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都響第1002回定期(6月28日)

2024年06月28日 | コンサート
2010-2017年のシーズンに首席客演指揮者を務めたヤクブ・フルシャが振る7年ぶりの演奏会である。チェコ音楽特集でスメタナ、ヤナーチェク、ドヴォルザークという王道が並んだ。スメタナ生誕200年、ヤナーチェク生誕170年、ドヴォルザーク没後120年の記念イヤーにちなんだプログラムか。まずは日本では滅多に演奏されることがないスメタナの歌劇「リブシェ」序曲だ。その愛国的な内容ゆえに冒頭のファンファーレは国家式典でしばしば奏されることがある。コロナ前2019年5月の「プラハの春音楽祭」でフルシャ指揮バンベルク交響楽団の「我が祖国」を聴いた夢のような体験が脳裏に浮かんで思わず胸が熱くなった。なんとも深い思いが指揮ぶりから感じられ、それを都響が見事に音にしていた。続いてヤナーチェクの歌劇「利口な女狐の物語」大組曲だ。一般にはターリヒやイーレクやマッケラスの編曲が知られているのだが、今回は95分のオペラ全曲を30分に凝縮したフルシャ版だ。これは実によく出来た編曲で、ピットで聴くよりも明快に響くのでヤナーチェック独特のオーケストレーションの面白さが実に良く聞き取れた。もちろん演奏も文句ないもので、都響がヤナーチェク独特の響を見事に再現していたのには驚いた。きっとフルシャの血がメンバー全員に漏れなく伝播していったのだろう。最後はドヴォルザークの交響曲第3番変ホ長調作品10。あまり演奏されないものをあえて取り上げたということだが、これはフルシャがいかに健闘しても、やはり曲の習作的な若さには限界がある。全三楽章でなかなか良いメロディがあるのだが、その展開が何とも物足りないので作品としての充実感がない。しかし真摯に対峙して精一杯の効果をあげていたことは確かで、実演を聞けた意味は大いにあった。

紀尾井ホール室内管弦楽団第139回定期(6月21日)

2024年06月21日 | コンサート
ウェーバー作曲の歌劇序曲と言えば、「魔弾の射手」だって「オベロン」だって、勿論今晩の一曲目の「オイリアンテ」だって、ドイツ臭に満ちていて、分厚く重厚でロマンティックでドイツ音楽好きには堪らないナンバーであると思うのがクラシック音楽界の”一般常識”ではないだろうか。しかしトレヴァー・ピノックの手にかかると、それがクリアーで風通しの良いメチャメチャ明るい音楽に変身するから不思議である。勿論キリリと仕上がるためには紀尾井の精緻なアンサンブルの力量が大きく貢献していよう。とにかく明快極まりないウェーバーで、ここまでやってくれれば文句の言いようがない。二曲目はラトヴィア生まれの新鋭クリスティーネ・バラナスを迎えてドヴォルジャークのバイオリン協奏曲イ短調作品53。ピノックもバラナスもとりわけボヘミヤ風を意識することなしに純音楽的に捉えた演奏。ここで聞く限りバラナスのバイオリンは技は十分で美音ではあるが、取り立てた個性を感じることはなかった。しかしアンコールのBachの無伴奏第3番のAllegro assaiに至ってその繊細にして滑らかな運弓から夢のような音楽が溢れ出して、これには聞き惚れた。休憩を挟んでシューマンの交響曲第1番変ロ短調「春」作品38。これも推進力に満ちたピノック流の明快にして闊達な演奏。彼も今年で78歳になるというが、老いの影は舞台に登場する姿にも音楽にも皆無である。

山響さくらんぼコンサート2024(6月20日)

