八曲のオルガン独奏はこのホールのオルガニスト大木麻理(どこにもクレジットされていない)が担当したが風格のある素晴らしい演奏だった。ここでも東響は充実した響きで、とりわけ冒頭の弦の響きにヤナーチェクを心から感じた。