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東京シティ・フィル第79回ティアラ江東定期(11月23日)

2024年11月23日 | 東京シティフィル
当団首席客演指揮者藤岡幸夫の指揮に上原彩子をソリスト迎え、プロコフィエフのピアノ協奏曲第3番ハ長調作品26とラフマニノフの交響曲第2番ホ短調作品27を組み合わせた熱いプログラムだ。プロコフィエフは7月に京都で同じく上原と沖澤のどかの指揮で聴いたばかりだが、上原のピアノは技巧的には一切不満はないのだが、京都の時に比較して音量が不足していささか勢いが無いように聴こえた。これは会場のせいか、あるいはオケの音とのバランスのせいなのかもしれない。一方小さな音の部分ではオケが音量を落とすので透明で繊細なピアニズムに新たな発見があった。抜群の疾走感と爽やかさに貫かれた快演といった印象。アンコールはしっとりと前奏曲op.32-5。まさに対照の妙を感じさせる心憎い選曲だ。休憩を挟んだラフマニノフはもう藤岡の独壇場だった。機能的に充実を極める今のシティ・フィルを存分に鳴らして切ってロマンティックの極致たる表現だった。とりわけジックリ濃厚に歌い切ったアダージョは圧巻だった。心をこめた弦のメロディーに心を掴まれたのは当然のことだが、木管群とホルンの美しい「密かな愛の対話」のごとき掛け合いに滲み出た深い抒情は当日のハイライトだったのではないか。終楽章は厳格なシベリウス的な音をも感じさせながら、ロマンティックな回想も挟んで圧倒的なフィナーレに至るまで、熱いけれど品格を失わない藤岡らしい充実した仕上がりだった。

東京シティ・フィル第373回定期(10月3日)

2024年10月04日 | 東京シティフィル
常任指揮者高関健が振るスメタナの連作交響詩「わが祖国」全曲である。高関は2015年4月の楽団常任指揮者就任時のお披露目定期でもこの曲を取り上げ、それまでこの楽団からは聞いたこともないような密度の濃い音と音楽に大層驚いたことを鮮明に覚えている。その日のブログを私はこう結んでいる。「これまでも矢崎彦太郎のフランス音楽のシリーズや飯守泰次郎のワーグナーの演奏会形式の演奏などで数々の名演を残したこのオーケストラではあったが、今回の名演は明らかにそれらとは次元を異にした世界への飛躍を感じさせるものであった。この日オペラシティコンサートホールに溢れ出た音楽をいったい何と表現したら良いのだろうか。仮にこの演奏が「プラハの春音楽祭」のオープニングコンサートで鳴り渡ったとしても、おそらく大きな喝采を得ただろう。これからの高関+東京シティ・フィルから目を離すことはできない。」事実この10年間にこのオーケストラは高関の薫陶を得て長足の進歩を遂げ、それが今回の演奏に結実したと言って良いだろう。それほど完成度が高く感動を呼ぶ仕上がりであった。外連味を一切廃しじっくりと腰を据えてスコアに取り組む中から作曲者の本質を掘り出すという高関の基本姿勢が当に最大限に発揮された名演である。練り上げられた弦の音色、木管群の多彩な表現力とアンサンブルの妙、ホルンを始めとする金管群の迫力、切れ良くニュアンス豊かなティンパニ。それらが一体となって高関の「スメタナ愛」全開の音楽展開に最大限に寄与した。とりわけ「ヴァルダヴァ」や「シャールカ」や「ボヘミアの森と草原から」のような描写性の強い楽曲では風景が目に見えるようだったし、全般的に多用されるている舞曲調のリズムや表現のニュアンスも特筆すべきもので、それらは今回の演奏の大きな特色だったと言えるだろう。日頃のベートーヴェンやブルックナーでは作曲家のオリジナルを求めて原典主義を貫く高関なのだが、この曲に限ってはチェコ・フィルが常用するスコアを下敷きにした演奏だったという。聞き慣れない細部の音が聞こえてきて響に深みを与えていたような気もするのは、高関がスコアの意を踏まえて忠実に再現したからなのかも知れない。長い歴史の中でチェコの巨匠指揮者達がチェコのオケと共に考え抜いてきた表現こそが、作曲当時聴覚をすでに失っていたスメタナの筆を正統に補っているとの理解なのであろうから、私はそれはそれで十分見識のある取り組みだと大いに共感したい。「モルダウ」が終わるやいなや会場後方から「ブラボー」の声がかかってしまったが、誰一人としてそれを非難する聴衆は居なかったのではないか。誰だってそれに共感できたであろう、それほどの演奏だったのだ。

