Maxのページ

コンサートの感想などを書き連ねます。

八ヶ岳高原サロンコンサート(11月1日)

2024年11月03日 | リサイタル
スヴャトスラフ・リヒテルや武満徹が開設に多く関与した八ヶ岳高原音楽堂で開催された仲道郁代の「ショパンの時代に想いを馳せて」と題されたソロリサイタルにはるばる出かけた。曲目は「幻想即興曲作品66」「練習曲”革命”」「練習曲”別れの曲”」「バラード第1番」「アンダンテ・スピアナートと華麗なる大ポロネーズ」までが前半、そして「練習曲”エオリアン・ハープ”」「前奏曲”雨だれ”」「バラード第3番」「夜想曲第20番」「ポロネーズ”英雄”」が後半。仲道は2007年にNHKの番組収録の折りにショパンが愛用したことで知られるプレイエル社製の楽器を偶然にも試奏する機会を得、一瞬にしてその響きに惚れ込み、以来プレイエルを使ったショパンの演奏法を追求し続けている。今回はその成果を楽器に相応しい小空間で披露する絶好のチャンスになったといえるだろう。当日は秋らしい爽やかな陽気が午後から小雨混じりの曇天となったが、そんな晩秋の高原の憂いを含んだ風景を大きなガラス越しに眺めながらのコンサートは、むしろプレイエルのショパンに寄り添うためには絶好の雰囲気を作り出していたかも知れない。ピアノという楽器は工業技術の発展と共に機能的進展を遂げ、演奏様式もそれと共に大きく変化してきたという。だから今日一般に演奏される(聞かれる)パワフルで華麗なピアニズムに満ちたショパンは作曲家の生きた時代に聞かていたものとは異なってきて当然だ。だから我々が抱き続けてきたショパンのイメージはそうした演奏によって出来上がったものであるに違いない。そんなイメージを根底から覆してくれたのが、今回この音楽堂に仲道自らの愛器プレイエル(1842年製)を運び込んで奏でられたショパンであった。仲道はプレトークで今回はとても”スペシャル”なコンサートであると述べていたが、まさに最適の小空間に広がる素朴で内気で繊細な上に多くの含みを持ったその響から立ち昇る音楽は、計り知れない発見一杯の”スペシャル”なものであった。仲道はそんな響きを駆使して儚く華奢で陰影に富んだ極めて親密なショパンを紡いで我々に差し出してくれた。そこに聞かれた決して大仰でない人懐っこい音楽をいったいどう表現したら良いだろう。私はそれに大きく感動した。そしてそれはそこに集った聴衆にとっても掛け替えのない贈り物になったことだろうと思う。最後にアンコールとして「別れのワルツ」が静かに奏でられ、それは誠にこの会に相応しい御開きとなった。

脇園彩&小堀勇介ニューイヤー・デュオリサイタル(1月9日)

