直前に2029年迄の任期延長が報じられた常任指揮者沖澤のどかとチャイコフスキーコンクールの覇者上原彩子の二人が登場した真夏の定期だ。京都コンサートホールはほぼ満員の入りでこの二人の人気の程がうかがわれた。一曲目はプロコフィエフ作曲のピアノ協奏曲第3番ハ長調作品26。上原はまるでアスレチック選手のような身体能力を存分に発揮して難所を鮮やかに弾き切った一方、プロコフィエフ独特の冷たく澄んだ叙情をも見事に表出させ、その技量の幅広さを存分聴かせてくれた。寸分の狂いもない沖澤の挑戦的な合わせも完璧で見事の一語に尽きる共演だった。盛大な拍手にアンコールはドビュッシーの「ゴリウオークのケークウオーク」。音色の対比が実にチャーミングで素敵だった。休憩を挟んでストラヴィンスキー作曲のバレエ組曲「ペトルーシュカ」(1947年版)。ロマン主義と新古典主義の折衷的な様式を持つこの曲を、沖澤は見事に振り分けて料理した。その指揮振りは一言で「鮮やか」に尽きる。無駄のない判り易い指揮が京都市響からにニュアンスと色彩感に富んだ音を次から次へと引き出してゆくその爽快感は只事ではなかった。これは相思相愛の組み合わせならではの音楽作りのように聞いた。二曲とも酷暑を払いのけるような快演で会場は大沸きに沸いたのは良いのだが、近くの席で発せられる罵声のような「ブラボー!」には耳が耐え難く早々に席を後にした。
昨年逝去した故中村徹作曲のユニークな傑作が久方振りに追善公演として上演された。前回の上演が2001年だから実に20年ぶりということになる。今回は沖縄の血を引く粟国淳のニュー・プロダクションで、中心となるがじゅまるの古木や、緑の森と紺碧の海とオレンジ色の瓦、それにプロセニアム上方から吊るされた4本の長い紅型模様の反物が、登場人物が話すうちなーぐち(沖縄語)とともにローカル色をいやがうえにも強調した舞台だった。そうした島の風景が舞台一杯に展開するなかで、”うちなんちゅ”(沖縄人)を含む芸達者な歌役者によって演じられた舞台は実に秀逸なもので、そんな舞台にあらためて自然の尊さを教えられたといっても良いだろう。特筆すべきは、この二日目ではカルカリナをソプラノでなくテノールの中鉢聡が演じたことである。中桐かなえ(ソプラノ)のミキオとの掛け合いに重要なメッセージが多く含まれていることもあり、カルカリナをテノールにしたことの効果はすこぶる良く出ていたと感じた。それにしても濃いキャラクターでカルカリナを演じ歌った中鉢の芸達者ぶりは嬉しい発見だった。まったく堂にハマった秀逸のピットは星出豊指揮する東フィル。この演目は1994年の初演からこのマエストロの専門のようになっている。こうした良い公演で観ると、あのヤナーチャックの名作「利口な女狐の物といより語」とのダブって聞こえてきた。ただ、大団円の村人揃ってのカチャーシーは、もう少し「らしく」踊ってくれたらな~と、これは贅沢な希望。
日頃バレエを観る機会はまず無いのだが、今回は大野和士+都響がピットに入るということで、音だけのつもりで東京文化会館の天井席に出かけた。買ってから知ったのだが実はこの公演、団の創立50周年を記念した特別な公演で、美術が藤田嗣治の幻の舞台だとのこと。そんなことなら舞台の良く見える席にすればよかったと思ったが、それは後の祭りだった。僅かに5階サイドから見える範囲で言えば、やはり重厚な独特の色調だというように感じた。そして衣装については必ずしも初演の時のデザインではないようだった。さてお目当てのピットだが、最初は重厚な音で骨格の確りした響が鳴り渡り、華やかさがない感じに大いに違和感があった。それに力が入り過ぎて重苦しくもあった。だが2幕に入り、ロシアだの、スペインだの、ハンガリーだの、イタリアだのと色々な舞曲が続く所になると、途端に雰囲気が活気づいて生き生きとした音楽が流れ始めた。