東京シティ・フィル第372定期(9月6日)

2024年09月07日 | 東京シティフィル
東京シティ・フィル秋のシーズンの開幕は、常任指揮者高関健の振るブルックナーの交響曲第8番ハ短調だ。このオケは2020年8月にこの組み合わせで第2稿ハース版を使用した立派な名演を残したばかりで、それはCDにも記録されている。しかし今回は生誕200周年ということで、最新の第1稿ホークショウ校訂譜を使用した演奏だ。 この第1稿の特色は、指揮者レヴィに「演奏不能」と突き返され、弟子に促されて改定を施す際に切り捨てた部分を復活させたり、また改変したオーケストレーションを元に戻したりし、この曲が最初に生まれた無垢な形を復元したことにある。私は今回初めてこの初稿が実音となったのを生で聞いたわけだが、これまで長年聴き親しんできた第2稿が随分効果を狙い、メリハリたっぷりに、その意味では合理的(?)に書き換えられていて、実はその一方で極めて内気で繊細でこの作曲家らしい貴重な瞬間を多く失っていたのだということに気づいた。部分復活を果たした結果演奏時間は90分近い長丁場ではあったのたが、そこに冗長さを感じるよりも、むしろインスピレーションに富んだ新たに聞くメロディに目から鱗が落ち胸が時めいた。高関は自ら10年間に作り上げたシティ・フィルの機能を十全に開花させ、極めて丁寧に瞬間瞬間を紡いでいった。その結果一部の隙もない揺るぎのない、しかし決して硬直的でない”たおやかな構成感”とでも言えるものが獲得され、実に稀にしか聞きえない立派な音楽が鳴り響いた。それはこの作曲者の記念イヤーに誠にふさわしい大演奏だった。

東京シティフィル第371回定期(6月29日)

2024年06月30日 | 東京シティフィル
ウイーン古典派プログラムの模範のような選曲の定期を振るのは古楽界を代表する指揮者(チェロ奏者)鈴木雅美だ。オケはティンパニとトランペットにピリオドスタイルの楽器が用いられ、フルートは木製。弦のビブラートは抑制されてスッキリした響で統一されていて、全体に嘗て流行ったような変に刺激的な炸裂は控えた落ち着いた響だ。こういう穏当なスタイルでウイーン古典派を聞くと、一時は反動的なブームのように広がった”古楽スタイル”も落ち着くところに落ち着いたなという気がする。最初のモーツアルトの歌劇「ドン・ジョバンニ」序曲は、まあスターターとしての腕試しのような感じ。整った響が心地よく、独立して演奏されるために尻切れトンボ的なオペラ版のコーダに加筆が施されていた。続いて小山実稚恵を迎えてベートーヴェンのピアノ協奏曲第3番ハ短調作品37。小山の独奏はダイナミックレンジを広くとった実にこの時期のベートーヴェンらしい演奏で、モーツアルトからの時代的進化を明確に印象づけるものだった。オケもそれに機敏に反応してこの曲としては理想的な仕上がりであったと思う。大きな拍手にアンコールはシューベルトの即興曲D.899第3番。小山の紡ぎ出すの深淵な世界が、前半の古典派の世界を後半のロマン派の夜明けの世界に美しくつなげた。そして「トリ」はシューベルトの交響曲第8番ハ長調D.944「ザ・グレート」だ。これは現在のシティフィルの強みが鈴木の指揮の元で全面に押し出された稀に見る名演だったのではないか。ニュアンス豊かな木管、力強くメリハリのある金管、シャープなティンパニ、そして機動力豊かな弦楽群が総力を上げてシューベルトの晩年の大作を歌い上げた。特に今回目立ったのはこの曲では大活躍するトロンボーンのニュアンスの豊かさだ。ナチュラルのトランペットも健闘。こうした適正なスタイルの秀でた演奏で聞くとこの曲も冗長さをほとんど感じない。

東京シティ・フィル第369回定期(4月19日)

