開館以来27年を経た新国立劇場だが、この間に本舞台で取り上げられたロッシーニは「セビリア」と「ラ・チェネレントラ」2演目のみという寂しい状態だった。しかし3演目目にまさかこの作曲家最後の大作「ウイリアム・テル」が選ばれるとはいったい誰が想像したことだろう。まさに大野和士オペラ芸術監督の快挙である。本格舞台初演は1983年の藤沢市民オペラによる邦語訳版だったが、今回は日本舞台初演となるフランス語版である。(2010年にアルベルト・ゼッタが東フィル定期でフランス語版を抜粋の演奏会形式で演ったことはあった。先般早逝された牧野正人さんがテルを朗々と歌っていたことを懐かしく思い出す。)今回は大野監督自ら指揮する東フィルがピットに入り、演出はヤニス・コッコスである。何よりもロッシーニの音楽が凄かった。感情の機微はあまり音楽に投影されず、アジリタの技巧中心に感情を表現するという典型的なロッシーニ・スタイルを完全に過去のものとし、メロディーとハーモニーが感情を切々と表現するロマン派の領域に入った音楽にほぼ全編が貫かれているのだ。ロッシーニの後期はとりわけこのようなスタイルに移行してゆくのだが、この演目はセリアではなく圧政に苦しむ民衆が自らの意志で自由を獲得するという人間ドラマなので、顕著にそうした性格が音楽に顕われることになるのだろう。ただオーケストレーションの厚みとかハーモニーの多様性というような部分ではまだまだ完全なロマン派になり切っていないのは事実だが、時代を超越した大きな進歩が聞き取れたことは大層の驚きであった。歌手で良かったのは何と言ってもまずアルノルド役のルネ・バルベラで、最後まで驚異的と言って良いほどの充実した歌唱を聞かせた。その恋人のマティルド役のオルガ・ぺレチャッコはいささか疲れがあったのか低い音が響かなかったし、この作品唯一のアジリタ・アリアでも歯切れの良さを欠いた。テル役のゲジム・ミシュタケは終始安定的で全く不安の無い立派なタイトルロールだった。そして彼を含めてその息子の安井陽子と妻の齊藤純子の「家族トライアングル」が良くバランスした充実した歌唱と演技だった。だから民衆を代表する家族にスポットがあたりドラマに大きな説得力を与えた。悪代官役の妻屋秀和とその家来役の村上敏明も憎々しく役を演じ、テルの同士フュルスト役の須藤真悟もいつもながらに実力を発揮した。指揮の大野はほぼ過不足なく長丁場を停滞なく進めはしたが、私はRAI(イタリア放送協会)の放送終了の音楽にも使われている(いた?)第四幕のあの感動的なワーグナーを思わせるフィナーレのテンポにいささかの味気なさを感じてしまった。コッコスの舞台は美しく穏当なもので十分な説得力を持っていた。そして序曲の最中から描写的背景を舞台化することで、全体の中でしばしば違和感を禁じ得ない有名な序曲を本編と一体化して聞かせることに成功していた。ただバレエで女性蔑視的な表現が長々と繰り返されたことには、意図的だとは言え辟易とした。村人の解放を喜ぶべきフィナーレがそれだけでは終わらず、爆撃された廃墟が投影され消えていったのは、歴史は繰り返すという今でこその教訓的メッセージと受け止めた。ほぼ全曲にわたり大活躍した新国立劇場合唱団にも大きな拍手を送りたい。実はこのオペラは「オランダ人」や「ローエングリーン」や「タンホイザー」以上に合唱オペラだったのだ!ホアイエと5階情報センターで開催されていたロッシーニ研究家水谷彰良氏監修のとても充実した個人コレクションを中心とする展示は、貴重な初版楽譜や実筆書簡等の数々を閲覧できる絶好の機会を与えてくれて観劇の臨場感が大いに高まった。
この秋は私にとってベルカントオペラ満載の嬉しいシーズン開幕だ。新国の「夢遊病の女」に続いて、今日は日生劇場のドニゼッティ「連隊の娘」である。今回の粟國淳演出、イタロ・グラッシ美術、武田久美子衣装のプロダクションは、まるでおもちゃ箱をヒックリ返して出てきた人形達によって繰り広げられるファンタジーのような思いっきりキュートでポップなもの。世界各所で戦火が絶えないこの時代、リアルな軍隊や制服を一切登場させないこのアイデアは観る者に優しく、同時にとても効果的だったと思う。これにより連隊の中で一人の娘が兵士達によって育てられるといういささか現実離れした筋書きもすんなりと受け入れられる夢の中の物語と化し、観衆はストーリーに内在するほのかなペーソスと喜びを素直に受け入れられたのではないか。そうした一見ドニゼッティの古典的な音楽には場違いに感じられた設も、躍動感に満ちた舞台を観ているうちに何故か目に馴染んできたのは見事に仕組まれた粟國マジックだったのだろう。原田慶太郎+読売日響のピットは最初はいささか力み過ぎで、まるで交響曲を聞くように響きブッファの楽しさとは程遠いものがあったが、歌手たちの良い歌につられて次第に軽快で心楽しいものになっていった。