2024年06月21日 | コンサート
すっかりこの夏至の時期の初台恒例になった山形交響楽団の東京公演である。今年は常任指揮者阪哲朗の指揮だ。スターターは管楽器やティンパニも含めてピリオド様式によるモーツアルトの二曲。まずは歌劇「魔笛」序曲 K.620、そしてミサ曲ハ長調「戴冠式ミサ曲」 K.317。スッキリ爽やかに、音を大切に紡いだ純正な演奏が実に快く心に響いた。ミサ曲には老田裕子、在原泉、鏡貴之、井上雅人ら四人のソリストと山響アマデウスコアが加わった。阪がプログラムに寄せた「エッセイ」に書いているように、一晩のコンサートの真ん中に「ミサ曲」を埋め込んだプログラムは現代では珍しい。後半はこれも極めて珍しいベルリン・フィルの首席指揮者として知られるあのアルトウール・ニキシュ作曲の「ファンタジー」。これは当時大ヒットしたV.E.ネッスラー作曲の歌劇「ゼッキンゲンのトランペット吹き」の中の魅力的なメロディを紡いだポプリだ。まるでオペレッタでも聞いているような美しくロマンティックな雰囲気が会場に漂った。(このオペラ全曲は山響により2006年に日本初演されたそう)音楽史上の有名人ながらその片鱗にはなかなか接し得ないニキシュの思いもよらない魅力に興味が掻き立てられた。最後はバイオリンに辻彩奈、チェロに上野通明を迎えてブラームスのヴァイオリンとチェロのための二重協奏曲イ短調作品102だ。ピタリと息の合った若い二人による何とも瑞々しいブラームス。決して重くならない、風通しの良いキレキレの阪の合わせが彼らの若さを美しく引立てる。重厚で渋いというブラームスの既成概念とは正反対の演奏だったが、こんなのも有りかなと思いつつとても気持ちよく聞いた。盛大な拍手にアンコールは「魔笛」に戻ってパパゲーノのアリアがバイオリンとチェロのデュオでチャーミングに奏され楽しくお開きになった。

東響第95回川崎定期(4月21日)

2024年04月21日 | コンサート
共にフィンランド出身の指揮者サカリ・オラモとソプラノのアヌ・コムシを迎えたお国物を中心としたコンサートである。エイノユハニ・ラウタヴァーラの「カントウス・アルクティクス」(鳥とオーケストラのための協奏曲)作品61である。自ら収録したフィンランド中部の湿地帯に生息する鳥たちの鳴き声をソリストとするユニークな「協奏曲」だ。2chで収録された鳥の声のテープ音がホール天井から舞台に降り注ぐ中、オケがそれに呼応する3つの楽章から成る佳作だ。幾種類かの鳥の声とオケが北国の自然風景を描き、最後はフィンランドの国鳥オオハクチョウの群れが春を告げる。まことにシーズン幕開けに相応しいスターターではないか。続いてはカイヤ・サーリアホの「サーリコスキ歌曲集」(管弦楽版)の日本初演だ。ペンッティ・サーリコスキの詩集から採られた人生と自然についての詩をコムシが独特の歌声で歌い上げたが、それは声を超越してオーケストラと同化し大きな感動を誘った。休憩を挟んでシベリウスのソプラノ独唱付きの交響詩「ルオンノタル」作品70だ。ルオンノタルは「カレヴァラ」に登場する大気の精で、空虚のはざまで激しい風や波と交わり受胎の末に水の乙女となり700年もの歳月孤独に海を漂流する話が題材である。詩は禁欲生活の中で絶望した作曲者が共感した自然も超越した峻厳な内的世界を描くが、ここでもコムシは他の誰にも達し得ないような共感でその世界を浮き彫りにした。いったい彼女以上に説得力を持ってこの曲を歌える歌手はいるのだろうかと思わせるほどの絶唱に会場は大いに沸いた。シベリウスはこの作品を「間違いなく私の最良の作品の一つだった」と語ったそうだが、この演奏はその言葉を裏付けるものだった。そして最後に置かれたのはアントン・ドヴォルザークの交響曲第8番ト長調作品88である。ここまでは峻厳な自然を描く趣の曲を連ねておいて、ここで郷愁を誘うドヴォルザークを締めに置いた意味はどうしても不明であるが、演奏自体は、所謂ボヘミアの哀愁のようなものとはハッキリと訣別した、極めて闊達明快な秀でたものだった。オラモの強力な統率力の下でオケもその機能を十二分に発揮し、胸の空くような輝かしく爽快な演奏を展開した。それでもやはり連続性の謎は聞きながらも脳裏を行き来していたのだが、「ドヴォ8冒頭のフルート・ソロとラウタヴァーラとの鳥繋がり」というのが今の所辿り着いた唯一の答えである。




紀尾井ホール室内管第138回定期(4月20日)