2024年04月20日 | 東京シティフィル
快進撃を続けるコンビ10年目に突入した常任指揮者高関健と東京シティ・フィル。2024/25年のシーズンは、華々しくR.シュトラウスの楽劇「ばらの騎士」より第一幕および第二幕より序奏とワルツ集で幕を開けた。これは作曲者自身が編曲したヴァージョンだそう。原曲を超えた想像力豊かな展開も聞き取れる興味深いピースではあったが、やはり日頃聞き慣れているロジンスキー編曲の「組曲」の方が本編のオペラを素直に感じることができて聞き心地はそちらの方がよろしい。二曲目は南紫音を迎えて大変珍しいシマノフスキのヴァイオリン協奏曲第1番作品35。これは高音が続く超絶技巧の単一楽章の協奏曲風幻想曲といった趣だ。怪しげというか、耽美的というか、独特な音色と色彩感を持ったガラス細工のようなソロのフレーズを南は見事に弾き切った。大オーケストラを巧みにコントロールして繊細極まるソロを見事に浮き立たせた高関の手腕も見事の一語に尽きた。長く続く大きな拍手にアンコールは無かったが、この曲の後に弾くべき曲なんて見つかりそうもない。最後は定期では2017年以来7年ぶりになるベートーヴェンの交響曲第3番変ホ長調作品55「英雄」だ。数多の名演が音盤に記録されているこの曲であるが、この日の高関は珍しく快速、そして基本ノンビブラートで勝負に出た。更には裏の旋律を引き出して立体感を添える造作。しかし音自体はピリオド流の尖ったところはなく重めでズッシリと響くのだ。そうした独特のスタイルが全体的な感銘を生んだかというと、個人的には微妙だったと言わざるを得ない。確かに常套的な表現が洗い流されていて面白かったが、その先に心に響くものが希薄なのだ。会場は大層沸いていたので気に入った聴衆も多かったようだが、私個人としては、やはり広々とした「大交響曲」を聞いて勇気を貰いたかった。10年目を迎えて機能的に目を見張るように成長を続けるシティ・フィルだが、ある意味ではこんな実験的な演奏も事も無げに出来る「実力」を見せつけたとも言えるかもしれない。

東京シティ・フィル第368回定期(3月8日)

2024年03月09日 | 東京シティフィル
2023年度最後の定期は、常任指揮者高関健の指揮でシベリウスとマーラーの二曲。この二人は5歳違いのほぼ同年齢だが、その作風は雲泥の差だ。プレトークによると作曲についての考え方も全く相入れなかったらしい。最初に置かれたシベリウスの交響詩「タピオラ」作品112は彼の作曲キャリアの最後期の作品で、自然と対話するような内相的な作品だ。高関によると作曲技法も大変にシンプルだという。高関の緻密でありながら広い視野を感じさせる指揮と透明感のあるシティ・フィルの音色は、そうした作品の特色を神々しいまでに描き切った。休憩後はマーラーの交響曲第5番嬰ハ短調。今回はハープ2台使用の他ダイナミックスやアーティキュレーションにいくつかの変更が施された国際マーラー協会の「ラインホルト・クビーク校訂2002年版」が使用された。演奏の方は大変に見事なものだった。版の違いに起因するのか指揮者の解釈に起因するか素人には定かではないが、これほど声部が混濁せずに様々な音の絡みが明確に聞き取れるこの曲の演奏を私はこれまで実演では聞いたことがない。それがきちんと整理されているので純音楽的説得力は絶大だ。その一方で「アダージェット」の陶酔感は奥に引っ込んだ感じだったが、ダブルハープの音色の妙がその穴埋めを果たした。そのように基本的には2022年3月に演奏された同じくマーラーの9番と同様、マーラーの演奏にありがちな独特な思い入れは排除され、この作曲家の音楽の立派さだけが聳え立ち、聞くものはそれに圧倒される。それをバックアップしたのは、もちろんこの9年間に高関自身が鍛え上げた現在のシティ・フィルの実力だ。とりわけトランペット主席の松本亜希とホルンの谷あかねの好演は今回の演奏会の華となった。松本も谷も最初はいささか緊張気味で些細なキズもあったが、その後の彼女らの技の前にはそれらは帳消しになろう。谷の美音を基調とした音量コントロールの妙には胸すくものがあったし、松本のシャープな音色やピアニッシモの美しさの効果は絶大だった。もちろん他の金管の力感や木管の表現力も一時代前とは比較の仕様のないものだったし、キレキレの弦楽群、シャープな打楽器群をも賞賛したい。満場の絶大な拍手に指揮者のソロアンコールと思いきや、高関は谷と松本を引き連れて登場し会場は大きな声援に包まれた。このように高関9年目のシーズンは有終の美を飾ったわけであるが、来年度は更にどんな進化を聞かせてくれるか、今からとても楽しみである。