今回がオペラデビューだというマリー役熊木夕茉の綺麗に良く伸びて繊細さも併せ持つ爽やか歌唱と演技や、トニオ役の小堀勇介の無理なく美しく伸びる高音は素晴らしかったし、シェルピス役町英和と侯爵夫人役鳥木弥生の性格的歌唱も良いアクセントとして光っていた。そして忘れてはならなのは兵士役のカレッジ・シンガースで、彼らも歌役者としても大活躍して舞台を大いに盛り上げた。今回あえてオペラ・コミックスタイルのフランス語上演にしたのは誠に快挙だったと言って良いであろう。しかし台詞の多い舞台は日本人歌手にとってはかなり過酷だったと思う。決して本場と比べることは出来ないが皆健闘していた。その中では小堀が流麗さでは群を抜いていた。小堀は一幕最後の有名なアリアでハイCを見事に輝かしく連発し会場を大いに沸かした。そしてこの日は指揮者に促されてアンコールのサービスまであったのには驚いた。一方聞かせどころの終幕のしっとりとしたロマンスではいささか安定を欠いてしまったのはとても残念だった。(アンコールで喉を消耗してしまったのではないかな)とは言えそんなことは些細なことで、全体として心楽しくちょっとしみじみした大人のファンタジーとしても良く纏まった秀逸な舞台だったと言えるだろう。この舞台は同時に「日生劇場オペラ教室」として中高生達にも公開されるのだが、こんな上質な舞台でオペラの初体験をすることができる生徒達は幸せである。彼らのうちの一人でも多くが「劇場」を支える将来のオペラファンになってくれることを期待したい。
開場以来27年を経た新国立劇場の本舞台についにベッリーニが初登場した。これは驚くべきことで、日本のオペラ界がモーツアルトとヴェルディとワーグナー一辺倒でいかに「ベル・カント・オペラ」を軽視してきたかという証だと言って良いだろう。しかし一方で藤原歌劇団は1979年以来3回も「夢遊病」を上演し続け、その時々での最良の舞台を届けてくれているという事実もある。だからこれは、「日本のオペラ界」ではなく「新国立劇場」と言い直した方が良いかもしれない。しかし大野和士オペラ芸術監督の下でこうした日を迎えたからには、今後は毎シーズンに1演目くらいはベルカント物を組み入れてもらいたいと願うばかりである。(参考までにこれまで新国の本舞台にはドニゼッティは「愛の妙薬」(4シーズン)、「ルチア」(3シーズン)、「ドン・バスクアーレ」(2シーズン)の3演目、ロッシーニは「セビリアの理髪師」(8シーズン)、「ラ・チェネレントラ」(2シーズン)の2演目しかかかっていない)さて今回の待望の「夢遊病の女」だが、バーバラ・リュック演出のプロダクションでマドリードのレアル劇場、バルセロナのリセウ劇場、パレルモのマッシモ劇場との共同制作である。今回の演出上の特色は主人公アミーナの「夢遊病」発病の原因に立ち返り、ストーリーに病理学的観点を組み入れたことであろう。彼女はその孤児という出自から常に村人から阻害されて育った人間として描かれる。そして本来そんな境遇の慰めとなるべき愛人のエルヴィーノからも一度は捨てられて自暴自棄になりそれらが原因で夢遊病を患うという設定なのだと考えられよう。つまりスイス・アルプスの麓の山村におけるハッピーエンドのたわいないお話という単純な仕立てとは全く違う、極めて深刻な社会問題がそこに提示されるのである。常にアミーナにつきまとう舞踏集団の怪しげな動きは彼女の心の内面を表すのだろうし、常に鉄仮面を被ったような無表情で威圧的な村人達の存在(合唱団)は阻害の象徴だろう。そして普通ならば村人達から祝福されて終わる華やかな大団円ではついに自死の結末が暗示されることになる。代役の若手クラウディア・ムスキオはまさにアミーナに相応しい優しく繊細で美しく伸びやかな歌唱で聴衆の心を掴んだ。ベテランのアントニーノ・シラクーザは還暦を迎えたとはとても信じられない美声で見事な高音を聞かせた。お馴染み妻屋秀和も朗々たる伸びやかな美声で外国勢に立派に対峙した。伊藤晴のリーザはちょっと力が入り過ぎて伸びやかさに欠けたが、それは役作りのせいだったのかも知れない。谷口睦美のテレーザは役どころを締め、アレッシオの近藤圭もスタイリッシュな美声できめた。ベルカント・オペラのベテランであるマウリツイオ・ベニーニのピットは東フィルから繊細極まる表現を引き出し職人的な手腕で歌手達を支えた。出番の多かった新国合唱団はあえて無表情な唄を歌うという困難を見事にやり遂げた。そんな意味で音楽的にはとても満足できる仕上がりではあったのだが、2幕フィナーレの喜びの絶頂を歌うアミーナによるカヴァレッタの鮮やかな装飾音が暗澹たる舞台に虚しく響き渡るのを聞くのは大層辛かった。ストーリーを深堀りするも結構だが、私にはベッリーニの珠玉のような音楽が置き去りにされてしまっているように思えた。