2024年04月21日 | コンサート
2021年11月定期以来二度目の登場となるピアニストのピョートル・アンデルシェフスキ迎えた2024/25年シーズン開幕公演である。スターターは指揮者無しでグノーの小交響曲変ロ長調だ。名前は「交響曲」だが、木管7本のアンサンブルの滅多に演奏されない曲である。私も生で接するのは多分生涯二度目だと記憶するが、今回は紀尾井の名手達の卓越した表現力がグノーの魅力を十全に引き出した。フルート相澤政宏、オーボエ神農広樹・森枝繭子、ファゴット福士マリ子・水谷上総、クラリネット有馬理絵・亀井良信という顔ぶれ。続いてアンデルシェフスキの弾き振りでモーツアルトのピアノ協奏曲第23番イ長調K.488。のっけから水際だった玉井菜採率いる弦の美しさに心を奪われたが、どうしてか肝心のピアノの方は余り印象に残らず。もちろん均整がとれた心地よく美しい響きなのだが、前回の来日時のようなアゴーギクは影を潜めていた。ここまでが前半で後半はルストワフスキの「弦楽のための序曲」で始まった。全体にバルトークを感じさせる雰囲気の漂う音楽だが、ピチカートも多いこんな曲を指揮者無しで演るのは無謀じゃないかというのが正直な感想だ。さすが鉄壁のアンサンブルを誇る紀尾井なので、目立った乱れこそ聞き取れなかったが、表現に物足りなさを残した。最後はベートーヴェンのピアノ協奏曲第1番ハ長調作品15。これは実に面白く聞いた。アンデルシェフスキーのアグレッシーヴな音楽の魅力がピアノにも指揮にも表れた最高に楽しい時間だった。とりわけ「ラルゴ」での弱音表現の掛け合いの素晴らしさには息を飲んだが、一方で両端楽章で聞かせたオケのシャープな音も印象的だった。聴衆に背を向けてオケを煽りながら弾き振りする姿を観つつ、ベートーヴェンもこんな風に演奏していたんじゃないかと「妄想」を巡らせた。大拍手にアンコールはハイドンのピアノ協奏曲第11番ニ長調からの緩徐楽章。ここでも特上のピアニッシモが静謐な音楽空間を作り出していた。

バッハ・コレギウム・ジャパン第160回定期(3月29日)

2024年03月29日 | コンサート
2024年の聖金曜日にタケミツ・メモリアルホールで開催されたBCJによるJ.S.バッハ作曲マタイ受難曲の演奏会である。指揮は主席指揮者の鈴木優人。エヴァンゲリストはベンヤミン・ブルンス、ソプラノはハナ・ブラシコヴァと松井亜季、アルトはアレクサンダー・チャンスと久保法之、テノールは櫻田亮、バスは加耒徹とマティアス・ヘルムという声楽陣だ。私はキリスト教者ではないけれど、やはりこの曲を聞くとなれば襟を正して聞かざるを得ない。前回は2015年のラ・フォル・ジュルネだったと思う。プログラムによるとその時が今回の指揮者鈴木優人のマタイ初振りだったということだ。まあそれはともかくとして、キリスト受難の3時間を超える大曲の中に身を置くことは決して楽なことではないので、これが生涯最後の生マタイになるのかなと思いつつ席についた。生き生きとしていて俊烈な響き、しかし決して禁欲的でなく心地よく自然な音楽は、一瞬にして私の心を鷲掴みにし、3時間はアッ言う間に大きな感動のうちに過ぎ去った。それはもちろん声楽のパートにも器楽のパートにも最高の演奏者を揃えたBCJの成せる技ではあるのだが、それにしても鈴木が各コラールに与えた表現の多彩さは何ということだろう。この曲に於いてコラールは民衆の心を代弁する役割を果たすが、このように歌われると聞く者は否応なしに受難のストーリーに引き込まれるのである。これまで聞いてきたコラールとは異次元の音響世界で、こんなに心に染み入るコラールは受難曲で聞いたことがない。そしてブルンズの語り部としての秀でた歌唱も極めて大きな牽引力となった。こうした全体的な感動の中でははなはだ微視的なことになるが、第42曲のバスのアリアに寄り添った若松夏美のオブリガード・バイオリンの鮮やかさは、この厳粛な時間の流れの中で一服の清涼剤として深く印象に残った。いや〜言葉にし難い実に貴重な、そして有り難い時間だった。

びわ湖ホール声楽アンサンブル東京公演(3月24日)