そして何といっても圧巻はフィナーレだった。今回使用の版はハッピーエンドのプティパ/イワノフ版だったが、そのストーリーに合致した大団円の感動は、もちろん石田種生(再演金井利休)による演出のすばらしさもあったが、大野+都響の濃厚な音楽の力無くしては決して与えられなかったであろう。こんなオケ伴の舞台を経験してしまうと、もう日頃のお手軽な伴奏では見られなくなってしまう。もっともこれは、その濃密で万全の演奏に耐えるだけの作品力あってのことだろうが。つまりチャイコフスキーの音楽が数あるバレエ曲の中でも群を抜いて立派であるということだ。(比肩し得るのはストラビンスキーとプロコフィエフかな)最後に、踊りの方を語る資格は全くないのだが、オデッタ/オディールのヤーナ・サレンコの指先まで神経が通った繊細な表現、王子のディヌ・タマズラカルの優美な跳躍は圧巻だった。
1995年に紀尾井ホール開館とともに誕生したの「紀尾井シンフォ二エッタ」の、この名称での最後の演奏会である。来年4月からは「紀尾井ホール室内管弦楽団」の新名称と新体制のもとで生まれ変わる。そんな「最後」に相応しく、まさに20年の年輪を指揮者なしの弦楽合奏で披露した。それは、まさに「ときめきに、愁い・神秘・・・千変万化の弦の響きを聴く」というこのコンサートの副題そのままだった。コンマスにお馴染みのアントン・バラホフスキーを迎え、ソリストのリュドミラ・ミン二バエヴァ(バイオリン)と鷹羽弘晃(ピアノ)が華を添えた。一曲目、ブリッジの弦楽のための組曲は古風ないかにもイギリス的な穏やかな曲なのだが、バラホフスキーの先導は凄まじく、これほどまでに表現力に満ちた弦の合奏を聴くのは始めてではなかろうか。それは鳥肌が立つほどのものだった。指揮者が介在しないので、かえって奏者がお互いの心を聞きあうことになり、そこから驚くべき求心力が生まれる。合わせづらい曲だと思われるが、技でなく心で結ばれた音楽がそこにあった。続くぺルトの「タブラ・サラ」は、お馴染みのミニマルミュージック的作法の神秘的で静謐な曲。2本の独奏バイオリンとプリペアード・ピアノの奏でる音楽を弦合奏が通奏的に伴奏するうちに音楽は少しづつ変容してゆく。一曲目の動的な音楽とは対照的な、微妙で精緻な作風を見事に掌握した名演だった。休憩を挟んで、ドボルザークの弦楽セレナーデホ長調。優しく柔らかな出だしに心を鷲づかみにされ、もう気が付いたらフィナーレだった。そして最後に冒頭の優しいメロディが回想されて終わる。各声部のかけあい、絡み合いから自立的に溢れ出てくる響きの素晴らしさはもう圧倒的!この場に居あわせる幸せをかみしめた。セカンドバイオリのトップに座ったミン二バエヴァが、コンマスの表現を受けて、ビオラ、チェロと目を合わせつつ全体にそれを伝播させる「要」となっている様子は実に興味深かった。コンバスの河原泰則の大きなアクションのバスの迫力も印象的。暖かく鳴り止まぬ拍手に、アンコールは何と歌劇「カヴァレリア・ルスチカーナ」の間奏曲。オーボエ部分をコンマスがバイオリン独奏で弾くご愛嬌。これも素敵だった。
4月に常任指揮者に就任した高関健の今シーズン3度目の登場は、モーツアルトのピアノ協奏曲第24番ハ短調とショスタコビッチの交響曲第10番である。短調であることを意識してか、色彩を抑えて暗めに落ち着いた弦の響きで始まった協奏曲は、伊藤恵のピアノも響きを抑えて管弦楽に寄り添い、柔らかくしめやかなまでのニュアンスが全体の基調を作った独特の演奏だった。手を鍵盤に這うようにしながら響きをコントロールした独奏は「見事」の一語に尽きた。続くショスタコはこのコンビの現在の「好調」を良く表わした好演。堅固なアンサンブルから引き出された目のつんだ充実した響きは、これまでのこの楽団からは聞かれなかったもので、明らかにレベルアップした形跡がそこに聞き取れた。高関の綿密な設計は周到なもので、とりわけ一気呵成のフィナーレまでの充実した運びは圧倒的なものだった。当日発表された来シーズンのスケジュールも実に意欲的なもので、このコンビの今後が大いに期待できる。