東フィルの定期演奏会には毎年名誉音楽監督チョン・ミョンフン指揮するオペラが組み込まれるのがこのところの定番となっている。今年はヴェルディの「マクベス」(1865年パリ改定版)である。「ファルスタッフ」、「オテロ」とここ二年程連続でヴェルディのシェークスピア物をやっていて今年がその最後の年ということになる。結果として一番若書きのこの作品が最後になったが、シェイクスピアを熱愛したヴェルディが満を辞して世に問うたこの力作の音楽史的意味は、「トリ」を努めても良い程に大きいであろう。声楽陣はマクベスにセバスティアン・カターナ、マクベス夫人にヴィットリア・イェオ、バンクオーにアルベルト・ベーゼンドルファー、カウダフにステファノ・セッコ、マルコムに小原啓楼、侍女に但馬由香、それに新国合唱団という十分な布陣。毎度のことだが、全体として厳しい集中力で遺憾無くドラマを紡ぎ出すミョンフン独特の運びが、歴史上の命題である権力欲の結果の陰惨な結末をヴェルディの音楽から見事に描き出した。それは露骨な権力欲が世界戦争への発展を予感させるようなこの時代にはとりわけ強く聴衆の心に響いたはずだ。演奏会形式ではあったが歌手達は舞台の下手から上手までを使って縦横に動き回って視覚的なドラマ性も十分に担保され、むしろ凡庸な演出の舞台を見るよりも余程説得力があった。ただミョンフンの運びについて言えば、第二幕のアンサンブル・フィナーレのような所では、音楽があまりにもサクサクと前へ進んで行ってしまうものだから、重層的なスケール感のようなものがいささか乏しくなってしまった気もした。歌手達は適材適所の布陣で皆良かったが、あえて言えばイェオには明らかに低音の響きが不足していた。声楽的に中々難しい声域なので高音と低音の両立は難しいであろうが、激しい高い声だけの勝負では中々この役には辛いところがある。セッコの4幕のアリアは良かった。この歌は新々の若手が歌うケースも良くあるが、さすがベテランが歌うと名曲が一段と輝く。
昨年に続いて今年もアドリア海に面したイタリアのリゾート地Pesaroで毎年開催されているロッシーニ・オペラ・フェスティバルにやってきた。今年は滞在期間中にオペラ5演目とリサイタル1つを大いに楽しんだ。まず到着の翌日8月17日の午後は、昨年「パルミラのアウレリアーノ」で素晴らしい歌唱を披露してくれたスペイン出身のメゾ・ソプラノSara Blanchのリサイタルだった。曲目はロッシーニ、ベルリーニ、ドニゼッティの歌曲とオペラ・アリアで構成されていた。その自然体で流麗な歌唱は甘美な香りを会場一杯に漂わせ聴衆を魅了した。最後に置かれた「イタリアのトルコ人」からのフィオリッラのアリアは来年のこの役での登場を予想させるものだった。(考え過ぎか?)続いてこの日の夜は、後年の傑作「エルミオーネ」の新プロダクションだった。A.バルトリ(エルミオーネ)、V.ヤロヴァヤ(アンドローマカ)、E.スカーラ(ピッロ)、J.D.フローレンス(オレステ)等の名歌手による声の饗宴は正に夢の様。M.マリオッティの指揮するRAI(トリノ)のオケの間然とするところのない伴奏に導かれ、ヴェルディの「オテロ」をも先取りしたような天才ロッシーニの筆致が舞台に響いた。J.アラースの演出には多少解りにくいところもあったが、この名演の前ではそんなことはどうでも良かった。翌18日は名匠P.L.ピッツィによる2018年のプロダクションによる美しくスタイリッシュな「セビリアの理髪師」の再演である。J.スワンソン(伯爵)、A.フロンチク(フィガロ)、C.レポーロ(バルトロ)、M.ペルトゥージ(バジーリオ)等による若く活気に満ちた舞台は動きが溌剌としていてとても楽しかったし、ピッツィの舞台の隙のない美しさにはイタリア美学の粋を感じた。しかしロジーナ役のM.カタエヴァの歌唱が私にはスタイルを外しているように聞こえたし演技にはいささか品が無かった。それにL.パッセリーニの指揮のOrchestra Sinfonica G.Rossiniが余りにもガサツな伴奏ぶりでとても残念だった。翌19日の午前中は恒例のアカデミーの生徒17人による「ランスへの旅」だった。2001年以来続いているE.Sagiによる衣装も装置も真っ白な舞台は、これから様々な色を獲得して世界に羽ばたくであろう未来ある生徒たちを象徴するのだろう。この日は二回ある公演の二日目で、同じ生徒達が役を変えて登場する仕組みなのだ。生徒達は皆若々しく活き活きと良い歌を唄っていた。中にKilara IshidaそしてNanami Yonedaという二人の日本人と思しき名前がクレジットされていた。