2024年03月25日 | コンサート
今年度で開館25周年を迎えたびわ湖ホールの活動を支える専属の声楽アンサンブルの東京公演である。前日には本拠地びわ湖ホールでの初日公演があったので、この日が二日目ということになる。今回は初代音楽監督若杉弘氏へのオマージュということで「The オペラ!」と題され、若杉が愛し「青少年オペラ劇場」として幾度も上演を重ねたブリテン作曲の歌劇「小さな煙突掃除屋さん」のセミ舞台上演がメインであった。この45分ほどの小オペラは、「オペラを作ろう」という3幕仕立ての舞台作品の一部で、最初の二つの幕では背景がドラマとして語られ、この作品はその第3幕という位置付けになる。そして今回それに先立って演奏されたのは、何と演奏時間90分を要するヴェルディ作曲の「レクイエム」なのだ。これは世界的にもほとんど顧みられることのないヴェルディの初期オペラ八作品の舞台を、オール日本人ダブル・キャストで立て続けに上演し成功に導いた若杉の快挙に敬意を表した選曲なのだろうと想像するが、それにしても何とも驚きを禁じ得ない、無謀とも言える選曲ではないか。しかしその企画の破天荒な自由さは、このアンサンブルならでは、あるいはびわ湖ホールならではと言って良いのではないか。さて演奏の方は、この劇場とは座付きの演出家のごとく関係の深い中村敬一の要領の良い構成・演出が功を奏した後半が圧倒的に面白かった。アンサンブルの一人一人の生き生きした歌と芝居が作品を大いに盛り立て楽しませてくれた。そうした特質はびわ湖ホールでの大オペラとの共演や中ホールでの自主オペラ、更には70回を超える定期公演や地域を中心とした幅広い活動で培われたものだろう。聴きながら、1960年代初めの若き日々から日本のオペラ界を影で支え、ついには牽引し続けた初代音楽監督若杉弘のオペラへの強い愛と心意気が、現在のびわ湖ホールにしっかりと根付いていることを強く感じ胸が熱くなった。一方前半のヴェルディは17名のメンバーと河原忠之の指揮・ピアノ伴奏だけという小編成の演奏。(誰の編曲なのかは明らかにされていない)こちらは小編成なので声楽的には各声部が良く聞き取れてとても興味深いものだった。ただし本来オーケストラが圧倒的に物を言う作品だけに、ピアノ一台の寂しさを克服することができなかったというのが正直な感想なのだが、それは今回のセッティングの限界であろう。

KCO名曲スペシャル:ニューイヤー・コンサート2024(1月26日)

2024年01月26日 | コンサート
ニューイヤー・コンサートと言えば毎年元旦に開催されるウイーン・フィルのものがつとに有名であるが、昨今は初登場や珍しい曲ばかりで組まれる傾向があるように思える。それはそれで良いのだが、どうも私には音楽的に物足りなさを感じるようになって来た。そこへゆくとこの紀尾井ホール室内管弦楽団とその名誉指揮者でウイーン・フィルのコンマスも務めるライナー・ホーネックの演るニューイヤー・コンサートは曲目がとりわけ変化に富んでいて飽きることがない。まず一部はモーツアルトの歌劇「フィガロの結婚」の序曲で始まり、ホーネックの弾き振りによるバイオリン協奏曲第5番イ長調K219が続いた。まあここまではある意味腕試し的な感じで、紀尾井のアンサンブル自体もちょっと荒いかなと感じられる所もあった。しかし協奏曲ではホーネックの軽やかさと機敏さを併せ持った爽やかなウイーン風に酔った。休憩後の最初は何とリヒャルト・シュトラウスの楽劇「バラの騎士」よりワルツ・シークエンス第2番。楽劇の第3幕の音楽だけで構成された優美な香りに満ちた蠱惑的なメロディが次から次へとホールを満たし、一気にアンサンブルの熱量も上がり紀尾井ホールがあたかもウイーンのシュターツ・オパーになったよう。そして続く「バラ」のワルツの原型が聴かれるヨーゼフ・シュトラウスのワルツ〈ディナミーデン〉のアカデミックな選曲に唸った。驚くべきは次のコルンゴルドのバレエ音楽〈雪だるま〉からの抜粋だった。これは作曲者11歳の時のピアノ曲をエーリッヒ・ウオルフガング・ツエムリンスキーがオーケストレーションした不思議な魅力的を秘めた音楽だった。そしてヨゼフ・シュトラウスのポルカ・マズルカ〈とんぼ〉、ヨーゼフ・ヘルメスベルガー2世の〈妖精の踊り〉、ヨゼフ・シュトラウスのポルカ・シュネル〈休暇旅行で〉と続き、その後は趣をガラリと変えてヨハン・シュトラウス2世の〈芸術家のカドリーユ〉で、メンデルスゾーン、モーツアルト、ウエーバー、ショパン、パガニーニ、マイヤベアー、エルンスト、シューベルト等の作曲家達の大パロディ大会に思わずニヤリとさせられる。この後は純粋なウインナ・メロディが、ヨゼフ・シュトラウス&ヨハン・シュトラウス2世のピチカート・ポルカ、ヨゼフ・シュトラウスのポルカ・シュネル〈おしゃべりな可愛い口〉、ヨーゼフ・シュトラウスのワルツ〈天体の音楽〉、ヨーゼフ・シュトラウスのポルカ・シュネル〈騎手〉と続き、これで本プログラムが終了した。ここまでをシュトラウス・ファミリーの音楽だけで見ると、8曲中6曲がヨゼフ・シュトラウスの作品、1曲がヨゼフとヨハン2世の合作、最も有名なヨハン・シュトラウス2世の作品に至ってはたった1曲だけという極めて特異な構成だ。更に8曲中ワルツは〈天体の音楽〉と〈ディナミーデン〉のたった2曲しかないのだ。しかしながらウイーン情緒に満たされた満足感で心満たされて帰途についたのだから、ホーネックと今回のゲスト・コンマス、バラホスキー率いる紀尾井のアンサンブルの力量たるや只ものではないということだ。ちなみにアンコールだって奮っていて、エドワルド・シュトラウスのポルカ〈速達郵便〉とヨハン・シュトラウス2世のポルカ〈雷鳴と電光〉ということで、お決まりの〈蒼きドナウ〉も〈ラデツキー〉も無しで実に清々しいではないか。というわけで、マンネリに竿刺すホーネックの姿勢が随所にうかがわれる実に楽しく充実した〈ニュー・イヤー〉だった。