東京シティ・フィル第367定期(2月2日)

2024年02月03日 | 東京シティフィル
首席客演指揮者藤岡幸夫が振る2月定期だが、ロッシーニ、菅野、サン=サーンスという組み合わせの意味はよくわからない。まずはロッシーニの歌劇「ラ・チェネレントラ」序曲だが、まあ予想通りシンフォニックにオケを鳴らした演奏で「ロッシーニ感」はゼロ。それはそれで良いのだが、そのように演奏するとなると、スターターの役割としては曲が役不足かと感じた。二曲目は神尾真由子をソリストに迎えて今話題のTVドラマ「さよならマエストロ」のテーマ音楽作曲者としても知られる菅野祐悟のバイオリン協奏曲(世界初演)。これは作曲者が英国の詩人ジョン・キーツの書いたラブレターに触発されて神尾のために書いた30分を要する大曲だ。前半では恋人への想いの丈を、後半では憧憬の情のような感情を描いたようなわかり易い曲だ。神尾はほぼ弾ききりの熱演だったが、どこをとっても同じような音の繰り返しが続き、緩急の変化もあまりなく、ソロと伴奏の関係もいつも同じ、構成感もほぼ感じられない。だから「劇なき劇伴」のような30分は正直辛かった。休憩後のサン=サーンスの交響曲第3番ハ短調「オルガン付き」は、前半が前半だっただけに大層聴き映えがした。ここでは威勢良く鳴らす藤岡の個性が爆発して大層ブリリアントな演奏が展開された。しかし、どんなに威勢がよくとも今のシティ・フィルのソロや鉄壁のアンサンブルは美しく響くから凄い。この美しさこそ常任指揮者高関健と伴にこの楽団が9年間に築き上げてきた賜物だろう。そうした個性の上だからこそ、このような完成度の高い演奏が可能になったのだとつくづく思った。小柄ながら堂々と存在感豊かにタケミツメモリアルのオルガンを鳴らし切った石丸由佳が最後まで立たせてもらえなかったのは、単なる藤岡の「忘れ」が原因か。そうだとしたらちょっと可哀想だったなと。

東京シティ・フィル第76回ティアラこうとう定期(1月27日)

2024年01月27日 | 東京シティフィル
常任指揮者高関健が振る今シーズン最後のティアラこうとう定期は大入満員の大盛況。その理由は二曲目にあるのだが、プレトークで高関は他の曲にも力を入れているので楽しんでくださいとのこと。そしてスターターは、当日はモーツアルトの誕生日だということで滅多に実演では聞くチャンスはない交響曲第32番ト長調K.213。ホルンが4本もあり、更にトランペットがあるのにティンパニのない古典派としてはとても不思議な編成。だから聞きなれない音がするのが楽しかった。演奏のほうは高関にしては随分大らかな、威勢の良いモーツアルトであった。そして二曲目はマウリシオ・ラウル・カーゲルのティンパニとオーケストラのための協奏曲だ。話題性はともかくとして、とんでもない結末以外の部分も中々良くできた曲だという印象。様々なバチや素手で楽器を叩いたり擦ったり。おまけにメガフォンで声まで出す。何よりシティ・フィル首席ティンパニ奏者目等貴士の華麗なバチ捌きは実に華麗だった。肢体も実にしなやかで、打楽器奏者には秀でた身体能力が必要だということを改めて知った。最後は紙を張った6番目のティンパニに頭から突っ込んで終わり。この動きも実にキマッテいて役者としても中々である。突っ込んだまま動かない目等に高関が駆け寄るオマケまでついてなかなか楽しいエンターテーメントだった。休憩後はリヒャルト・シュトラウスの交響詩「ドン・ファン」作品20と「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら」作品28の二本建て。これらはまあ豪快に良く鳴って気持ちが良かった。木管と金管、とりわけホルンの好演が目立ち現在のシティ・フィルの能力を余す所なく披瀝したと言いたいところだが、高関にしてはちょっと開放的過ぎていささか荒っぽかったようにも聞こえた。しかしその熱量は日頃の彼からは聞かれないものだったことはとても興味深い。