2024年01月10日 | リサイタル
ここに登場するのは、今を時めくメゾ・ソプラノ脇園彩、そして日本を代表するロッシーニ・テナー小堀勇介。共にペーザロのロッシーニ・オペラ・アカデミーの出身だ。そして今回ピアノ伴奏を務める指揮者園田隆一もアカデミーの主だった”ロッシーニの神様”アルベルト・ゼッダに薫陶を受けたことがあるのだから、さしずめ毎夏イタリアのペーザロで開催されるロッシーニ・オペラ・アカデミーの同窓会のようなリサイタルだったと言ってよいだろう。だから彼らの奏でるベルカントが悪いわけがない。それにしてもロッシーニとドニゼッティの比較的地味なアリアとデュエットだけで構成されたこの様なコンサートがよく実現されたものだ。企画した浜離宮朝日ホールに心から感謝したい。まず最初はロッシーニの歌劇「アルミーダ」からの”甘美な鎖よ”という小さな二重唱がスターターで、のっけから二人の均整がとれた丁寧な歌唱が聴衆の心を鷲掴みにしてしまった。続いて同じくロッシーニの歌劇「湖上の美人」より”おお、胸を熱くする優しい炎よ”で小堀がスタイリッシュな歌唱を披露、一方脇園はドニゼッティの歌劇「マリア・ストゥアルダ」より”空を軽やかに流れる雲よ”で、「ドニゼッティだって歌えるのよ」とばかりにドラマチックな歌唱を聞かせた。そして続いて小堀が加わって”全てから見放されて”で二人息のあったところを聞かせた。前半最後はロッシーニに戻って歌劇「ランスへの旅」より”私にいったい何の罪が?〜卑怯な疑いを持ったことです”。このプログラム唯一のブッファでは、軽快でありながら甘やかな二人の歌唱にBravi!が連発され前半を終了した。後半は再びロッシーニの歌劇「湖上の美人」より”たくさんの想いが今この胸に溢れ”で始まったが、ここでの脇園の歌唱は私には少し粗かったように聞こえた。続いて小堀が歌劇「オテロ」より”ああ、なぜ私の苦しみを憐れんでくれないのですか?”を歌った。これは丁寧でありながら切れのある絶唱だった。続いて脇園がドニゼッティの歌劇「ロベルト・デヴリュー」より”苦しむ物にとって涙は甘美なもの”。今度は表情豊かな丁寧な歌唱だった。ここで小堀もドニゼッティを披露し、歌劇「ラ・ファボリート」より”苦しむ者にとって涙は甘美なもの”。そして最後に二人が登場して、ロッシーニの歌劇「エルミオーネ」より”何をしてしまったの?私はどこに?〜復讐は果たされました”。それはロマン派的な作風を感じさせるこの場面の音楽を、二人の稀代のロッシーニ歌手が見事にロッシーニのスタイルに落とし込んだ完成度の高い歌唱だった。もうここまでくるとホールは割れんばかりの拍手と歓声で満たされた。そしてロッシー二の歌劇「ラ・チェネレントラ」から”すべてが静かだ。えも言えぬ甘美なものか”がアンコールで歌われ御開となった。ベルカントの歌唱は歌い流しの美しさで終わることは決して許されない。正確さを基本として、そこに抑制された表現を加えることにより歌唱に説得力を加える必要がある。その正確さを音楽に溶け込ませて楽しく聞かせることは至難の技に違いない。この晩の二人はそれを見事に成し遂げていた。稀有な場に居合わせてもらったことに感謝の言葉しかない。


庄司紗矢香&ジャンルカ・カシオーリ・デュオ・リサイタル(12月16日)

2022年12月17日 | リサイタル
長年共に演奏活動を繰り広げている息のあったコンビの演奏会だ。今回はコロナ禍での彼らの研究成果の発表の場となったと言っても良いだろう。庄司は愛器のストラディバリに太めのガット弦を張り、古典ボウを使用。一方のカシオーリは、ポール・マクナルティの製作したワルター・ピアノを模したフォルテピアノを使用するという凝った試みだ。広いサントリー大ホールの舞台の真ん中にチョコンと小さなフォルテピアノと譜面台が置かれていて、それがこの夜に繰り広げられる音楽世界を象徴していた。そして一曲目のモーツアルトのバイオリン・ソナタ第28番ホ短調が繊細の極みと言って良いような音で始まった。二人の音は小さいが、その小さな音の世界に一杯のドラマがあり聴く者はどんどんその世界に吸い込まれ、意識は揺蕩うような音界に飲み込まれてゆく。何たる幸福感!この幸福感は、音の世界に遊ぶ二人の稀有な音楽家の世界に招き入れてもらえたからこそ味わえたものだろう。製作者が舞台に現れて丁寧なチューニングを施した後に二曲目は同じく第35番ト長調。ここでも幸福感は持続する。ピリオドを標榜した演奏は、先鋭的な過激なスタイルで興隆したが、その後様々な試みを繰り返す中で、やっと本来の自由な音楽の世界を獲得したといえるだろう。今回のスタイルは正にその典型で、ここまで前半に繰り広げられた音楽はある意味で究極的なモーツアルト演奏だったような気がする。休憩を挟んで後半は、今回の演奏スタイルを模索する中で参考になる著作もあるC.P.E.バッハの「ファンタジア」で始まった。二人の演奏家の解き放たれた精神が、200年以上も前の古典音楽をまるで出来立ての現代音楽のように仕上げていてとても興味深かった。そして最後はベートーヴェンの中期の傑作として知られるバイオリン・ソナタ第9番イ長調「クロイツエル」だ。しかし、時代もここまで来ると音楽にダイナミズムが要求されるし、とりわけこの曲は競奏的な特徴を持っているので、今回のスタイルではいささか厳しいかなという感じを持った。つまり試みとしては面白いが、「古典」をはみ出たベートーヴェンの真髄は伝わらなかったように思った。盛大な拍手にアンコールは C.P.E.バッハのバイオリン・ソナタハ短調からAgagio。ここでまた静謐で繊細な音楽がピタリとハマる世界に戻って良い締めくくりになった。