京都市響第685回定期(1月20日)

2024年01月23日 | コンサート
沖澤のどかを追いかけて本拠地京都にやって来た。京都のお洒落な街北山にある京都コンサートホールで開催された彼女が常任指揮者を務める京都市交響楽団の1月定期演奏会である。先日の東京シティ・フィルへの客演時と同様のフランス物を並べたプログラムだ。最初は滅多に生で演奏されることのないアルチュール・オネゲルの交響曲第5番「三つのレ」である。どの楽章も消えるように終わりはするが、作曲当時の不健康な健康状態の悲壮感よりむしろオネゲルの精緻な筆致をよく表した演奏だった。そして迷いのない棒による推進力からは秘めた力さえ感じさせられた。二曲目はハープ独奏に吉野直子を迎えてフランスの女流作曲家ジェルメーヌ・タイユフェールのハープと管弦楽のための小協奏曲。美しい佳作ではあるが、いかんせん演奏のせいか、はたまた聞いた場所のせいか、独奏ハープの音が聞こえづらく聴覚上のバランスがとても悪く余り楽しめなかった。むしろこの楽器の持つ華やかさを封じ込めたような筆致のせいが大きかったのかもしれないと思った。吉野の実力はむしろアンコールのマルセル・トウルニエの”朝に”で示された。これは文句なくハープの持ち味を存分に楽しめる華やかで美しくかつ繊細な演奏だった。休憩を経て、ジャック・イベールがパリからスペインを経てローマに向かう船旅で各地を回った印象に基づいて書かれた3曲なら成る組曲「寄港地」だ。京都市響の瑞々しくしなやかな弦がとりわけ印象的だった。最後はモーリス・ラヴェルの「ボレロ」。沖澤はプレ・トークで今回は初版の譜面通りの一般より遅めのテンポで演奏すると言っていたが、むしろ目立ったのはその正攻法な姿勢だった。芝居じみた外連味を一切排して最後まで極めてスタイリッシュに振り抜いた爽やかな今の彼女らしい「ボレロ」だった。鳴り止まぬ拍手に、元旦に起こった能登地方の震災・津波の犠牲者に思いを寄せつつ、徳山美奈子の交響的素描「石川」より第2楽章「山の女」”山中節より”が奏された。(沖沢は若い頃OEKで修行したことがあったそうで、今回の災害には只ならぬ思いがあったであろう)

NHKニューイヤーオペラコンサート(1月3日)