東京シティ・フィル第366定期(1月13日)

2024年01月14日 | 東京シティフィル
シティ・フィルは今回の指揮者沖澤のどかを2012年2月の時点で招聘していた。しかしコロナ禍の中で来日が不可能となり師の高関健が代演した経緯がある。だから今回はそのリヴェンジ公演とでもいえようか。しかし曲目はその時とはガラリと変わった。シューマンとラヴェルという対極のような組み合わせを解く鍵は第1曲目にあった。それはラヴェル編曲によるシューマンの「謝肉祭」である。ただし全22曲中出版されたのは4曲だけでそれ以外は紛失されたそう。だから今回は出版されている4曲だけが演奏された。聴く前から「前口上」のようなピアニスティック曲をラヴェルはどう料理するのだろうと興味津々で臨んだ。まあ違和感も多い敢闘賞と言ったところか。演奏の方もまあ腕試しという印象。続いてピアニスト黒木雪音が登場してシューマンのピアノ協奏曲イ短調。堂々と、そして楽しげに弾く黒木を見ているとこの曲が誰でも弾ける曲かのように思えてしまう。まあ決してそんなことはないのだが。しかし技は立つのだがそこからシューマンは聞こえてこない。ピアノが好きでたまらないという風情で弾いているが、どこを取っても同じような音楽が聞こえてきて睡魔が襲ってきてしまった。さて休憩を挟んでラヴェルのバレエ「ダフニスとクロエ」第1組曲&第2組曲だ。これはもう沖澤の独壇場で、何の迷いもない明快で鮮やかな演奏だった。音が澄み切り、リズムも明快、ニュアンスも豊か、それに色彩感も満載。最初の一音から眠気は吹っ飛んで、「いつ迄でも聞いていたい」と思わせるあっと言う間の30分だった。こんな「本物」を描き尽くせたのは日頃常任指揮者高関健の薫陶でメキメキと腕を上げているシティ・フィルならではであるが、沖澤の示した極めて大きな統率力に因るところも大であろう。いまの時点で「今年一番」とさえ思わせる最上級の仕上がりに大満足。とりわけ首席欠員のフルート・パートに客演するチャンスの多い多久和玲子のフルートソロには惹きつけられた。

東京シティ・フィル第365回定期(11月30日)

2023年11月30日 | 東京シティフィル
そもそも2020年3月の第332回定期に予定されていたこのプッチーニの歌劇「トスカ」(演奏会形式)だが、コロナ禍で演奏会自体が中止に追い込まれ、一旦は同一キャストでその年の8月への延期が発表された。しかしその時点でもまだ情勢が合唱付きのオペラを公演できるまでに至らず、ついに三年越しで実現にこぎつけた、いわば「リヴェンジ公演」である。しかも今回もオリジナル・キャストとは、常任指揮者高関健とシティ・フィルの並々ならぬ執念を感じさせる。そんな曰くを知ってか知らずか、会場はこのオケの定期としては珍しくほぼ満員となった。さて演奏の方は満を持しただけあって輝きに満ちた極めて充実したオケの響で開始された。このあたりは数多のイタリア・オペラの中でもとりわけシンフォニックな「トスカ」を演目に選んだ理由でもあろうし、そうしたオペラのオケ部分の面白さを聞かせたいという高関の意図は見事に実現できたと言って良いだろう。「演奏会形式」と一口に言っても照明も駆使した舞台風な仕切りの場合もあるが、今回はオケの響に重点を置いて演技は「できるだけ控えめ」を指向していたように思われた。それゆえか、一幕前半では堂守役の晴雅彦やアンジェロッティ役の妻屋秀和は舞台の臨場感を感じさせる動きを伴った歌唱だったが、主役カヴェラトッシの小原哲楼とトスカ木下美穂子の二人は、ほぼ棒立ちの歌唱で折角の愛の二重唱もいささかの物足りなさを感じさせた。変化が生じたの上江隼斗演ずるスカルピアが登場してからだ。控えめながら性格的な動きや形相を伴った熟達の歌唱が場を大いに盛り上げ二幕に続けた。二幕はトスカとスカルピアの独壇場だ。二人の演技も歌唱もだんだんと熱を帯び、ストーリーをフォローすべき自然な動きが生まれ始めた。「歌に生き恋に生き」は木下のクリスタル・ヴォイスによる清廉な歌唱。小原の「ヴィットリアー」も多少のくぐもりはあったが見事に決まった。上江はスカルピアのいやらしさ、狡猾さを十分に表現した秀でた歌唱だった。ただ肝心のトスカがスカルピアを刺す場面ではもう少し動きに工夫(演出)が欲しかった気がする。ストーリーを背負って歌手が生で歌っていながら、それをあえて制したのだとしたら、それは「オペラ」ではない。さて終幕、「星は光ぬ」でも小原の声は今ひとつ突き抜けてこなかったものの破綻のないスタイリッシュな歌唱。カヴァラドッシの処刑から自害に至るまでの木下の所作には制約の中にも説得力が感じられ、それが一定の感動を導いたことは確かだ。ただやはり演奏会形式とはいえ、全体にもうすこし一貫したドラマツルギーに基づいた歌手達の動きがあったら折角の歌唱が引き立っただろうなというのが正直な感想だ。それがオペラというものだ。一方高関はいつものような丁寧な棒で絶好調のシティ・フィルを率い、プッチーニのオーケストレーションの魅力を余すところなく引き出して聴衆に印象づけた。しかし一方でドラマの持つ緊張感や感情の機微を場面毎に作り出すオペラティックな柔軟性にはいささか不足していたように聞こえた。とは言え、3年越しでのこの舞台の実現を喜ぶ出演者達の感動に満ちたカーテンコールを見ていたらこちらの胸も熱くなった。シティ・フィルは、来シーズンの最終公演でも21年3月に中止になったヴェルディのレクイエムのリヴェンジ公演をオリジナル・キャストで予定している。