毎年夏の恒例になっている湯の街草津で開催される音楽祭である。湯の街と言っても、会場は「草津音楽の森」という国際スキー場近くの高原的雰囲気の中規模コンサート専用ホールである。今年はそのうちの2日を聴いた。23日はオーケストラと合唱のプログラム。最初はモーツアルトのフルートと管弦楽のためのアンダンテハ長調で、弾き振りを務めたK.H.シュッツ(ウイーンフィル首席)の大層鮮やかなアーティキュレーションのフルートソロに度肝を抜かれた。二曲目の協奏交響曲変ホ長調では、その見事なフルートに四戸世紀のクラリネット、岡本正行のファゴット、T.インデアミューレのオーボエ、K.ヤブルコヴァのホルンが加わった。これは指揮者を置かずに管楽四重奏をオケが取り囲むように演奏され、その結果極めて密度の濃いアンサンブルが生まれ圧巻であった。正直いってこの曲をこんなに楽しく聴いたことは初めてで、こういう魅力に溢れた演奏で聞くと、この曲がモーツアルトの真作ではないなんていう話はどうでも良いことになってしまう。休憩を挟んでのシューべルトのミサ曲第6番になって、初めて指揮者のアントニン・ヴイットが登場した。この曲は死の年に書かれたシューベルトの傑作という触れ込みだったので、陰影に富んだキリエでは期待を膨らませたものの、その後は私の感性が付いてゆけなかったようで、どうも感動には至らなかった。席のせいか、合唱の表現力が弱かったのもその一因のような気がする。一方24日はイタリアのソプラノ、G.ベルタニョッリのリサイタル。ソロリサイタルとは言え、色々なスタイルや編成の曲や共演者が並ぶのがとてもこの音楽祭らしくて楽しい。冒頭で歌われたロッシーニの「老いのいたずら」第2集6番 ”さらば人生”は、「歌」は最初から最後まで全く同じ音程で書かれ、伴奏ピアノがそれを多彩なメロディで支える独創的なアイデアの曲。それを実にニュアンス豊かに紡いでゆくのには感心した。次に置かれたシュ―ベルトの歌曲達は、完全なスタイル違い!激高して歌い上げてゆくべリスモ・オペラのようなスタイルは、興味深くはあってもドイツ・リートの感動には結びつかない。続くアーンの二曲では、前述したシュッツの見事なフルートとの掛け合いが素晴らしい。チェロを交えたマスネ「エレジー」では、共演のT.ヴァルガの静謐な美しさが光った。ここでピアノ伴奏のB.カニーノが一人で登場して、べリオの「セクエンツァ」。これはもう現代音楽を得意とするカニーノの独壇場で、鋭利な響きの世界を堪能した。この日のベルタニョッリが一番実力を発揮したのは、最後に置かれたA.ゴルギのメゾ・ソプラノとフルートと弦楽のための「ドード組曲」だった。これはコンサート冒頭の「老いのいたずら」から子供をテーマにした9曲から成る編曲物だが、彼女の天真爛漫な表現力が遺憾なく発揮され、シュッツのフルートも大活躍する秀逸なお楽しみだった。
初夏の東京の風物詩と化した今年で11回目を迎えるこの音楽祭、これまで毎回特定の作曲家や時代をテーマとして開催されてきたが、今年は「Passions」がテーマ。「パッション」というと「情熱」という意味が思い浮かぶが、キリスト教世界ではキリストの「受難」をも意味する。そんなわけで初日の最初はバッハの「マタイ受難曲」で始めてみた。鈴木優人指揮のバッハ・コレギウム・ジャパンの演奏は、大変わかり易い演奏。日常的な感性にぐっと近しいところでキリストの受難劇を描いた。女声陣が好調で、ソプラノのドロテー・ミルズの人懐っこく切々とした歌唱と、男性アルトの青木洋也の切れのある美声が印象的だった。