そしてこの日の夜は待望の我が脇園彩がファッリエッロ役でロールデビューする「ビアンカとファッリエーロ」だった。これはJ.L.グリンダによる美しく周到に考えられた新プロダクションである。名匠R.アッバード指揮するRAIのオーケストラがピットに入り、J.プラット(ビアンカ)、D.コルチャック(コンタレーノ)、G.マノシュヴァリ(カッペリオ)という布陣は全く文句のない秀でた歌唱と演技。彼らの美声による見事なアジリタの応酬を聞かされると、そのロッシーニ独特のスタイルに強い説得力を感じることが出来た。そんな中で脇園は良く健闘したと言って良いだろう。他の名歌手に比較してしまうと多少声の突き抜けには不足したとはいえ、余裕を持ってアジリタを展開し、そのずば抜けた技術力と堂々たる舞台姿は感動的であった。このロッシーニの本場に集ったロッシーニ好きの聴衆からの大喝采の中に一緒に身を置き、日本人としてこちらの胸も熱くなるのを感じた。そして21日に最後に観たのは2019年にROFプリミエの若書きの作品「ひどい誤解」の再演だった。前回はVitrifrigo Areneという体育館に仮設された横長大舞台で上演されたのだが、今年はこじんまりとTeatro Rossiniでの上演になり、ぐっと凝縮された舞台は楽しく観ることが出来るものだった。エルネスティーナにM.バラコヴァ、ガンベロットにN.アライモ、ブラリッキオにC.パチョン、エルマンノにP.アダイーニと配役に人を得、M.スポッティ指揮のFilarmonica G.Rossiniのピットも秀で、M.レイザーとP.コリエのいささか下品で卑猥な脚本をきれいにリファインした気の利いた演出ともどもブッファの真髄を感じさせる秀でた舞台となっていた。こうして今回もあっと言う間に夢のような五日間が過ぎ去って行って、明るく軽やかでキラやかな響きだけが心と耳に残っている。来年のオペラは「ツェルミーラ」(新作)、「アルジェのイタリア女」(新作)「イタリアのトルコ人」の3演目だそうだ。今から待ち遠しい。
この宮本亜門のプロダクションは、残されたピンカートンの息子が、父であるピンカートンの重篤な病床で、それまでの蝶々さんとの顛末を記した手紙を遺書として渡されるところから始まるのだが、そのプロダクションの2019年のワールド・プリミエが余りにも素晴らしかったので、その感動をもう一度という思いで出かけた。ドレスデン、サンフランシスコの舞台を経て、それなりに進化した舞台は納得できるものだった。しかし今回は歌手の力不足が目立った。東京文化会館の2階右で聞く限り、全員声量が全く不足しているのが極めて残念だった。蝶々夫人の高橋絵里は演技はとても良いのだが、声は張り上げると聞こえるがそうでないと力が急に減衰してほとんど聞こえない。何より声に響きがないのが致命的だ。ピンカートンの古橋郷平は常に非力で歌唱も演技も精彩に欠ける。(終幕の松葉杖の使い方などは論外。誰か指導しなかったのだろうか。)そしてピンカートンの与那城敬は重厚感に欠けるので、シャープレスの重要な役割が欠損するという具合なのだ。更にスズキの小泉詠子も説得力に乏しい歌唱。このように歌唱的・演技的にそれぞれの役割がきちんと果たせていないので、オペラとしてのドラマがなかなか成立しない結果になった。だからエッティンガー+東フィルの感情豊かな伴奏だけが虚しく響く誠に残念な公演となった。若手の実力を聞きたくてあえて裏キャストを選んだのだが、こんな仕上がりを許すことで東京二期会は大丈夫なのだろうか。
2000年9月のプリミエ公演以来、ほぼ四半世紀に渡って幾度となく新国の舞台にかかり続けているアントネッロ・マダウ=ディアツの名物舞台である。私自身、その初演及び翌々年5月のノーマ・ファンティーニの舞台以来3回目となる実に久方ぶりの参戦である。この日もほぼ満員の入りでオペラパレスは賑わっていた。細部まで写実的に確りと作り込まれた舞台は、新国の舞台機構を存分に使った変化に富んだ舞台転換の動きも伴って、視覚的にはゼッフィレッリの「アイーダ」に決して負けないゴージャスなプロダクションなのではないか。だから歌手と指揮者に人を得れば、これぞオペラという大きな感動が約束されたようなものなのだが、今回はいささか不満の残る仕上がりであった。カヴァラドッシ役のテオドール・イリンカイの高音は他を圧する力強さで響き渡るのだが味わいに乏しく、私にはいささか喧しくさえ聞こえた。そしてトスカ役のジョイズ・エル=コーリーの声質はちょっとくぐもっていて明瞭さを欠き、同時に歌唱にあまり感情が乗ってこないのである。だから聞かせ所のデュエットもこちらの心にあまり響かない。スカルピアを演じた青山貴は代役のハンディがありながら健闘し、三役の中では一番のスタイリッシュな美声を聞かせはしたが、歌も演技もいささか一面的だったのが残念だった。何より栗山昌良演出よろしく正面を向いて歌うことが多く、それではトスカとの緊張感を持った責めぎ合いを含む二幕のドラマが上手く成立しない。一方アンジェロッティ役の妻屋秀和を含む日本人脇役は安定的な出来で主役連を支えた。そんな訳で今回最も良くドラマを伝えたのは名匠マウリツイオ・ベニーニ率いる東フィルだったのではないか。プッチーニのオーケストレーションの繊細さを見事に引き立たせると同時に、ダイナミックな部分では重くならずに十分鳴らしながら、しかし決して歌唱を邪魔しない実に見事な職人技には恐れ入った。