東京シティ・フィルの2024年度プログラム

2023年11月17日 | 東京シティフィル
在京のどのプロオケより遅く東京シティ・フィルの来年度プログラムが発表された。このオケの場合、タケミツメモリアルホールで開催される定期が9回とティアラこうとうで開催される定期が4回なので、年間たった13回しか定期演奏会がない。しかし毎年決して集客目的の名曲の羅列に終わらず、多彩な曲目で組み立てられており、年季の入ったファンには大いに魅力的である。このあたり首席指揮者高関健の選定眼を強く感じさせる。更に指揮者にもソリストにも「外人」の名前はほぼ見当たらず、日本人を並べるのは逆に「壮観」でさえある。このあたりは、財政上の都合が大きく影響しているとは思うが、人選に間違えがあった試しはない。さて次年度を見渡してまず気づいたのは、二曲の大曲が最近10年来の定期で二度目の登場だということだ。10月のスメタナ作曲連作交響詩「我が祖国」は、2015年4月の定期で高関が首席指揮者として初めて定期で披露した曲だ。今回は生誕200周年であえて取り上げたのだと思うが、その時の演奏は楽団史に残る名演だった。そのコンビが10年目を迎えてどんな成長を聴かせてくれるか、あれ以上の名演があり得るのか。これは本当に楽しみである。もう一つは9月の、これも生誕200周年のブルックナーの交響曲第8番ハ短調だ。これは2020年8月の定期に登場したばかりである。とは言えこの時はコロナ禍で各オケが小編成での舞台演奏を再開する中、あえて万全な対策を講じつつ演奏会形式「トスカ」の代替え公演として演奏されたという云くがある。この時はハース校訂による原典版が使用されたが、今回は最新の研究成果に基づくホークショー校訂の第一稿による演奏だということだ。「初稿」による演奏となれば、2020年とは明らかに異なる音になる筈である。誠にマニアックな高関らしい選曲ではないか。その他、5月の藤岡幸夫によるヴォーン・ウイリアムスの交響曲第2番「ロンドン」や翌年3月の高関によるヴェルディのレクイエムは、コロナ禍による中止のリヴェンジ公演だ。11月にはこのオケには珍しい小林研一郎が登場してチェイコの4番&6番というのも彼らしいが、飯守翁でないのがなんとも口惜しい。1月の高関によるマーラー7番は、昨年8月のサントリー音楽賞受賞公演のアンコールだ。ティアラこうとう定期に目を向け得ると、11月の藤岡と上原彩子によるプロコフィエフのピアノ協奏曲第3番も魅力的だし、3月の高関によるチャイコフスキーのバレエ「くるみ割り人形」第二幕全曲なんていうのも、あの真面目な高関がどう振るか実に楽しそうではないか。そんな訳で今年も9度目の継続を決めました。