一方エヴァンゲリストのハンス・イエルク・マンメルの高音は不安定、イエスのドミニク・ヴェルナーは格調を欠いた歌唱だった。続いて選んだのが同じくキリストの受難を描いたリストの「十字架への道」。こちらはジャン=クロード・ぺヌティエのピアノとヤーン=エイク・トゥルヴェ指揮のヴォックス・クラマンティスによる演奏。ヴィルティオージティ満載のあのピアノ曲達を作りだしたリストの作品とはとても思えない静謐は曲調は独特で、宗教家としてのリストの新たな面を発見した。クレマンティスの研ぎ澄まされアンサンルはもちろんだが、ぺヌティエのピアノの有無を言わせぬ説得力はこの曲をリストたらしめた。この日の締め括りは21時過ぎからのゴールドベルク変奏曲。当初の発表ではシュ・シャオメイのピアノであったが、体調不全で来日ならず、マタン・ポラトに変更になった。ルネ・マルタン墨付きのコメントも寄せられていたが、勢いに任せて主題と32変奏を駆け抜けたような演奏で、極めて荒っぽくミスタッチやリズムの崩れも目だって、これはちょといただけなかった。
2002年に初演されたローラン・プティ振付けによる演目であるが、今回が5回目の再演となる。ヨハン・シュトラウスのオペレッタからのナンバーを中心に構成さえたダグラス・ガムレイ編曲の音楽に乗せて、オペレッタの筋書きを基本とした大人の恋の物語りが展開される。演劇性を強く感じさせるその振り付けと、古典的な作法にとらわれない型や動きの面白さは、実に洒脱で小粋!デビット・ピントレーの「カルミナ・ブラーナ」と並んで、この劇場の新領域の代表的なレパートリーと言っていいだろう。今回のプリマは、杮落とし以降この劇場の新領域を牽引し続けてきたプリンシパル湯川麻美子である。大柄でスレンダーな肢体と指先にまでこめられた細やかな神経、そして抜群の演技力がこの作品の持ち味とベストマッチして、凛とした大輪の薔薇が花開いたような見事な存在感を発揮した素晴らしい舞台であった。実はこの公演は、この日を最後に引退する彼女のラストステージであった。私のような踊りの素人には、まだまだ十分な余裕がありそうに見え、それは誠に残念なことではあるが、その引き際は実に見事だと言わざるを得ない。別れを惜しむ満場の大きな拍手に涙を必死でこらえていた湯川であったが、カーテンコールでヨハン役の福岡雄大から真っ白な一輪の薔薇を捧げられた瞬間に、涙が一気に頬を伝った。誠に美しく感動的な光景だった。
荒井英治(東フィルコンマス)、戸澤哲夫(東京シティ・フィルコンマス)、藤森亮一(N響首席チェロ)、小野富士(N響次席ビオラ)をメンバーとして1992年の結成以来精力的に活動を続けているこの弦楽四重奏団の41回目の定期演奏会である。「そうだ!ウイーンを甘くみてはいけない。」と題された今回は、ハイドン、ウエーベルン、シューベルトのそれぞれ最後の弦楽四重奏曲を集めるという趣向、それもウエーベルンはともかくとしてト長調で統一というわけである。23年来のコンビなので、それはもちろん熟達のアンサンブル、そしてどのパートも明確に自己を主張できる実力を持ている。弦楽四重奏の生みの親とも言えるハイドンの、安心できる中にもアイデア満載の作品77-1ト長調に始まり、短い中にも研ぎ澄まされた理性の光るウエーベルンの作品28、そして最後は古典派後期と言えども、それに続くロマン派の弦楽四重奏の数々を遥かに超したような発想に満ちたシューベルトの15番ト長調に至るまで、実に充実した演奏であった。その中でもとりわけ見事だったのはシューベルト。このつかみどころの無い「大作」を明確に整理して、時代を遥かに超越してブルックナーに繋がるような大きさを示した。満場の大きく暖かい拍手に、アンコールは15番の終曲から雰囲気を繋げてシューベルトの14番より2楽章の部分(ト長調)という考え抜かれたもの。最後に荒井さんの絶妙トークによるこれからの演奏会の案内があって楽しく和やかにお開きとなった。