ヴェルディをひたすら愛する山島達夫氏により創設されたヴェルディ上演専門のアリドラーテ歌劇団によるヴェルディ作曲「シチリアの晩鐘」の”バレエ〈四季〉完全版を伴う東日本初演”である。全5幕の「グランドオペラ」で、当日の演奏時間は4時間半を超えた。配られたプログラムにはカラーイラスト付きの懇切丁寧な筋書きが添えられていて山島氏の「ヴィルディ愛」をひしひしと感じた。主要配役はエレナに石上朋美、モンフォルテに須藤慎吾、アッリーゴに村上敏明、プローチダにデニス・ビシュニャと、藤原歌劇団のベテラン勢で固められ、それに大規模な合唱とバレエが加わった。とにかく重鎮の須藤と村上が全体を牽引、とりわけ第三幕のモンフォルテが孤独を歌うアリア「腕には富を」とそれに続く二重唱は聞き物だった。石上も最初はビブラートの多様が気になったが後半には改善されていった。バレエを考慮してか新国中劇場の舞台を一杯に使ったが装置がほぼ無いので、ビジュアル的には散漫でとても寂しい印象を与えたが、最後のドンデン返しの大反乱の結末のためにも大スペースが必要だったのかもしれない。創設者の山島達夫指揮のオケ伴にはもう少し精緻な音楽を望みたかったが、ここまで「愛」を貫いた大作上演には心からの敬意を表したい。しかし2003年びわ湖ホールでの若杉弘による日本初演の時も感じたことだが、結末があまりにも唐突すぎる。今回も突然の大反乱と殺戮に呆気に取られているうちに幕が降りた。ヴェルディさんどうにかならなかったのだろうか。
歌手陣にもオーケストラにもとびきりの若手を集める「二期会ニューウェーブ・オペラ劇場」、今回は4度目となる鈴木秀美+ニューウェーブ・バロック・オーケストラ・トウキョウとの共演でヘンデルの最後のオペラ「デイダミーア」だ。演出・振付はこのプロジェクトではお馴染みの舞踏家中村蓉が担当した。彼女は2015年の「ジューリオ・チェザーレ」で演出家菅尾友の下で振り付けを担当し、2021年の「セルセ」では演出家としてデビューし、その大胆な演出が鮮烈な印象を与えて今回に至ったという訳だ。とにかく研修所を出て3年以内の歌手達が抜擢され、ピットもピリオド筋の学生達が中心なのでとても生きの良い音楽と舞台が展開された。中村の演出は舞踏家だけあって歌手陣にもお構なしにダンサー並の動きを要求するので、大御所にはとても務まらないであろう。言ってみればこれはヘンデルのミュージカル版だ。美術もポップで合唱もピットで鹿の角をかぶって歌ったりバルコニー席に出てきたりで効果は抜群。実に躍動感に満ちた舞台なので、退屈することが危惧された2時間20分がアット言う間だった。色合いや動きなどに子供染みた「カワイイ」処が頻出するので、好みの問題はあるかも知れないが、私は十分に楽しんだ。三幕仕立ての全曲は三分のニ程度にカットされて要領良く二幕構成になっていた。歌手達の歌や演技は良い意味でも悪い意味でも若かった。だから音楽とドラマに動きが生じる後半(第19曲以下)がとりわけ聴き映えがした。そこではアジリタの技巧が爆発して劇的な高まりをドンドン増していってこれぞヘンデルという感じだった。鈴木のピットは本物で、ピリオド楽器のバロックの音色を満喫した。こうしたセリアはハッピーエンドにすることが定石だと聞いたことがあるが、今回は戦場に狩り出された勇士達は皆戦場の藻屑と消え、残されてアキッレを待つデイダミーアの希望は無惨にも鉄扉で絶たれるという衝撃的な幕切れだった。これには今こうした状況が現実に起こっていることが想起され、拍手の手は止まり胸が詰まった。