2024年01月07日 | コンサート
この番組はもう何十年も前からか年初の楽しみとして毎年テレビで拝聴してきた。何年か前には試しにNHKホールに足を運んで生で体験したこともあったが、裏の仕切りが厄介で、やはり茶の間でお屠蘇気分で楽しむものだと実感した。昨今は一回ごとに趣向を凝らした舞台作りと演出で、ある意味楽しませてくれている。しかしとりわけ今年は「対の歌声、終わらない世界」と題されて、黒い衣装に身を包んだ磯野佑子アナウンサーが暗く変に勿体ぶった感じの語りで全体を進める不思議な展開だった。新年早々能登地方では地震が、羽田空港では飛行機のクラッシュがある波乱の幕開きへの配慮なのかどうかは不明だが、とても新たな年を寿ぐ雰囲気ではなかったし、その不気味というか、無用な厳しさが「オペラ」を視聴者から遠のかせるのではないかと心配になった。その昔は舞台にオーケストラが並び、男性歌手は燕尾服あるいはタキシード、女性歌手はドレス姿でオケをバックにアリアを披露する単純なコンサート形式だった。「緊張して年を越し、この番組が終わらないと新年になった気がしない」というある歌手の方の言葉が何故か印象に残っている。森正指揮の東フィルをバックにクラシック音楽に造詣の深いNHKアナウンサー後藤美代子さんの司会で、伊藤京子、大橋国一、立川澄人、五十嵐喜芳、砂原美智子といった日本を代表する歌手たちが登場していたのが私の初期の思い出だ。もちろん昨今登場する歌手達の持つ歌唱や演技の技量は世界水準で「思い出の舞台」とは隔世の感があるが、つまらぬ事を考えずに、次から次へと登場する歌役者達の歌を楽しめた昔が懐かしく感じられた。

ベートーヴェン弦楽四重奏曲【8曲】演奏会(12月31日)

2024年01月01日 | コンサート
今年で18回目を迎える大晦日昼1時から夜8時半までのマラソン演奏会である。隣の大ホールでは広上淳一指揮の交響曲全曲演奏が挙行されているのだから、この日は上野の東京文化会館はベートーヴェン・ファンで埋め尽くされるわけだ。演奏メンバーに一昨年から新たにクァルテット・インテグラが加わった。古典四重奏団は1986年、クァルテット・エクセルシオは1994年、インテグラが2015年の結成ということなので、日本を代表する重鎮、ベテラン、新進気鋭の常設アンサンブルがベートーヴェンの中期・後期の弦楽四重奏曲で技を競うのだから興味は尽きない。今年は作品59のラズモフスキーの3曲「エクセルシオ」が担当した。彗星の如く登場して話題になったこのアンサンブルもいつしかベテランの域に達し、しなやかさは何時もながらだが、ラズモの3番では強く後期を感じさせるような仕上がりになっていることにアンサンブルの円熟を感じた。続いて「古典」は作品127と130(大フーガ)の2曲。ストイックを脱して融通無碍な境地に達しようとしている印象を強く持った。最後は新鋭「インテグラ」による作品131、132、135の3曲。晩年のベートーヴェンの諧謔的な筆致を材料に遊び尽くしたような極めて個性的な演奏。これは決して否定的な意味ではなく、若く新鮮な感性で作曲者の本質的な部分を引き出したということだ。この3曲がこんなに文句なく楽しい曲だったとは、これは大発見だ。これからがとても楽しみな若者達である。終了後は会場は大歓声に包まれ、心満たされて上野の森をあとにした。





紀尾井室内管弦楽団第137回定期(11月17日)