日本を代表する若手フルート・トラベルソー奏者の前田りり子が、「フルートの肖像」と題して毎年続けているリサイタルである。会場は東京オペラシティの近江楽堂。今回は砂山佳美(フルート・トラベルソー)、平尾雅子(ヴィオラ・ダ・ガンバ)、上尾直毅(チェンバロ)と共に、”趣味の和合”と題して、18世紀中盤においてのパリの音楽界におけるイタリア様式の受容というなかなかマニアックなテーマを追った。形式的なフランスと悦楽的なイタリアの交じり合いは、しかし逆にテレマンらのドイツ趣味を遥かに超えた洗練を生み出し、心地良い響きが心地良い空間に響き渡った。今回小さな空間で間近に聴いて改めて感じたことだが、前田の作り出す音の明瞭さとダイナミックスは比類がなく、一般に感じられるどこか素朴なトラベルソーの概念を覆すものがある。そしてそこから溢れ出る表現の豊かさは、これらの曲達に奥深い陰影を生み出すのである。4人の息もピタリと合い、幸せ溢れる時間を過ごした。
2003年より毎年この時期に東京で開催される山形交響楽団「さくらんぼコンサート」。指揮は言うまでもなくこのオケの音楽監督である飯森範親、それにソリストにフルートの南部やすかが華を添えた。今回は金管にピリオド楽器を揃え、弦もビブラートを押さえたスタイル。編成はコンバス三本といつもよりも小さい。一曲目の「未完成」はビブラートが無いのでメロディが歌わずに平凡。二曲目ドヴィエンヌのフルート協奏曲7番では、オケに合わせてフルート独奏もヴィブラートを避けたので華のない音色になり、それが作品の凡庸さに輪をかけてしまったのは残念だった。ここまで聴いたところで、何か盛り上がりに欠け、今までになくがっかりしていたのだが、休憩後のベートーベンの「英雄」は、作品の力が演奏を後押しし、同時にピリオド奏法の明解さが作品の構成感を際立たせることに一役かったせいか、前半とは打って変わった目の覚めるような快演であった。今回のハイライトである3楽章のピリオド・ホルンの雄々しい音色には、誠に胸が弾む思いだった。さてこの組み合わせ、来年はどんなものを聞かせてくれるのだろう。
二年に一度の新国立劇場からのクリスマスプレゼントである。クリスマスイブの大都会新宿に舞台を据えたクララの夢物語として描くこの牧阿佐美演出・振付の「くるみ」は、いつ見ても大人も子供も楽しめる夢一杯の名舞台である。初役の長田佳世の繊細な金平糖の精、そして相手役マイレン・トレウバエフの優雅な王子がとりわけ印象的だった。新進井田勝大の指揮は、バレエ指揮者らしいといえばそう言えるのだろうが、いかにも箱庭的なスケール感の無いものだった。舞踏の間尺に合わせることが最低の条件であることは承知してはいるが、時間的な要素でないところでの表現の工夫がもっとできないものだろうか。この作曲家の本来の持ち味である華麗にして雄大な音楽が、この美しい舞台を支えることができたら、感動は二倍にも三倍にもなったであろうと残念に思った。
今シーズの新国バレエの幕開けは、20世紀の前半のパリを中心にヨーロッパにバレエ旋風を巻き起こしたロシア・バレエ団にちなんだストラビンスキーの名作達が並んだ。ミハエル・フォーキン振付「火の鳥」、ジョージ・バランシン振付「アポロ」(新制作)、そしえブロンスラヴァ・ニジンスカ振付「結婚」(新制作)という中々力が入ったトリプル・ビルである。どれもバレエ・リュスの振付けであるところが素晴らしい。また「結婚」は滅多に舞台に上がらない演目だけに、私のようなバレエの門外漢までも駆けつけた次第である。印象的だったのが、音楽隅々まで見事に動きに反映させたフォーキンの振り。小野絢子の何とも蠱惑的な火の鳥が印象的だった。そして静謐な「アポロ」と野太く民族的な「結婚」の対比の妙!ストラビンスキーの天才を改めて感じた。