2015年プリミエで今年が5回目になるヴェンサン・プサールのプロダクションである。そして今回のプリマは2022年の代演で絶賛を浴びた中村恵理の再登場だ。プサールの演出は、鏡を多用した現代的な抽象舞台ではあるが、冒頭に主人公のモデルとなった実在の娼婦マリー・デュプレシの墓碑を見せたり、途中で本人と思しき肖像を背後に映し出したりして、原作者デュマ・フィスおよび翻案者ピアーヴェが描いた「道をはずれた女」の悲劇にリアリティを与え、舞台に歴史的社会性を付与することに成功していたように思う。主演中村の声質は時と共に強靭になり更に深みを増してきたので、まさに今ヴィオレッタを歌うには最適だった。加えて表現力も益々豊かになってきたので、一幕では高い部分がいささか曇り気味ではあったけれど、二幕以降は幕を追うごとに歌の切れ味も深みもドンドン増しドラマの本質に迫った申し分のない出来だった。一方イタリアの若手リッカルド・デッラ・シュッカのアルフレードは癖がなくスマートな歌いぶりで、若気の至りで娼婦に魅されていってしまうキャラクターにピタリとハマった。グスターボ・カスティーリョの輝かしく強烈な歌唱はひたすらブルジョワの価値観を持って突き進み、階層の異なるビオレッタの嘆願など物ともしない極めて冷酷なジェルモン像を描いていた。フランチェスコ・ランツィロッタの周到な指揮に導かれ、その他の日本勢も大いに健闘し一瞬の隙もなくドラマが展開した。それゆえに番号オペラでありながら途中での拍手が憚られるほどの一貫性と緊張感に貫かれた仕上がりの舞台だった。忘れてはならないのは三澤洋史指揮の新国合唱団で、粒立ちの良い明瞭な発声と豊かな声量でドラマの進行に果敢に加わり鮮烈な効果を与えていた。こうした隙なく秀でた舞台を見ているとヴェルディ作品の素晴らしさをあらためて感じる。今回強く感じたドラマティックな緊張感の連続性とか合唱の効果などは明らかに時代を先取りしたヴィルディの音楽の力に負うところが大きいのではないかと思った。最後に今回の「発見」を記して置きたい。私自身、これまでヴェルディがこの作品に与えた「La Traviata」(邦訳「道を外れた女」)という題目は、高級娼婦(クルチザンヌ)に身をやつしていることを意味していると思い込んでこの作品を聴き続けてきた。しかし女性の地位が極めて低かった19世紀のフランスに於いては、女性の生き方としてそれが特段「道を外れた」という認識は無かったのではないかと今更ながら(恥ずかしながら)思い直すに至った。むしろそうした階級に属するビオレッタがブルジョワ階級のアルフレードに本気で恋をし、その異なる世界に入り込もうとしたことこそが道を外すことだったのではないかと思った。だからこそ今回の二幕の舞台ではジェルモンが強烈にビオレッタを拒絶した。父親として抱きしめることも、立ち去る際に挨拶することも拒否した。そしてそこから悲劇が始まり、終幕では他の人々とビオレッタの住む世界は黒い紗幕で断絶され、光明なく社会から排除されたのだろう。
ウイーンの「フォルクスオパー」というと”オペレッタ”と連鎖的に思ってしまうが、それは日本固有のイメージであってどちらかと言うとウイーンという街に於いてはシュターツオパーに続く2番目の常設小屋という位置付だ。あくまでもセカンド・ラベルなのだから、こちらには世界的な超一流のキャストが揃うこともないし観客にVIPが混じることも決してない。しかしだからと言って出し物が面白くないことは決してないし、むしろ小回りが利いて興味深い良い舞台ができることもあるだろう。思い返せば最初にウイーンでオペラを観たのはこの劇場の「ウイーン気質」だった。1972年のことである。パブリックスペースが狭くって、ろくなロビーもなくて休憩時間には皆外に出てミモザなんかを飲むのだが、観客が皆寛いでいる独特な雰囲気が私は大好きだ。そんな魅力一杯の劇場で今回はオットー・ニコライ作曲の歌劇「ウインザーの陽気な女房達」を観た。この演目は2012年5月のこの劇場の来日公演で観たこともあり、その時は気の利いた舞台とサッシャ・ゲッツエルの切れ味良い指揮に感心した覚えがある。今回はそれとは別の2023年プリミエのNina Spijkersによる新プロダクションだったが、今回もとても楽しく観た。このプロダクションの一番の特色はジェンダーの問題を裏に漂わせていることだが、しかし深刻にそれに切り込まずに楽しさに変えているところが何とも気が利いている。時代設定は1918年、すなわちオーストリアで女性参政権が確立する前年である。女性達がヒゲを生やして登場したり、男性が女装したり誠に楽しい。そして歌手達は皆若いが立派な歌役者達で何とも生きが良く気持ちの良い舞台だった。その中で2012年の来日公演時には「ライヒ氏」を歌っていたMartin Winklerが、タイトルロールのファルスタッフ役で実に味のある存在感を醸し出していたのが嬉しかった。そして一番印象に残ったシーンは第3幕の大きな月に照らされたウインザーの森。ここでは音楽もそれまでのドタバタとは趣を大いに変えて幻想的で美しかった。指揮はKeren Kagarlitskyという女流。こちらは元気で統率力はあるのだが些か一面的かなと感じさせるところもあった。