2023年11月18日 | コンサート
コロナ禍で一旦中止になったオッタービオ・ダントーネと紀尾井のアンサンブルの共演が実現した。勿論夫人でコントラルトのデルフィーヌ・ガルーを伴ってのことである。まずはヘンデルの歌劇「アルチーナ」序曲、サラバンド、ガヴォットⅡ、それにアリア「復習したいのです」で始まり、歌劇「ジュリーオ・チェザーレ」よりアリア「花吹く心地よい草原で」、歌劇「リナルド」よりアリア「風よ、暴風よ、貸したまえ」と続いた。さぞかし尖った演奏なのだろうと思っていたが、紀尾井のアンサンブルが穏やかに受け止めてか、とても居心地の良い古楽の響きに驚いた。細かなパッセージでも一糸乱れぬ弦にニュアンス豊かな木管は紀尾井の強みだ。一方ガルーの歌唱は声量こそあまりないが、自在に喉を駆使して見事なアジリタを聞かせた。響きが今ひとつ抜けきらない感もあったが、伴奏はそれを上手くカバーした。続くステージは同時代のナポリ派の作曲家ポルポラのピアノ協奏曲ト長調。この曲は元来チェロのための協奏曲なのだがダントーネが鍵盤楽器のために編曲し、今回はダントーネがピアノで独奏をした。古典派を通り越してロマン派的な響きを聞かせた編曲が面白かった。休憩を挟んで次のステージはヴィヴァルディだ。まず歌劇「テンペのドリッラ」からシンフォニア、歌劇「救われたアンドロメダ」からアリア「太陽はしばしば」、歌劇「狂えるオルランド」よりアリア「真っ暗の深淵の世界に」、そしてガラッとかわってグルックの歌劇「パーリデとエレーナ」よりアリア「甘い恋の美しい面影が」。後半になるとガルーの声は少し前へ届くようになってはきたが、そもそも小さな空間で歌われるべきものなのだろうから、無理のない響きで丁寧に技法を尽くすというスタイルがそもそも音符に合っていうようにも思われた。そして日頃まったく接することのないバロック・オペラの四人の音楽家を一つの舞台に並べて聞くうちに其々の個性が明確に聞き取れて実に楽しい時間が過ぎていった。ここでいい忘れてはいけないのは「狂えるオルランド」のアリアでのコンマス玉井菜採のオブリガード・バイオリンの見事さだ。ガルーと同じ感性をもってピタリと寄り添う音楽にガルーの歌唱ともども惚れ惚れした。そして最後は実に逞しいハイドンの交響曲第81番ト長調で結ばれた。古楽スタイルであるのに決してエキセントリックにならない骨太の音楽に、このスタイルの成熟を聞いた。ここで終わりかと思ったら鳴り止まぬ拍手にダンドーネがついに夫人を帯同して現れてアリアのアンコール二曲。ガルーの技にアジリタの悦楽を味わった一夜だった。

東響第716回定期(11月11日)

2023年11月12日 | コンサート
音楽監督ジョナサン・ノットとドイツの正統派ピアニスト、ゲルハルト・オピッツとの共演によるベートーヴェン・プログラムだ。この二人の共演は一昨年12月のブラームスの2番以来となる。ノットにしてはリゲティがない素直なプログラムで、いささか拍子抜けの感もある。一曲目はピアノ協奏曲第2番変ロ長調作品19。何の衒いもなく弾き進むオピッツのピアノではあるが、その音色は極めて美しくとりわけ二楽章終盤のピアニッシモの美しさには耳をそばだてた。そこから終楽章へ入ってゆく微妙な間合いが私的にはこの演奏のハイライトだった。しかしやはり何となく物足りない印象を残したのは曲のせいか、はたまた演奏のせいか。続く交響曲第6番ヘ長調作品68「田園」は快速調で始まったが決してセッカチな感じがなかったのは、抑揚のタップリとある歌い回しのせいであろう。とりわけ一楽章のレガートを多様した滑らかな仕上がりに続く二楽章との心的連続性が感じられ、「絵画的というよりは、むしろ感情の表出」という作曲者の言葉をあらためてかみしめた。二楽章ではニュアンス豊かな木管群が多くの聞かせどころを作ったし、美しい音色とニュアンスを聞かせたホルンも讃えたい。全体にビブラートを抑えた極めてスッキリとした仕上がりの中に十分な滋味と精神的高揚を感じさせるノットらしい佳演だったといって良いだろう。

東響第135回オペラシティーシリーズ(10月21日)

