前回のブログで、近代社会が「規格化された人間」を作り、そこに「役割」「地位」が決定的指標として機能していることを観念論であると否定した。近代社会という枠を外して、日本という枠組みで駄文を書いてみようと思う。
「役割」「地位」それ自体を否定しているわけではない。すぐAかBかと選択して、どちらかが正しいとする思考に支配されがちであるが、そこは寛容さが必要だ。
では、どうして観念論であるのかというと、ある人物の本質が「社長」という地位にあるわけではないことは自明である。本質という言葉を使ったが、ある人物の本質などというものは確定できない。そう思うのは本質主義である。
現実それ自体ではないものを現実とするのだから、観念論なわけだ。「役割」は一人の人間全体を覆うことはない。だから、彼の本質ではなく、仮称なのである。ところが仮称ではなく現実とする機制が動き出す。
ある人物が「社長」であるとわかると、そこにその人物を「社長」とすることで生じる各人の「役割」が決められる。「社長」を取り巻く人間関係が作り出され、その関係性が各人の行為を決定してしまう。つまり台本が同時に出来上がってしまう。
日本では会話の相手が年上か年下かで話し方やその内容が決まる。その場の自分の役割を瞬時に判断し、言葉遣い、遠慮や親疎の表し方を変化させる。それができないと、「空気が読めない」「態度が悪い」「口のききかたも知らない」などと否定的評価をする。仕事の場面だけではなく、生活全般に行き渡るエートスと言っていい。こういう「規格化された」行為を期待され、それを実行すると、評価される。
何か問われれば、なんと答えれば、その場にふさわしいかと考え、行動する。よくある日本人は近代的個人になっていないというアレである。自分が思ったこと、感じたことを話すことが習慣(ハビトゥス)になっていないわけだ。とはいえ、実は日本人も「役割」「地位」ではない思いを抱えている。それが「ホンネとタテマエ」という言葉として現れている。
ところが「社長」といった「役割」「地位」を本質かのように思い込み行動する社会では、そのような「役割」「地位」を本当とするかのような表層的な意識に支配される。
あくまで演劇的である世界が現実の世界になるので、ネタ(虚構)がベタ(現実)になる。ところがホンネが控えている。「ホンネ」は現実である。よって現実が2つある世界に暮らすことになる。
演劇的に構成された現実で「空気を読む」と現実的な利益が生じる。その場では「ホンネ」を引っ込めておけば、現実的な利益や名誉が獲得できる。ところが「ホンネ」こそ現実なので、「ホンネ」を抑え込むので、精神的負担、ストレスを抱え込む。分裂している。これは辛い。不幸が待っている。
加えて、社会としては縮小再生産であろう。