ウイーンのフォルクスオパーのレパートリの中には、オペレッタのみならずミュージカルも多く含まれている。そこで予てより、この劇場でオーストリアを舞台とした「サウンド・オブ・ミュージック」を観てみたいと思っていたのだが、今回のウイーン滞在中に運良く巡り会うことが出来たので、これ幸いと出かけた。演目のせいか、レイバー・デイという休日のせいもあってか、劇場は家族連れで一杯だった。そもそもこの演目は、リチャード・ロジャース&オスカー・ハマーシュタインというミュージカル界の大御所二人が作り、1959に初演されたブロードウエイミュージカルなのだが、それを基にして1965年に制作されたジュリー・アンドリュース主演の映画の方が数段有名になっている。このミュージカルのフォルクスオパー初演は2005年で、今回観た舞台はその再演ということになる。そんなわけなので、聞き知っている物とは筋は同じでも曲の順番は異なるし、知らないメロディもあったような気もするし割愛されている情景もある。それでも手際よく舞台化されていて、今回の目的だった本場感は十分に満喫した。しかしマリアを歌ったLaurence Urquhartの歌に独特のコブシがあり、かなりの違和感を感じてしまったのは事実である。まあこちらにはあのジュリー・アンドリュースの適役振りが染み込んでいるだけに辛いところはあるのだが、それにしてもちょっと癖がある歌唱だった。今回一番感動的だった情景は、逃亡の直前にザルツブルグ祝祭劇場の舞台で家族が歌う場面だ。なにせフォルクスオパーの客席をザルツの舞台に見立てる演出で、下手Parterre席にはナチスの将校2名が陣取って居るし、Parkett席の方々には鉄兜を被ったドイツ兵が居るし、サーチライトは客席をグルグルと照らすしと、それはもう臨場感満点で思わず緊迫感のあるドラマの中に引きづり込まれてしまった。しかし不思議だったのは愛国歌と知られている「エーデルワイス」が歌われる場面で、客席に向かって舞台から歌うように促すのだが、観客からの歌声がほぼ聞き取れなかったことだ。実はそのあたりは客席を含めての大合唱になるんじゃなかろうかと期待していたのだが、それは期待外れに終わってしまった。1938年のナチによるオーストリア併合と言うと、それにより多くのユダヤ人芸術家が散々に亡命していった歴史などから、オーストリアにとっての歴史的悲劇と勝手に刷り込まれている我々とは、実際の認識はいささか違うのかもしれないなと思った次第。
5月の連休に14年振りで新緑のウイーンを訪れ、国立歌劇場でクリスティアン・ティーレマンの振るワーグナー作曲の歌劇「ローエングリン」の公演二日目を観た。私自身この劇場を訪れるのは今回が1980年12月以来8度目となるが、ルティーン公演の中にはかなり手抜きの舞台もあることを知っている。しかし今回は2022年ザルツブルク復活祭で初演されたJossi WielerとSergio Morabitoによるプロダクションのウイーン引っ越公演だけあって、指揮者を始めキャスティングにはかなり力が入っていたと思われる。それゆえに演奏の方は音楽的にはかなりの水準だったと言って良いだろう。取り分けティーレマン指揮するオケの雄弁さには流石ウイーンと思わせるところが随所に聞かれた。タイトル・ロールのDavid Butt Philipは力感みなぎるクセのない歌唱、一方敵役テルラムントのMartin Gantner 及びオルトルートのAnja Kampeの悪役ぶりには説得力があって充実したドラマが展開した。ハインリッヒ王のGeorg Zeppenfeldはザルツブルク初演でもこの役を歌っており、安定の歌唱は申し分なかった。エルザのMalin Bystroemは個人的な好みで言えばもう少し声にクリヤーさが欲しかったが悪かったわけではない。ただ今回の舞台の問題は明らかに演出にあった。時代を全体的に第一次大戦頃に設定したような視覚的印象の作りであったが、それより何より病的なホームレスのような出で立ちでエルザが道端にうずくまって登場した時点で悪い予感がした。しかしその予感は残念ながら的中した。第三幕のフィナーレに及んで、出自を問われエルザのもとから去らざるを得なくなったローエングリンは、用水路に身を投げ、それはゴットフリートの死体となってエルザによって救出されるが、水から上がった瞬間に死体は生き返ってエルザを剣で刺し復習を果たすという幕切れには開いた口が塞がらなかった。しかしエンディングの音楽は決してそんな内容を決して語っていないではないか。これは明らかにワーグナーの音楽を冒涜した自己満足的な解釈である。そしてこのような陳腐な舞台を見せられてもティーレマンへの大声援以外、ブーの連呼も聞こえないウイーンの聴衆にも私の開いた口は塞がらなかった。