2023年10月22日 | コンサート
音楽監督ジョナサン・ノットの指揮するブルックナーの交響曲第1番ハ短調を中心とするマチネーだ。ちなみに音楽監督就任2014年の3番以来、これでノット+東響はブルックナーの交響曲(1番〜9番)を、全部演奏したことになる。日頃選曲の妙を楽しませてくれるノットだが、今回も今年生誕100年を迎えたリゲティの「ハンガリアン・ロック」(オルガン独奏版)とベリオの「声(フォーク・ソングII)」との興味深い組み合わせだ。会場のタケミツメモリアル・ホールに入り舞台上に目をやると、そこには日頃のオケ配置と全く違う光景があった。更に正面オルガン側にも、2階バルコニー席のいくつかにも譜面台が置かれているではないか。何か面白い事が起こる予兆を感じた。一曲目はオルガン独奏と書かれているのにオケの団員達も入場し席に着く。この時点で最初の二曲はアタッカで演奏されるのだなと予想した。ノットと共にオルガン席にモンドリアン風(コンポジション)のポップな出立の大木麻理が登場しオルガンにスポットライトが当たりリゲティが開始された。左手が9分の8拍子のフレーズを延々と繰り返す中、右手のメロディの拍子は刻々変わってそのズレが面白い数分の曲だ。元々チェンバロのために書かれた曲だが、今回はオルガンの使用で色彩感が出た妙技だった。ここで予想に反して拍手が出てしまったが、それがなければ雰囲気としてスムーズにベリオのビオラ独奏に繋がっていっただろうに。一方ベリオの方はビオラ独奏にディミトリ・ムラトを迎えた協奏曲風の作りで独奏がシチリア民謡を歌うのだが、それはもう千変万化に変容して原型を全く留めず、様々な打楽器や電子オルガン、チェレスタまで使ったオケの響きの中を浮遊するように出たり入ったり。たまに伝統的なメロディが浮き上がり懐かしさが心をくすぐる。そんなこんなの試みとしては面白い音響空間ではあったが、30分はいささか冗長だった。ムラトの美音は何か他の曲で聴きたい気がした。そしてメインのブルックナーだが、今回はノヴァーク校訂によるリンツ稿を使用した演奏だった。出だしから気力十分のノットと東響は実に豪快に鳴った。しかしそうなると荒削りの若書きの筆致がクローズアップされて響く。それがこの曲の価値と言えば価値だし、これから交響曲の海に船出するブルックナーの心意気はそこに十分に感じられはしたが、一方で「ベートーヴェンの1番は時代的に聴いてもっと革新的だったよな」なんてことを考えながら聴いた。つまり素直に感動はできなかったというのが正直な感想だ。とは言え終演後の大歓声はこれまでのノットのブルックナーで一番だったのではないだろうか。

東京シティ・フィル第364回定期(10月4日)

2023年10月05日 | コンサート
去る8月に急逝した桂冠名誉指揮者飯守泰次郎が指揮する予定であった演奏会であるが、常任指揮者高関健が代わって指揮台に登ることになった。曲目はワーグナーの歌劇「さまよえるオランダ人」序曲、楽劇「トリスタンとイゾルデ」前奏曲と愛の死、そしてブルックナーの交響曲第9番ニ短調という、故人を偲ぶには誠に相応しいラインナップに変更された。高関はプレトークで、故マエストロを慕い追従するというのではなく、その基礎の上に新たな自分たちの音楽を築いてゆきたいと語ったが、その心意気を切々と感じさせる当夜の演奏であった。明晰な音感で開始された「オランダ人」序曲は最後まで透明感に満ちた音色で奏された。それは嘗て話題になったこともあるブーレーズ+ニューヨークフィルの音盤を思い起こさせた。そこに流れたのは飯守独特の溜めのある流れから生まれるウネリとは別次元の音楽で、正直言って飯守のワーグナー節に慣れ親しんだ私にとってはいささか物足りないものでもあった。続いては飯守とはワーグナーでも共演歴のある日本が誇るワーグナー歌い池田香織が登場して、「トリスタン」の”前奏曲と愛の死”だ。高関の紡ぎ出す透明な音感はここでも変わらないが、それがクッキリと音の綾を紡ぎ出し、この曲では最大の効果をあげた。指揮台の傍らで座位のまま歌い出した池田は、音楽の高揚とともに立ち上がり、その歌唱は壮絶を極めた。クリスタルのような輝きをもった歌声は決して嫋々とではなく、意志の力をもってイゾルデのトリスタンに寄せる憧憬の念を表現して聞かせた。それはトリスタンならぬワーグナーへの愛をその歌唱の師匠でもあったであろう故マエストロに示すがごとくのステージだった。聴衆の大声援を受けつつ、最後に天を仰いで上方を指し示した姿は、その見事な歌唱を天から見守り支え、その歌唱を導いたマエストロを心から感じた瞬間だったのだろう。休憩を挟んでのブルックナーは、このところ絶好調のシティ・フィルの機能性を十全に現した堅固さが際立った演奏だった。そして、ここでも透明で細部を明快にあぶり出す方向性は変わらない。まさにこれが飯守の築いた基礎の上に今このコンビが目指している新たな方向性なのだと思った。こうした機会にそれを十分に表現できたことは、この楽団と深い絆で繋がれていた故マエストロへの最大のはな向けになったに違いない。