東京シティ・フィル第72回ティアラこうとう定期(2月4日)

2023年02月04日 | 東京シティフィル
第90回日本音楽コンクール・ピアノ部門で2位に入賞した佐川和冴を迎えた定期だ。そのコンクールの折に、佐川の音楽性に惚れ込んだ指揮者とシティ・フィルのリクエストによって実現した演奏会だということ。最初はバルトークの弦楽のためのディベルティメント。どんな難曲でも現在の高関+シティ・フィルならば極めて高水準に演奏できることを示した典型的な演奏だ。完璧なアンサンブル。そして充実した弦の響き、とりわけ久しぶりで姿を見るチェロの長明首席を含む低弦の充実には目を見張った。ニ曲目はモーツアルトのピアノ協奏曲第21番ハ長調。佐川の独奏は極めて雄弁で、最初から装飾音が散りばめられる。ベートーヴェンを思わせる太い響きなのだが、一方で細部は驚くほど小気味良く指が回る。ちょっとランランを思わせるステージ・マナーで聴衆を惹きつける外連味がある。しかし音楽はそれに引代えスタイル的には案外真っ当なのだが、いささか外面的にも聞こえてしまったのはヴィジュアルのせいか。オケはそんなスタイルに合わせてかコンバス6本の大編成で雄大に力強く合わせてゆく。映画にも使われ有名になったAndanteのせいで優美なイメージが定着したこの協奏曲の新たな側面を聴かせてもらった。大喜びの聴衆の盛大な拍手にアンコールはシュトラウスのワルツのパラフレーズ(グリーンフェルトの「ウイーンの夜会による変奏曲」という作品だそうだ)。ホロヴィッツ並のグランドマナーで会場を沸かせた。休憩を挟んでこの日のメインはドヴォルザークの交響曲第8番ト長調。これは実に立派な演奏だった。理想的なバランスで全ての楽器が立派に鳴り渡り、ニュアンス豊かな木管がそれに華を添える。ここまでやってくれればもう何も言うことは無い。(カラヤン+ウイーン・フィルの名盤にだって立派に比肩しうる!)この曲の純音楽的な完成度を実感した40分だった。だたこうなるとトランペットとホルン・セクションの主力奏者(首席を含む)の休団が誠に痛い。まさに画龍点晴を欠くとはこのことだ。



東京シティ・フィル第347回定期(12月9日)

2021年12月09日 | 東京シティフィル
御年81歳になる当団桂冠名誉指揮者の飯守泰次郎を今シーズン初めて定期に迎えた演奏会だ。曲目はシューマンの交響曲第1番変ロ長調「春」作品38と同じく2番ハ長調作品61の二曲。来年の6月定期で3番「ライン」と4番を演ってシリーズを完結することになる。シューマンと言えばドイツ音楽の中心的な存在だが、飯守のシューマンは珍しいと言えるのではないだろうか。まさに満を持してのシューマン・シリーズである。更にはその交響曲を二つ合わせて一晩にするプログラムも珍しいが、ある意味それは自信の表れとも言えるかもしれない。些か覚束ない足取りで登場したマエストロだが、遅滞が一切ない音楽の足取りは実に若々しいことに驚かされる。1番では、前進するエネルギーに満ちた軽快なテンポ感と明快なアーティキュレーションに、この時期の作曲者の幸福感が溢れ出る。内声部まで最適のバランスで鳴るので、よく言われるシューマンのオーケストレーションの弱さが露呈しないところが実に見事だ。休憩後の2番は幾分か内省的な音楽だが、決して湿っぽくならずに、最後は鮮やかな光明を見せつつ結ばれた。全体を通して、マエストロのシューマンに寄せる熱き思いを忠実に汲み取り、それを真摯に音楽表現に結実させたシティー・フィルはどんなに賞賛されても、賞賛され過ぎということはないだろう。それほど当夜のシティ・フィルは凄かった。瑞々しく冴え冴えとした弦も、安定の金管も、ティンパニの打ち込みも素晴らしかったが、とりわけ木管アンサンブルの見事さは、今回のシューマン演奏の要だったと言って良いだろう。演奏後の奏者達の美しい笑顔はまさに音楽の喜びそのもので、こちらも幸福を分けてもらった思いだった。果てることなく続く大きな拍手に、マエストロのソロ・アンコールがあった。