藤原歌劇団29年振りのグノーの「ファウスト」である。あらためて聞いてみると、長いけれども実によく出来たオペラなのだが、我が新国立劇場の舞台にかかったことはないのが不思議である。前回1995年はジュゼッペ・サバティーニ、ルジェロ・ライモンディ、渡辺洋子という実に豪華な主役陣だったのをプログラムを引っ張り出して思い出した。今回聞いた裏キャストは藤原の若手を揃えた布陣。まあ若手を聞きたくて選んだのだが、これが”予想外”の聞き応え充分な好演であった。何より全ての歌手の歌がとても充実していたのが良かった。最後までリリカルな声で歌い通したファウスト澤崎一了、悪魔というより少し人間寄りの存在感をよく示したメフィスト伊藤貴之、朗々としたノーブルな歌声が印象的だったヴァランタン井出壮志朗、純粋なマルトを聴かせた北薗彩佳、これからが楽しみなワグネル高橋宏典、そして何といっても今回のMVPはマルグリートの迫田美帆だったろう。実に無理なく美しく心のある歌唱は素晴らしく、幕を追うごとに歌唱の密度は増した。だから3幕の有名は「トーレの王の歌」や「宝石の歌」よりも4幕以降の赦罪の祈りからフィナーレにかけての気迫せまる歌が胸を打った。やはり歌あってのオペラだからこの充実感が全体的感動につながった。ワルプルギスの夜の場面では数曲のバレエが確りと挿入された。オペラの中のバレエはえてして半端で退屈なケースも多いが、今回のNIIバレエ・アンサンブルによるものはファウストのストーリーを上書きしたもので、伊藤範子の振り付ともども秀でた仕上がりで実に説得力があった。ダヴィデ・ガラッティーニ・ライモンディの演出とドミニコ・フランキの美術・衣装は、装置は最小限に限定しつつ、可動式の3枚のパネルに場面に応じたイメージ画像が投影されそれが動いて場割りをする簡易な舞台だが、衣装だけは確り重厚に作り込んだものだった。それは少ない予算の中での最大限の切り盛りだという感じだが、まあそれなりに雰囲気は出ていたかなと。まあこれも今回の歌唱が極めて優れていたからの印象である。ただパネルが布を張った作りだったので移動する度に画像が揺ら揺らとするのでこちらは船酔い状態になるのがいただけなかった。それと町娘のマルグリートにしては立派過ぎる衣装のため宝石が一向に目立たず「宝石の歌」の現実味が削がれたのは残念ではあった。最後に忘れてはならないのは、日本ではほとんど無名だった指揮の阿部加奈子と東フィルのピットである。フランスオペラの気品を残しつつ、必要な箇所では充分な劇性を発揮しながらも、歌手の邪魔は一切ぜす、決してダレずに長丁場を進めて最後の高揚感を導いた手腕は正にオペラ指揮の理想だった。東京文化のピットからこれほど豊かな音が立ち上ることは稀なのではないかと感じさせた。
開館以来26年にして、このヴェルディの名作「シモン・ボッカネグラ」が初めて新国立劇場の舞台にかかった。1976年NHKイタリア・オペラによるピエロ・カプッチルリの伝説的「シモン」の洗礼を受けた身としては、期待に胸踊らせて会場に向かった。今回はフィンランド国立歌劇場とテアトロ・レアルとの共同制作によるピエール・オーディのプロダクションである。シモンを歌ったのは先シーズンのリゴレットで喝采を浴びたロベルト・フロンターリ。今回も公私両面において悲哀に満ちたこの役を見事に歌い演じた。宿敵のフィエスコはリッカルド・ザネッラート。第三幕の和解の場面の二重唱には胸が熱くなった。アメーリアのイリーナ・ルングはイタリア組に囲まれて歌唱スタイル的には不利な場面もありながら、一幕一場の父と娘の二重唱では感動を誘った。まあここは音楽がいいからと言ってしまえばそれまでだが。その恋人役のガブリエーレを歌ったのはルチアーノ・ガンチ。フォルテを張った時には力強い美声なのだが、小さい声の時に芯を失っていたが、これは不調だったのかも知れない。悪役パオロはシモーネ・アルベルギーニ。ピエトロの須藤慎吾がイタリア勢と立派に対峙していたのは嬉しかった。オペラ芸術監督大野和士と東フィルのピットは、丁寧な捌きで美しくヴェルディを描いた。このように音楽的にはマズマズの出来だったが、それが舞台としての感動に結びつかなかったのは残念だった。その理由は演出に起因していたように思う。オーディはプログラムの「Production Note」で、この物語の入り組んだ内容を舞台で表現することは不可能だからあえて台本のディテールには拘らなかったというようなことを書いているのだが、造形美術家アニッシェ・カプーアの赤と黒の火山のマグマのような抽象舞台ではどうにも物語の時代性や音楽の情景は描ききれはしないし、それがなければ台本(歌詞)との乖離による観衆の居心地の悪さは増すばかりである。こんなことでお茶を濁すならば、いっそ演奏会形式にしてしまえば良いのではないかと思いながら聴いていた。